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--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻
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0001宝珠真範
垢版 |
2018/06/26(火) 15:00:52.45ID:tJY6WIHj
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
   3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
   5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
0607神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/13(金) 22:36:09.67ID:p25b8DgG
ブッダゴーサ(清浄道論Visuddhi Magga)
 
『業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。 結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。
単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である』

ブッダゴーサはアートマンを認めてないのだろう
全ては現象であり縁起であり無常・苦・無我(空)であるとしている様子
0609宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/14(土) 12:30:10.21ID:sN5QjuP+
>>598
あなたは「カルト」の意味を分かっていってます?
宗教や霊的がカルトということではないですからね!
この日本では、「宗教」は公然のものとしてその信教の自由が認められています。
単に、「宗教」ということだけでは”カルト”などとはいわない。

ここに私が纏めたページがありますから、
それを読んでカルトの正しい意味を知ることです。
でないと、恥ずかしいことですから。

『宗教:
 神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに対する信仰・行事。
またそれらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。(広辞苑第4版)』

宝珠編著:「カルトの特徴とは」
http://houjugusya.web.fc2.com/cult.htm
0610宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/14(土) 12:32:38.22ID:sN5QjuP+
>>592
情報ありがとうございます。
おじゃるさん、さすが調べるのが早いですね。

で、この私が知りたいのは、
ただ単に「滅尽した (する) 」といった言葉ではなくて、
それは、いつ何処で誰々といた際の出来事だったのか?
そして、その時の周囲の状況や、最も肝心の瞑想者当人の状態
(特に肉体の外的状態の変化等々)についての詳細情報のことです。

何処かに、その情報や記録があるのですか?
0611神も仏も名無しさん
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2018/07/14(土) 12:33:15.37ID:OntF8gvs
うるせえよ。

改善が出来ないのがカルトだよ。
0612宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/14(土) 12:34:24.42ID:sN5QjuP+
>>607
同じことはヒンドゥーでも説くよ。
あなたが知らないだけのことだ。元々、アートマンは行為しないから。
マハリシを学び『ギーター』を読むならあらゆる疑問はすべて消散する。
単に、部派に洗脳された上座部仏教の注釈者に過ぎない人間によるアートマン否定論などに価値などない。
ゴータマ・ブッダ同様、本当に解ってる者はアートマン否定などしない。

 『人間の自我意識(アハンカーラ)がマーヤー(幻)である。その自我意識に幻惑された人は、「私は行為者である」と思うのだ。
自我という「私」が死ぬと苦しみは無くなる。もし【神の慈悲】によって、「私は行為者ではない」という自覚を得たのであるなら、
その人は生前解脱者になったのだ。その人にはもはや恐れるものなどない。』
(ラーマクリシュナ)

 『行為する、あるいはしないについて心を悩ませてはならない。汝自身を知りなさい。行為とは一体誰の行為なのか、観察しなさい。
それは誰のものなのか。自然に行動してみなさい。行為する者がいる限り、行為者は行動の成果を刈り取らねばならない。もし彼が自
身を行為する者であると考えなければ、彼にとって行為は存在しない。そのような人間こそは、世俗的生活を捨てた行者なのである。』
(ラマナ・マハルシ)
0613宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/14(土) 12:35:18.52ID:sN5QjuP+
 『心の実修を修めた者は、この世において善行と悪行の二つを捨てる。それゆえに、おまえは実修に専念せよ。(私欲のない)行為に熟達
することは、この(心の)実修にある。(2-50) 心の実修を修めた賢者は、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛を脱して、わずらいのな
い境地(解脱)に到達する。(2-51) 
 行為はわたしに影響せず、また行為の結果をわたしは期待しない。わたしをこのように理解する者は、行為に束縛されることはない。(4-14)
 すべての行為が欲望や意図を離れた人、その行為が智恵の火で焼き尽くされた人を、智恵のある者は賢者とよぶ。(4-19) 行為の結果
に対する執着を捨て、常に心が満ち足り、他に依存しない者は、たとえ行為にたずさわっていても、なんら行為を行わない。(4-20)
期待を抱かず、心身を制御し、すべての所有物を捨て、身体のみによる行為(生理的行為または、なんら期待を求めない行為)を行う者は、
なんら罪過(輪廻)を得ることはない。(4-21) 
 行為の結果を期待せず、義務的行為をなす者、彼は遠離者サンニャーシンであり、実修者である。(6-1) パーンドゥの子よ、遠離サンニャーサとよ
ばれるものは(行為カルマの)実修ヨーガであると知れ。なぜなら、意図を遠離することがないならば、いかなる者も実修者ではないのだから。(6-2) 
 実修にのぼろうとする者にとっては、行為がその手段とよばれる。すでに実修にのぼりついた同じ者にとっては、静寂(行為の止息)が
(解脱を得るための)手段とよばれる。(6-3) なぜなら、感覚器官の対象や行為に執着せず、すべての意図を遠離するならば、彼は実修
にのぼった者とよばれるから。(6-4)
 自己の本性によって規定された行為を行う者は、罪過を招かない。(18-47) 』 
(宇野 惇訳『バガヴァッド・ギーター』)
0615宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/14(土) 12:39:59.18ID:sN5QjuP+
>>608
『イニシエーション』とは、
これは“文化人類学及び民俗学用語”であって
英語では一般に通過儀礼を意味するものとして使われます。別に神智学の専売特許ではありません。
西洋オカルティズムの系譜においては「秘儀参入(儀式)」を示すものとして、
これは近代神智学が発生する以前から西洋のオカルト世界においては広く使われてきたものです。
尚、神智学においては人類の霊的進化促成のためにハイアラキー(聖白色同胞団)の覚者方によって導入された内界での秘儀灌頂の儀式です。
1-2段階イニシエーションはMaitreya (仏教での弥勒存在)によって与えられ、3段階以降〜の高位階はサナート・クメラが司ります。

『アストラル』は、
パルケルスス(ヨーロッパ16世紀に活躍した医師にして錬金術・自然哲学者)から神智学へと流入した言葉で、
神智学においては情緒・感情の意味であり、普段は主に「アストラル体」(情緒エネルギーで形成される不可視の体/幽体)や
「アストラル界」(想念界/アストラル体が過ごす階層)などとして使われます。
間違いなく、この言葉を全世界に広めたのは神智学運動による功績であり、
現在では世界中のスピリチュアル組織において、
そして、ヒンドゥー関係においてもヨーガの説明のために導入されるケースが増えました。

とにかく、誤解を招くような発言は控えてもらいたいものです。
別に麻原教祖やオウム団体が神智学協会やその他の継承グループと交流したなどというものではなく、
彼が勝手に自身の教義を説明するための語句として神智学用語を多用したということ。
0616宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/14(土) 12:42:06.38ID:sN5QjuP+
>>603
だから、アビダンマそのものが間違いなのです。
まっ、実際には「有為」「無為」という語句そのものがもビダンマ考案のものなのですが....。
そのサイト著者に対しては、「一切(法)」の中へ勝手に無為/涅槃を含めたのが部派である
ということが理解されれば、別にそれですべて済む話だといいたい。
一切(有為)とは異なるものがあると説いたのもゴータマなのです。それが無為/涅槃なのです。
だから、『ウダーナ』経を読めばすべて済むことですから。

>>604
 『「無為法(asamskrta-dharma)とは不生不滅の永遠の存在とされているものである。無為の語は原始経典にも涅槃の同義語として
しばしば出ている。しかし原始経典で説く無為とは存在論的なものではなく、涅槃が生死輪廻を超えているとされるために、生死
にわたらないということを無為といったものであって、それは主観的な心情を述べたもので、客観的事実としてのものではない。
それを部派仏教では不生不滅の客観的事実としての存在として無為を考え、有為という存在に対するものとした。これは原始仏教
では説かない概念であって、仏教本来の立場を逸脱したものである。」(p145)

 「原始経典に涅槃の同義語として、無為、終極、無漏、真諦、彼岸、微妙、極難見、不老、堅牢、不壊、無譬、無戯論、寂静、
甘露、極妙、安泰、安穏、愛尽、希有、未曾有、無災、無災法、無瞋害、離欲、清浄、解脱、無住、州(灯明)、避難処、救護処、
帰依処、到彼岸などの語が掲げられている点から知られる。
 涅槃の語は仏教以前から存在したらしく、---中略---しかし涅槃と同じく生死輪廻を超えた悟りの境地として、パラモン教では
古くから不死(amrta甘露)の語があり、仏教でも不死は涅槃の同義語とされた。」(p170-171)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
0620神も仏も名無しさん
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2018/07/14(土) 17:09:21.03ID:CJjaSqr7
「ある」と言っていないことを、「ある」という意図である、
と読み替えてる人間が、部派の考察を批判する『資格』も『権利』も『正当性』も、
どれ一つとして欠片も無いと思うんだけどねぇ・・。


いったいどれくらい厚い面の皮なんだかw   >>宝珠
0621神も仏も名無しさん
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2018/07/14(土) 19:12:52.48ID:+ejbjg6D
仏教には無為(法)があるから神も真我も肯定される。
仏教の無為(涅槃)は梵我一如と同じというような宝珠論には無理がある。

涅槃と梵我一如の境地は同じとする津田真一のような学者はもともと真言宗の住職だから
そちらの方向に流れてしまうというのは分かるけどさ。
0622神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/14(土) 19:14:20.18ID:+ejbjg6D
>>621
@仏教には無為(法)があるから神も真我も肯定される。
A仏教の無為(涅槃)は梵我一如と同じである。

というような宝珠論には無理がある。
0623宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/15(日) 01:09:55.88ID:5gBa5hGk
>>594
そりゃ〜ダメ導師や偽導師もいるでしょうよ。沢山...。
けれど、「殆ど99.99インチキ」などとは悪口もほどがある。
ラーマ・クリシュナのレベルならそんなことはない
(まっ、長老からみれば所詮はアートマンを口にする者はすべてインチキグル扱いなのだろうが?)。
ラーマ・クリシュナはNHK講義の教科書でも扱われるほどの世界的な評価の歴史的聖人の一人です。
受信料払いたくないからNHKは見てないのかな?
0624宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/15(日) 01:17:09.17ID:5gBa5hGk
>>621
>涅槃と梵我一如の境地は同じとする津田真一のような学者はもともと真言宗の住職だから

なるほど...。
では、水野 弘元氏< 日本のパーリ語仏教(原始仏教)の研究者にして駒澤大学総長を務めた同大名誉教授 >
の場合は、曹洞宗僧侶(長崎県天諫早市『天祐寺』元住職)だから、
“涅槃と梵我一如の境地はそれ程違ったものではない”という評価に留まった、と?

まっ、ヒンドゥーも学び神智学徒であるこの私からみれば、
津田氏同様に「涅槃と梵我一如の境地は同じ」ものとみますけれど。
しかし、そうではないあなた方が無理に同一だと見なす必要性はありません。
私があなた方にいいたいこととは、その可能性は残されるということと、
ヒンドゥーを有我論という理由で愚弄する行為は即刻、辞めるべきだということです。
それは無知に拠る仏教側の醜態的な恥晒しなのだから。
0625宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/15(日) 01:22:00.45ID:5gBa5hGk
>>604
>実は神智学徒だったのカモナー・・・

自分たちのミス(無知や誤解で勘違いしていたこと)を
神智学のせいにしたり、このわたしのせいにしたりしないでもらえます?
部派の教義を鵜呑みにして洗脳されていたのはあなた方の勝手ですよ
(ちなみのこの私も仏教を学んだ当初はあなた方とまったく同じだった。
「アートマンなどは無い」、「ヒンドゥーでは解脱できないから仏教が在るんだ」、
「唯一の真理は仏教だけだ」と見なしていた。けれどもそんな間違った偏見などは約三年で気付いて脱却している)。
仏典(の記述)を読んでなかったあなたがた自身が悪い。

私がすでに論証したように、
最初から、すべて仏典の教えに忠実でさえあれば何も問題がない。
「一切」(「一切法」とは、一切の諸法則についての教えとその中における人間の正しい生き方、及び修行の在り方を説くもの)
とは、「六根.六境/十二処」のこと。これは「五蘊」ということであり、「五蘊」は“厭い離れべき悪魔”であるとゴータマはいった。
「五蘊」は「無常」であり、「無常」であるものは「苦」(自分の思い通りにならないこと)である。
そして、「苦」であるものは「無我」(わたしのものではなく、わたしの本体でもない)であるといった。
“厭い離れべき悪魔”であり、「苦」だという「五蘊」(つまり、これが「一切」です)の中に、
仏教の目指すべき究極のゴールである「涅槃」が含まれる筈がないでしょう。
「五蘊」というのは、“五取蘊苦”とか“五盛陰苦” (五蘊/一切法に対する取著執着はすべて苦である-水野氏)として知られる。
そして「一切」は、“一切皆苦”(正しくは、「一切行苦」であるが、
この場合「行」は五蘊の「行蘊」に限定したものではなく一切法そのものを指している-水野氏)だといわれる。
“苦の滅”(苦悩から永遠に解放された安らぎの境地)である「涅槃」が、「苦」の根本要素である原因となる「一切」の中にある筈がない。
0626宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/15(日) 01:24:31.40ID:5gBa5hGk
仏教のすべてのスタートは“四門出遊”のエピソードにある。
ゴータマが人々の“病→死”“老→死”といった姿を目の当たりにして衝撃を受けて、それらの苦悩からの救済を求めたことに始まる。
であるから、苦を滅した安らぎの境地である涅槃が一切皆苦の中にあるわけがないのです。
涅槃はあくまでも、一切法における修行の最終結果としてあるものであって、
その境地は、“一切とはまったく異なるもの”です。
それは“没することなく(終わりがない/永遠)、依り所のないもの。生起せず、所縁のないもの”。
そして、涅槃は「無為」(「有為」ではないもの)であるからこそ「有為」(現象界)からの“出離を覚知する”と教えている
(当たり前のことですが、同じものならば出離を覚知しない。異なるからこそ出離を覚知する『ウダーナ』8.1-8.3)。

“涅槃とは無為”であり、
「無常・無我・無自性・空」(現象界の諸性質)ではないことが明らかになったのならば、
元々、現象界を超越しているアートマンを否定する根拠にはならないのは自明の理です。
仏教においては確かに、ヒンドゥーのようなアートマンは説かないが、
仏教が求めるべき“真実の自己”(Vin.Maha^vaggaT,13.p.23)、本来は煩悩に拠らない“心性清浄である自己”(AN 1.6)、
そして、『煩悩を滅して死の領域を超えた真人は「わたしが語る」と言ってもよい』(SNT,3-5 )
と、説かれたゴータマの教えがアートマン性質の核コア部分に相当することは素直に受け止めなければならない事実だということ。
従ってつまり、最終的な結論としては、仏教ではヒンドゥーのようなアートマンを説いていないからといって、
彼らの実体験に基づくアートマンについての教えを「妄想だの」、
「在る筈がない」だのということはできない(そういう発言は恥ずかしいから辞めなさい)。
まして、ゴータマが「アートマンは無い」といったなどというのは、
自分たちの無知からくるまったくの妄想に過ぎないことを恥じて早く自覚しなさい、
ということです。
0627宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/15(日) 01:25:27.69ID:5gBa5hGk
あなた方が悪いのではなくて、
あなた方は部派教義に洗脳されしまった云わば被害者なのです。
その自覚が大切なのであり、心を落ち着かせて事実に対して素直になる必要があります。

さて、今でも麻原に拠って洗脳され続けている後継団体『アレフ』の現信者たちと、
あなた方では、どちらが先に洗脳が解けて真実に目覚めることができるでしょうか?
0629神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/15(日) 07:42:38.45ID:E1Kkvld8
citta = 自己、自我 とか、 citta = 真我、ましてや、無為涅槃だとか、
御笑い種だろw

cittaは、縁起性の諸法じゃないのかい?
(真我や無為涅槃は、制御されるようなものなのかい?)    >>心性本浄
0630ポッタン師
垢版 |
2018/07/15(日) 10:40:28.90ID:AK3eb011
バカ宝珠はカルトの信者である。バカだからして、自分では理解できないのだよ。
0631神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/15(日) 12:49:09.22ID:M/qkdtD9
あいからず、宝珠は我田引水が好きだなあ・・・・。
0632神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/15(日) 17:12:35.04ID:YRLEDIGi
諸行無常
諸行皆苦
諸法無我
0633神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/15(日) 19:25:06.55ID:pO570utV
>>624
>では、水野 弘元氏< 日本のパーリ語仏教(原始仏教)の研究者にして駒澤大学総長を務めた同大名誉教授 >
>の場合は、曹洞宗僧侶(長崎県天諫早市『天祐寺』元住職)だから、
>“涅槃と梵我一如の境地はそれ程違ったものではない”という評価に留まった、と?

(正法眼蔵の)「仏性」で道元は「世界が1つの自我によって成り立っているというのは、外道の邪見である」と言います。
これはヒンドゥーイズム(インド思想)のブラフマン(真我)の否定です。
また道元は「仏性のことばを聞いて、修行者達の多くは、外道の唱えた永遠の我のように誤って考える」とも言います。
これもブラフマン(真我)やアートマン(真我)の否定です。
https://blog.goo.ne.jp/anandabhavan/e/f841f2ac08de31220754546e08838705

上記引用文のソースとなる正法眼蔵の仏性の章(↓)
http://www.dogen-shobogenzo.com/bussho2.html

その後曹洞宗は密教化してきてるし、
また中興の祖と言われた井上義衍禅師の思想も無我論者でありながらもどこか宇宙意識のようなものを認めているようでもあり、
道元の頃とは違ってきてると思う。
水野氏もその流れの中にいるのかもしれない?
0634宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/16(月) 05:09:49.79ID:G3+T2RWJ
>>633
水野氏が何で密教化なんですか?
都合が悪いと「密教だから」ですか???

水野氏は、パーリ語仏教(原始仏教)の日本を代表するエキスパートですよ。
対する「道元」(日本仏教の大巨人としては評価しますけれど)は、まだ近代仏教学を知らない鎌倉仏教の時代の方。
五時八教の支配下にあって原始経典である阿含経を小乗扱いしていた時代であり
(天才道元は阿含の価値に独自で気付いた形跡はあるが...)、
当然、すべて部派仏教のアビダンマ教学に洗脳されていた人間の一人ですよ。
その道元の説くアートマン否定意などには正論などは何処にもないのです。
そんなもの無価値ですから。
0635宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/16(月) 05:19:12.43ID:G3+T2RWJ
>>628-629
貴重な学生時代のテキストの開示をありがとうございます。
とても真面目で熱心に勉強されていたことが伺えてとても嬉しく思いました。

 私の感想と理解としては、ご指摘の通りで確かに「citta」(心)では、自己の究極の本性としての真我(アートマン)を示すものとは
いえないでしょう。けれども、仏典というのは意外と使用するその言葉はかなり広義的で曖昧だったりもします。第一、仏典では自己
(わたし)を意味する言葉そのものが、すべて「アートマン」なんですから。
 原語はパーリ語でアッタン(attan)、サンスクリット語ではアートマン(&atilde;tman)ですが、幅広い自己の状態を示す明確な使い分けがな
く何でもアートマンです。日常の会話で使用されるごく普通の意味合いでの仮和合的自己もアートマン、形而上学的な意味合いの自己
でも、ウパニシャッドの究極的存在でもアートマン。
 だから、仏典に出てくるアートマンについては、それがどのような自己のことを指しているのかを前後の文脈から読み取らなければ
ならないのです。私はそのことを、セブンと対話を始めたばかりの9年以上も前にそのことを指摘しましたよね。けれども当時のセブ
ンはそのことをあまり取り合わないようでした。「アートマンなどある筈がない」という決め付け理解のあなたにとっては、さして重要
なこととは見なされなかったのでしょう...。
 しかし、これは非常に重要なことですから。でないとそれが、日常の自己の否定なのか? またはどのアートマンを否定し、或いは肯
定しているのかも何も見えなくなるからです。
0636宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/16(月) 05:19:57.49ID:G3+T2RWJ
 因みに仏教では、異名同義として「心」(citta)、「意」(mano)、「識」(vimm&aacute;&ccedil;a)の三つの語が用いられているところから、「citta」
の語そのものに奥深い意味を含ませているものと理解できます。たぶん、微妙なニュアンスとかそれぞれの意図によってこれらの三つ
の語を使い分けしてるのでしょう。
 ユング心理学では人間の意識レベルを、「表層意識」、「個人的無意識」、「集合的無意識」、「類心的領域」という段階によってその意識
の深さを説明します。「citta」にも本当は、「識」の中の最奥深層域である阿頼耶識(魂)の意味を含めて語る場合も当然あるのだろうし、
その辺は仏典というのは実に曖昧ですよ。

で、結論なのですが、
道の修行において自己の心(citta)を制御することなく、
真我(アートマン)や“仏教の説く真実の自己”でもいいですが、
それが顕れることができるとする教えが何処かにあるのならばどうぞ教えてください。
私はそんな教えは、仏教にもヒンドゥーにもまったく皆無だと思っていますが...
制御すべきは当然、日常のこの心の状態のことですよ! 真我が顕れるのはその結果ですから。
〜如何ですか?

水野氏は、
あなたの学んだその大学総長にして名誉教授。そして、宗門の大先達ですよ!
是非、心を開いて水野氏の言葉に向き合うことを私はお薦めしますが...。
0637宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/16(月) 05:40:16.64ID:G3+T2RWJ
さて、
次はどうしたら日本仏教界から“唯物論(唯物僧侶)”を排除できるか?
そして、霊供養を信じてない僧侶による詐欺供養、詐欺法要(詐欺の通夜葬儀)を駆逐できるのか?
でもいきますか!!!
0639神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 07:18:04.91ID:X6zgjNum
>>636
>因みに仏教では、異名同義として「心」(citta)、「意」(mano)、「識」(vimm&aacute;&ccedil;a)の三つの語が用いられているところから、「citta」
>の語そのものに奥深い意味を含ませているものと理解できます。たぶん、微妙なニュアンスとかそれぞれの意図によってこれらの三つ
>の語を使い分けしてるのでしょう。

独自解釈すごいな
都合よく解釈して自己正当化するのが宝珠流アビダルマだな
0640神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 08:26:08.21ID:D3timmXP
隠居や在家とやったみたく、一言一句添削しなきゃならんかねぇ・・・w(呆
0641神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 08:52:57.94ID:+6Dq/7uZ
>>635
このように私は聞いた(如是我聞)の時の私はme
無我を表す時に2番目に来るこれは私ではないの私はahaṃ
0642神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 10:43:38.45ID:D3timmXP
宝珠も、格変化語尾変化等によって生じる意味の差が少しはわかるといいんだけどね・・

別に大きく関係はしないけど、
今、ログ漁ってて目に止まった、懐かしい隠居一代との縁起・相依性の話w
仏教 議論スレッド 10
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1297398791/58-60
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1297398791/64
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1297398791/77
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1297398791/81-82
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1297398791/84
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1297398791/99
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1297398791/756
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1297398791/759
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1297398791/764-768
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1297398791/770
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1297398791/777-779
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1297398791/785〜853
 (このあと辺りからは、宝珠カラスが参入して「一切」の話wwww)
0643神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 10:49:45.86ID:D3timmXP
ああ、一部抜き出しとくか。参考に・・

> 「これあらばこれあり」という此縁性を否定するものは、もはや仏教徒ではない。
> 「これあらばこれあり」という認識論、言語習慣を尊重することが

>「これあらばこれあり」という認・・・  はマズイっしょw  後者は「かれ」でないとw

> いやいや、これは原語ママですよ。
> 「これ」という指示代名詞は、名指し、言葉の働く根源状態をよく表していると思う。
> 例えば、「これ」と指さしながら説かれていることを想起すると分かりやすいと思う。
> 釈尊のお言葉は、一見すると単純なことを述べておられるように見えて、
> 重層的にいろんな段階でも対応できるようになっていて、流石ブッダと
> 驚愕することが沢山ありますが、中でもこの此縁性は最も含蓄の深い言葉ではないかと思われ。

> 水野片山を始め、どちらをも「これ」と訳している者は居ないと思われるが、
> その意図も汲むべきでは?(特に「この場面(隠居相手)」に於いてはw)
> その使用に際しての曖昧さは日本語の指示代名詞でも同様だが、同一であることが示されているわけではなかろう?
> 文脈として別個であるから(→時間的先後を加味するから)、「かれ」と訳されているのではないかい?
> それとも、中観的には「同一」であることが強調されねばならない?

> そこはママがいいと思ってる。 > 「これあらばかれあり」と訳すと意味が損なわれるように思うっす。
> 生命教とかタヌポンは何書いてもどうせ分からないから、彼に書いてるわけではないです。

> 峻別(断絶)の危険性を怖れれば、その方が良いかもしれない。
> その意味で気持ちは解るが、格変化のない日本語での表現に於いては、
> 言い換えておいた方が良いように思うわけさ。    ―― 以下略
0644神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 11:09:42.81ID:DQO2+nX1
>>639
心に意識を入れるのは有部や唯識だと確かにそう分類されるが日頃部派仏教やアビダルマを否定している人がそれやっては駄目だよね
初期仏典に「比丘たちよ、心とは何であるか。意と識である」と書いてあるのを探してもってこないと
いつも人にそうやって要求してるのだからw
0645宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/16(月) 11:38:42.06ID:G3+T2RWJ
>>639>>644
あまりにも偏見が酷いね!
そうやって素人イジメですか?

この私は、
水野氏の解説に深い全面的な信頼を寄せてるので、どうもすみませんね。
 『原始経典では識の異名として心(citta)、意(manas,mano)をあげているが、この心・意・識の三者は名称が異なっても同じものを指
すとされている。部派仏教もこの立場を採用しているが、瑜伽行派になると心・意・識の三者はその名称も体も別であるとされている。』(P134)
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)

文句あるの?
0646神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 12:06:36.93ID:D3timmXP
たとえ、草野球や草サッカー程度でも、そこに参加するなら、
最低限のルールや、プレー上の約束事は「知っていて」「則る」ことが必要だろうに。
観戦するだけだったとしても、指摘や野次が見当外れでは、言われた方も気分が悪かろうてw

 「何も知らない素人なんで・・・(テヘペロ」

が許されない場面ってのも、大人の世界にはあるのよw  >>645
0647神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 12:30:24.02ID:raPC+OVr
19 比丘たちよ、では、どのようなものが、識(識別)なのでしょうか。
比丘たちよ、これら六つの識別にかんするあつまり(カーヤ)のことです。
色(いろかたち)についての識別、音声についての識別、香りについての識別、味についての識別、触れられるものについての識別、意(心)についての識別、
比丘たちよ、これが識(識別)であると言われます。
名色の集起によって、識の集起があります。
名色の滅から、識の滅があります。
この聖なる八支の道が、識の滅に向かう道(方法)です。すなわち、正見、正思、…、正定であります。
(サンユッタニカーヤ )
http://manikana.la.coocan.jp/canon/upadanaparivatta.html
0648神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 12:51:32.30ID:D3timmXP
仏教 議論スレッド 12 (このスレは、ほぼ以下の内容が中心となっています)
 『 >釈迦が、己の我を以って無我を説く。これ以上の矛盾はあるまい。
   >克服できない、滑稽極まりない矛盾でる。 』
他、 『「無い」と言ってない、だからある 』

http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/66
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/111-112
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/122
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/128
> 宝珠の発言(>> 66)からの流れで読みなおしてほしい。
> 釈迦の非我(無我)発言を、その後の仏教徒の伝統が 誤解しているか否か、という話。
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/132-133
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/139-150
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/154-159
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/169-175
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/181
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/186-192
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/207-211


http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/789-794
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/796
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/799
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1302158994/800
0649神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 12:53:40.21ID:D3timmXP
仏教 議論 14  (ahaM、attan 等、一人称代名詞の話)
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1305381089/831-832
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1305381089/840
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1305381089/845-847
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1305381089/850
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1305381089/853
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1305381089/856
> あ、勿論、人称名詞・人称代名詞として用いることはあり得ない筈。
> その辺が日本語の「自分」「私」「我(われ)」「己(おのれ)」などと違うところ。
> 日本語の上記それぞれは、人称名詞としても、再帰名詞としても、名詞としても扱い得るから、
> (訳語経由による理解が不可避な以上)、混線しがちなのは致し方ない面はあると思うよ。
>  *ネイティブでない限り、どんな外国語も訳語としての理解から入るしかない。
>   ましてや、古語ともなれば・・。
>
> 付記:
> selfもまた同様に多義なる語なれば、自洲法洲、Dhp160偈などを始め「self」でいいのか・・。
> >> 846一行目は撤回しとく。
> ただ、PTS辞書にも第二の語義として「oneself、himself、yourself」とあるが、
> そうした「〜self」ではなく、唯「self」或いは「onself」の意だと見るべきかな・・と思ったりはする。

おまけ:仏教議論スレッド 109
http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/psy/1406190341/790
http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/psy/1406190341/792
http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/psy/1406190341/794
http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/psy/1406190341/798
0650神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 13:23:54.37ID:raPC+OVr
>>647のサンユッタニカーヤの説法に従う限り
心=意=識
ではなく
識=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識

また心=意識ではなく心=受想行識ではないかと思う(これは私個人の解釈)
------------------------------------------------------------------------------------
(参考)
説一切有部五位七五法だと
心(心王)=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識

唯識五位百法だと
心=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識+末那識+阿頼耶識

軽量部だと
心=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識+(受+想+行+慧+念+触…などの心所)

テーラワーダだと
心=欲界心(54法)+色界心(15法)+無色界心(12法)+出世間心(8法)

 部派仏教では部派によって心に含まれる法の数や種類に違いがみられる

にしても>>645の水野氏の解説は上記と照らし合わせるとちょっと違うのではないかと思う

・原始経典では識の異名として心(citta)、意(manas,mano)をあげているが、この心・意・識の三者は名称が異なっても同じものを指
すとされている。
→サンユッタニカーヤの釈迦の説法ではそうではない

・部派仏教もこの立場を採用しているが
→部派仏教の中でも確実に心・意・識を同じものとしているのは知られているなかでは有部のみ

・瑜伽行派になると心・意・識の三者はその名称も体も別であるとされている
→全く別ではなく同じ心法の中にカテゴライズされている
0651神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 13:40:06.43ID:D3timmXP
>>650
>水野氏の解説は上記と

別に宝珠の肩を持つわけではないが、
心的作用・意識作用(特に「意図のあるもの、意欲的に方向性を持ったもの」)は、
「意manas」であり「行であり、「心による行為(→業)」である、と見做せるならば、
広く「心citta」と括った場合、そこには「意」としての働きも「識(認識)」としての働きも含まれざるを得ないのでは?
その意味で、初期原始仏教に於いては同じことを指す場面は多々ありそう。

勿論、今問わるべきは、そうした(心的作用を含む)「心」が、
最終的に目指される(≒求められるべき)「境地」である―或いは百億歩譲って、目指すべき真我・アートマンである―
という言い方が妥当かどうか、だが・・・。
0652神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 13:50:55.56ID:D3timmXP
つーか、
「固定的決定的絶対的な、善なる・浄なる・安穏たる様相」を持たない、
そのような(縁起性の)千変万化なる「心」なるが故に、
それを、善き方向へ向かわせねばならんし、三毒に染まらぬようにせなならんし、
一切を放著して、静めねばならんのじゃなかろうかね・・。
その意味で、慧可の安心も、その後数多の禅家の言わんとするところも、
そうした、静まりきった心(≒境地)かもしれん。

おっと、ここで ≪「心」=「(寂滅の)境地」≫ という新たな等式が出現してしまった!(汗   Σ(゚д゚;
0653神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 14:53:35.84ID:raPC+OVr
>>650自己レス
>→部派仏教の中でも確実に心・意・識を同じものとしているのは知られているなかでは有部のみ

有部は
心(心王)=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識
なので心=識=意ではなく
心=識=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識
になる
と訂正します

>>651
識といっても意識mano-vijñānaだけではなく他にも色々な識があるので、厳密には心と意と識は違うという話でしたが、
ダンマパダの最初の句「ものごとは心にもとづき〜」を正田先生は「諸々の法(事象)は意を先行[の因]とし〜」とありこの場合の意は心にで良いと思う。
ダンマパダ33の「心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。」の心は意に置き換えられない、理由はあなたのレスの通り意欲的方向性(志向性かな)があるものではないから。
ちなみにダンマパダ1の心は原文でmano、33の心はcitta。

>その意味で、初期原始仏教に於いては同じことを指す場面は多々ありそう。

ダンマパダ1が好例ですね。

で、>>636に戻って
>その辺は仏典というのは実に曖昧ですよ。
曖昧ではなく先にあなたが書いたように
>たぶん、微妙なニュアンスとかそれぞれの意図によってこれらの三つの語を使い分けしてるのでしょう。
厳密に使い分けしていると思う。
もちろんアートマンではないチッタをアートマンとみなす比丘がいたらゴータマから叱責されたことでしょう。
0654神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 17:01:42.44ID:DQO2+nX1
>>645
>水野氏の解説に深い全面的な信頼を寄せてるので、どうもすみませんね。
>文句あるの?

そういうこと言ってると
★スマナサーラ長老の見解に深い全面的な信頼を寄せてる人の意見
★スマナサーラ長老自身の見解
★上座部の教義
にも文句や反論を言えなくなるよw
0657神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 20:41:14.27ID:D3timmXP
ANの心性本浄系の内容も、
≪辛くて、困難で、自分には到底無理そうで、そもそもこんな苦労して汚れ・煩悩・欲望・怠惰が無くなるだろうか、
 いや、無くなったからと言って、その先に安穏・寂静なぞあるんだろうか?≫
という不安に対する説示であり、(→実はこれはウダーナ8も同じ)、
≪『染まらないようにし』、『タブララサな状態をキープし』、『顕現した清浄な状態(≒境地)を持続させる』≫
べきであるということを説示しているものと思うんだけどね・・・。
0658神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 21:36:15.86ID:D3timmXP
つか、ウダーナは、
そのおしえが説かれることになった原因も、
前フリとして言及されてるけどね。

勿論、それもまた、権威付け・正当化のために付加された後代の改竄、
という見方もあり得るけれども。
06591/2
垢版 |
2018/07/16(月) 22:13:23.81ID:D3timmXP
参考1:
Pabhassara (adj.) [fr. bhAs] shining, very bright, resplendent
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/35/1/35_1_38/_article/-char/ja/
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_article/-char/ja/
ttp://fallibilism.web.fc2.com/051.html

参考2:(一部隠居用餌) 、 (墨括弧は引用者挿入。大括弧は引用者による註。)
ttp://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnlabstract_ja.php?cdjournal=ibk1952&cdvol=20&noissue=2&startpage=503
「心性本浄の意味」水野 弘元/印度學佛教學研究, Vol. 20 (1972) No. 2 pp.503-511 (著作選集2巻p219〜)

 『心性本浄説については、今日までわが国多くの学者によって取り上げられ、すでに論じ尽くされているといってよい。
 しかし、本浄説の源流は阿含経の原始経典、パーリ仏教や法蔵部などのような上座部系の文献にも見出され、
 それは大衆部系の心性本浄説から発達したとされる大乗仏教における如来蔵説や仏性説では、
 清浄なる本性としての【常住不変とも見られる心性】が考えられているのに対して、
 原始仏教や上座部系の部派では、そのような常住の心性は考えられず、
 【むしろ現象として生滅変化する心相が清浄であると】説いていると考えられるからである。
  元来原始仏教では、外教で説くような常住不変の実体を問題とせず、経験可能の現象界だけを考察して、
 これを一切法と呼んだ。従ってそこには常住の心性というような考えが入る余地はないのである。
 周知のように、仏教が【存在するもの(一切法)】として現象界だけを考察の対象としたことは、
06602/2
垢版 |
2018/07/16(月) 22:13:52.35ID:D3timmXP
 外教の説く形而上学的実体を排除するためであった。ところで積極的自主的に作用する心のあり方について、
 外教ではこれをどのように説いていたかといえば、正統派[バラモン、ウパニシャッドの系譜]と
 非正統派[正統以外の遊行者達、沙門と呼ばれる系譜]ではまったく違った解釈をしていた。
  正統派では転変説(pariNAma-vAda)[≒継続するモノの変化変遷]に立ち、
 有機的な生命体としての我(Atoman)という実体を立て、これを不生不滅の本体的存在とした。
 我は心の中心となって自主自律的に活動する主体である。
 これに対して、非正統派では積集説(Arambha-vAda)[≒物質的、機械的集合離散及び作用による存立]に立ち、
 精神的存在をも物質的に考え、我(霊魂)を不生不滅の本体であると説くとしても、
 それは自主的な積極活動をなすものではなく、他の力によって機械的に動かされるにすぎないとした。
  周知のように、仏教では外教の本体説と違って、【心を生滅変化する現象としてのみとらえ】、
 心に自主自律の積極作用があるとしても、それは他の種々なる条件(縁)によってはじめて作用するという
 無我縁起の説を立てた。
  このように仏教では生命活動や精神作用を自主自律のものとして認めるとしても、
 【その奥に常住の本体があるかないかはこれを問題とせず】、【現象として表面に現れているものだけを】考察した。
 この意味の生命や精神の自主的活動力のことを仏教では根(indriya)と呼んだ。[生物学的器官も含。]
 根の概念は仏教以前のウパニシャッド等で既に説かれており、仏教もこれを採用しつつ、仏教独自の立場から解釈した。』
0661神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 22:21:37.73ID:D3timmXP
さて・・・
水野大先生の有難いお言葉だが、
宝珠尊師の耳には、どう聞こえるだろうかね。
0662神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 23:00:12.22ID:raPC+OVr
すでに繰り返し言っているように、心性本浄説について考えるとき、まず問題となるのは「性」であった。
このことについて水野弘元博士は、
「大乗仏教における如来蔵説や仏性説では、清浄なる本性としての常住不変とも見られる心性が考えられているのに対して、原始仏教や上座部系の部派では、そのような常住の心性は考えられず、……。
元来原始仏教では、外教で説くような常住不変の実体を問題とせず、経験可能の現象界だけを考察して、これを一切法と呼んだ。従ってそこには常住の心性というような考えが入る余地はないのである(25)」
と述べておられる。
http://fallibilism.web.fc2.com/023.html

水野先生の視点だと原始仏教では一切法は現象界に限定されるので全てが無常であり、
仏性や如来蔵などの心性本浄つまり常住不変の(浄らかな)心が入る余地はないとのこと。

また同じサイトに

自性清浄心思想に対する論難の一つに、「本来清浄である心性になぜ無明があるのか」という素朴な疑問がある。
如来蔵思想的に言えば、「衆生には如来と等しい法性があるにもかかわらず、どうして煩悩の殻に蔽われるのか」という疑問である。
これに対し自性清浄心・如来蔵思想を主張する側は、明快な答えを与えてはいない。

とあるが確かにそうだ。
自性清浄なら十二因縁の最初は少なくとも無明ではないでしょう。
0663神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 23:06:29.67ID:raPC+OVr
>>661
ありゃ、チンタラチンタラ文字打っている間に水野先生の私の引用とほぼ同じ言説を引用して自性清浄説への疑問を呈していらして、内容が被りましたね。
私の方が後になりましたがw

さて、宝珠さんはどう答えるのでしょう。
0664神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/16(月) 23:21:19.69ID:D3timmXP
>>663
プロパティ見ると、テキストファイル自体は4年前くらい前っぽいけど。
0665神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/17(火) 00:03:24.24ID:LHOMeN9e
>>664
スマホから打ってるのでプロパティは見れません…
0668その後スクロールしたら
垢版 |
2018/07/17(火) 00:46:25.40ID:gftfc0zS
面白いの見つけたw

http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/524
> >> 485-486
> >正統派では転変説(pariNAma-vAda)[≒継続するモノの変化変遷]に立ち、
> >有機的な生命体としての我(Atoman)という実体を立て、> >これを不生不滅の本体的存在とした。 --中略--
> >非正統派では積集説(Arambha-vAda)[≒物質的、機械的集合離散及び作用による存立]に立ち、
> >精神的存在をも物質的に考え、
>
> これなら、“間違いだ”といわても当然ですね。
> アートマンというのは有機的でもなければ、物質的に見えるものなんかじゃないからです。
> どうも何故か・・・こういった現象界的な表現にしていかないと
> アートマンを「存在」や「実在」としては理解されないようですね。
> これならダメに決まってる。アートマンはそういうものじゃない。
> >仏教では外教の本体説と違って、【心を生滅変化する現象としてのみとらえ】、
> >心に自主自律の積極作用があるとしても、それは他の種々なる条件(縁)によってはじめて作用するという
> >無我縁起の説を立てた。
> そりゃー仏教のいう通りですよ。心は違いますから。 > 「心」そのものはアートマンじゃないから。

以下 URLのみ
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/525
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/528
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/530-531
0669その他興味深い発言抽出
垢版 |
2018/07/17(火) 00:52:30.35ID:gftfc0zS
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/530
>  「心」の中には肉体崩壊後にも存続を続ける部分もあり、
> 魂など呼ばれている「識」等々も在るけれども、アートマン本体はそこにはない。
> 「心」はアートマンではないし、心の中にアートマンが内在しているわけでもない。
> けれども、双方それぞれ別物でありつつも、この「心」と「アートマン」は“繋がっている”
> という言い方は可能でしょう。
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/524
> アートマンというのは有機的でもなければ、物質的に見えるものなんかじゃないからです
> 「心」そのものはアートマンじゃないから。
0670栄進
垢版 |
2018/07/17(火) 05:11:10.90ID:Sf6o27Uj
話はぶっ飛ぶんだけど、今更ながら量子力学ってあるよな。
なんかよくわかんないんだけど、量子同士の情報は光速を超えて伝達するらしい。
すでに量子テレポーテーションって実験も成功してるとか。

ほんで俺たちの脳も量子コンピュータと同じ原理で、死んでも情報は失われず宇宙の原意識と一体化するらしい。
これってアートマンやブラフマンのことじゃねえか!?
この仮説が本当なら昔のインド人やお釈迦様マジやべー。

何言ってるのか自分でもわからねえが、パーピマン、宝珠、おじゃるならわかってくれるよな!
さて、薬飲んで寝る^^
0671栄進
垢版 |
2018/07/17(火) 08:32:31.54ID:Sf6o27Uj
いろいろ間違ったこと書いた。

恥ずかしいから寝る^^
0673基地子菩薩
垢版 |
2018/07/17(火) 23:27:44.43ID:oJHPnvOu
>>671

一皮剥けたにゃん♪

栄進に (-∧-)合掌・・・
0674神も仏も名無しさん
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2018/07/17(火) 23:29:33.43ID:gftfc0zS
さて・・、
一千億歩譲って、アートマンこそが、求めるべき境地だとして、
一神教系に対しては、どう、折伏する論立てをするんだろうね。  >>神智学


結局、
仏教、禅宗、キリスト教カソリック、キ教プロテスタント、 イスラム教、ユダヤ教、
道教・老荘思想、儒教、古神道、エジプトや南米の太陽信仰、
古代インドの各種信仰、バラモン教・古ウパニシャッド、etc.etc.
の中で、真我やブラフマン等、永遠なる実在から、最も遠いスタンスを取ったのが、
新興外道の沙門達であり、抜きんでて異彩を放ったのがシッダッタだったわけ。
だから、反感を買い、迫害を受け、(イスラムの侵攻があったにせよ)インド本土では潰えたわけでね・・


仮に、仮に、アートマンの肯定が最終段階であったなら、
なぜ、釈子は迫害されねばならなかったのか?
なぜ、諸宗諸外道は合流しなかったのか?
なぜ、「自分たちもアートマンを求めてるんですよ」「自分たちも梵我一体となりましたよ」
 と言わなかったのか?
 (言えば、自分たちもあなた達と同じですよとちゃんと説明していれば迫害されずに済んだだろうに・・・)
0675栄進
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2018/07/17(火) 23:59:25.63ID:Sf6o27Uj
>>674
釈迦が迫害されたのは、バラモンの四住期を無視したからでは?
アートマンを求めて出家するのはバラモンの老人の道楽だった。
それを無視して老若男女誰でも出家を許した仏教はインド社会を破壊する危険思想と迫害されたと^^
0677神も仏も名無しさん
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2018/07/18(水) 02:18:50.94ID:bOMuRIpw
釈迦は人気がありすぎてライバルの教団(どこの教団だったかは失念)から女性を使った謀略という迫害を受けたりはしたけど
当時の二大大国のマガダ国とコーサラ国の国王は釈迦に帰依してたしそんなそんな大きな迫害はされてない
釈迦入滅後100〜200年後のアショーカ王は仏教を国教にしたしその後の王朝(クシャーナ朝など)も仏教の迫害はしてないよ
ただ仏教側が大衆の支持を失っていっただけであって
0678宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/18(水) 03:49:38.08ID:P5/DB9pe
先日は、
地下鉄サリン事件の実行犯のなかで唯一死刑判決にならなかった林郁夫受刑者(無期懲役)についての、
再現ドキュメンタリー・ドラマ『オウムを終わらせた男〜 林受刑者はなぜ全てを告白したのか?』を見たが、
昨夜はまた、 “オウム真理教でサリンを作り、先日刑を執行された土谷正実元死刑囚の半生と事件に至るまでを再現する”を見た...。
被害者側の皆さんからの反感を買うかもしれないけども、この私の目から見れば正直、
彼らのすべてが無知で純粋な心の持ち主だったために洗脳されてしまった可哀想な被害者にしか見えない。
この土谷正実は、わたしとまったく同じ生年なんだなぁ...。

とにかく、このような悲劇が二度と起こらないことを願うばかり。
それとやはり、どんな犯罪者に対しても死刑は行うべきではないという思いについては変わらない。
数年前に、死刑廃止を訴える文書を政府に提出したことがあるが...。

それから洗脳マインド・コントロールや思い込み決め付け等々については、
その思想が過激であるかどうかは別にして、
既成仏教であっても人間の反応については同じこと。
討論が続いてヒートupしてきたときにはそのまま投稿せず、
一晩〜二晩の一呼吸おいてみると冷静さを取り戻すもの。
改めて自分や相手の投稿を読み直してみると、
あの時の印象はそうでもなかったりと受ける印象はガラリと変わる。
0679宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/18(水) 04:07:41.41ID:P5/DB9pe
>>651
>勿論、今問わるべきは、そうした(心的作用を含む)「心」が、
>最終的に目指される(≒求められるべき)「境地」である―或いは百億歩譲って、目指すべき真我・アートマンである―
>という言い方が妥当かどうか、だが・・・。

>>635-636でも述べたように、
心(citta)そのものは、もちろん「真我」(アートマン)などではないけれども、
しかし、訓練によって心(citta)を制御することで、
心(citta)の奥深い「識」の更に深層で繋がっている“本来の清浄で輝いている自己”が顕現できるようになる。
心(citta)〜意(manas,mano)〜識(vijnana,vinnana)までは現象界(有為)に限定された一切法ですが、
これを制御した結果として、つまり煩悩を制御し鎮めたその結果として、
それまでそれらの煩悩で隠されていた「無為」としての“本性清浄心”が発現するとものと理解します。
次元のネジレの果てにおいて繋がっている的な云い方しかできないでしょうね。
“本性清浄心”が一切法の中に在るというわけではない。
私の見方では、この問題はその辺の誤解なのだろうと思われます。
0680宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/18(水) 04:08:19.87ID:P5/DB9pe
>>659
同じく、
“心性本浄説”の誤解については上記の通りであって、
その清浄心は元々、現象界の一切法内のことではないと理解。
従って元々、一切法の無常・無我・無自性・空の規定法則には抵触しないから問題。

>>660
については、
その>>668-669で述べられている疑問符の指摘は的を得たものだと思います。
そもそも、この私には>>660にあるような正統派非正統派の双方についての説明が意味不明に映ります。
そんなものを説いていたというのは今一つ、聞いたことが無い...。判然としない...。
正直、それらは仏教徒側(当時の?)の偏見によって全く誤解した異なる内容へと改変されてしまったアートマン論なのではないか?
と、私には思えてしまいます。とにかく意味不明ですよ。アートマンの説明にすらなってない(それアートマンじゃないじゃん)...。
0681宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/18(水) 04:09:00.95ID:P5/DB9pe
>>662
>「本来清浄である心性になぜ無明があるのか」という素朴な疑問がある。
> 如来蔵思想的に言えば、「衆生には如来と等しい法性があるにもかかわらず、どうして煩悩の殻に蔽われるのか」という疑問である。
>これに対し自性清浄心・如来蔵思想を主張する側は、明快な答えを与えてはいない。

そりゃ〜その説明はないですよ。
縁起は何故あるのか? 縁起は何時から在るのか? というのと同じく愚問なわけです。
仏教というのは元々、そういうことを説明しようという教えではない。
ヒンドゥーや神智学では説かれています。仏教とはアプロ―チと姿勢が違う。
0682宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/18(水) 04:09:57.87ID:P5/DB9pe
>>670
アートマン.ブラフマンはおいといて...

その量子論が、
濃密物質レベルの自然科学における常識を超えた超常的領域について理解するカギです。
理論上ではすでに超常領域については肯定しており、また量子レベルでの素粒子実験では、
とっくに人間の思念エネルギーが素粒子に作用することを確認済です。
ただ普段、我々の眼に見えるものとしては確認がないというだけであって、
しかし、驚異的な精神エネルギーを発動できる人間ならば理論的に物質に影響することは不可能ではない。
0683宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/18(水) 04:11:44.46ID:P5/DB9pe
>>674
ゴータマがヴェーダ・ウパニシャッド同様のアートマン論を説かなかったのは、
バラモン達に蔓延る数々の生贄やらその他の迷信や儀式万能主義やらの...非常に宜しくないのが氾濫していたからでしょう。
バラモン伝統のアートマン論をそのまま支持してしまうと、それらも一緒に肯定したものとして誤解されるからです。
それだけは絶対に避けたかったというのが、ゴータマの意識であったと私は見ています。
最後の涅槃死についての自身の遺体の置き方でなされた北枕の指示も然りで、
バラモン達の行う生贄の寝かし方がどうやら南枕だったからというのが真相らしい...。
バラモンのアートマン論を認めれば、彼らと一緒扱いをされることになるし、
かといって否定しては唯物論だと誤解される。だから、明確に返答をしない姿勢を採った(それが無記の理由)、と。

迫害というか....
インドで仏教が消滅したのは後代の(部派に始まる)弟子たちがゴータマの教えを誤解して、
“アートマンは無い”という意味の無我論を説き、
その教義に頑なに固執し続けたためにインド人から見放されたことが一番の原因とみています。
インドではそういう宗教は誰も入信しません。少し手だけ勢力を維持できたのはインド大乗〜密教というヒンドゥー化だけです。
0684宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/07/18(水) 04:15:59.78ID:P5/DB9pe
>>680
訂正:
 ×「抵触しないから問題」
 ○「抵触しないから問題なし」
0686宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/18(水) 19:28:22.69ID:P5/DB9pe
>>654
確かに、“信頼している”ということでは同じです。
そもそも信仰心というもの自体が、あらゆるどの宗教においても等しく同じですよ。

尚、スマ長老と水野氏の違いは明確ですよ!
スマ長老は部派の継承教団そのものの高僧です。
本人は、自分の信奉しているのが部派教団だという認識は無いかも知れませんが、
しかし、アビダンマの信奉教団ということは変わりがない。
対して水野氏は、原始仏教の文献学者です。
それは何を信じて何を信仰するというものではなく、
純粋に原始経典の記述を学問的に研究しているのです。
そして、アビダンマは部派による成立であって、
その内容は原始経典とは異なっていることを知っている。
それが両者の違いであり、私が水野氏の側を支持する理由です。

部派仏教とアビダルマ哲学の成立:
『ブッダの入滅後100年ころ、教団は律の解釈をめぐって、保守派の上座部と進歩派の大衆部(だいしゅぶ)に分裂した。その後さらに分裂
をかさね、成立した部派の数は18あるいは20と伝えられる。各部派は、自派の教理にもとづいて聖典を編纂しなおし、独自の解釈を立てて
論書を生み出した。それらはアビダルマといわれる。そして、これを集めたものが論蔵(アビダルマ蔵)で、ここに経蔵・律蔵とあわせて三蔵
が成立した。1)論 (abhidharma) は、部派仏教時代に成立した教理の解釈である。』
(インド思想史略説)
0688神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/19(木) 01:54:48.06ID:kYyTFxCP
>>679
>これを制御した結果として、つまり煩悩を制御し鎮めたその結果として、
>それまでそれらの煩悩で隠されていた「無為」としての“本性清浄心”が発現するとものと理解します。

なんで清浄心が無為になるの?
論理が飛躍していますねえ。

自分がそう思うというそう信じるに止めるのならそれでも良いけど、
人の前で「本当の仏教では煩悩を制御すると無為なる本性清浄心が出てくる」などという独説を唱えたりはしないことですな。

>>680
>その清浄心は元々、現象界の一切法内のことではないと理解。
>従って元々、一切法の無常・無我・無自性・空の規定法則には抵触しないから問題。

これもさ…
結局清浄心というのは現象界の無常無我無自性とは違うものといったらアートマンと変わらなくなるじゃん!
結局清浄心こそがアートマンであるといいたいんでしょ?
あなたが全面的な信頼を寄せている水野弘元氏はそれとは反対のこと言ってますが。
0689宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/19(木) 04:04:17.04ID:jF1hWm4C
>>688
時間がないので、これについてはまた後で返答します。

まず、一つだけいっておきます。
私は何も水野氏に洗脳されているわけじゃないので、
水野氏のいうこと100%に同意するというわけじゃない。
私はもし、仏典の記述とテーラワーダの間に差異がある場合は迷わず仏典の記述を支持します。
同じく、水野氏の説明と仏典の記述に差異があれば、同様にして仏典の記述の方を支持します。
当り前のことですが...。

論争の起こるすべての原因は、
仏教では、ものごとの疑問符に対する説明解答がないことに尽きます。
ゴータマ・ブッダが在世の当時であれば、疑問が湧けば聞いて確認することができたでしょうが、
残念ながら今はそれができないということにある。
0691Junkie-Ooyama..
垢版 |
2018/07/19(木) 16:54:53.15ID:y2DQiIwH
書かれてる内容は別として、本の帯に書かれている「初期仏教長老・・・」
流石にそれはないでしょw
0692神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/19(木) 21:45:25.21ID:WSs8uYLi
>>677
>人気がありすぎて
そう。 なぜ、人気があったのか?
もし、他の外道と同じことを説いているのに、上っ面だけ違うこと(無我)を説いて、
人集めをしていたのだとしたら、とんでもない詐欺師だし、迫害されて当然だと思うけど?www

多くの外道の末端に限らず、指導者までもが、『転向』『鞍替え』し、釈尊の説くところに賛同していったわけだが、
その際、 彼らは、 『 ≪どっちに≫ 賛同した』のだろうかね?  >>683



宝珠は、仏教系大学で、 『インド思想史』そのもの を、一から学び直すべきだと、
心の底から思う。  by7
0693おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/19(木) 22:22:41.98ID:WhGi3qyk
 
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6
量子力学(quantum mechanics)
因果律が成り立たない
実在論としては記述できず、非実在論的である

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%8B%95%E9%96%A2%E6%95%B0
波動関数(wave function)
「波1の世界」と「波2の世界」が同時に存在できる
我々が住む日常世界の他に全く異なる並行世界が存在する

>>670 栄進師匠へ >量子力学

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E8%B7%B3%E8%BA%8D
量子跳躍(quantum leap or quantum jump)

ttp://amenama.on.arena.ne.jp/?p=2741
二次元平面に保存された情報からの → 宇宙(三次元空間+時間)が投影されている

ttp://tocana.jp/2017/01/post_12093_entry.html
人間の意識は宇宙法則とリンクしていた

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
プルシャからの → プラクリティ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81
仏が大悲・大智によって → (仮設としての)衆生に応じる
(仮設としての)衆生が  ← 仏の大悲・大智を受け入れる
0694おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/19(木) 22:59:58.12ID:WhGi3qyk
 
>なぜ、人気があったのか?

「仮設としての」という意味で
前世からの功徳・人徳があったから

((無明に依存して)
  功徳・人徳の少ない指導者のところには
  怨憎会苦の集団ができるかもしれない?)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E6%A5%BC%E9%A0%BB%E8%9E%BA%E3%83%BB%E8%BF%A6%E8%91%89
ウルヴェーラ
釈迦は
火界定三昧に入り竜の魔力を奪った
釈迦は静かに禅定していて竜が小さくなって鉢の中にいた

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E8%B6%B3
「仏そのもの」の自在力(神通力)をもって
智慧と慈悲をもって → (仮設としての)縁起している世界を観照してるから

戒・定・慧・解脱・解脱智見
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧も慈悲も)の実践をしてたから

非想非非想も超えて
(仮設としての)縁起している世界も超えて

有余涅槃(本来自性清浄涅槃?)に戻ったので
それゆえに

>人気があった

という対機説法?ということで ヨロ m(_ _)m
0695おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/19(木) 23:32:25.48ID:WhGi3qyk
 
>宝珠は、仏教系大学で、 『インド思想史』そのもの を、一から学び直すべき…

(おじゃるも含めて)
宝珠殿の場合は
『「…である」と定義することはできない「…である」ものではない
  (絶対的な?)真我のようなものがあるはずだ!』
という強い信念があるのなら

仏教系大学で、 『インド思想史』を勉強しても意味がないのでは?

たとえば
「無我 = 真我という意味だ!」という強い関連付けがあるのなら…

真我 = 本来自性清浄涅槃だ!

ということで ヨロ m(_ _)m

中観帰謬の場合は
(真我も含めて)無我という 『 想い 』 も手放して超えて逝く

ということになるけれど…
0696宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/20(金) 04:01:31.49ID:a00w5JU+
>>692
ほーう...。
専門大学では私とは違うことを学ぶよ、と...。
そりゃ〜「ブッダはアートマンを説いた」とはお教えたりはしないでしょうからね。
(私もバラモンたちとまったく同一のことを説いたとはいってない)

しかしながら、ゴータマの名声は何だったのか? といえば、
当然それは、“梵我一如の境地”、悟り、“輪廻からの解脱”を目指すバラモンたちの中において、
そのゴータマこそが本物も達成者であり、完成者(ブッダ)であるとの評判が高まったからです。
その評判がインド中に広まっていったからに他ならない(当時、本物の完成者は他にはいなかった)。
実際、ゴータマに集った弟子たちというのは彼らバラモンたちでした。

別に、「アートマンは無い」という意味の無我を説いてから人が集まったわけではなくて、
間違っているバラモンたちを指して、「それらはアートマンではない。アートマンでないものをアートマンと見なすなかれ
(アートマンであるものこそアートマンとして見よ!)」という非我を説いていたゴータマに人が集った。
「アートマンは無い」という意味の「無我」を説いたというのは、ゴータマ入滅後の数百年後の部派教団によってです。
それがアビダンマの教義というもの。

インド仏教史の略図でも書かなきゃダメなのか?
0697宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/07/20(金) 04:31:24.86ID:a00w5JU+
>>696
訂正:
 ×「本物も達成者であり」
 ○「本物の達成者であり」

 ×「無我を説いてから」
 ○「無我を説いてたから」

●当時のゴータマとのやりとり実際事例
『私(マーガ)はいま梵(brahma)に遭うことができた。あなたこそ本当に梵(brahma)と等しい方である。光明をもっている方である。どうすれば梵天界に生まれるのか。』(Sn.508)
『私(ブッダ)は梵となりたる(もの) であり、無比であり、魔軍をほろぼしすべての敵を屈服させ、おそれることなく喜ぶ。』(Sn.561)
(田上 太秀 訳)
0698神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/20(金) 10:17:08.42ID:oWUe9M82
メモ【五火二道説】 と【梵我一如説】 と【無我説】
http://open.mixi.jp/user/8715268/diary/1124265974

さて、死後梵天界への再生を願うマーガ青年は五火ニ道思想だったのか梵我一如思想だったのか、
あるいはそれ以外のバラモンの思想信仰を持っていたのか?
それとも釈迦に梵天界への再生の道を先に説かれていたのだろうか?

しかし、釈迦はマーガ青年に「そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ」と何度も言うが
これは自分のような立派な人にこそ供物を捧げよと言ってるに等しいなw
0699神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/20(金) 14:24:37.67ID:oWUe9M82
ヤージュナヴァルキのアートマン論だと梵我一如となったものは死後に想念なしとしているから梵天界に生まれ変わるというのとは違うな
0700神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/20(金) 15:20:24.51ID:Pg8sCAqX
>>696
>(アートマンであるものこそアートマンとして見よ!)」という非我を説いていたゴータマに人が集った。

流石に(心の内)としても勝手な想像を事実であるかのように書くのは酷いわあ
0701おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/20(金) 17:39:11.23ID:4FnROaMm
 
>立派な人にこそ供物を捧げよ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C
預流・一来・不還・阿羅漢

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%BC%A2
阿羅漢
仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者
この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができる
漢訳には応供(おうぐ)という意訳もある
  _  _  _

>釈迦に梵天界への再生の道を先に説かれていたのだろうか?

ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める

ウッダカ・ラーマプッタ師匠は非想非非想の世界まで

釈迦は(非想非非想を超えて、そして)
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し
よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去る

四念処(四念住)を実践するように説いた
0702神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/21(土) 02:46:18.87ID:ah373YMo
>>1

宗教というのは一点の疑問にいかに答えるかで全く姿勢や教義が変わる

科学的自然説を用いるなら未来が無限というのは理解できるだろうが、過去の時間軸も無限ということになってしまう
時間軸が無限ということは、今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる

(神がいないのであれば)空間(宇宙とは別)にも(有か無かは別として)無限の過去があったと推定できるが、これも科学では説明しえない領域ではあるし
無限の過去があるなら(人類以前に)知的有機生命体ないしは機械が何らかの知的・技術的臨界点に達するための時間が無限にあったということであり、
それだけの時間があれば例えば宇宙を作ることさえも不可能ではないだろう

そう考えると自然として考えてきたものが機械的にエンジニアリングされた環境であったと考えることもできる

この疑問に対する宗教の答えを単純化すると3つに分けることができる

空間に無限の過去が無いという説においては永遠の全体を持つ神(時空間創造説)
存在と意識を小宇宙として限りなく細分化し死によって滅ばない主観と因果律(諸行無常、輪廻思想)
創造−存続−終末的破滅−創造を永遠に繰り返す(円環的時間)

始まりの存在を考えるのは科学の領域でもあるが、人類や(宗教も含む)文明の価値にも影響してくる
0703おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/21(土) 03:56:39.86ID:oXJ/WW62
 
>創造−維持−破壊−創造を繰り返す

ブラフマー(創造)・ヴィシュヌ(維持)・シヴァ(破壊)

オルペウス教
魂と肉体の二元論、転生、輪廻からの最終解脱、などを基本的な教義とする

ピタゴラス教団
古代ギリシャからあるオルペウス教の影響から輪廻転生の考え方を有していた

ピタゴラス派
均整及び調和の理念が → 宇宙全体から日常生活までを支配しているのだと考えられた
万物は宇宙の中心点である中心火の周囲を決まった軌道を通って周行するものとされた

ピタゴラス
ポルピュリオスなどの伝記によれば
ゾロアスター教の司祭のもとで学んだといわれる
さらにはイギリスやインドにまで旅したという伝説もある
  _  _  _

>今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる

古代ギリシアの哲学者プラトンが著書『ティマイオス』及び『クリティアス』の中で記述した
アトランティス

波動関数(wave function)
「波1の世界」と「波2の世界」が同時に存在できるので
我々が住む日常世界の他に全く異なる
並行世界が存在することを期待させるために、様々な空想を生んだ
0704おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/07/21(土) 04:13:47.15ID:oXJ/WW62
 
↓幽霊・心霊関連として

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%82%BD%E3%83%B3
エジソン
高齢となって会社経営からは身を引くが
研究所に篭り死者との交信の実験(霊界との通信機の研究)を続ける

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%9D%A5%E5%8F%8B%E5%90%89
福来 友吉

学会追放
高橋貞子での実験成功に力を得て、1914年(大正3年)9月に『透視と念写』を出版した
学長であった上田萬年から10月に呼ばれ
「東大教授として、内容的に好ましくない行為」として警告を受けたが
透視も念写も事実である旨主張して東京帝国大学を追放(公的には休職)され
1915年(大正4年)10月28日付の東京日日新聞や萬朝報でも報じられた
彼が取り上げた人物も「イカサマ」「ペテン師」などの攻撃を受けることになってしまった

その後
物理的検証といった方法論を放棄し、禅の研究など、オカルト的精神研究を行なった

1921年(大正10年)、真言宗立宣真高等女学校長、1926年(大正15年)から1940年(昭和15年)まで高野山大学教授
0705神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/21(土) 23:10:12.81ID:s39F+mXM
>>696
> (私もバラモンたちとまったく同一のことを説いたとはいってない)
つまり、今、貴方が説いていることは、
歴史上誰一人として説いたことのない、人類史上初の思想だということです。

> 実際、ゴータマに集った弟子たちというのは彼らバラモンたちでした。
そう。
だからこそ、そのような彼らが、 なぜ、
「これまで自分たちが希求してきた真理(『アートマン、真我』)こそを、ゴータマは説いている」
という長老偈(テーラガーター)になっていないのか?
なぜ、(ゴータマ自身は、貴方や他の人が言うように、本当のことを口にしなかったとしても)
弟子達までもが、永きに亘って、そのことを秘密にし続けねばならなかったのでしょう?
教えを秘匿することは、ゴータマが最も嫌ったことであった筈なのに。

> 間違っているバラモンたちを指して、「それらはアートマンではない。アートマンでないものをアートマンと見なすなかれ
> (アートマンであるものこそアートマンとして見よ!)」という非我を説いていたゴータマに人が集った。
のであるならば、尚更、弟子たちは、ゴータマこそが、自分たちが求めていたものを説いた方だ、
と、尊崇し、人々に知らしめる責務を感じるであろうに。


> インド仏教史の略図でも書かなきゃダメなのか?
てめぇより、はるかに理解してる自負はあるよw
0706神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/22(日) 00:03:04.76ID:F0H/zU4u
一千億歩譲って、
田上センセが院生時代に記した論考のように、
『ブッダは、菩提樹下でアートマンとなった』
という言辞を受容したとしても、
そこで、ブッダが実感された、頷かれた「アートマン」は、
「永遠なる万能な実在」「太古から存在し続けた”おのれ”」ではないように見受けられるんだよね。
だから、
≪臨済禅師(及び真実自己を肯定する祖師方)は「アートマン」を説示したのかどうか?≫
を、”専門家の”宝珠氏に検証してみてほしいわけさwwwww
0707神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/07/22(日) 00:10:37.45ID:F0H/zU4u
たとえば、昭和の禅僧朝比奈宗源は「仏心」を掲げる。
これが、
如来蔵や本覚思想とどうかかわるかは、普通に仏教学・禅学・宗学の範疇だけれども、
≪それが、「アートマン」かどうか?「真我」かどうか?≫
は、まったくもって、従来の僧侶や学者の領域を超えている。
神智学を併修する仏教学者は、大拙さんくらいのもんだろうw
そして、その大拙さんにしても、
手法や視線の投げかけ方、考え方を採り入れただけで、
自身のスタンスを変えてはいない、という点も留意されるべきところだろう。
(勿論、大拙さん始め西田さんとかの方向性が、禅として如何なものか?という批判的研究はされるべきではあるけれど)
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