--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻
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仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 仏典の中には、いわゆる「神通力」「超常現象」などの『超常的、神秘的事例』
の記述が数多く見られる。 例えば、
「六神通」「仏の三十二相」「誕生譚」 もそうだし、死亡時の大地震もそう。
また、バラモン三兄弟の絡みで、釈迦が
聖火堂で龍を調伏した話、それから、舎衛城の神変、ジャータカもたいがいだしw
法華経に至っては、それこそ神秘的事例でないものを探す方が難しいww
では、本当に2500年前の釈迦という人物は上記のような現象を起こしたのでしょうか?
仏教という一宗教の範疇を飛び越して、普遍的現象としてその是非を問うならば、答えは
NO と言わざるを得ません。(勿論、「信仰」はまた別の話です)
人間は、空を自由に飛び回れません。 火も吹けません。生まれてすぐ話せません。
舌が伸びたりもしないし、しゃべるウサギもいません。
・・・・・そのような現象は観測確認されていませんし、また生物学上、人間にそのような
機能が備わっていないことも判明しています。 もし、そのようなことを認めるのであれば
釈迦を 空想上のスーパーマンとして 扱わなければいけなくなります。
(事実、大乗の世界では、釈迦をそのような存在として扱っている宗派もありますが)
信仰の世界の枠を超えて、それを事実認識するのであれば、それはもう、いわゆる「オカルト」
の話です。 問題はここからですw
⇒『では、なぜそのような話が仏典に記述されているのか?』
昔の人が、上記のような現象を実際に目撃した・・・・なんてのは考えられません。
しかし、記述はある。 それは何故か?・・・ということです。
最もよく言われるのは、いわゆる「神格化」というものですね。
後世の仏弟子たちが自己の宗教の開祖に対して期待する神秘性・・・・っていうやつですw
誰でも自分の信仰する宗教の開祖に対しては、それが偉大であるほど望ましいわけであって、
「普通の人間」であっては欲しくないわけです。そういう心情の反映でしょう。
他宗教とのバランス的な問題もあるでしょう。
他宗教の信仰の対象がとんでもなく神秘的で偉大な存在であり、仏教の開祖が、「普通の人間」
ならば、一般民衆に帰依を説く場合でも、カッコがつかないw・・・と。
まあ、中村氏はこういう方向性でみてますね。 また、「在家の価値体系の許容」 という視点もあります。
釈迦は在家の価値体系を決して排斥したりはしませんでした。 勿論、それは出家の価値体系とは
異なるものですが(そのあたりは、ダニヤの章に明らか)、 それはそれとして尊重していたわけです。
ですから、当時、民間で信仰されていた土俗信仰(呪術、占い等)も、許容範囲内であると判断すれば
(パリッタ等)排斥せずに、寧ろ方便として言及することもあったと考えられます。
そのような姿勢が、釈迦の死後、時代を経るにつれて、民間文化との融合が促進され、仏教に混入されて
いった。 密教なども元はインドの土俗信仰の混入であると考えられていますね。いわゆる体系的に整備
されていない雑密と呼ばれるものですが。
奈良氏は、このような側面を重視しているみたいです。
また、「人間というものは何かを信仰するとき、必ず拝む対象を欲するものだ。」という意見があります。(渡邊氏)
まことに尤もな意見であり、仏教ではそれが仏像製作へと繋がり、舎利信仰もその一種でしょう。
釈迦は大変賢い人だったので、世俗においてはそのようなものの必要性も理解したうえで仏塔の製作を指示
したのだと思います。
そのような信仰の対象となる具象化物が、次第に神秘性を帯び、それ自体が何やら有り難いもので、
超常現象の卸元となっていく。
日本全国にある「〜地蔵」「〜観音」などがその好例でしょう。
(例えば、刺抜き地蔵、洗い観音など)
仏典における超常事例の記述は、以上のようなことが起因となり、さらには仏典編集者の志向、信仰、信念、願望
また当時の時代背景なども影響し、 実に様々な要因が重なり合って現在のような形が形成されていったものと
思われます。 >>110
あと私のアートマン観ですが^^
「それらはアートマンには非ず」
、、、、これは違うと思います。
言い換えれば
「それらは非ずだからアートマン」です。
「五蘊はアートマンに非ず」ではないのです。
「五蘊は非ずだからアートマン」です。
つまり一切の存在は非ずでありアートマンである、です^^ 123.それは心理学である。それでは宗教とならない。 >>124
非らず、非らず、とは「認識できるものはアートマンには非らず」という意味。
アートマンは常に見る側(主体)だから見られる側(客体)になることはない。
アートマンを見たとか捉えたと思ったらアートマンが見られる側、つまり客体になってしまうのでその瞬間それはアートマンではないことが証明される。
だからアートマンは捉えることができない。
捉えられないから。
壊れることがない。
壊されないからこだわりがない。
こだわらないから、つながれず、動揺せず、損なわれない。
五蘊は捉えられるものであり、無常で壊れるものであるのでアートマンではない。
五蘊のような認識の客体になるものはアートマンに非らず、そういうこと。 スーシマ経は有部の雑阿含経にも有部から別れたとされる分別説部の相応部にも載っている経典だが、
この経典の成立はやや後期に属すると思われる(増谷文雄)とのこと。
>>124 栄進師匠へ
仮設としての
縁起している世界の中の
無明薫習に依存して
貪・瞋・痴に依存している
>一切の存在は非ずでありアートマンである
リンクの貼り憑け願います
論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします ヨロ m(_ _)m
ウィキペディアの
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
これを見ると
仮設としての世界ではない
縁起している世界ではない
有為法している世界ではない
無明薫習している世界ではない
というような文脈のような気がしますが
栄進師匠としては
無明薫習に依存している
>一切の存在は非ずでありアートマンである
というような執着でつか?
>>121 パーピマン殿へ
大変、失礼いたしました スマソ m(_ _)m
ということで、とりあえず
>勿論、「信仰」はまた別の話です
おじゃるは
どこの宗教団体にも所属してないけど
それでも
「そのようなこともあるかもしれない」と妄想(信仰?)しちょりまつ
たとえば
波動関数(wave function)
「波1の世界」と「波2の世界」が同時に存在できるので
それゆえに
我々が住む日常世界の他に全く異なる
並行世界が存在することを期待させるために、様々な空想を生んだ
ttp://www.nikkei-science.com/page/magazine/0311/hologram.html
ホログラフィック宇宙
3次元のように見える私たちの宇宙は
2次元境界面について定義された
今までの古典力学とは
別の物理法則によって記述できる
(たぶん量子力学とか?)
_ _ _
というのと同じように
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく
↓というような感じ?
ttp://tocana.jp/2017/07/post_13673_entry.html
宇宙に意識はあるのか? 2017.07.03
科学者が議論
「宇宙には原意識クラウドが存在し、人間も接続されてる」
_ _ _
元始からの
すべての事象、想念、感情が
記録されているという世界記憶の
アカシックレコード(Akashic Records)みたいな感じ? 伽藍は腹毛のことだと勘違いされているようだが、元々そんなことはなく、英語の造語
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KI1
>>124 栄進師匠へ
創めに神が天と地を造った
神は云った。「光あれ」。すると光が出来た
という旧約聖書とかに依って立っている
カトリック司祭の
ジョルジュ=アンリ・ルメートルとかの
膨張宇宙論
ビッグバン理論という仮説も
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
宗教の信仰のようなものに依って立っている
(科学信仰のようなもの?に依って立っている)
栄進師匠は
なぜ 『 超えたもの 』 に反発するのか?
その理由を ヨロ m(_ _)m >>126
ググッてたらこんな解説のサイトがあったので丸写し^^
「インド哲学七つの難問」宮元啓一
【第3難問】本当の「自己」とは何か?
インド哲学で自己の議論を樹立したのはヤージュニャヴァルキヤだった。
紀元前700年前後の哲人で、ウッダーラカ・アルーニの弟子としてウパニシャッドを代表するともくされている。
ヤージュニャヴァルキヤは、世界がすべてアートマン(真我)にほかならず、そのアートマンが認識主体になりうる唯一のものだとみなしつつ、しかし認識対象にはなりえないとみなした。
では、アートマンは自己反映できないのかといえば、そうなのだ。
アートマンは把握することも表現することもできない。
それならアートマンを確認するには、「Aはアートマンではない、Bはアートマンではない、Nはアートマンではない」というふうに。
どうするかといえば、「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)というふうにしか言いようがない。
ヤージュニャヴァルキヤは、そう説いた。
これははっきりいえば「自己は知りえない」ということである。
生きるものが生きる器の中にあることを器世間というが、アートマンはその器世間に内属してはいるだろうが、その全体を器世間という環境たらしめているものそのものであるからだ。
アートマンによる自己認識は不可能だという説である。
仏教では心身にもたらされる作用のことを、まとめて五蘊(ごうん)という。
「蘊」とは集まりのこと、センシング・クラスターのことだ。
色蘊(色や形の集まり)、受蘊(感知する作用の集まり)、想蘊(識別作用の集まり)、行蘊(想起するものの集まり)、識蘊(判断作用の集まり)の五つをいう。
ブッダは五蘊いずれもが常住の自己ではないと説き、それゆえこうした頼りにならないものを錯誤して心身活動の根拠にしてはいけないと戒めた。
これを「五蘊非我説」という。五蘊には我(自己)がない、非我であるという説だ。
宮元は、ここにはヤージュニャヴァルキヤの哲学を正統に継承できているものがあると見る。
https://1000ya.isis.ne.jp/1645.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) >>128
>>134を見よ^^
>>133
アートマンや創造主神などは、人間の認識を超えたものです。
反発も否定もしてません。
それらは我々に認識できない、諦めましょう。
そんなもんより目の前の苦しみを何とかするのが悟りなのかも^^ >>123
パーピマンへ
これも某サイトの丸写しですが、ご一読を^^
【第1難問】ことばには世界を創る力があるのか?
この問いは、言葉は真実を表明できるのかという問いである。
インド哲学は言葉が世界を創ると確信する。それが大前提だ。
だから言葉は真実(サッティヤ)をあらわせる。そう、考えた。
言葉には世界を創る力があるばかりか、根本的な真実(サッティヤ)をつくる力があるとみなされたのだ。
サッティヤはそれこそ「必ずその通りにものごとを実現する力をもつもの」という意味だ。
言霊っぽい。
ふつうは、言葉なんてしごく感覚的なことで、心や真実をあらわしているとは思わない。
なぜなら言葉で嘘もつけるし、まちがったことも言えるからだ。
人や時代や土地柄によって言葉づかいもちがうし、いつも言葉が同じ意味で使われているとも思えない。
これがふつうの常識だ。
しかし、インド哲学はそう見ない。
もともとヴェーダのマントラから世界が生まれ、言葉はブラフマン(宇宙原理)でもあったのだから、言語力こそがあらゆる力の源泉なのである。
印哲では、なんだって言語力で説明がついたのだ。
それゆえ「その通りにものごとを実現する」には、たとえばサッティヤはカーマ(願望)と連合するほうに動いて願いを叶える気分をつくり、
ヴァチャナ(語句)と連合すればその気分が詩歌に至り、
そのヴァチャナをヴラタ(誓約・約束)と連動させれば、人生での約束事を保証していくというふうになるとみなされた。
いっときぼくが夢中になった5世紀の言語哲人バルトリハリは、言葉(語)そのものがブラフマンだとみなしたほどだ。
というわけで、第1難問については、「言葉には世界を創る力があった」のである。
https://1000ya.isis.ne.jp/1645.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) この(ダンマパダの)三つの詩句の初めの部分
「一切行(形成されたもの、有為法)無常」
「一切行(形成されたもの、有為法」苦」
「一切法(事物、有為法と無為法、離行作と行)無我」
はいわゆる「法決定」といわれるものです。
テーラワーダの世界観においては
この三つが事物に備わる自性(それそのものが持っている性質)であり、
これがブッダの発見した自然の「真理」ということになります。
http://lllool.hatenablog.com/entry/2016/10/12/224622 ヨガのブラフマンやアートマンはニルバーナか?
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/12/04/050000
だから、おもしろいことに、ウパニシャッド哲学に書いてありますよ。
ウパニシャッド哲学はお釈迦様の時期に出始めました。かなりお釈迦様の影響もあったみたいね。
三つくらい、お釈迦様の時代に生まれました。当時、本はなかったから、テキストとして残ってはいません。
お釈迦様が、「これが自我ですか? いえ、これは自我にならない」「これが自我? 自我にならない」と調べて、調べて、これ以上何もない。
ということは、自我がないということでしょう。
そう結論付けたところで、ウパニシャッドでは、同じく「これは自我じゃない。これも自我じゃない。別なものです」
「別なものです」と、どうやって決める?
そこが間違いなんです。ほんの微妙なところ。
だって、自我がある、と言う前提だから。
「これは自我ではありません。自我ではないんだけど、自我は別なところになる」「手は? 手は自我じゃないんだけど、自我は別のところにある」
そういうことだから、その方法では、初めから終わりまで間違えてしまいます。
だから、(ニルバーナとブラフマン・アートマンは)全く似ていないんですよ。
修行だったら、人間が考えるところだから似ているところはありますよ。
略
仏教になってくると、バイアスゼロの世界です。
自分が、ハチャメチャバイアスの世界で生きている自分が、バイアスゼロで真理を見る。
ありのままに見るとはそういうことなんです。
ヒンドゥー教はありのままに見ていないでしょう。あってほしいままにみているでしょう。アートマンとブラフマンで。 >>123
パーピマンへ、何が言いたいのかと申しますとですね。
仏典に出てくる誇大妄想的エピソードは、インド人には「真実」なんです^^
言葉が世界を作るんですから、我々から嘘に見えても彼らには現実の世界なんです。
またメタな話になりますが、そもそも現実とは何かですよね。
仏教では、一切が空なんでしょ?
現実も空、妄想も空。
つまり現実は妄想で、妄想は現実です。
なのに、パーピマンは鬼の首を取ったかのように、仏典の妄想部分を挙げつらっておかしいと指摘しますが。
おかしいのは、パーピマンさまあなたの方です^^
仏教を本当に理解されてるのなら、そのような指摘こそがおかしいとなるんですが。
私の方がおかしいのでしょうか^^ >私の方がおかしいのでしょうか^^
wwwwwwwwww
そうですw >>140
うるせー^^
そうだよ、その通りだよ。
クスリ飲んで寝る。
>>141 栄進師匠へ
ヒンドゥー(バラモン)とか?
サーンキヤとかの場合は
プルシャからの → プラクリティなので
ttps://1000ya.isis.ne.jp/1645.html
インド哲学 七つの難問 宮元啓一
…
ヤージュニャヴァルキヤは
世界がすべてアートマン(真我)にほかならず
そのアートマンが認識主体になりうる
唯一のものだとみなしつつ
しかし認識対象にはなりえないとみなした
_ _ _
「…である」と定義することはできないという
「…である」ものではない
真我のようなものからの → 縁起している世界すべて一切の諸々
という意味で
>超えたものです
>反発も否定もしてません
>苦しみを何とかするのが悟り
苦集滅するための方法は? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) >>142
>苦集滅するための方法は?
常識的に答えれば八正道とかじゃないの。
ウィキに書いてあった^^ 143.八正道、か。
それは心理学である。
それは宗教ではない。
>>138
ID:55+rNLUO師匠は
大乗否定かもしれないけど
真如縁起そして
頼耶縁起というような文脈においては
プルシャからの → プラクリティというサーンキヤと
大円鏡智からの → 阿頼耶識という唯識は
対機説法として似たような文脈があります
それゆえに
ダルマキールティ(唯識派)とかは
カマラシーラ(瑜伽行中観派)とかに論破される
というような対機説法になっているらしいでつ
おじゃるの立ち位置は
仮設としての
有相唯識も肯定でつ
一応、念の為 せめて、臨床心理学とか認知行動療法とかにでもしておけば、一目置けたものを・・・w
>>112 >精神障害者2級
栄進師匠は
心理療法の
認知行動療法(Cognitive behavioral therapy:CBT)
とかはしてないんでつか?
_ _ _
おじゃるは
心理療法の
フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ
これを実践しちょりまつ
ヴィパッサナみたいな感じ? >>140
確かにヘピーマンはおかしいぞ!
ヘピーマンの文句はパーピーマン
に言え! >>120
あなたの師匠が誰かは分かりませんが、
もしも鬼和尚のことであれば、一言いってだけおきます。
たまにはあのスレを覗きますが(本人のサイトも読んだことはあります)、
私からはあの方の発言はすべて理解してるつもりです。
そして、とても高く評価しており(2ch投稿者で過去トップレベル)、これまで異論という異論も特にありません。
ただし、鬼和尚の方からはこの私の(いう)ことはよく分からないのではありませんか?
ただ切り取った一部だけでは分からないと思いますが。
そして、もちろんこの私は(非体験者なので)アートマンを知りませんが、
アートマンについての記述上の理解ならばあるつもりです。
私は仏教以外では、神智学、ラマナ・マハルシ、ヨガナンダ、ラーマ・クリシュナの教えを学んできています。
所持して主に読む聖典は、『バガヴァッド・ギーター』『ウパデーシャ サーハスリー』『ヨーガスートラ』などです。 >>119
あのですね...
ただ「無い」と書いてあったからない?って...。
だから、そういう読み方は国語の破壊でしょうと?
あなた自身が師匠ならば、ただ超能力が欲しいといった不純な目的の人間などに弟子としての深遠な法燈を伝授しますか?
弟子たちにも神通の使用は厳しく制限して戒めているというのにですよ...
再度、スシーマという人間の教団接近の目的を仏典上から確認してみましたか?
無いと書いてあったその一つの経文にだけその意味すらも解さずに固執して、
それ以外の百万倍もの経典中に説かれている神通についての明快な解説の事実を無視する態度が道理に適ったものですか?
あとで、私の方も仏典から抽出したいと思います。
少し時間貰います。 >>124
>つまり一切の存在は非ずでありアートマンである、です^^
“非ずだからアートマン。つまり、すべてがアートマンということ。”
それは結局、ヒンドゥー的なアドヴァイタ論でしょう。
つまり完成者は、唯アートマンであったという自覚に目覚めてすべてのマーヤが消散すると説くのです。
私個人はヒンドゥーも仏教も最終的には同一の境地(ゴール)に到達すると見ているので、
私にはその意味は理解できますが、けれども仏教ではそういう説き方はしないということをいってる。
そもそもゴータマの教説というのは二元論的な世俗諦なのであって、なのでそういった勝義諦は説かない。
では、あなたのいってるような教説はいったい仏典の何処にあるというのですか?
仏典においては、一切にはアートマンは見出されないということ。
尚、この一切というのは仏教論上における現象界ということであって「有為」のことです。
仏教においては真理に二諦を立てており、そして、対するものとしての「無為」を上げ、
一切(有為)ではないものがあるとして説くのです。
アートマンの意味を解するならば、そのアートマンが無為であるのは明白でしょう。
ただそこまで説かなかっただけです(無記として)。
仏教には、
「アートマンが在る」という言い方はないのです。
あなたの、「アートマンは非ずとしてしか表現できない」まではイイです。
しかし、これを以てしてゴータマの非ずの教えは「アートマンを説いたことになる」は不可。
言えることというのはこれだけなのです。つまり、
決して、アートマンを否定したことにはならない。アートマンを否定などはしていない、と。
ただ、五蘊の中にはアートマンを見出すことはできないということだけです。
ならば、それは要するに、五蘊外にアートマンが見出されればいいことになる...。 ゴータマの説いたものは、
あくまでも非我(それらはアートマンではない。アートマンでないものをアートマンと語るなかれ)であって、
その採った態度は無記といものでした。
無記とは。そして、無記の態度を採ったその理由とは...。
『ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。
「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。世尊は黙っていられた。また尋ねた。「アートマンはないのですか
(natthAttA)」と。世尊は黙っていられた。ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。
その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答えたら、常住
論者(sassatavAda)に同じることになる。ないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えられ、そして阿難に反
問された。「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)という智が生じるのに順じるだ
ろうか。もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、今はない(ahu vA me nUna pubbe
attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。』
(サンユッタ・ニカーヤ.44 第10 経)
無いものはどうしょうもないので、本当に無いのならば、ただ「無い」といえば済むことです。
しかし、そうしなかったのは唯物論と勘違いする者がでるから「無い」などといわないということ。
そして、「在る」と言わなかったのは、誤解を起こしているバラモンたちと混同されたくなかったからです。 >>148
【警告】
あなたは条項4.に抵触しています。
二度と当スレに投稿して戴かなくて結構です。 >>152
だからw
「ある」と言っていないものを「ある」と改竄してしまうこと
への罪を、君は感じないのかい?w 追記するなら、
(弟子たちの伝聞・聞き書きからしか判断するしかないわけだが)、
その文脈の中で、 ≪「ある」という読み解き≫ と ≪「ない」という読み解き≫ と、
どちらの文脈に、「正当」性を見出せるか? ということに尽きる。
その担保が、全て仏教外(=外道)に依らねばならないなら、
それはもう仏教ではない。
『達磨以降の禅宗を、正統仏教とする方が遥かにマシ』かもなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
そして、弟子たちの伝承を誤りだとするなら、
そもそものゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなるのさ。 >>153
【忠告】圧倒的な仏格違いを知れ!
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>151
>仏典においては、一切にはアートマンは見出されないということ。
>尚、この一切というのは仏教論上における現象界ということであって「有為」のことです。
>仏教においては真理に二諦を立てており、そして、対するものとしての「無為」を上げ、
>一切(有為)ではないものがあるとして説くのです。
>アートマンの意味を解するならば、そのアートマンが無為であるのは明白でしょう。
>ただそこまで説かなかっただけです(無記として)。
一切法無我ですから有為法無為法両方に渡って無我です
どこにも我(アートマン)は存在しません いやぁ、スターウォーズ1stはよく出来とるねぇ・・
(勿論、あの時代ならではの(技術不足の)相乗効果を差し引いたとしても)
>ゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなる
[ キリスト 実在 ] で検索すると
キリストは実在したのか?というような文脈が出て来ますね
_ _ _
そして [ 大乗非仏 ] で検索すると
大乗のみならず
パーリ経典も編纂されたものであることが明らかとなっている
近代の文献学上は
原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない
(意図的に?)編纂されたものなら
釈迦も架空の作り話だったのか?となる場合もあるかも?
_ _ _
聖徳太子虚構説
従来聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである
聖徳太子も架空の作り話だったのか? ここのスレを読んでいると、
大まかにすると、魂が有るのか無いのかになるんじゃないの?
釈迦は魂が有ると説いたのか、無いと説いたのか。
真我を魂と定義してみれば、わかりやすいかもね。
感想ね、間違っていたらごめんなさい。 >>154
誰も(私は)、
ブッダは「アートマンが在ると説いた」などとはいってないでしょ。
仏典から確認できる言葉とは、「真実の自己を求めよ」と「本来の自己は清浄である」です。
『比丘らよ、この心は浄潔である。そしてそ〔の心〕は外来の諸随煩悩によって染汚されている。』(パーリ増支部1.5)
『“アートマンをアートマンとみて、それを追及し真実の自己を見いだせ”“婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ』
(Vinaya, Mahavagga 1.13.p.23/attanam gaveseti.)
私が主張しているのは、
ブッダは「無い」などとは説いてないのに勝手に無いということにして、
ヒンドゥーなどを有我論として見下すのを止めなさいということです。
ブッダの態度は無記ですから。
そして、アートマンについては否定していないから、実際上は在っても問題にはならないといってるだけ。
勝手に「無い」と説いたなどと改竄しているのはあなた方です。
それを仏典の記述から見出すことはできませんから。
勝手に解釈として(誤解して)「無い」と弟子が言い出しただけですから。
>>155
>弟子たちの伝承を誤りだとするなら、
>そもそものゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなるのさ。
別に全部を疑うわけではないし、その必要はないです。
仏典上、アートマンが無いという教えではないのに勝手にそう誤読したのは部派からであるといってる。
そのことを近代仏教学は指摘してるのです。
仏教学は仏典を研究してる。経典の記述を読むのですよ。
しかし、現存するテーラワーダ(長老たち)というのは部派の生き残りであって、
彼らは仏典の記述を無視して口伝を信奉してる。そう、部派からの間違った口伝を二千年間も忠実に...。
しかし、それは仏典の記述とは矛盾しているのであり、仏典に反するならばそれは仏教ではないでしょう、と。 >>157
>一切法無我ですから有為法無為法両方に渡って無我です
>どこにも我(アートマン)は存在しません
いやだから、
その一切の中へ勝手に無為法をも含めたのは部派のアビダンマであるといってるのです。
これは原始仏典上では確認されないことであって、つまり、まったくの間違いなのです。
『原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな
い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、
原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143)
部派仏教は「何があるか」という一切法(有為だけでなく無為をもふくめた)を客観的に詳細に考察し、原始仏教の態度とは異
なったものになった。(p151)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) >>161
いえ.違います。
仏教上、輪廻主体としての「魂」については認められています。
これをブッダは「識」として説かれてました。ただし、それはアートマンではないということ。
では、アートマンは無いと説いたのかということ、そうではなくて、決して無いなどとはいってないのです。
しかし、このスレ上でこの二つの違いすらも分からない無知な者たちが、
ただ勝手に魂もアートマンもごちゃ混ぜに味噌も糞も一緒にして、それらすべてが無いと説くのが仏教なんだと主張しているのです。
この主張には伝統テーラワーダの一部と、唯物主義者の二グループが参加しています。
私は仏典の記述から、この二グループの主張は間違いだとしています。 >>156
ん? 誰と誰の格が違うと?
どうせ議論にまともについてはこれないのでしょう。
だから、「消えなさい!」といってる。
ここは参加人数を求めてない。
あなたは、二度と来なくていいですから(これが最終警告です)。 >>151
師匠に伺ったら、私の主張はアドヴァイタと同じであり違うと突っ込まれました。
撤回いたします。
しかし宝珠さんの見解も正しくないそうです。
「お釈迦様は明らかにアートマンを知って説いたのじゃ。 」
だそうです。
つづく^^ >>152
この宝珠さんのレスにどう返事すればよいのか分からなかったので師匠の智慧をお借りしました。
以下師匠からの伝言です。
『それは無記ではないのじゃ。
非ずと言う言葉によってしか説けないアートマンを正しく現したのじゃ。
アートマンは在るものでは非ず、無いものでも非ずなのじゃ。
そもそも在るとか無いとか説くものではないのじゃ。
そのように説くことも非ずなのじゃ。
何かを説けばそれは非ずではないからのう。
そうであるから無言によって真のアートマンを説いたのじゃ。 』
以上であります。
なにか異論反論ありますでしょうか。
自分で相撲が取れなくて申し訳ない^^ >>166
>私の主張はアドヴァイタと同じであり違うと突っ込まれました。
>撤回いたします。
了解しました。
尚、誤解を避けるべくいっておきますが、アドヴァイタが非真理だとはこの私はいってはいませんから。
こちらはまた異なる態度で以て示した真理なのです。
ただし、それを仏教とはいわないということ(ゴータマの教説ではない)。
>「お釈迦様は明らかにアートマンを知って説いたのじゃ。」だそうです。
はい、この私もそう見ていますよ。
だから、ここでは唯物論者たちとテーラワーダ信者がこの私に執拗に噛みついてくるのです。
しかし、この両者というのは、本来は仏教議論の机上にすら上がることが赦されない唯物論者たちと、
そして、経典の記述を無視してただ伝統(部派のアビダンマと口伝)を盲信してる人たちですから。
勝手に「アートマンは無い」というだけで、それは仏教に反して非我と無記には抵触する。
(尚、私は「アートマンを在る」と説いたなどとはいってない) >>167
>師匠の智慧をお借りしました。
はい、構いませんよ(正直でとても良いです)。
ゴータマが説いたもので唯一、仏典から確認できる言葉とは、
「真実の自己を求めよ」と「本来の自己は清浄である」>>162です。
後の大乗の説く仏性、及び如来蔵の元となった
『比丘らよ、この心は浄潔である。そしてそ〔の心〕は外来の諸随煩悩によって染汚されている。』(パーリ増支部1.5) と、
『“アートマンをアートマンとみて、それを追及し真実の自己を見いだせ”“婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ』
(Vinaya, Mahavagga 1.13.p.23/attanam gaveseti.)です。
私個人は、
百歩譲って大枠の大枠としては鬼和尚の見解に同意しますけれど、しかし、
“非ずによってアートマンを説いている”という言い方は仏典上では述べることはできないでしょう。
何故なら、バラモン・ヒンドゥーの説くアートマンを明確に在るものとして述べた記述は一つもないからです。
仏典から確認できる言葉とは、「私は在るとも無いともいわない」ということと、
「アートマンではないものをアートマンと見なすかなれ」です。
そして唯一、アートマン性質に合致する別言いとして、“本来の清浄な自己”について述べたことと、“真実の自己を探究せよ”というものです。
ただ言えることというのは、非我(非ずの論法)の教えというのはアートマンが無いということにはならないということと、
また、『ウダーナ』の中で縁起する無常な世界(有為)とは違うもの(無為)があると説いたことです。 比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、
覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、したがって、
彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、
色の中に我有りとも、見ることはない…。一切は因縁の結ぶがままに有り、
一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、
われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳)
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、
このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、
『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、
まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。
まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)
「心身関係」対「個体のアイデンティティー」の本性についての、ブッダの見解は、
無我論の原則にしたがっています。その原則は、存在を構成するスカンダ(蘊)、
つまり心理・身体的集合体のほかには、それから独立の、自律性を持った、
永遠に生き続ける魂などはない、というものです。これは、⇒『仏教のすべての宗派に共通で、普遍的な教義です。 』
(ダライ・ラマ、『ダライ・ラマ、イエスを語る』、角川書店、108頁) 無我相経・・・・・
「比丘たちよ、色は無我です。比丘たちよ、もしも色が我であるならば、色は(変化せず)
病にかかりません。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』
と言うことが出来ます。しかし、比丘たちよ、色は無我です。それゆえ、色は(変化し)、病に
かかります。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』ということ
が出来ません。
受は無我です。・・・・・・以下繰り返し
相は無我です。・・・・・・
もろもろの行は無我です。・・・・
識は無我です。・・・・」
と、このように五蘊は無我である と説きます。
五蘊はいずれも、霊魂とかアートマンとか我とかといった実体的なものではなく、相互に依存した
ものでしかない。
「私のもの」という渇愛、「私」という慢心、「私の我」と言う邪見。
このような、(「我」というものがあるという)妄執によらず、如実に正しく智慧によって観よ
と説いています。 片山一良 訳 解説
・・・・・・・はい、わかりますね?
どこにも、アートマン、真我なるものが存在するなどと書かれていません。
その存在を示唆する記述さえも全くありません。
勿論、「ない」とも言っていません。当たり前です。
あるものの不在を証明するのは、「悪魔の証明」と言って不可能だからです。
賢い釈迦は当然、それを知っています。 よって、アートマンなどないということを五比丘に
一つ一つ実証的に、「はい、これはアートマンではないですね。これもアートマンではないですね?」
と確認しながら、アートマンなどないことを納得させていったわけですw
「ないと断言していない。」⇒「なら、本音はあると思っていたかも?」⇒「いや、絶対にあると
思っていたに違いない」 wwwwwwwwww
アホの発想です。 「無いといっていない」⇒「では、あるんだ」 とはなりませんww
賢い皆さんは、騙されないようにねww 172.相互に依存したもの、か。
その相互依存は、実体が相互依存している、のである。 過去の書き込みから・・・・・
いわゆる、「非我論」といわれるものがありまして・・・。主に中村元などが主張したものです。
つまり、⇒「仏教は真我(アートマン)がない・・・とは言っていない。
「・・・・は、アートマンではない。」と言っているだけである。即ち、無我ではなくて
「非我」なのである。」 というもの。
まあ、中村氏自身が本来、印哲出身なんで、どうしてもヒンドゥー寄りに引っ張られるんだろうw
確かに、仏典の中に、「アートマンなどない」と断言している記述はない。
しかし、仏教でアートマンの存在を肯定するはずはないのw
仏教の目的は「苦の滅」・・・・これに尽きるわけ。その状態を涅槃、解脱、悟り などと呼称するの。
では、どうやって「苦を滅するか?」
それは、その「苦を感じる主体」そのものを否定することから成り立つの。
これが即ち、無我 なんだよ。
⇒「貴方は今、苦を感じている。苦しんでいる。だが、本当にその苦を感じている 貴方 というものが
あるのだろうか? ・・・・は、貴方ではない。〜〜も貴方ではない。・・・・
ほら、貴方(我)など、どこにもないでしょう? それは、錯覚なんですよ。苦を感じている主体そのものが
ないんだから、苦などあるはずもありません。」
というシステムさw 即ち、苦そのものを消去するのではなくて、それを感じる主体の消去ということ。
対処療法ではなく、根源的治療ってやつ。
だから、「苦を感じる主体の存在(我)」を認めることは、仏教の根幹が崩壊することになるのw では、なぜ釈迦は、はっきりと「我などない」と言い切らなかったのか? 理由は二つあるの。
@当時のインドは、まさにヒンドゥー社会。そこで、「我(アートマン)などない」と言い切ったらどうなる?
瞬く間に、ヒンドゥー教徒との論争になるね? ヒンドゥーの教えは、アートマン存在が絶対だから。
釈迦は、そのような他教との論争を極度に嫌ったの。それは最古層文献などに、繰り返し説かれてる。
そのような形而学上の論争をするくらいなら、とっとと修行に励め。まあ、毒矢の喩え にもそのスタンス
はよく現れているw 「無記」というのは、まさに釈迦の形而上学的論争の忌避を示してるねw
A上記の@にも関連しているが、釈迦は『経験主義者』なんだよ。
自分で確認したものを基盤に論理展開するの。 単に形而上の思想をああだ、こうだ といっても
解答はない・・・ということを知ってたの。釈迦は、自分で観測、確認できる範疇内に「我」などないことが
わかった。・・・・・しかし、「ない」と断言はしなかった。・・・・この辺も釈迦の賢いところなんだが
「不存在証明の不可能性」をちゃんと理解してたんだ。
・・・・つまり、「ない」ことの証明は不可能。それが分かってたわけ。
もし、「ない」と断言してしまえば、それの証明を求められるでしょ? それを避けたの。
また、「ない」と断言すると、六師外道のアジタと混同される危険性もあったしなw
もし、釈迦が「アートマン」を自己の教説の重要部分であると考えていたなら、必ずどこかで、それを
説いていたはずだ。 だが、そのような経典は全くない。
つまり、表現上は「非我」でも実質は「無我」なんだよw 174.苦を感じる主体そのものを否定する、か。
バカ丸出し、である。
>>161 夕師匠へ
>真我を魂と定義して
同じなのか?わからないけど、とりあえず
ウィキペディア参照
霊魂(SoulもしくはSpirit)
(色蘊・肉体?)を超えた永遠の存在
_ _ _
>>167 栄進師匠へ
>アートマンは在るものでは非ず、無いものでも非ず
「…である」と定義することはできないという
「…である」ものではない
アートマン
真我
非想非非想の世界?
あるいは
無為法の世界? 「識」について・・・・・
「識」とは、『対象を区別して認識すること』・・・・これが本意です。
さらに突っ込んで言えば、「言語的認識」です。
よって、この「識」を「我の本体」「霊魂」「輪廻の主体」と見做して
しまう「邪見」を釈迦は、しっかりと批判しています。
以下は、サーティ比丘 と釈迦との対話・・・
「私は、世尊がこのように法を説かれたと理解いたします。すなわち、
〈この識は、流転し、輪廻し、同一不変であると。」
「サーティよ、その識とは何ですか?」
「尊師よ、それは語るもの、感受するものであり、それぞれの処において
もろもろの善悪業の果報を受けるものです。」
「愚人よ、そなたはいったい誰のために私がそのように法を説いたと理解
するのですか?
愚人よ、私は多くの根拠をもって、縁より生じる識について述べてきたでは
ありませんか?
〈縁がなければ、識の生起はない〉と。
しかし、愚人よ、そなたは自分の誤った把握によって我々を誹謗し、また自分
をも傷付け、多くの罪を創り出しています。
愚人よ、それはそなたにとって長く不利益になり、苦になるはずです。」
中部 第38経 「大愛尽経」 片山一良 訳
・・・・・・・
「識」は、⇒「縁によって生じるもの」に過ぎず、したがって、実体性はない。
アートマンでも霊魂でもない ということです。
>>161 夕師匠へ
梵我一如(ぼんがいちにょ)とかは否定派でつか?
想う。という『想い』も手放して
想わない。という『想い』も手放して
非想非非想も手放して超えて
そして
その結果としての梵我一如?
道元 普勧坐禅儀
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐
(『想い』を手放して、梵我一如?仏に成っているのなら)
仏法というものは
円満に全てのものにゆきわたっており
修行したり、悟り証したりすることもない マインドフルネス瞑想 Part12 (Jカバットジン系) ・
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529938706/
394 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 10:43:22.00 ID:Owtr5/AU
ちなみに私が先ほど書いたサティアユガの人間が数千年生きる話のソースは
ヨガナンダの師匠ユクテスワの教えで
アップルのジョブズが生涯信仰したヨガ哲学からの抜粋です
400 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 10:53:53.24 ID:FzSuR+Al
>>387
ジョブズは随分とはやく亡くなってしまいましたね
これもヨガナンダのお陰かな
402 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 10:59:04.46 ID:+STT5GAL
ヨガナンダも59歳…(-人-)
405 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:21:05.16 ID:Owtr5/AU
>>400
ヨガは長生きごっこではありません
ヨガ聖者はヨガナンダのように肉体が古くなると自らの意志で肉体から離れます
ビベーカナンダも40代かな
釈迦は毒キノコで死んだとの伝説があり
解脱してなかったという人もいます
408 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:33:28.64 ID:FzSuR+Al
>>405
ヨガナンダは自殺したんすか
えらいこっちゃ
409 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:34:14.30 ID:+STT5GAL
ジョブズも自らの意思で肉体を離れたのか…やるなジョブズ…
410 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:35:49.95 ID:Owtr5/AU
>>408
霊的レベルの低い人にはそう思うでしょうね
411 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:36:47.15 ID:FzSuR+Al
ヨガナンダは加齢を苦にして自殺(ヨガナンダ信者・談) 412 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:38:56.13 ID:Owtr5/AU
>>409
ジョブズはどうか知りませんが
ヨガナンダはトリックができない
ようアメリカの大観衆の目の前で
今から死にますと宣言して
瞑想状態にはいり
魂の離脱をしました
413 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:40:23.88 ID:Owtr5/AU
>>411
大観衆の承認がいるわけだから
そんなデタラメいってもわらわれますよ
414 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:41:21.42 ID:+STT5GAL
とSRFは言っています
415 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:42:19.57 ID:5BWjqHEu
ヨガナンダはなぜ肉体が古くなってしまったのですか?
呼吸を止められれば古くならないので数千年生きられるのではないのですか?
416 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:43:54.72 ID:FzSuR+Al
ヨガナンダは加齢を苦にして大観衆の目の前で自殺(ヨガナンダ信者・談)
417 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:45:17.68 ID:Owtr5/AU
>>415
ババジのように意図的にそうする聖者もいます
418 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:51:57.31 ID:5BWjqHEu
>>417
するとヨガナンダは新たな肉体を得て再びこの物質界に現れるのでしょうか?
その場合、成人した姿で現れるのですか?
それとも母体に宿って赤ん坊として産まれてくるのですか?
420 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:53:29.88 ID:Owtr5/AU
>>418
別の惑星かもしれませんね
421 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 12:00:19.46 ID:Owtr5/AU
>>418
ヨガナンダの師匠ユクテスワは
地球での死後に
ヒラニャローカという星に
自らの肉体を物質化して
教えを説いています
ヨガナンダにも死後肉体を再度物質化し
地球に現れもしています
以下略(現在進行中 >>171-178
あなたは自己都合による誤読が酷いし、相変わらず進歩が無いな...。
本来、唯物論者は仏教議論に入る資格がない
(物質科学で否定されている超常的内容のすべてが神格化というならば、そのことを証明しなさい)。
今時、使われない無我の古い語訳を根拠にし...
あなたは何十年、説明しても理解できない認めない人間ということがよく分かります。
こちらは記述に時間掛かるので、あとであなたの投稿すべてに対して完全に反論します。
もう、容赦しませんから。 【警告】
あなた方は条項1.に抵触しています。
----------------------------------------------------
>>180-181
唐突にコピペではなくて、
ちゃんとその投稿をすることの旨(理由)を述べて下さい。
何ですかコレは?
>>32-34
>>137-138
あなたもコピペは気を付けて欲しい。
自分の口(筆)はないのか? >>176
【警告】
あなたは条項4.に抵触しています。
しっかりとした理由や根拠を示さないのならば、
あなたの投稿はただの落書きや中傷行為と見なします。
二度と参加されなくて結構です。 盛り上がって参りました!\(^o^)/
南無南無 (-∧-)合掌・・・ 184.バカはバカを判定できない。
その代表がバカ宝珠である。 >>182
>(物質科学で否定されている超常的内容のすべてが神格化というならば、そのことを証明しなさい)。
仏教ではですねえww
たとえ、悟って覚者になっても、空中を飛びまわったり、何万年も何も食わずに生きたり
出来んのですよw
神智学では、どう説いてるかしりませんがwww >>186
いいから出てってください。
このスレでは迷惑ですから。
どこか他で好きにやって下さい。 188.バカ宝珠が良く言う、よ。バカ失格であることを理解できない。
バービマンはバーかマンであることを認めるべきである。逃げるバカである、か。
>>188 宝珠殿へ
仏の顔も三度まで。なので
三度までは警告して
それ以降は、相手にしない
_ _ _
VIPQ2=2以上であればワッチョイできるけど
この板の場合は
VIPQ2という表示がないので
ワッチョイできないかもしれない。ということで
ワッチョイに関しては
失礼いたしました スマソ m(_ _)m
ワッチョイの参照資料として
ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12159337082 190.バカおじゃる、の登場である。覚者になれないバカである。恥を知れ。 >>169
すいません、某サイトのコピペになりますが一読を^^
【第2難問】「有る」とは何か。「無い」とは何か?
ウッダーラカ・アルーニの「有の哲学」は「有」から始まっていた。
「有」から始まるということは、この世において「いったいどうやって無から有が生じたのか」などとは考えないということだ。のっけが「有」なのだ。
最初から「有」があったのだ。どんな「有」も「有」からしか生じないとみなすのである。
こういうインド哲学は流出論的な一元論である。
そういう特徴をもつ。ユダヤ教もエン・ソフという流出から世界が始まったと見るが、インド哲学は「有」だけが流出していくと見た。
流出論的な一元論はいきおい唯名論的になる。
唯名論(ノミナリズム)というのは、ヨーロッパ中世のスコラ哲学が生んだ普遍論争が際立たせたもので、そこでは「人間」「愛」「犬」「薔薇」といった類の概念は実在しないとみなし、それらには名(名辞)があるだけだと見た。
これに対して実在論(リアリズム)は、どんな歴史や現象であれそこにおこっていることは、それらに名前がついていようといまいと、それらについての記述があろとなかろうと、ほぼ実在しているとする見方である。
インド哲学は言葉を本質化して見るので、最初ははなはだ唯名論的になる。
へたをすれば名辞がありさえすればいいので、それを次々に連ねていくと神秘主義的な傾向にもなる。
とくにウッダーラカ・アルーニの哲学を解釈していくと、そうなりかねない。
しかし六派哲学の時代になると、インド哲学にも実在論が台頭する。
ミーマンサー、ニヤーヤ、ヴァイシェーシカの学派だ。
とくにヴァイシェーシカ学派は、「すべては知られるものであり、かつ言語にも表現できる」と見て、「知られるもの、言語表現できるものはすべて実在する」とみなした。
この「知られる」には「知覚される」だけではなく「推理される」も含まれる。 >>169
つづき
そこで第2難問だが、「有る」はともかく、「無い」の説明が面倒だろうと思われようが、そんなことはない。
インド実在論の見方からすると、「ない」や「無」の議論は実はたいへん明快なのである。「ここに水瓶がない」は「ここに水瓶の無がある」といふうに言えばいいからだ。
これは、「対蹠者」と「場」と「無」の3つを一挙に捉えるという方法だ。
ラッセルやクワインらが先導してきたヨーロッパの論理学では、「丸い四角形」は意義(センス)をもつけれども指示対象としての意味(ミーニング)をもたないとされてきたのだが、
印哲のヴァイシェーシカ学派では、「丸い四角形」は「絶対にありえないものとして実在するもの」というふうになる。
こういうわけで、すべては「ある」であって、「無」や「ない」すら「無がある」のだし、「ないということがある」なのである。
この方法は、初期宇宙に「なかった」はずのヒッグス粒子やダークマターを「あるもの」として提案した宇宙物理学の推論方法につながるところがある。
https://1000ya.isis.ne.jp/1645.html
以上であります。
コピペばかりして申し訳ない。
つまり、このコピペで私は何が言いたいのかは後ほど^^ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7)
>>193 栄進師匠へ
ttps://1000ya.isis.ne.jp/1645.html
>最初から「有」があった
>どんな「有」も「有」からしか生じない
>インド哲学は「有」だけが流出していく
何回も説明してるけど
↓これでしょ?
サーンキヤ
プルシャからの
→ プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく
無為法の世界からの流出なのか?
あるいは
非想非非想の世界からの流出なのか?
非想非非想の世界は
仮設としての
縁起している世界に依存している
ということで、とりあえず、一応、念の為 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) >>169
上記のコピペをヒントに考えるとですね。
インド人は言葉に出したものは、すべて実在すると考えるそうですね。
ここにコップは無い、ではなく、ここにコップの無があるという言い回しです。
この「無がある」というのがポイントでして。
無とは、非ずと言い換え、ここに「非ずによってアートマンを現す」を代入してみましょう。
ここにコップのアートマンがある、です^^
アートマンとは、無である。
いや、アートマンという無があるという言い回しかな。
この言い回しは普通日本人はしませんが、宝珠さんは無意識に使ってる。
>『ウダーナ』の中で縁起する無常な世界(有為)とは違うもの(無為)があると説いたことです。
無為がある、とね。
ヒントになったでしょうか^^ 194.無為法からの流出か。非想非非想からの流出か。
そんなことはない。 貴方は、カッパではない。
私もカッパではない。
彼も彼女もカッパではない。
・・・・・・・上記の文には、「カッパは、いない とは書かれていない。〜は、カッパではない
と言っているだけである。 ということは、・・・・・・・『カッパはいるんだあああ〜〜。
それが真実だああああ〜〜〜〜」
wwwwwwwwwww
はい、みなさん、 ここは笑うとこですよw >>197
笑われ者のヘピーマンや〜い!w
ひゃっひゃっひゃ!( *´艸`)
>>195 栄進師匠へ
>コップの無がある
仮設としての
おじゃるは「実有」ではない。がある
おじゃるは「変化しないもの」ではない。がある
おじゃるは「自性」ではない。がある
それゆえに
おじゃるは「我所」ではない。がある
おじゃるは「我」でもない。がある
想う、という『想い』も手放して。がある
想わない、という『想い』も手放して。がある
非想非非想も手放して超えて逝く。がある 197.カッパはいる、か。
実在か否か、を留保して、観念としては存在している。 >>197
もうそーゆーレベルの話じゃないんですよ^^
カッパは実在しない、しかしカッパのアートマンは実在する。
わかるかな?わかんねーだろーなあ^^ 199.おじゃる、は実有ではない、か。
実有でないならば、否定する理由がないことになる。
なんで否定するのか。
実有であると、都合が悪いから、否定するのである。
バカおじゃるは、反省せよ。
>>201 栄進師匠へ
ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本
「壊滅しない(常住不変)」ではない。がある
「縁起しない(常住不変)」ではない。がある
それゆえに
仮設としての
縁起をもって
縁起したものを離れることもある
縁起したものを離れて、そして
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである
そして、その結果として
仮設ではない。がある
縁起ではない。がある
有為法ではない。がある
対機説法としての?涅槃がある 203.ブッダは説かない、か。
それで苦しみの終わり、か。
バカ丸出し、である。
そんなことで、苦しみが終わることはない。 >>163
それならば無常や苦と同じく無我についても諸行は無我であると言えばいいのです
それをあえて諸法(一切法)としているのは何故か?
それは行(形成されたもの)ではない無為法も含んでいるから
>比丘たちよ、もし人ありて、< わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう>と、そのように言うものがあったならば、
>それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。
>何故であろうか。比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである」
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html
無為なる涅槃は釈迦にとってはあるものでありだから一切に含まれます
初期仏教では一切法は消滅変化する現象法に限定されたのものであるということはありません
限定したら涅槃はありもしないものになります
(一切法の法とはここでは事物や存在のことを指します) >>190
おじゃるさん、了解です。
>>192-193
エーと、
自分の意見を自分自身の言葉でしっかりと述べるならば、
その為の参考資料としての論拠の提示はもちろん何も問題ないです。
なので文献等から一部をコピー転載されてまったく構いません。
いや寧ろ、お薦めの良い情報があればどしどし皆さんに教えてください。
それと、鬼和尚のことで一言だけ云わせてもらいますね。
鬼和尚の投稿はいつもスパッと簡潔にして快活にされてるので、
そのこと自体にとても驚かされています。
そのような芸当はとてもこの私にはできないことです。
ただ、いつもポ〜ンと解答(私には正しいものと理解できますが)だけがあるので、
殆どの閲覧者には難しくてなかなか理解されないのではないでしょうか?
要するに、その中身については説明不足だということ。
つまり、最初から分かってる者にだけしか分からない。
(機会があったら宜しくお伝えください!)
すみません。
こちらの方こそ簡単には返答レスが返せないことが多々あります。
そのことをどうかご了承のほどを願います。
栄進さんの投稿は、またあとでゆっくりと読ませて頂きます。 >>187
パーピマン、
あなたに対する反論は何処からでも入れるのですが
(外道スレでの後半の投稿も忘れてるわけじゃないし...)、
ではまず、その発言について確認したいと思います。
>仏教ではですねえww
エッ、仏教では?
仏教では唯物論を説くとな?
そんな話は私は今まで聞いたことがないのですが、それはいったい何処の何という諸派ですか?
まずは、それをここへ明らかにして下さい!
尚、個人の唯物主義者の僧侶が〜というのは辞めて下さいね。
>>207 宝珠殿へ
>仏教では唯物論を説くことなのか?
たとえば↓これを前提としてる。とか?
ttps://takanetosyo.jimdo.com/2011/11/05/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E6%9C%97%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E6%89%B9%E5%88%A4%E7%9A%84%E8%80%83%E5%AF%9F/
松本史朗の仏教の批判
第1章
仏教であれ、キリスト教であれ
すべて宗教とよばれるものは
人間がつくりだした夢にしかすぎない
_ _ _
(唯識ではなくて)
すべてを脳に還元する単純な脳一元論ではない
「脳が心を作り出す」というよりは
「脳という構造が心という機能と対応」しているとする
唯脳論(ゆいのうろん)とか? >>205
諸法は最初から元々、無為を含みません。
それが一切の法「一切法」なのです。
涅槃はゴータマにとってはあるものでも、我々にはそれを示すことができない。
従って、仏教では二諦によって世俗諦で教えるのです。そうでないと我々には役立たないからです。
現象法に限定して、尚且つ、それとは異なるものがあると教えるのが仏教です。
縁起(一切法/有為)には拠らないものがあると説く、それがウダーナの教える「無為」ですから。
あなたがウダウダいったところで経典ではそうなっているのだから、
それがゴータマの教え方ですよ。
あなたの話はすべて部派仏教のアビダンマの理解です。
初期仏教のものとは見なされません。
いや、分からなくても仕方ないのです。
何故ならば、すべての仏教諸派が間違えてるのだから...。
寧ろある意味では、「仏性」と「如来蔵」を説く部分について大乗はその点が優れている。
また、「諸法」については後で述べます。 >>209
>諸法は最初から元々、無為を含みません。
その根拠を経典から明確示してください >>210
>その根拠を経典から明確示してください
↓
その根拠を経典から明確に示してください >>209
>縁起(一切法/有為)には拠らないものがあると説く、それがウダーナの教える「無為」ですから。
縁起に拠るものは一切法ではなく諸行(一切行)です
縁起に拠らないものも含んで一切法であり釈迦は一切法無我と説きました 僧兵達のバトルが始まるにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・
>>212
>縁起に拠らないものも含んで一切法であり釈迦は一切法無我と説きました
リンクの貼り憑け願います ヨロ m(_ _)m
スッタニパータ 1119
仮設としての
縁起している世界の中で
縁起に依存している
(無為法がある。という『想い』も手放して)
すべて一切の諸法を『空性である』と観照して
(縁起に依存しているを手放して超えて)
その結果としての涅槃がある
という涅槃に導くための対機説法も否定しまつか?
涅槃に導くための
根本仏典とかの
苦集滅道に導くための対機説法も否定しまつか? そもそも「無い」の意味って?
誰が定義した?
人によって違うだろう。
唯一絶対の定義があるのなら指摘してよ。
無理だろ?
じゃあ、
「アートマンは無いのか」という問いは、言い換えると
「アートマンは○○のか」という問いになる。
答えが出るはずがない。
他の問いも同じこと。
>>205
> 一切法の法とは、ここでは事物や存在のこと
無為法とは
仮設ではない
縁起でもない
有為法でもない
それゆえに
事物や存在でもない
_ _ _
真俗二諦
その当時のインドの人々にとって仏教を理解せしめるためには
世間的な『想い』を一応認めて
その理解のうえで
その当時のインドの人々に
仏教を理解せしめるというやり方がとられねばならなかった
仮設としての
縁起に依存して
苦しい。という『想い』が現れる場合もあるので
それゆえに
苦しい。という『想い』が依存している
縁起している世界を手放して超えて逝こうという
そのための涅槃・無為法という対機説法でつ >>209
だからw
>現象法に限定して、尚且つ、それとは異なるもの が、
「境地」としての「涅槃」なわけ。
こんなにも単純でシンプルな事柄なのに、なんでわざわざ複雑怪奇なものにしちゃうかな・・・w 日本語で言う『境地』という捉え方は、結構言い得ていると思うんだけどねぇ・・。
「境地」って、
≪どこかに≫≪具体的に≫(≒空間的に)(質量をともなって)≪永遠に≫≪存在する≫
ものなのかねぇ・・・ ┐(´ー‘)┌
>そもそも「無い」の意味って?
おじゃるは
仮設としての
縁起している世界の中で
無明薫習に依存して
我癡・我見・我慢・我愛に依存して
遍計所執性に依存して
貪・瞋・痴に依存して
それゆえに
何かが「ある・ない」と妄想・分別しちょりまつ
青目(ピンガラ)の中論 觀如來品 第二十二
…
諸の法の実相は性としての空である
如来の滅後も、こう思惟してはならない
有るのか?無いのか?有ることもあり、無いこともあるのか?と
如来がいる。という『想い』は
本より畢竟じて空である
如来は戯論を超過している
− これに対して −
おじゃるは
仮設としての
無明薫習に依存して
戯論を生じている ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています