--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻
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仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 >クシャン人で有名なのはカニシカ王です。当時は大乗仏教はなかったと言われているが
言いきっちゃたけど、よくわからない。
日本や中国の仏教徒の記録ではカニシカ王は大乗仏教を支持していたとされるが、
実際には大乗仏教とカニシカ王の関係はあまり強くなかったらしい。
アシュヴァゴーシャの残した作品などから、カニシカ王の支持した仏教とは伝統的保守仏教、
特に説一切有部であったといわれている
wikiで調べると、成立年代が結構クシャーナ朝と重なるんだよな。
>>361 夕師匠へ
↓これでつかね?
ウィキペディア参照
クシャーナ朝
大月氏
紀元前2世紀、匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民の月氏は、中央アジアのバクトリアに定着した
説一切有部
紀元前1世紀の半ば頃に上座部から分派した
クシャーナ朝
中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えた
部派仏教
西北インドの上座部系説一切有部
_ _ _
たとえば
バクトリア、そして
中央アジアから北インドにかけてのクシャン系と
西北インドの説一切有部系の [ 場所も 年代も 重なるなら ]
という感じなんでつね?
>>362の訂正とお詫び
失礼いたしました スマソ m(_ _)m
↓ウィキペディアに書いてありました
カニシカ1世
仏教とカニシカ王
仏典の伝説
宗派
日本や中国の仏教徒の記録ではカニシカ王は大乗仏教を支持していたとされるが
実際には大乗仏教とカニシカ王の関係はあまり強くなかったらしい
アシュヴァゴーシャの残した作品などから
カニシカ王の支持した仏教とは伝統的保守仏教
特に説一切有部であったといわれている
(ウィキペディアも間違ってる場合もあるらしいけど、とりあえず)
訂正してお詫び申し上げます スマソ m(_ _)m
おじゃるの妄想・崇拝?としては
アトランティス以前の古代文明?
↓
アトランティス
↓
?
↓
古代エジプト
↓
?
↓
ゾロアスター(拝火教)
六師外道
バラモン
その他諸々
↓
釈迦
↓
そして
仏教とは関係がないかもしれないけど
たとえば中国の魂魄へと
古代エジプト人の魂の概念と似てるかもしれない
という、おじゃるの妄想・崇拝?でつ スマソ m(_ _)m
ウィキペディア参照
古代エジプト人の魂
バー(魂)
死んだ後も生き続ける人間の一側面であるとエジプト人たちは信じていた
墓から飛び立ち来世で「カー」と合流する人頭の鳥として描かれることもあった
カー(精神)
クヌムが轆轤で幼児の体を造り
そして
母の胎内へと送り込むのだとエジプト人たちは信じていた
クヌム
古代エジプトから伝えられている創造神の一人
人間を創造した神とされ、多産を司るヘケトの配偶者とも言われる
中国の道教や伝統中国医学における霊についての概念である
魂魄(こんぱく)
魂は陽に属して天に帰し
魄は陰に属して地に帰すと考えられていた
「気は必ず散るものであり、二度と集まることはない」と儒学では定義している
これは仏教における輪廻転生という再生産を否定するためのものである
ということであるらしいので
来世で「カー」と合流するという
古代エジプトの概念とは違うかもしれないでつね
度々、失礼いたしました スマソ m(_ _)m 僧兵達の寝言は更に続くにゃん♪
好奇心に (-∧-)合掌・・・
バー(魂)
生命を持たない物体も
独自の性質である「バー」を持ち得
実際に古王国のピラミッドは
その主の「バー」であると呼ばれていた
↑↓似てるような気がする
仏性
一切悉有仏性
日本の天台宗では
仏性を衆生(人間)に限らず
山川草木や生類すべてに仏性があるとする考え
一切悉有仏性までが、後世に生まれた
仏性や一切衆生悉有仏性は
仏教全体に共通する教義ではない
しかし
現在の日本仏教では
法相宗などの一部の宗派を除き
仏性・一切悉有仏性・如来蔵を説く宗派が多勢を占めている
法相宗(唯識)は
誰もが成仏するわけではない(五性各別)なので
バー(魂)によって
生命を持たないものも現れる。とか
バラモンとか
その他諸々の崇拝・信仰など
その当時の『(掴もうとしている)想』を一応認めて
真俗二諦
仏教を理解せしめるためには
その当時のインドの人々にとって
世間的な『想』を一応認めて
その理解のうえで
仏教を理解せしめる
というやり方がとられねばならなかった
たとえば
おじゃるの場合は
「落武者の霊を見たのだから」という(掴もうとしている)想を一応認めて
トゥルパ
マナス(意、心)が成した身体(マノマヤカーヤ・意成身)
シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有
ルン
光明としての心の乗り物となる微細なる風。生体エネルギーのようなもの
ヤブユム
男性尊格が配偶者と性的に結合した男女両尊
そして又この現世に戻り来る。と云うことで ヨロ m(_ _)m
>>368の補足として
仮設としての
無明に依存している
シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有
ttp://mmori.w3.kanazawa-u.ac.jp/misc/newspaper_pr/bardo.html
「チベットの死者の書」とは何か
…
(再生へ向かう迷いの中有の世界の中で)
男女が交接している幻影があらわれても
(掴もうとしている『想を』手放して)
これを配偶神と合体した仏であると心に念じ
ひたすら礼拝し供養せよ
そうすれば解脱することができる…
(ヤブユム 男性尊格が配偶者と性的に結合した男女両尊)
掴もうとしている『想を』手放しできないのなら
又(無明に依存している)この世の生に戻り来る
というような対機説法で おじゃります m(_ _)m 369.バカおじゃる、の程度がわかる。バカは反省しない。 >>316
>諸行無常 一切行苦 諸法無我(一切法無我)
>無我のみ諸法(一切法)となっている理由を教えていただけますでしょうか?
どうもすみません。時間及び体力的理由にて私からの返信はかなり遅れてしまったり、投稿が大きく途絶えたりすることが度々あります。
どうかご了承のほどを願います。問いに関しては、正直いって私の得意分野ではないのですけれど、頼りにしている優秀な書籍の解説を提
供することで返答にしたいと思います。
三宝印(四法印)においては「諸法無我」にだけ、何故「行」ではなくて「諸法」といって「法」の文字が充てられているのか? 一見する
と、「無常」と「苦」の「行」は限定意の印象を受けますが、「無我」の「諸法」は「一切法」のすべてをそのまま指しているかのように見て
るかもしれません。そして、仏教の説く境地である「涅槃」も当然、教えとしての「一切法」の中にある筈だと。よって「涅槃」も「無我」
であるし、涅槃に安住する「如来」も当然のように無我であると。普通に僧侶の説く仏教解説を学んできた者であれば、まず全員が例外なく
そのように理解しているものと思います。私の尊敬するダライラマ猊下もそのように教えています。
しかし、近代仏教学上の理解においては正直いって、それらとはまったく違うものとなります。ハッキリいって法門の僧侶たちの理解は、
まず例外なく部派二千年の伝承によって洗脳され勘違いを犯しています。残念ながら、実際の僧侶たちはテーラワーダをはじめ仏典(原始経
典)の記述には従ってはいません。仏教学というのは文献学ともいいますが、学者たちというのは経典の記述を読みます。その文字、経スッタの
言葉そのものを研究している。
前置きが長くなってしまいましたけれど、「諸法無我」でいう「法」というのは、無我性の“もの”という意味で使われており、理由とし
ては単にそれだけです。経典の記述によっては「諸行無我」とも書かれています。拍子抜けするかもしれませんが、実際にはどちらでも何も
問題はないということ。返答としては、単にこれだけになってしまいます。 『諸法の法とは、前に法の特質を掲げた中の第四の「無我性のもの」を意味する。これはたんに「もの」ともいえるが、原始仏教では
「もの」というのは「無我性のもの」に限られるから、この諸法は諸行と同じく、現象としての一切法ということになる。(p160)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
【ただし『漢訳増一阿含』巻十八、三十六では、ともに「一切諸行無常、一切諸行苦、一切諸行無我、涅槃為永寂」となっており、ここで
は「諸行」を無我と見ている。】
(『東洋思想5/平川 彰著「初期仏教の倫理/無我の立場」』東京大学出版会刊p49)
この前、外道スレの後半においては、「一切皆苦」というのは正しくは「一切行苦」であるけれども、つまり、ここでいう「苦」とは“「行」
に限定されている”という意味の投稿をした方がいたと思います。けれども、そのような理解もまた間違いです。この「行」は五蘊の中の
「行蘊」に限定したものではなく、“現象としての事物”すべてという意味として使われるものなので、「一切行」と「諸行」の「行」という
のは、これも一切法の全体すべてを指します。
『「最広義の行としての一切行または諸行無常の行は、すでにのべたように現象のすべてを指すから、五蘊の中の行蘊だけではなく、五蘊
全体が行ということになる。」(p132)
「一切行苦とは、一切皆苦、諸行皆苦ともいう、五蘊・十二処・一八界などの一切の現象法が苦であるということである。原始経典に現象
法は無常であるから苦であるとされているのはそれである。」(p167)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) >>318
>原始仏教では消滅変化しない常住不変の無為法は存在するのですか?しないのですか?
仏教では、客観的で実体論的なものとしては扱いませんが、“永遠の存在”(言葉として便宜的に「存在」といい回しを使います)としての
“涅槃がある”という言い方をします。部派は有為法に対するものとしての存在論的な無為法を説いたともされていますが、いずれにせよ、
本来は元々、ゴータマの教説においては「一切法」(十二処中の法処)には無為法は含まれていませんでした。
『「諸行とは生滅変化する一切の現象法を指し、有為と同義である。すべての現象は一瞬の停止もなく、無常にして生滅変化するというの
が諸行無常である。」(p158)
「四法印については、漢訳増一阿含巻十八に、一切諸行無常、一切諸行苦、一切諸行無我、涅槃為永寂とあり、---略---それらのすべて
で、四法印の列挙順序は無常・無我・涅槃寂静となっている。原始経典には一般に三法印とか四法印とかの説はない。しかし五蘊などの諸
法の無常・苦・無我については無我相として随処に説かれ、これを有為の三相としている。パーリ仏教もこの説を受けている。有為を脱す
ることによって涅槃寂静が得られるから、以上四つで四法印とされたものであろう。」 (p154-155) 「ところで仏教で一切法とは存在するすべてのものを指すのであるが、原始仏教時代に関するかぎり、それは生滅変化する現象の法に限
られていた。一切法を五蘊・十二処・十八界などとした場合、それらはすべて時間と空間の中にあってわれわれに認識され得る現象界だけ
を意味した。」(p112)
「現象のことを仏教では有為(samskrta,sankhata 造作されたもの)とか行(samska^ra sankha^ra 諸行無常の行)とかいう。われわれはこ
の現象界の中で生滅変化し、苦しみ悩み、喜び楽しみ、迷い悟るなどの生活をしている。われわれにとっての世界は現象界のみである。こ
の意味における一切の現象界を仏教では一切とか一切法とか呼んでいる。仏教が取り扱うのはこの現象界に限られる。」(p127)
「原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しない常住不変
の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、原始仏教とは違っ
た性格のものとなった。」(p143)
「無為法(asamskrta-dharma)とは不生不滅の永遠の存在とされているものである。無為の語は原始経典にも涅槃の同義語としてしばしば
出ている」。(p145)
「部派仏教は「何があるか」という一切法(有為だけでなく無為をもふくめた)を客観的に詳細に考察し、原始仏教の態度とは異なったも
のになった。(p151)」』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) 「無為法」というのは「有為法」の反対語であり、その「有為」とは人為的な作為的なという意味の文字であって、これはつまり、この
世のあらゆる現象(現象界における諸々の“作られたもの”)のことを指しています。対する「無為法」は非人為的ということであり、元々、
“作られたものではない”の意味となるので現象界の性質である「縁起」もない世界です(「依り所のないもの(appaThitta)、生起のない
もの(appavatta)、 所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。」『ウダーナ8.1』)。ですから、これは涅槃の別語
(同義語)ということになります。そして、この「涅槃」というのは「一切法」(“「一切」のもの”/一切の無我性のものの意)には含まれない、
ということは非常に重要なポイントとなります。何故なら、このことを理解している僧侶や仏教信者は殆どいないという事実が仏教界におけ
るあまりにも重大な欠落だからです。冷静になって、少しだけ考えればすぐに分かる筈なのですが、思い込みによる洗脳によってこのことを
自力で理解できてる人は、ほぼ皆無だといっていいでしょう。
まず、一切(法)とは何か? 仏典ではこう述べられています。すでに何度も出てきているので皆さんがご存じの通りです。
『比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。
それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。
比丘たちよ、これを名づけて一切というのである。
比丘たちよ、もし人ありて、< わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう >と、そのように言うものがあったならば、それは、ただ
言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。何故であろうか。
比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである。』
(南伝『相応部経典』35-23) 般若心経のフレーズとして良く知られているものですが、この「六根」と「六境」による「十二処」が、仏教の説く「一切」であるとして
います。この中には「涅槃」(無為)は含まれないのに勝手に涅槃も入ることにしてしまったのだから、ブッダの教説とは“異なる一切”にし
てしまった部派というのは、つまり、絶対にしてはならない“他の一切”を勝手に説いてるということになるのです。この「六根六境/十二処」
は大きく纏めると「五蘊」ということになります。つまり、眼色・耳声・鼻香・舌味・身触・→「色蘊」、法(法処)→受蘊・想蘊・行蘊、意→
「識蘊」です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A7%91#/media/File:%E5%9B%B3%E8%A7%A3%EF%BC%88%E4%BA%94%E8%98%8A%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%87%A6%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%95%8C%EF%BC%89.png
では、仏典は「五蘊」のことは何といっているでしょうか?
『大徳よ、魔羅(悪魔)、魔羅と仰せられますが、いったい何を魔羅と言われるのでしょうか?
ラーダよ、色(肉体)があれば、そこには魔羅がある。殺す者があり、また死する者があるであろう。ラーダよ、だから、色を魔羅であると観じ、
殺す者であると観じ、死する者であると観じ、あるいは病なり、瘍(はれもの)なり、刺(とげ)なり、痛みなり、痛みのもとであると観ずるがよい。
そのように観ずれば、それが正しい観察というものである。
※以下、受・想・行・識についても、同じ説明が繰り返される。
大徳よ、では、いったい、何のためにそのような正しい観察をするのでしょうか?
ラーダよ、厭い離れるために、正しい観察をするのである。』
(『相応部経典』羅陀相応 1 魔羅) ゴータマは、悪魔の正体が五蘊であるといっているのです。五蘊を悪魔として見なさい。そして、これら(五蘊)から厭い離れなさいと。
「一切皆苦」、「一切行苦」については、私は以前、一切が「苦」であるとしているのに、その中に涅槃が入る筈がないといいました。すでに
解説にあったようにこれは「行蘊」に限定された「行」ではなくて、“現象としての事物のすべて”。つまり、これは「一切法」のことを指し
ています。一切法は苦(自己の思い通りにならないこと)であるということになるので、苦から永遠に解放された境地である筈の涅槃がこの中
に入る筈がないのです。厭い離れなければならない悪魔の作用の中に涅槃が含まれるわけがありません。
そして、「無我」ですが、「無我」というと仏教徒の中には何だかとても素晴らしい境地か何かであると勘違いしている人がいるのではない
でしょうか? 禅の世界などで、よく“無我の境地”などとも話すからでしょうか。しかし、これもトンデモナイ間違いなのであり、誤解なの
です。「無我」こそが「苦」の要因なのであって、だからこそ、“無我なるものを自己と見なすなかれ”といっているのです。苦であるものが
無我なのだから、無我が涅槃の状態のわけがない。逆説的にいうならば、要するに涅槃こそが真我の状態だということになるのです。
『比正たちよ,色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは我所ではなく,わたくしの我
ではない。如実に正しい智慧を以て是の如くに観るべきである。受は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。... 』
(SN.111,雑阿含経1-91) 従って、涅槃が無我である筈はなく、涅槃に住する如来も無我などではない。「空」とは無我の同義語ですから、当然、涅槃も如来も空など
ではない。そして、涅槃に達した者は本当の意味において「わたしが語る」といっても良いともゴータマは述べました。ここで改めて、涅槃に
達した者は「わたし」ということができるとは一体、どういうことなのか?
ここまでいっても分からない人については、これ以上のことを私から話すことはもうできませんから。お手上げとなります。
【なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と言ってもよ
いでしょう。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉である、と語っている』と言ってもよいでしょう。真に力量ある人は、世間における
名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。】
慢心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまった。聡明な叡智ある人は、死
の領域を超えていまったので、『わたしが語る』と言ってもよいであろう。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉であると語っている』と
言ってもよいであろう。真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、そのような表現をしてもよいのである。】
(サンユッタ・ニカーヤ T,3-5 ) ---規制エラー脱出しました---
このサイトページは、私(宝珠)の渾身の編集資料です。
これを読んで正しい無我の理解を得ましょう。
そして、ヒンドゥーを見下す愚かしい無知から脱却しましょう!
まだ、このスレは「第一巻」目だというのに、これを以てして早々と論決です。
http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm
http://houjugusya.web.fc2.com/nirvana-brahmAtmaikyam.htm
以上
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
アートマン
真我
(「真我そのもの」のことではなくて)
たとえば
仮設としての
縁起している世界の中で
縁起に依存している
おじゃるの
「真我がある」という『想い』
この掴もうとしている『想い』は「有為法している」ということでつね?
仮設としての
色受想行識の仮和合は
地水火風の微細な粒子に依存している
地水火風の微細な粒子は縁起に依存している
(大乗とかの場合は)
縁起は真如縁起に依っている
真如縁起は無住処涅槃を前提としている
間違ってたら スマソ m(_ _)m 小難しい屁理屈を並べ立てる為に
釈迦が仏教を始めた訳では無いと
思うにゃん♪
屁理屈に (-∧-)合掌・・・ >>373
増一阿含は大衆部の思想の片鱗が知れる貴重な資料ですが後の大乗に繋がる三乗を説くなど独特の個性があるアーガマです
個人的にはアーガマの中では二次資料の部類に入ります
>>377
>この中には「涅槃」(無為)は含まれないのに勝手に涅槃も入ることにしてしまったのだから、ブッダの教説とは“異なる一切”にし
>てしまった部派というのは、つまり、絶対にしてはならない“他の一切”を勝手に説いてるということになるのです。
それは違うと思います
涅槃はありもしないものではないですからね
>>378
一切法が現象界に限定されるのなら釈迦は一切行苦ではなく諸法皆苦とか一切法苦とか堂々と言えば良かったのです
でもそれをしない
言葉遣いには厳密な釈迦があえて分けていることに注意を払った方が良いと思います
無我だから苦ではなく苦だから無我です
現象界が苦であり無我であると正しい智慧で如実智見したら苦滅つまり涅槃に至れます
正しい智慧での如実智見で無我であったのに涅槃に至ったらそれが我に変わるわけではありません
>>380
>名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。
言語表現だけのものとして、仮に
です 先に反論を入れてしまいましたが
詳しい解説での質問への回答には感謝申し上げます
>>386
>涅槃はありもしないものではない
「涅槃は無為法である」という『想い』
この掴もうとしている『想い』は
「縁起に依っている一切行苦である」という意味でつかね?
(一切皆苦 = 一切行苦とする場合)
>増一阿含は…三乗
↓これでつかね?
ttps://hu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=259&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1
[PDF]原始経典成立史試論 2
四節 現存『増一阿含』の特異性
『増一阿含』には大乗思想が伺われる
「如来の法身は敗壊せず。永く世に存して断絶せず。天人聞く事ことを得て道果を成ぜん」
とあって、法身が経を説き続けるとされる
また
「菩薩、意を発して大乗に趣く。如来この種々の別を説きたまい、
人尊、六度の無極を説きたまう布施と持戒、忍、精進、禅と知恵力」
「六波羅蜜を具足し疾く無上正眞等正覺を成る」
と六波羅蜜に言及され、経典書写の功徳も
「若し經卷を書寫する者、繪綵花蓋を持して供養する者あらば、此の福、無量にして計るべからず」
と説かれ、さらに大乗興起後のこととされる仏像制作が
「是の時、優填王、即ち牛頭栴檀を以て、如來の形像、高さ五尺なるを作る」云々と記される ≪「法」でないものはない≫
(→およそこの世に存在するものは、(個物だろうが理念だろうが)、ダルマ(法)としてあるのであり、
究極の価値もまた、法に他ならない)
とするインド思想の”癖”があるのなら、そして、その中で
因により縁により生じ滅していく諸行(有為法)とは異なる、(涅槃という)境地がある、と教わったなら、
当然【それ】は、『そうではない「法」』(→無為法)である、と考察されていくのも、自然の理かもしれぬw >>388
>「涅槃は無為法である」という『想い』
>この掴もうとしている『想い』は
>「縁起に依っている一切行苦である」という意味でつかね?
想い…この言葉を巡ってやりとりするのは一体何度目ですか?w
想いという言葉によほど拘りがあるのですか?
そういう執着こそ四禅の段階で手放すといいかもしれませんww
それは"瞑想を通して"お釈迦様と対話するか、
同じく瞑想を通してウダーナ73にTatiyanibbānapaṭisaṃyutta-sutta(第三涅槃関係経)とタイトルをつけた経典編纂者と対話して聞いてくださいw
それでなければ四禅まで到達した時点で自問してくださいw
ウダーナ73てお釈迦様は、
「無為はあるとので有為からの出離(解脱)が知覚されるのである」
と比丘の皆さんに説法している
この説法は方便なのか、それとも涅槃のことを言ったのではないのにウダーナを編纂した後世の比丘たちが涅槃関係経と勝手にタイトルをつけたのか、
やはりお釈迦様ご自身と問答されるのが良いと思います、瞑想を通してw
…その「想い」に拘るのならねw >>388
>四節 現存『増一阿含』の特異性
そこを読むと増一阿含と他の阿含との関係において増一阿含は法華経と同じことを説いているのだな、とw
おじゃるの場合は
呼吸を 3秒も観ることができないけど
それでも、とりあえず
>>390 > 四禅の段階で手放すといいかも
(↓その当時のことではなく今、現代の上座部は)
そして更に
空無辺処
識無辺処
無所有処
非想非非想処
上座部 パオ・セヤドー
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/23/065209
非想非非想処
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
因縁生滅智
刹那生滅智
(誰もが成仏するわけではない(五性各別)
それでも、とりあえず)
了解 おじゃります m(_ _)m
>>389
>この世に存在するものは、(個物だろうが理念だろうが)
>ダルマ(法)としてあるのであり、究極の価値もまた、法に他ならない
>とするインド思想の”癖”があるのなら…
説一切有部
あらゆる現象(諸法)を構成する基体として
有法、法体(ダルマ)を想定し
主観的な我(人我)は空だが
客体的な事物の類型(法)は三世に渡って実在する
(というインド思想の”癖”があるのなら…)
たとえば↑これでつかね?
或いは
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない。みたいな?
_ _ _
>>391
とりあえず了解 おじゃります m(_ _)m
>>392の補足として
↓その当時は?
ttp://suttanipata.com/ae-2/
874 注釈
四無色定(非想非非想その他諸々)
のちの教義を適用した趣がある
…
想いを消滅した者でもない
このように理解した者の形態は消滅する
けだしひろがりの意識は『想い』にもとづいて起るからである
『(〜である。という)想い』ではない(という法がある?)
↑↓似てる気がする?(インド思想の”強い癖”?)
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない(という法がある?)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%80%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%97%E3%83%83%E3%82%BF
ウッダカラーマ・プッタ 非想非非想
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E7%90%86%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%92%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%B3%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
代理ミュンヒハウゼン症候群(Münchausen syndrome by proxy、MSbP、MSP)
1970年代から1980年代にかけて
テキサス州の准看護師であるジェニーン・ジョーンズは
自身が担当する乳幼児60人あまりを殺害した疑いがある
その背景には代理ミュンヒハウゼン症候群があった可能性も指摘されている
2008年12月
京都大学医学部附属病院の病室内で
当時1歳の五女につながった点滴に注射器で腐敗した飲み物を混入させて殺害しようとしたとして
母親が殺人未遂容疑で逮捕された
精神鑑定の結果
MSbPの疾患であると診断され…
_ _ _
唯識の場合は
仮設としての
無覆無記あるいは有覆無記に依るMSbP?
(MSbPとは関係ないかもしれないけど、とりあえず)
大口病院で2016年9月、入院患者2人が相次いで中毒死した >>372-381
やっぱりもう、
これ以上の説明は私は不要ではないかと思います。
これをちゃんと2〜3回は読み直して欲しいと思います。
そして、資料として推奨している私の編纂サイトページを繰り返し読むことです。
とにかく先入観は捨てて下さい。でないとどうしようもない...。
混乱してる人は一端、テーラワーダからの説明もここでは無視した方がいいでしょう。
読むべきものは「仏典」(原始経)の記述ですよ。そこと合致しているかどうかなのですから。
そうすれば、自ずと回答は出ます。
近代仏教学に裏打ちされたこの私の見解と
それまで信じ込まされてきたいわゆる仏教信仰の教えの一体、どちらが仏典に忠実なのかが?
ゴータマは「信仰を捨てよ」といいましたが、
それは、それまでの古くて間違った概念に対する固執のことをいっています。
それには勇気が必要なのです。仏教でも、心が素直でないとダメだといってませんか?
神格化の恐れがあるから逆効果であるとか・・・
周囲に死刑廃止論者が絡んでいて云々ともいわれていたので、
私は結局は処刑されないのかな? とも見ていたのですが、
なんと、とうとう麻原主犯を含めて7人も一気に実行されたとのこと...。
彼らは極端な狂気と教祖への盲信からの悲劇でしたが、
宗教に対する間違った盲信ということでは変わりがない。
こういう人たちは本当に、わたしは可哀想だという思いがします(犯罪者に対する同情で申し訳ありませんけれど)。
この私とまったく同時期に重なる求道者たちの末路なので他人ごとではないな、と思っています。 >>378で、原始経典の言葉、
「無常なるものは苦で、苦なるものは無我である」を取り上げたばかりですが、
ここには奈良先生の受講生もきているのでNHK「こころの時代」を再掲していおきます。
「無常なるもの、無常だからこそ、無我なんだ」(奈良 康明氏)といってるわけですから、
縁起(縁起/因縁生起しているこの世界の状態を無常という)に拠らない世界である無為(涅槃)が「無我」である筈がないのです。
『依り所のないもの(appaThitta)、生起のないもの(appavatta)、
所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。
これがすなわち苦の終わり(anto dukkhassa)です』(ウダーナ8.1) 『奈良: 実は「無常なるものは苦で、苦なるものは無我である」と。実はこれ「原始仏典」で有名な言葉の一つの言葉なんです。その「無常
なるものが苦である」という意味は、比較的分かりいいと思いますね。今もちょっとお話が出ましたけれども、私どもはいつも良いもの、好ま
しいものは、常なるものとしたいんですから、それがすべては無常ですからガラガラ変わっていってしまう。自分のものとして握りしめていた
ものが抜けていってしまいますので、それは苦である、と。これはその通りでわかるんですね。苦なるものは無我である、とこういうんですけ
れども、実はこの「無常、苦、無我」というのは、本来はそれぞれ別個に、仏教でいろいろに説かれてきた考え方なんですけど、これはそれを
一応三つ並べちゃった面がございまして、それほど綺麗に論理的に並んでいるものじゃないんですね。「苦なるものが無我である」という時に、
むしろこれを解釈とすれば、もう一回「無常なるものは苦である」。もう一つ無常というのをそこで繰り返しまして、「無常なるものは無我であ
る」というふうにみた方が、私は分かりいいと思うんですね。つまり私どもは命でも何でも永遠に持ちこたえたい、と思います。それが無常で
すからできない。ということは、この前の第一回の時にいろいろ話が出たんですけれども、命だろうと、何だろうと、これは私ですよ、とか、
私のものですよ、と、持ち続けることはできない。だから「非我である。無我である」と、こういう意味でありますからね。 事実、実は仏典の中には、今の三つの言葉の「無常なるものは苦なり、苦なるものは無我である」。その「苦なるものは無我である」ということ
の中間に、「苦なるものは移り変わるものである」という言葉が入っている例が非常に多いんです。ということは、なんのことはない、「無常なる
ものは苦である。苦なるものは無常である」と言い直しまして、「無常なるもの、無常だからこそ、無我なんだ」というふうに、説明を付け加え
ている例がたくさんございますのでね。ここのところは、いろいろ解釈しては難しい面があるんですけれども、「無常と苦と無我」というものが、
こう論理的に、こういうふうに起こってくるというよりは、「無常」とか、「苦」とか、「無我」という言葉の意味を、一つの関連するものとして
受け止めておいた方がわかりいいと、私は思いますですね。』
(『原始仏典をよむA』NHK教育テレビ「こころの時代」平成三年五月十六日放送
駒沢大学教授 奈良 康明 ききて 草柳 隆三) >>394
仏教ではその非想非非想定の上に想受滅定を置き、
これは受と想の働きが止まるので行も働かず識も働かない、
つまり識別作用が止滅するとか心の働きが止滅する(ヨガスートラみたいだが)という状態になりますね
この想受滅定は九次第定の頂点に立つもので滅尽定と同じものだと思っていたら
唯識五位百法だと想受滅は無為法に、滅尽定は有為法の中の心不相応行法に分類されている
唯識では想受滅と滅尽定の違いをどこに置いているのでしょう?
あるいは滅尽定はあくまで禅定で想受滅は想受滅定ではなく想受滅定によってもたらされた心の働きの止滅のことを言う、とか?
しかし、滅尽定でも結局は想受滅に至りそうだしどうなんだろう?
あと無為法で説一切有部から継続している択滅というのは「正しい智慧による煩悩の止滅」と解説されているけど、
択滅が慧解脱で想受滅が心解脱となる?
でもそうなると唯識無為法には他に不動滅と真如というのを置いているけどそれらとの関係は?
っていうか、上座部仏教では無為法は涅槃だけとしているように唯識でも無為法は真如だけでも良いような気がするw
あとは虚空即真如、択滅即真如、非択滅即真如、不動滅即真如、想受滅即真如、
そして真如即空で究極的には一切皆空で(少なくとも無為法は、本当は有為法もだろうけど)OKなのではないかな?w
https://ja.wikipedia.org/wiki/五位 鬼籍に入られて幾ばくかになるが、
宝珠みたいな学生が、話降ってきたら、いったい何て言ったろうかな・・
満面の笑みをたたえながら・・・w
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%B5%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%86
不相応行
存在(色)でも心でもない(という法?)
現代的なモノの見方でいえば
存在するものは物質存在か心による認識かいずれかであるが
説一切有部と唯識では
それら二つのものの何れでもない
説一切有部
物質や心とおなじ程度の存在性をもつもの、実有の法である
唯識
心の働きの上に仮に立てられるもの、仮有の法である
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%B5%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%BB%E3%81%86
不相応行法
心と結びつかない存在のことで、他の4つに当てはまらない
色、心、心所、無為
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D
有為法 滅尽定
無為法 想受滅
何でじゃろ?(知ってる方がいたら)ご教示願いまつ ヨロ m(_ _)m
無為 (仏教)
一切の法を
無為と有為に明確に二分して、両者を全く異質なカテゴリーとして扱う
説一切有部
有為法が、無数の法の流動生滅が織りなす
われわれの生きる有為転変の世界であるとしたうえで
そのような因果的存在を超えたところに見出される常住の涅槃こそが無為である(という法)
↑普通は、この説明で合っていると思うけど
唯識思想
あらゆる存在は精神を離れて存在しないという一切不離識の立場により
「無為」は心・心所の領域に入れられるとみなされる
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
…
仮設としての
心(識)は仮に存在すると考え
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出していると考え
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする
無覆無記からの有覆無記に依って
「無為である。という法」を妄想?崇拝?している。みたいな感じかも? >>404
お前、馬鹿だろ?w
いいんだよ、心理学で。
今の時代の尺度で分類したら心理学的であるだけで、
当時は、そんな区別も認識も「その方向で」役立てようという意識すらなかろうて。
宗教的な事柄の中には、心療内科的なものも多く含まれていたろう。
それを、分離したのは、(神仏分離の如くw、精神医学・心理学と「こころ模様」を峻別した)近代医学だろ? >>387
はい、こちらこそどういたしまして!
理由が明確になる必要があるものと思っていますので、
そういう意味でお役に立てればとても嬉しく思います(同意の必要はないです)。
>>386
また何も書かないでいると、
“尻尾を巻いて逃げた”という馬鹿タレがいるので(そのような事実は一つもないにも関わらず)、
一応は、簡単にレス(感想程度でも)をつけておきます。
『増一阿含』の大衆部所持(大乗的改竄あり)については存じていますが、
しかし、この部分は意味的にそれらのこととは無関係かと...。
「涅槃」は仏教の目指す最終境地なのですが、これは最終的な結果ということであり、
それは一切法について学び修得することで最後に達成されるものです。
その境地は一切法で説く世界とはまったく異なる“別世界”であると経典『ウダーナ』では教えます。
「一切行苦」などという言葉も部派が作った造語に過ぎません。それらは教義として彼らの都合に合わせたものなので、
「諸法皆苦」「一切法苦」といったより適した説明がないのは別にゴータマのせいなどではありません。
>涅槃に至ったらそれが我に変わるわけではありません
確かに、ウパニシャッドのようなアートマンそのものを説きませんでしたが、
しかし、求めるべき本来の清浄なる自己であるとしてブッダは説いています。
それは“アートマン性質の最も重要な要素”なのです。
そして、『「わたしが語る」と言ってもよい』(SNT,3-5 )ことの理由が最も大切だと私は思います。
何故、涅槃以前にはわたしを語ることは不適であり、涅槃後には言ってもいいのか? と。 ----->>372-381補足-----
「ハッキリいって法門の僧侶たちの理解は、まず例外なく部派二千年の伝承によって洗脳され勘違いを犯しています。残念ながら、
実際の僧侶たちはテーラワーダをはじめ仏典(原始経典)の記述には従ってはいません。」>>372
彼ら(テーラワーダの僧侶たち)が重視している伝承というのは『アビダンマ』(アビダルマ)です。これは論蔵と呼ばれる論書であり、
つまりは経典の解説書や注釈書のことです。経典についての有難い注釈書ということなので、本来であれば確かに大変、助かる有難い
ものであるにも関わらず、現実には、これは部派仏教の制作したものであり、それは彼らの理解に応じて彼らの都合いいようにして書
かれてあります。そして肝心なことは、本来の経典の記述とは矛盾する勝手な内容へと改竄されているという事実にあります。
『原始経典には一般に三法印とか四法印とかの説はない。』
(水野著『要語』春秋社刊)>>374
そもそも三宝印(四法印)というもの自体がゴータマのものではなくて、アビダンマによって意図的に勝手に説かれたものです(もちろ
んその要素は経典の記述から抜き出してきていますが)。現存するテーラワーダというのは、これらのアビダンマを所持する継承教団で
あって、つまりは当時の部派仏教の残存だということ。そして、北方仏教(大乗)も基本教義としてはこれを受けてきています。
そして、彼らが重視しているのは恐らく「口伝」なのだろうとこの私はみています。経典というものは、我々のような在家でも素人
でも誰でも手にして読むことは可能なのですが、しかし、僧侶にしか明かされない口伝というものがあるとされてしまうと、もう門外
漢には手の出しようがなくなってしまう...。経典の正しい読み方と意味でさえも、「口伝の知らない者には分からないのだ」などと言
われてしまうものなら、もうどうしようもない。
現実からいうと、彼らは伝承(口伝/師匠からの伝授-教育)を疑うことなく信じてきており、実際上、経典の記述内容との整合性につ
いては殆ど無視の状態だということ。鵜呑みにしてる者というはたとえそこを読んでもそれとしては気付くことができない。
その口伝の伝承というのが、恐らくは二千年来も部派から語り継がれてきたものなのです。 『有為を脱することによって涅槃寂静が得られるから』
(水野著『要語』春秋社刊)>>374
とは、『ウダーナ』で説かれた有為と涅槃(無為)との関係についてのことです。この『ウダーナ』では、涅槃は有為(一切法)とは異な
る別のものであり、だからこそ有為からの出離を(それとして)覚知できるのだと述べています。仏典そのものが涅槃は一切法とは異なる
別のものだと説いているのに、勝手に一切法の中に涅槃があると教えることは信者に嘘を植え付けることになります。
『比丘たちよ、しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』
でないもの(涅槃)が存在することから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの
出離が覚知されると。』
(ウダーナ8.3)
『しかし、比丘たちよ、生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがあるから、生ま
れるもの、生成するもの、作られるもの、形成されるものの出離が知られる(paJJAyati)。』
(同、別訳) そして、以前に一切法についての図解を提示するといっていましたが、それをやっと今回ここに紹介することにします。勿体つける
ほどのものではありませんが、これが平均的仏教者たちの理解と、この私の理解との違いを簡潔明確に示したものとなります。
*****【一切法の図式】*****
●部派影響による誤解
(平均的仏教徒たちの理解)
一切法 非存在(妄想)
-------------------------------------------- -------------------------
無常、無我、無自性、空(縁起)、苦、涅槃(無為) 自性、神ブラフマン、我アートマン
●正解(宝珠の理解)
一切(有為) 一切外(無為)
--------------------------------- ×(別次元) -------------------------------------
無常、無我、無自性、空(縁起)、苦 涅槃、(永遠、自性、神ブラフマン、我アートマン) (ズレが生じたので再掲します)
*****【一切法の図式】*****
●部派影響による誤解
(平均的仏教徒たちの理解)
一切法 非存在(妄想)
-------------------------------------------- -------------------------
無常、無我、無自性、空(縁起)、苦、涅槃(無為) 自性、神ブラフマン、我アートマン
●正解(宝珠の理解)
一切(有為) 一切外(無為)
--------------------------------- ×(別次元) -------------------------------------
無常、無我、無自性、空(縁起)、苦 涅槃、(永遠、自性、神ブラフマン、我アートマン) 平均的仏教者たちの理解というのは、ご覧の通りで一切法のすべての中に仏教の説く教えのすべてが入っており、当然、その中に涅
槃もある。そして、自性というもの、及びバラモンの説くブラフマンやアートマンなどは彼らのただの妄想の産物に過ぎないというも
のです。
対するこの私の理解、本来の(経典に沿った)正しいブッダの教えというものは、それとはまったく違うものです。この「一切」とい
う言葉が我々の日常語の感覚では”これから外れたものはない”というイメージなのですが、しかし、こと仏教に関していえば違う。
仏教における「一切」とは限定意なのであり、これは現象世界の事物と性質のことを意味しており、涅槃というものはその一切から
脱した結果としての境地であるためにこの一切内には含まれないのです。当然、「無我」「空」というのも一切の現象界に限定されたも
のであって、涅槃が「無我・空」(価値のないもののこと)であることはない、と。
つまり、仏教の教えというのは、「一切法」(世俗諦)と「涅槃」(勝義諦)の“二元論(二諦) ”として教えているのです。そして、肝
心なことは涅槃とは結果のことであり、そして、その境地に達した者にしか理解は到底不能なので、ブッダが教える内容というものは
普段は世俗諦としての一切法にほぼ限定されることになるわけです。
私の図式でいうと、無為である涅槃は一切に含まれないので、便宜上は「一切外」としています。そして、この無為とは、苦から解
放された永遠の境地であり、ゴータマが求めなさいと随処で説いた“真実の自己”(本来の清浄な自己)の状態をいいます。
確かに、ゴータマの説いた真実の自己(アッタン)としてのアートマンこそがヴェーダの説くアートマンと同一ということは示されなかっ
たけれど、同じものについての別意を示したものだと解することができると思います。 >>412
無常と涅槃が切り離されるわけない
一切が苦しみである
なぜなら、すべて、無常だから
その、一切の他のものがあり
無常でないなら
涅槃はない 一切の他のものがある
とするが故に、それに執着がでている
それ故に己に居場所がある
そうなると涅槃もなくなる 涅槃の境地はすでに目の前にある^ ^
自我が落ちた時現れる^ ^ >>416
無常でないものがあれば
それに執着が残るのだよ
だから、涅槃もなくなるの >>412のつづき
尚、これもとても誤解されていることなのですが、仏教では絶対的な創造神を認めていないものと一般に信じられていますけれども、
実際上は、明確にその存在は認められているということが殆ど知られてはいません。当然、この神も無為の性質だということになります。
中には、この経文で説かれた「神」を輪廻している天界“天部の神々”のことだと反論する者もいるでしょうが、しかし、それは在り得
ません。何故ならば、それらの神々のことは普段から大いに説かれており、仏典においては当たり前のものとして随時、登場するものか
らです。この経文では、問われない限りは神の有無は述べないとしているのだから、それらの神々のことでないとして分かります。
『「本当に、神は、この世に存在しているのですか。」
「私は、神が居ることを、自ら確めている。故に、居るのかと問われたら、居ると答える。
しかし、問われないならば、答えることはない。」
「ゴータマよ、その訳は、如何してですか。」
「人々は、神が居ることを、徒に信じている。確めることなく、信じられている、からである。」』
(パーリ中部.第100経/サンガーラヴァ経.第4章) >>413-
ID:uqIrOhkTは話にならない。
私の投稿を何も読んでない。
読解力ゼロ
>>417
確かにそれは正解です。
しかし、その為には修業が必要。
その精神の状態を獲得するのには何生涯もかかる。
ただ本や経典を読んで、「はい、解りました!!」というものではない。 >>420
それでは、僕の書いた
無常でないものはない
ということに反対なんですね??
まあ、色んな理由によって
無常でないものがあるとwwwwwww
話にならないとまでいうんやからなあwww 現象世界の外側に内側にか知らないが
この表れ来たる一切、以外のものがあり
それはしょうぎかなんか知らんけども
そのとくところの
一切の他のものなんでしょwwwwww 一切が五蘊を基にするならば
智慧により五蘊皆空とみなせばいい^ ^ >>423
だから
五蘊以外に
空なるものが、あるわけないでしょうがwwwww
それ以外にあるとか
なんなん? 自己を形成する一切の五蘊が、空なんだから
消失して涅槃なんでしょ
それ以外に、恒常のものが
世界の外にあったりしたら
輪廻しちゃうでしょうwwwwwww 無我・空を価値のないものという時点で
終わってる(笑)
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
仮設としての
無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
「身体的な・言葉による・心による」行為を行う(カルマを積む)
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して
渇愛(タンハー)が生じて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じて
こだわりがある偏見をもって論争におもむいて
それゆえに
>>425 >輪廻しちゃうでしょう
スッタニパータ 877の超訳
『これらの偏見はこだわりがある』と知って
論争に赴かない思慮ある賢者は
世の中の激流を渡り終わり種々なる変化的生存を受けることがない
この世に生れる素因はつきて、遂には解脱した
ttp://suttanipata.com/2017/11/11/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%80%80-%E4%BA%89%E9%97%98%EF%BC%98%EF%BC%97%EF%BC%97%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC/ 無我・空は価値のないものというとらえ方は完全に間違い。
学者の仏教理解はこの体たらくなんで
学者の注釈書は害でしかない。
経典を忠実に翻訳することに徹してない、独自の珍説を述べる学者は
ポワしかない(笑)
>無我・空(価値のないもの
たとえば↓おじゃる超訳なら
我所という『想い』も手放す
我という『想い』も手放す
有るという『想い』も手放す
無いという『想い』も手放す
空性という『想い』も手放す
想うという『想い』も手放す
想わないという『想い』も手放す
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
八正道
…
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り
自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を
[ 価値のないもの ] と斥けることが正見である
スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
激流を克服して(縁起を手放して超えて)
すでに渡りおわり、彼岸に到着している
という法がある(というインド思想の”強い癖”?) >>430
あなたは>>378を千回は読みなさい!!!
“苦なるものは無我だ”といってるのに、この無我の何が素晴らしいのか?
「空」は無我のことをいっており、同じこと。無自性で縁起しているだけの状態(無常)を指す。
理解できないのなら投稿しないでくれるかな? ただスレを無駄に消費するから...。
『比正たちよ,色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは我所ではなく,わたくしの我
ではない。如実に正しい智慧を以て是の如くに観るべきである。受は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。... 』
(SN.111,雑阿含経1-91) >>431
おじゃるさんね...
その想いに捕らわれるならば、
その対象が「解脱」であれ、「涅槃」であれ、
そりゃ〜なんだって執着になるからダメに決まってる。
だからといって、
“知らなくてもいい”という意味ではないから。
「真実の自己が在る」という教えを知らなくていいということと、
その想いに捕らわれるなということとは違うから。
まずは、“知る”ということは何よりもとても重要です。
話はそれからですよ。
で、おじゃるさんは、
これまで難しいものをとても多く読んできて
そして、この私の投稿を何年間も読んできて、
私のいってることは分かったのですか? >>419
仏教の基本は縁起の法です。
全ての現象は、独立して存在するものではなく、相互の関連性によって発生すると考えますから、
創造主→被創造物という一方通行的な世界観は、仏教にはありません。
>私のいってることは分かったのですか
>>389 ID:Yydy2I/f たぶんセブン僧侶?
>インド思想の”癖”があるのなら、そして、その中で
>因により縁により生じ滅していく諸行(有為法)とは異なる、(涅槃という)境地がある、と教わったなら
>当然【それ】は、『そうではない「法」』(→無為法)である、と考察されていくのも、自然の理かもしれぬ
最終的には?これ↑という感じでつかね?
ダルマキールティ(唯識派)
智慧と慈悲は光の如く
照明することを本性とし
自ら輝き現われる
解脱智見
「この絶対的な?体験がった」という『想い』も手放すための
瑜伽行中観派の
カマラシーラとかに論破される。という対機説法でつ
ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf 参照 ヨロ
カマラシーラは瑜伽行を実践していた瑜伽行中観派でつ。一応、念のため
それゆえに
>>4
>中観自立(あるいは有相唯識)と
>中観帰謬では依って立つものが違う。と書いているのでつ
「(絶対に)私の意見が正しい」という『想い』の手放し(中観帰謬) >>435
だ・か・ら
縁起に拠らないのが「無為」だといってる。
『ウダーナ8.1』>>397を千回嫁!!!
創造主もその性質上から無為でしょ(そして、その存在も認められている『パーリ中部.第100経』>>419)。
あなたこそ仏典の記述を無視しておいて何が仏教なのか?
>>436
いやいや疲れるな...
どんだけ洗脳が激しいのか???
その「初期の構図」って、そんなものは最初からないって。
「部派的構図」においては、「自性」は妄想で在る筈のないものでしょうが。
そして、デタラメで「宝珠」の図式を書くの辞めてくれるかな?
だから、「無為」は一切ではないと何度、言ったらわかるのかな?
ブラフマンとアートマンは分離したものではないから。
いわば、海がブラフマンでコップで掬った海水がアートマンだから。
間違いだらけだから、全部を廃棄願うわ。
ただ作るの旨いのだけは大いに褒めたいとは思う。
>創造主 → 被創造物という一方通行的な
たとえば↓(大乗の)密教とかの場合は
ttps://en-park.net/words/7441
大日如来
…
仏教の開祖は釈迦であり、この世ではじめて悟りを開いた人物です
ですが
大日如来はその釈迦をも創りだした創造主といった考え方に近いです
大日如来が → 釈迦をも創りだした
無住処涅槃を前提としている
仏そのもの
仏性からの真如縁起
円成実性からの → 依他起性
「円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない」という法がある
というインド思想の”強い癖”?かもしれない
その当時のインドの人々にとっての『想い』を一応認めて、さらにその理解のうえで
ということで ヨロ m(_ _)m ああw だったらそこは「無為」のみに脳内改訂しとけ。 そこはどうでもいいとこだから。 >>438
重要なのは、各項の対応関係だから。
或いは、何を「ある」と見做し「ない」と見做し、何を「法」と見做し何を「有為」と見做しているのか、と。 >>419
婆羅門サンガーラヴァがゴータマに神は存在するのかと聞いている、その神の原語はabhidevā(devāは神=天)で上天という意味です。
下天は信長の敦盛の歌詞にも登場する神ですがその対義語が上天ですので梵天、とりわけ大梵天のことを上天というのでしょう。
しかし大梵天とはいえ解脱してなく輪廻する存在であります。
寿命がとても長いので自分が不死だと錯覚してゴータマに叱責されたこともあります。 そもそも仏教では梵天(ブラフマ神)は創造主であるというのはパーリ梵網経で外道の六十二見の一つとして否定されます
http://www.ko-kon.net/religions/buddism/62ken_02.html の
2.部分的永遠論
を参照のこと >>440
いやいや.ジョウタンじゃないな。
一番重要なことが一切には無為は入ってないってことだ。
そして、なんだかこの私のいってることが、
本来の正しい初期の構図とは違うことを勝手にいってるような展開は辞めなさいな。
部派は改竄が得意なのは分かるが嘘は辞めて欲しい。
殆ど犯罪級だぞ!! とにかく削除宜しく。
どうしても作りたければ、改竄せず私の説明通りにするように。
その「初期」もいらない。部派のアビダンマと私の説明と二つしかないから。
>>441
そういうのもすべて後代の創作(勝手教義です)です。
輪廻してる天部しかいないような解釈は後代の意図的改竄の最たる部分。
梵天との対話など問題外です。 >>431
おじゃるさん
厭うというのは、どのように、翻訳されてきたんですか?
外国語から、翻訳されたんですか?
厭うというのは、嫌うと同じ意味ですか? とりあえずの↓まとめ
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%BB%E3%81%86
一切法
有為法に限定されるのか、無為法をも含むのかなど解釈は一定ではない
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%B5%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%86
不相応行
存在(色)でも心でもない(という法?)
説一切有部 - 物質や心とおなじ程度の存在性をもつもの、実有の法である
唯識 - 心の働きの上に仮に立てられるもの、つまり仮有の法である
ttps://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E7%95%8C-133397
法界
意識の対象となるすべてのもの。とか
真如など
仏教用語としては種々の意味に用いられる
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D
有為法 - 滅尽定(←何でじゃろ?)
ttps://www.yuishiki.org/%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%A8%E7%A9%B6%E7%AB%9F%E4%BD%8D/
唯識学会 第九意識は完全なる涅槃
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出していると考え
最終的には阿羅耶識もまた空である
有相唯識から → 無相唯識から → 中観帰謬へ。ということで ヨロ m(_ _)m
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
自分の心身を厭う思を起こし
ウィキからの↑コピペで おじゃります
おじゃる妄想としては↓こんな感じ
ttps://kotobank.jp/word/%E5%8E%AD%E3%81%86-434824
世俗を嫌って離れる
世を厭う
_ _ _
おじゃるは
マガダとか
パーリとか
サンスクリットとか
漢訳とか
外国語など
まったく、わからないので
それゆえに
日本語で
現代語訳で
初心者向けに
分かりやすい説明で
よろしくお願い致します。ということで ヨロ m(_ _)m 簡単に言えば・・
色即是空 空即是色
色=有為 空=無為なんたよな・・^^ 空=無為・・・つまり・・^^
利子、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、
増さず、減ぜず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、
眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、
乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、
老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、
智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩埵は、
般若波羅蜜多に依るが故に心に罣礙なし。罣礙なきが故に、
恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。 「一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。」
これなんだな・・・^^ >>443
wwwwwwww
>そういうのもすべて後代の創作(勝手教義です)です。
> 輪廻してる天部しかいないような解釈は後代の意図的改竄の最たる部分。
> 梵天との対話など問題外です。
お前が自分で引用した経典だろうが?ww
んで、 >>441 まあ、私見だが、それは、梵天というよりは、「天」「天部」・・・即ち、一般的な表現で言うと「神々」というような「複数」の意味合いを
持つのでは?
つまり、キリスト教で言うような大文字のGod ではなく、gods ではないかと?
(原文みたが、少なくとも「絶対神」を想起させる記述は一切なかったw)
この辺りは、セブンが専門w
(ちなみに、仏教では梵天勧請の梵天に固有の名前が付加されているw
これは、どういうことかというと、梵天たりとも、絶対神ではなく、複数存在する
梵天の一人が釈迦に勧請したということw
ヒンドゥーに比べて、その価値は大分、目減りするww) なんだ??
このスレも、荒らしが居つきだしたのか?
消えるか?ww
>>446の補足として
漢訳も、まったく、わからないので、それゆえに
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す
この作者の意味も、わからないけど
おじゃる妄想としては
作者 = 変化しない
作者無し = 変化している
仮設としての
縁起に依って
変化しているので
それゆえに
業報も縁起に依って現れ変化して → そして異蘊相続へ
というように妄想超訳しちょりまつ
これの意味も、わからないでつ → 乃至純大苦聚滅す
苦しい。という『想い』が滅する。という意味かしらん?
>>453の補足として
ttp://matsunamilab.cocolog-nifty.com/dharma/2015/10/post-78c0.html
業報あるも而も作者〔すなわち〕此の陰滅し已らば異陰相續す〔となす作者〕無し
この解説の場合だと
「異蘊相続は無い」というようにも見えるけど
たぶん
「異蘊相続は作者無し」
「異蘊相続は変化しないものではない」
変化しないものではない
それゆえに
縁起に依って
解脱する場合もあるかもしれない
という
おじゃるの妄想超訳で おじゃります 因みにだが、自在天も大自在天と自在天は別とされてたり、ヒンドゥーでもシヴァが何十もの化身で様々な活躍したとされ、1人格とは思えない様々な言動をしたとされる。
向こうの神は、日本の神とも違うイメージなんだよ。
一柱の神というより、○○神という属性ってのが近いと思うぞ。
(^。^)まぁ、所詮は世俗的イメージだから、実態とはまた微妙に違うんだがな。(笑)
実態とはまた微妙に違う?
↑↓難しくて意味が、わからないけど、とりあえず
歓喜天(ナンディケーシュヴァラ 歓喜自在天)?
聖天(歓喜天)?
他化自在天?
大自在天
オン・マケイシバラヤ・ソワカ
オーン。マヘーシュヴァラ(シヴァ)神よ。スヴァーハー
(諸天も含めて?)
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m >>443
だからw 脳内補正しとけと言ったろ? 何のために二つも三つも区分けしたと思ってんだ。
ちゃんと、縦エリア毎に区分されてんだから。
重要なのは、対応関係だと言ったろ?
つまり、
「涅槃」 に 「個」 の要素が入る ということ、
及び「五蘊無我」を踏襲する故に、「五蘊以外の個」が要請されている
のが宝珠図面なわけ。
が、縁起という世界観を受け入れる以上、宝珠的世界観は相反するわけ。
部派とか初期とか中期大乗とか中央アジアとか、そういう歴史的地域的変遷以前の、
『根本的な基礎部分』の問題なの。
だから、なぜ、わざわざ【初期】を入れたかといえば、「無為法」という(部派的)括りでなく、
因により縁により存在するのでなく、そのようなものとして「ある」だけであり(語弊を恐れず言えば可能性として「ある」ということ)
それを見る(知る)ための機縁が、梵行なわけ。
≪行じることによって、【そこに】【生じる】≫のではない。(→有為ならざるもの、縁に依らないもの)
また、≪行じることがなかったとしても【そこに】【存在している】≫のでもない。(→常に【どかかに】あり続けるのでない)
修行者が、正しく行じ、正しく観察し、正しく定を修めた時、そのとき、
その修行者は、涅槃の境地にあることを知るわけ。
それは生じたのでなければ、どこかからやってきたのでもない。その修行者がもともと涅槃の境地にあったというのでもない。
ましてや、その修行者に、もともと内在されていた、或いは(我=涅槃なればw)その行者はもともと涅槃だった(なんという十牛図www)、
(存在が境地と=とか意味不明だけどw)、なんて、おとぎ話はちゃんちゃらおかしいわけでね。 うむ、 ここだなwポイントは。
>「五蘊以外の個」が要請され る 近代仏教学でも一切法に無為法は含めないは見解が分かれていて定説ではありません
三法印とか四法印という区分は部派仏教時代に生まれたのかもしれませんがその法印の説法や自説はダンマパダやテーラガーダーに載っていて諸行無常、諸行皆苦、諸法無我となっている
なぜ無我だけが諸法なのか一切法とは現象界だけと言ってる学者からははっきりとした説明がありません
仮に一切法を現象界(有為)に限定したとしてもアートマンはあるとした場合でも
「アーナンダよ、じつに、〈識〉が母胎に入らない場合、いったい、〈名色〉は母胎において成長するでしょうか」
というお釈迦様の説明において識か名色の中にアートマンがもともと在るのか、と?
入ってないとしたら無為法に至って何故アートマンは在るものになるのでしょうか?
あるいは自性清浄を根拠にされるかもしれませんが、その清浄な自性とは識のことなのかそれとも名色のことなのか?
むしろ修行により六根を清浄にしていって貪瞋痴を滅したとこが無為法(涅槃)ではないの、と?
あとウダーナの涅槃の説明はおそらくは貪瞋痴が滅した者が行する想受滅定の時(あるいは想受滅定から覚めた時)の境地ではないのかな、と
宝珠氏の説明には感謝しますがなお疑問が絶えません とりあえずのまとめ
諸法無我:全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がない
諸行無常:すべての現象は、無常である
一切行苦:色受想行識も苦なり
諸法無我:すべてのものごとは、自己ならざるものである
涅槃寂静:ニルヴァーナは、安らぎである
>清浄な自性とは識のことなのか
ttps://www.yuishiki.org/%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%A8%E7%A9%B6%E7%AB%9F%E4%BD%8D/
唯識の場合は 第九意識は完全なる涅槃
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3
ヴェーダの場合?は 「…である」と定義することはできない「…である」ものではない
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図の場合は
…さらに無の世界も超えて
分別のない心で
移り行く世界の様をありのまま見つめている。という法がある
>もともと涅槃だった(なんという十牛図
(↑このリンク先のものは)苦集滅道から始まっているように見えるけど? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています