般若心経のフレーズとして良く知られているものですが、この「六根」と「六境」による「十二処」が、仏教の説く「一切」であるとして
います。この中には「涅槃」(無為)は含まれないのに勝手に涅槃も入ることにしてしまったのだから、ブッダの教説とは“異なる一切”にし
てしまった部派というのは、つまり、絶対にしてはならない“他の一切”を勝手に説いてるということになるのです。この「六根六境/十二処」
は大きく纏めると「五蘊」ということになります。つまり、眼色・耳声・鼻香・舌味・身触・→「色蘊」、法(法処)→受蘊・想蘊・行蘊、意→
「識蘊」です。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A7%91#/media/File:%E5%9B%B3%E8%A7%A3%EF%BC%88%E4%BA%94%E8%98%8A%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%87%A6%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%95%8C%EF%BC%89.png

 では、仏典は「五蘊」のことは何といっているでしょうか?

 『大徳よ、魔羅(悪魔)、魔羅と仰せられますが、いったい何を魔羅と言われるのでしょうか?
 ラーダよ、色(肉体)があれば、そこには魔羅がある。殺す者があり、また死する者があるであろう。ラーダよ、だから、色を魔羅であると観じ、
殺す者であると観じ、死する者であると観じ、あるいは病なり、瘍(はれもの)なり、刺(とげ)なり、痛みなり、痛みのもとであると観ずるがよい。
そのように観ずれば、それが正しい観察というものである。
  ※以下、受・想・行・識についても、同じ説明が繰り返される。
 大徳よ、では、いったい、何のためにそのような正しい観察をするのでしょうか?
ラーダよ、厭い離れるために、正しい観察をするのである。』
(『相応部経典』羅陀相応 1 魔羅)