【柔軟に】水の哲学【無限に】
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Don’t think, feel!
考えるな、感じるんだ!
時にはカクテルを飲みながら、
時には音楽を聴きながら
語りあいましょう(V)∧¥∧(V) 夏は、この世とあの世の境が、とても曖昧になる時期。
その最も境目が「水」であろう。
海や川、湖、この時期はあまり近付くべきではない。
誰でもイイから恨みを晴らしたかったり、寂しくて誰でもイイから連れていきたいだろうから。 >>472
加藤剛さんのご冥福をお祈りします。
南無観世音菩薩 南無観世音菩薩。 三島由紀夫が語る死の哲学
武士は、普段から武道の鍛錬はいたしますが、
なかなか生半可なことでは、戦場の華々しい死、なんてものはなくなってしまった。
そのなかで、汚職もあれば社用族もあり、
今で言えば、このアイビー族みたいなものも、侍の間で出てきた時代でした。
そんななかで『葉隠』の著者は、「いつでも武士というものは、一か八かの選択のときには、死ぬほうを先に選ばなければいけない」と口をすっぱくして説きましたけれども、
著者自体は、長生きして畳の上で死んだ、とあります。 そういうふうに、
武士であっても、結局死ぬチャンスがつかめないで、
「死」ということを心のなかに描きながら生きていった。
そういうことで仕事をやっていますときに、なんか、生の倦怠(けんたい)と言いますか、
ただ人間が「自分のために生きよう」ということだけには、
いやしいものを感じてくるのは当然だと思うのであります。
それで、人間の生命というものは不思議なもので、
自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬ、というほど、人間は強くないんです。
というのは、人間はなんか理想なり、何かのためということを考えているので、
生きるのも、自分のためだけに生きることには、すぐ飽きてしまう。 すると、
死ぬのも何かのため、ということが必ず出てくる。
それが昔言われていた「大義」というものです。
そして「大義のために死ぬ」ということが、
人間のもっとも華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だというふうに考えられていた。
しかし、今は大義がない。
これは民主主義の政治形態ってものが、大義なんてものはいらない政治形態ですから当然なのですが、
それでも、心のなかに自分を超える価値が認められなければ、
生きてることすら無意味になる、というような心理状態がないわけではない。 情は人のエネルギー源である。
喜びや怒りや不安に後押しされて人は生きている。
しかし、情に流され、理を見失えば、
無益に迷路をさまようか、心の病に侵されていくしかない。
秩序が崩壊し、強い不安感に支配されがちな現在、リスクは非常に高くなっている。 乱世を生き抜いた偉人や名経営者の足跡をたどると、
彼らが「感情のマネジメント」に秀でていることに気づく。
自分の感情もそうだが、
他人の感情を理解し、
配慮ある行動をする能力が卓越している場合も多い。
自他の感情を理解しながら、
適切な対処をする力の高さが、彼らを成功に導いているのだ。 日本の刷新に薩長の関係強化が必要だと考えていた坂本龍馬は、
両藩の商取引を仲介するなどして、少しずつその距離を縮めさせる。
そして、互いに同盟の必然性を認識するに至った慶応2(1866)年1月、
京都の薩摩屋敷で両藩の代表を会見させることに成功する。 しかし、その前々年の第1次長州征伐において敵味方であった両藩の間には、
強い感情の「しこり」があり、事はそう簡単ではなかった。
武士の面子を重んじる彼らには、
不信感の拭えない相手に対して自分の側から同盟を言い出すことなど、
絶対にできない相談だった。
このため龍馬が数日遅れで合流したとき、
双方の歩み寄りはなく、長州の桂小五郎はすでに帰り支度に入っていた。 このとき龍馬は、
仲介者として、両者の「感情のしこり」を解きほぐす役割を一手に引き受ける。
龍馬はさっそく長州藩の桂小五郎に話を聞きます。
桂は
「長州は存亡の危機に直面している。だからこそ長州から助けてくれとは言い出せない。
今回、薩摩と話しをまとめることができなければ、我々は討ち死にするだけである。
しかし、自分たちが死んだとしても、薩摩が勤皇の意思を継いでくれるだろう」と言います。
桂小五郎は長州藩の体面を気にしていました。 続いて、坂本龍馬は薩摩藩の西郷隆盛と話します。
「なぜ薩摩藩側から同盟の話を切り出さないのか。
あなたたち薩摩藩は余裕がある。長州の苦しみは察しがつくもの。
長州側から言い出せない理由もわかってほしい」
という龍馬の言葉に、
西郷はあらためて薩摩側から同盟の話を切り出すと約束したといいます。
薩長同盟は坂本龍馬が会談をセッティングをしただけでなく、
亀山社中を介しての長州藩が必要とする武器・軍艦の購入による両藩の関係改善に、
さらに会談においての西郷隆盛を説得したのです。 薩長同盟が結ばれた5ヶ月後、第2次長州征討が始まります。
長州藩は薩摩藩の支援で軍備の近代化をはかりました。
幕府から出兵を要請された薩摩藩は、薩長同盟に基づいて、これを拒否しています。
そして、長州藩は幕府の大軍に勝利し、倒幕の機運を大きく高めました。
薩長同盟が結ばれたことによって、
いよいよ倒幕が現実味を帯び、薩摩藩と長州藩が中心となって、
大政奉還、王政復古の大号令によって新政府が樹立されるのでした。 志士(しし)は、
一般に日本の江戸時代後期の幕末において活動した在野の人物を指す歴史用語。
『論語』にある「志士仁人(ししじんじん)は(中略)身を殺して以て仁をなすなり」が語源であり、
天下国家のために正しいと信じたことを、生命をかけて貫く人物像を指した。
多くは、尊皇攘夷の思想を持って政治運動を行った者を指す。草莽とも呼ばれる。 また、
比喩的に他の時代の人物や外国人に対しても使われることがあり、
第二次世界大戦中に日本へ亡命したスバス・チャンドラ・ボースなどのインド独立運動家を指して「インド独立の志士」とも呼んだ。 鎖国と攘夷に揺れた幕末から明治維新後の国家建設の先駆けとなったのが、
尊王志士である。
当初、尊王志士は尊皇攘夷のもとで異国との交わりを忌み嫌い、
天皇を中心とした国家の建設が不可欠として、
江戸幕府に対して尊皇攘夷の履行を徹底すべきと考えたが、
やがて幕府の求心力が急速に低下すると、
これを打倒することで江戸幕府に代わる天皇を中心とした統一政体の確立を望んだ。
江戸幕府と長州藩の幕長戦争などで有力な大名家である雄藩が幕府と対立を深めた結果、
薩摩藩と長州藩による薩長連合の成立を経て、
ついに戊辰戦争によって倒幕を成し遂げた。 政治運動に命をかける人物のモデルにもなり、
板垣退助など自由民権運動の活動家や、
明治社会主義者の一部にも「志士」という理想像が共有されていた。 身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
十月二十五日 二十一回猛士(松陰が使用した号の一つ) 【第一章】
私の気持ちは昨年から何度も移り変わり、それは数えきれないほどである。
とりわけ私が趙の貫高や、楚の屈平のようにありたいとしてきたのは皆の知る通りである。
だから、入江杉蔵(九一)が送別の句に、
「燕や趙の国には多くの人がいるが、貫高のような人物は一人しかいなかったし、荊や楚にも深く国を思う人は屈平だけだった」
という送別の句を贈ってくれたのである。
しかるに、五月十一日、江戸送りのことを聞いてから、「誠」という言葉について考えた。
この時に入江杉蔵が「死」の文字を贈ってくれた。
私はそのことについては考えず。一枚の木綿の布に
「孟子にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」
の句を縫い付けて江戸へ持参した。
これを評諚所に留め置いたのは、私の志を表す為であった。 昨年から(安政5年)、朝廷と幕府の間では意思が通じていないようだ。
いやしくも私の真心が伝われば自ずと幕府の役人も分かってくれる、そう想いを決め、やらなければならないことを考えた。
しかし、蚊のような小さな虫でも群れを成せば山を覆ってしまうとの例え通り、
幕府の小役人たちに握りつぶされ、とうとう何もできないまま、今日に至ってしまった。
私のの徳が薄いので至誠を通じることができなかったと受け取るべきであろう。
今さら誰を咎め怨むことがあろうか。誰も怨むことはない。 【第二章】
七月九日、初めて評定所から呼び出しがあった。
三奉行(寺社奉行・松平伯耆守宗秀、勘定奉行・池田播磨守頼方、町奉行石・谷因幡守穆清)の取調べがあり、
次の二点について私を尋問した。
一つは梅田雲浜(うめだうんぴん)が萩へ来たとき何か密談をしたのではないか、ということ。
二つ目は「御所内に落とし文があったが、筆跡が似ているのでお前が書いたのではないか。覚えがあるのではないか」と尋ねられた。
訊問は、この二点だけであった。
梅田は奸計に長けていると感じるところがあり、私は「梅田は胸襟を開いて語り明かすほどの者ではない。
そういう意味で彼と密議などするはずがない。 私は公明正大であることを好む。
どうして落文などという隠れごとをしようか」とはっきり答えた。
その後、私は六年間幽囚の身で苦心して確信した所説を披歴し、
ついに大原重徳を萩に迎え、長州藩を中心として志ある藩で挙兵しようという計画したこと、
さらに老中・間部詮勝の要撃計画を話したので、獄に入れられる身となった。 【第三章】
私は激しい性格で人から罵られると我慢が出来ない。
そのため、今回は時の流れに従って人々の感情に適応するように心がけてきた。
だから、幕吏に対しても、幕府が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したのはやむをえないことであると述べた上で、その後の措置こそが肝要であると論じた。
そこで私が説こうとするのはすでに「対策一道」に書いたとおりである。
こうした私の姿勢には幕吏もさすがに怒ることはなかった。 私の説に対し幕吏は
「言っていることが全て的を得ているとは思えず、身分の低い者でありながら国家の大事を論ずることは不届きである」
と弁じた。
私はそれに抗わず論争を避け、ただ「このことが罪になるというのなら、
それを避けようとは思わない」とだけ述べた。
幕府の法では、庶民が国を憂うことを許していない。
その善し悪しについては、私もこれまで議論をしたことはなかった。 聞くところによると、薩摩藩の日下部伊三次は、取り調べの際に、幕府の失政を次々にあげ、
「このようなことを続けていれば、幕府はこの先、三年や五年も保つことができないだろう」
と述べて幕吏を激怒させた。
さらに「これで死罪になろうとも悔いはない」と云い放ったという。
この気概は私も及ばないところである。
私は、入江杉蔵が私に死を覚悟するよう求めたのも、こういう意味なのかもしれない。 思えば、唐の人、段秀実は郭曦には誠意を尽くし、朱には激しく非難しために殺された。
こうして見ると、英雄と云われるべき人物は時と所により、それにふさわしい態度で臨んだ。
大事なことは自分を省みて良心に恥じることがないことである。
そして、相手をよく知り、良い機会をとらえることが大切なのである。
私の人としての価値は、死後に棺を蓋で覆って始めて評価されるべきものである。 【第四章】
このたびの調書は、はなはだ粗略なものである。
七月九日に一通リ申し立てた後、九月五日、十月五日の両度の呼出の時も大した取り調べもないままに十月十六日に至り、供述書を読み聞かせあり、直ちに署名せよとの事であった。
私が苦心をして述べたアメリカ使節との外交交渉や海外渡航の雄大な計画に関する考えは一つも書かれず、
ただ数か所のみ開港の事に触れ、国力充実の後、打払うべきなどと、私の心の真意ではない愚にもつかないようなことを書き付けて供述書としていた。
私は、言っても無駄であることを悟り、敢えて抗弁しなかったが、不満が甚だしく残った。
安政元年の下田踏海での取調書と比べると雲泥の差だというほかない。 【第五章】
七月九日、大原重徳公を長州に迎える策、老中間部詮勝要撃策の事を一通り申し述べた。
これらのことは幕府も既に事前情報で承知していると思われたので、誤解なきように明白に述べておいた方が却って良かろうと思い申し立てしたが、幕府は全く知らなかったようであった。
幕府の知らないことまで述べて、多くの仲間内に累が及び無関係の人を傷つけることになり、
毛を吹いて傷を求めるという喩えのように、強いて他人の欠点を探し求めれば、
かえってこちらの欠点をさらすことになるに等しいと思い直した。 だから、間部要撃の件についても「待ち伏せて襲撃する要撃」から「待ち伏せて諌める要諌」と言い替えた。
又、京都で連判した同志の姓名なども、隠して明らかにしなかった。
これは、後の運動の為を思ってしたささやかな私の老婆心からである。
これにより、幕府が、私一人を罰して他に累を及ぼさなかったのは大変喜ぶべきことであろう。
同志諸君、この辺りの事を深く考え起ち上がって欲しい。 愛媛県西予市野村町では、7日早朝に町内を流れる肱川が一気に増水、中心部の広範囲が水につかり、逃げ遅れたとみられる5人が犠牲になった。
約2キロ上流にある野村ダムが豪雨で満杯となり、放水量が急激に増えたことが氾濫の原因の一つとみられるが、
早朝の急な放水情報が十分に届かなかった住民もいた。
西予市では7日午前7時半までの24時間雨量が観測史上最大の347ミリにのぼった。
雨水は野村ダムに流入し、満杯になるとダムから水があふれ出るため、四国地方整備局のダム管理所は午前6時20分、流入分とほぼ同量の水を放出する「異常洪水時防災操作」を開始。
放水量は操作前の2〜4倍に急増し、午前7時50分には過去最多の毎秒1797立方メートルに達した。
通常は放水する場合、ダム管理所が事前に市にファクスで知らせるが、今回は「状況が厳しく数時間後に放水量が増える」と、市に電話で連絡した。
また午前5時15分からは川沿いのサイレンを鳴らして放水を知らせるなどし、
同整備局の清水敦司・河川保全専門官は「ダムが満杯になれば水をためることは不可能。定められた通りに対応するしかない」と語る。
一方、市は午前5時10分に同町内の一部に避難指示を発令。
防災行政無線で「肱川が氾濫する危険性があるので、すぐに避難して」と呼びかけたが、「ダムの放水量が増える」という情報は発信していなかった。
これに対し、防災無線が聞こえなかったとの声も。男性(42)は、妻の友人からのLINEで避難指示に気付いたという。
前夜、国土交通省の出先事務所に聞くと「堤防を越えるようなことにはならない」と言われたといい、「ダムの決壊を防ぐためとはいえ、何とかならなかったのか」と憤る。
男性(85)は「放水量が増えると知っていたら、もっと早く逃げたのに」と話した。
西予市の担当者は「想定外の雨量で、当時としては最善の選択をしたつもりだ。
今後、情報発信について検証したい」と語った。
読売新聞 2018年07月09日 20時44分
https://www.yomiuri.co.jp/national/20180709-OYT1T50054.html 西村康稔官房副長官と松尾一郎東大客員教授が9日、BS日テレの「深層NEWS」に出演し、西日本豪雨を踏まえた対応について議論した。
西村氏は、気象庁が大雨特別警報を出したにもかかわらず多くの犠牲者が出たことを受け、「それぞれの自治体が政府の呼びかけに対し、どう反応したか検証していくことが大事だ」と述べた。
松尾氏は「住民が危ないと思っても、どう行動するか分からない。地域の中で具体的にどう行動するかという仕組みを(自治体が)作っていくことが重要だ」と指摘した。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20180709-OYT1T50065.html 私たちは水分補給というと、つい水を飲むことを想像しがちですが、
飲料の種類による水分補給の効率は変わらないため、ジュースやコーヒーなども有用といえます。
また、飲料だけでなく、普段の食事からも水分を摂取することは十分に可能です。
野菜や果物はもちろん、ご飯やパスタ、シリアルといった食品にも水分は含まれています。
脱水による精神活動や身体活動のパフォーマンス低下を防ぐためには、
適切な水分補給について正しく理解し、
実践することが大切です。 人のからだの半分以上は水でできていいます。
胎児では体重の約90%、新生児で約75パーセント、子どもで約70パーセント、成人では約60〜65パーセント、老人では50〜55パーセントが水で占められています。
また、人だけでなく、地球上のあらゆる生物は水からできており、
生物が生きていく上で水は欠かせない物質であることがわかります。
では、なぜ生物が生きていくために水が必要なのでしょう? 体内の水は生物が生きていくための特別な役割をいくつも果たしています。
それらは、体の隅々の細胞まで酸素や栄養素を運ぶ、体の中でできる老廃物を回収し排出する、発汗などによって体温を調節するなどといったものになります。
これらの役割を体の中で果たせる物質は水以外になく、
それゆえ、生物にとって水は不可欠なものと言えます。 また、人間は、呼吸、体温調節、不要物の排泄などで絶えず水分を体の外に排出しており、
生きていくためには、体が失った水分と同量の水分を補充する必要があります。
それ故に、人間は水さえあれば食べものがなくても2〜3週間程度は生きられる一方で、
水なしでは4〜5日で命を落としてしまうことになります。
そういう観点からも、水は生物にとって必要なものであるといえます。 私たちの住む星・地球が誕生したのは今から約46億年前のことでした。
そして最初の生命が誕生したのは約 38億年前。 生命誕生の場は海の中でした。
この頃、地上には強い紫外線が降り注ぎ、火山活動は活発で、陸上は生物が生存するには厳しい環境だったたからです。
生物の材料となったのはアミノ酸、核酸塩基、糖などの有機物で、
これらは原始大気中の二酸化炭素や窒素、水などの無機物に雷の放電、紫外線などのエネルギーが加えられて作られたようです。 初期の生物は全て単細胞であり、はっきりとした核をもたない原核生物でした。
これらの生物ははじめ、海の中を漂う有機物を利用し、嫌気呼吸つまり酸素を使わずに生息していました。
しかし有機物には限りがあり、やがて自分で栄養を作り出す手段が必要となりました。
これが光合成のはじまりで、約35億年前藍藻植物(シアノバクテリア)がその担い手として登場しました。
光合成によって、無機物である二酸化炭素と水からブドウ糖などの有機物を作り出すことができるようになりました。
藍藻植物が酸素を作るようになると、酸素を利用した呼吸をする微生物も誕生しました。 原核生物は長い年月をかけて多様な進化を続け、やがて15億年前、核をもった生物、真核生物が現れました。
また、多細胞生物が誕生したのは9〜10億年前だといわれています。 このような生物の進化は海の中で起こっていました。
陸上で生物が生活するには、紫外線が大きな障壁となって いたためです。
この問題を解決したのがオゾン層です。
藻類の活発な光合成により大気中の酸素量が増えていくと、紫外線の作用を受けて酸素からオゾンが生成されました。
高度約 20〜50 kmの領域でオゾン層が形成され、生物にとって有害な紫外線はそこに吸収されるようになりました。
こうして生物が地上でも安全に生活できる環境が長い年月をかけて作られました。 陸の上が安全になると、生物は次々と上陸をはじめました。
最初に上陸したのは緑藻類(緑色の藻類で、クロロフィルaおよびbを多量に含む色素体をもつ、最も簡単な植物)でした。
陸上は光合成に必要な光があふれていることから植物は進化し、繁栄を始めました。
陸生植物は約5億年前に出現し、体をしっかり支えるために根や茎、葉が発達し、海の浅瀬から低地の沼へと徐々にその生息地域を拡大していきました。
またシダ植物が大繁殖しました。
現在化石燃料として使われている石炭は、この頃から堆積し始めた植物が石灰化したものです。 植物に続いて節足動物などの無脊椎動物が上陸し、動植物は急速な進化を遂げていきました。
脊椎動物が誕生したのは4億年位前のことです。 生き物は、水なしでは生きられない。
水分の摂取を全くしなくても生きていける生物というのは存在しません。
クマムシも例外ではなく、乾燥に耐えられるのは徐々に水分が失われて休眠しているときに限られ、活動時は水分が必要です。
一方、液体の水を「飲む」ということを全くしなくても活動できる動物なら少なくありません。
代表的なものは、砂漠に住む哺乳類のオリックスやカンガルーネズミなどです。
これらの動物は、食物から得られる水だけで生きていけるように、
普段の生活で失われる水分をぎりぎりまで抑えるような体のしくみをもっています。 情報です。
川崎競馬場で現在、競馬観戦型ビアガーデン「スパーキングビアガーデン」が開催されています。 歴女さん、宗教板へ、ようこそ(^^ゞ
地球の歴史、ありがとうございます(^^)d
水は大切です。 今日は、蛇拳の使い手とスパーリングしました。
いい汗かきました。 武士道の歴史において闘う者の“心の道”は、
「変化」と「復活」を繰り返しながら、
「創造」の原動力である新たな可能性を広げることを指します。
闘う者が目指す究極は「公正・正義のため」である。 物理的であれ、なんであれ
いつも自分のやることを制限してしまうと
それはあなたの行動、人生にも広がってしまう。
限界などない、停滞期があるだけだ
そこに留まってはいけない。 <三つの鍵>
シンプルさ。直接性。自由。
武道家は2つの問いかけをする必要がある。
1、自分が何をしたいのか。
2、何が最速で、もっとも効率的かつ効果的に目的を達成できるか。 全ての武道とは、
川下に流れていく水のようであるべきで、
決してよどんではいけない。
それは変化する事が目的ではなく、
進歩する事が目的なのである。 プロレスラー橋本真也が亡くなった時、お通夜に駆けつけた佐々木健介の話
橋本の亡きがらの目から水見たいのが少し流れたという
「健ちゃんが来てくれたから嬉しかったのよ」と橋本の元奥さんが言っていたらしい
健介は橋本とはけんか別れしたまま和解できなかったのが心残りだったらしい
「こういう事もあるのね」と親戚の方が言っていたそうな
なんか、いい話です 2018年7月11日11時32分 朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL7C30Z2L7CUTIL003.html?iref=sp_new_news_list_n
警視庁は、朝日新聞販売所(ASA)矢向の元アルバイト従業員で無職の船木俊輔容疑者(37)=住所不定=を銃刀法違反(加重所持)の疑いで、
指定暴力団住吉会系組員の赤池浩容疑者(41)=奈良県橿原市=を同(営利目的譲渡)容疑で逮捕し、
11日発表した。船木容疑者は容疑を認め、赤池容疑者は否認しているという。 微かな光を灯すだけで、闇は消えてしまいます。
同じように、ちょっとしたポジティブな言葉にも、人を救う力があります。 明治から昭和にかけて生きた中村天風
中村 天風(なかむら てんぷう)
(1876年7月30日〜1968年12月1日)
日本初のヨーガ行者。心身統一法を広めた。
30歳にして、結核を発病。
33歳の時、病気のために弱くなった心を強くする方法を求め、アメリカへ。
日本への帰国の途上、
カイロにてヨーガの聖人に弟子入りし、
ヒマラヤで2年半修行。
また、中国で孫文に「中華民国最高顧問」として協力。
帰国後、東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任、実業界で活躍する。 波乱万丈の人生を経て経済界で成功します。
しかし、その後、突然財産を処分し「天風会」創立。
後進の育成に取り掛かります。
この「天風会」には、政財界の実力者が数多く入会したそうです。 キーワードは“笑顔”
天風哲学の基本は“笑顔”です。
悲しい時、つらい時、そんなときは無理にでも笑顔をつくってみよう、
そうすれば自然と楽しくなってくるからーというのが、
天風哲学の根本にあります。 やれ運命がつまらないの、人生がつまらないのって人は、その考え方がつまらない。 結局、思えば思うほど楽しい、考えれば考えるほど嬉しい、
ということだけを心の中の絵巻物の中に、はっきり、
しょっちゅう消えない形で書きどおしに書いて人生に生きることこそ、
人生極楽の秘訣だぜ、これ。 船に乗っても、
もう波が出やしないか、嵐になりゃしないか、それとも、この船が沈没しやしないかと、
船のことばかり考えていたら、
船旅の愉快さは何もなかろうじゃないか。
人生もまたしかりだよ。 もっともっと、人生を楽しまなければもったいないですよ。
生き方ひとつで楽園になるんだから。 儒教は
楽観的な人間至上主義であり、
中国で社会に多大な影響を与えた宗教です。
この宗教の起源は、
キリストの約500年前に生まれた孔子と言う人まで遡ります。
儒教は道徳的行動と生活についての教えであり、
宗教というよりも道徳観と捉えられる事もしばしばあります。
儒教は天国ではなく地上生涯を重んじる宗教です。
徳とは個人にとっても、社会にとっても素晴らしいものなので、
儒教の道徳は素晴らしいものです。
しかしながら、
孔子が教えた道徳観とは自分の力で実現しようとするものであり、
神に頼るところが全くありませんでした。
孔子は人は自らの徳に頼り、努力をする事によって自らの生活と社会を改善できる力を持っていると教えました。
しかし、キリスト教の聖書の教えは正反対の事を教えています。
人間は自らの失敗を帳消しにする事ができないだけでなく、
自分で神を喜ばせたり、天国にいく事はできないと聖書は教えます。 人間関係を良くするには
悪に報いるには正義をもってし、善に報いるには善をもってせよ。
その人を知らざれば、その友を見よ。
自分自身に対する誠実さと他人に対する優しさ、すべてはこの二つに包括される。
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
君子は平安でのびのびしているが、小人はいつでもくよくよしている。 学業や仕事で成功するには
止まりさえしなければ、どんなにゆっくりでも進めばよい。
一を以て之を貫く。
好きなことを仕事にすれば、一生働かなくてすむ。
己達せんと欲して人を達せしむ。
物事を迅速にしたいと、望んではならない。小さな利点に目をとめてはならない。
物事を早く行うことばかり望むと、十分になすことができない。小さな利点にとらわれると、大きな仕事が達成できない。 徳ある人を見たら、その人に並ぶことをめざせ。
徳なき人を見たら、我が身を振り返り、自省せよ。 何事も楽しんでやりなさい。
楽しんでやることで、思わぬ力が発揮されるものなのだ。
人間は逆境において人間の真価を試される。人生の達人は逆境を楽しみ、順境もまた楽しむのです。
朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり
人の本性はみなほとんど同じである。違いが生じるのはそれぞれの習慣によってである。 たとえ
どぶの中で死んでもなお、
前向きで死んでいたい…。
それが男だ!! 「惑星を破壊する力も、
フォースが持つ力の比ではない!」
ダース・ベイダー フォース(The Force)は、
銀河系のあらゆる生命を繋ぐエネルギー場である。
フォースの感応能力を持つ者はフォースの力を使うことが出来た。 フォースは“生けるフォース”と“宇宙のフォース”という2つの要素から成っていた。
あらゆる生き物が持つ生けるフォースのエネルギーは、宇宙のフォースの中へと流れ込んで全てを結びつけた。
フォースを研究・使用する代表的な組織として、
フォースのライトサイドを信奉するジェダイ・オーダーと、
フォースのダークサイドを信奉するシスが挙げられる。
フォース=センシティブ(フォースの感応能力を持つ者)は、一度に多くの生命が失われた時などにフォースの乱れを感じることがあった。 フォース使用者は、フォースによって多くの能力を使うことが出来た。
例えば攻撃者の接近を感知したり、
物体を押し飛ばしたり、
他者の思考に影響を与えたり(マインド・トリック)、
未来の予見、
フォースの霊体となって死後にも意識を保つ術も可能となった。
ダークサイドの使用者はフォースで相手の首を絞めたり、指先からライトニングを放つ技も使用した。
ジェダイは若き訓練生たちに、フォースは防衛や説得、知恵、物質操作、優れた身体能力の発揮といった多くの用途に使用することが可能だと教えていた。 ジェダイとシスの分裂の結果、フォースにはふたつの哲学が生まれた。
ジェダイに象徴される防御と献身の姿勢はフォースのライトサイド、
シスに象徴される暴力的かつ感情的な姿勢はフォースのダークサイドとみなされていた。 嵩山少林寺(すうざん しょうりんじ)は、中国の河南省鄭州市登封にある中岳嵩山の中の少室山の北麓にある寺院である。
インドから中国に渡来した達磨による禅の発祥の地と伝えられ、
中国禅の名刹である。
また少林武術の中心地としても世界的に有名。 伝説によれば、
インド仏教第28祖で中国禅の初祖となる達磨が壁に向かって9年間座禅していたところに、
二祖慧可が訪ねて達磨の教えを求めたという。
これにより、中国で禅の教えが広まったと伝えられる。 元代初期、世祖クビライは曹洞宗の五十二世雪庭福裕禅師を嵩山少林寺の住持に任じた。
雪庭福裕は戦乱で破壊された嵩山一帯の仏教寺院を修復するとともに曹洞禅の教勢を張った。
それ以降、華北地方の曹洞宗の大きな拠点となっている。 嵩山少林寺南北武術院では
曹洞宗正宗第34代功夫伝人のもとに、
少林寺入門基本功、仏門禅学、少林寺気功、柔骨功、少林寺五行拳、少林寺八段錦、少林寺易筋経十二段錦、十八般兵器
などが教練されている。 日本の武道でも「心・技・体」という言葉があり、よく道場でも掲げております。
この3つのことが武道家としての大切なものであることは、一目瞭然ですが、それぞれの関係性はどんなことでしょうか?
心と技(術)のつながりについて、根本的な解明や一流の技、
また訓練の結果(答え)については『気』のことを理解していなければ、
その説明は困難となるでしょう。 それについては「気」の重要性を理解しなければなりませんが、たとえば少林寺の「六合理論」から説明いたしましょう。
これは内側の3つが合うこと(内三合)、
そして外側の3つが合うこと(外三合)の理論のことですが、
外三合とは、人間の@手と足、A肘と膝、B肩と股関節をそれぞれ合わせることです。
内三合とは、@心と意、A意と気、B気と力をそれぞれ合わせるということです。
これらが合わされば、心と技、そして体が全部つながります。
そのためには訓練が必要ですが、
「気」のことが理解できれば(今述べてきたのは武道のことですが)、
実は日常生活の中にも、もっとあるのです。 最近、話題になっています「マインドフルネス」について、この根本となるものは、
私たちが教える「少林寺気功」が一番その実践の方法としてふさわしく、誰にでも行える技術であります。
“今のことに集中する”ということを、本当にあなた(実践者)は集中して行えているでしょうか?
仕事をしながら・・・など、何かしながら集中するというのは、言葉では簡単ですが、本当にそれは可能だと思いますか? 実際に可能だと言えるものは、瞑想(座禅)以外にはないでしょう。
特に少林寺気功の動功は、
呼吸と動作を合わせて、そして意識についても呼吸と動作を合わせて行えば、
あなた(実践者)の意識(意念)は、まるでマインドフルネスが与える効果と同じ状態と言えます。
「気」の訓練をして高めていけば、心も体も様々な技とつながり、仕事や家庭の面、さらに人生の面などすべてにつながるのです。
プロのような練習を短時間にも係わらず、効果として表れるのは「少林寺気功」ではないかと思います。 プロレスラーの蝶野正洋(54)と落語家の桂吉弥(47)が13日、MBSの生番組「ちちんぷいぷい」で、甚大な被害を出した西日本での豪雨のさなかに開かれた“赤坂自民亭”に苦言を呈した。
自民党国会議員の定期的な懇親会“赤坂自民亭”は今月5日に開かれ、安倍晋三首相、小野寺五典防衛相、上川陽子法相、西村康稔官房副長官、
自民党の竹下亘総務会長、岸田文雄政調会長らが出席。この日は日中、気象庁が緊急会見を開き、京都市では既に避難指示が出ていた。
「各選挙区から出てんのに、その情報が上がってないというか、そこに気がつかないというのがおかしいと思います。
結局、僕らのことを考えてくれてないんやっていう印象になんのは仕方ないと思います」と、情報収集能力や感度の鈍さを批判。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180713-00000087-dal-ent タレントのジミー大西が14日放送の読売テレビ「特盛!よしもと」に出演し、過去に警察官に職務質問された際の一部始終を明かした。
ある暑い日、バスを乗り越したために大阪の淀川沿いを「フラフラ歩いていた」というジミー。
警察官から「何かやってるんちゃいますか?」と質問され「『ううん…』て言うて」と否定したという。
これに、他の芸人パネリスト陣が反応。
ほんこんが「(ジミーのギャグの)『やってる!やってる!』って言わへんかったん?その時に言わな!おもろないな!」とツッコみ「何かやってるんですか?」と、警察官のノリでジミーに質問。
するとジミーは「やってる!やってる!」と応じ、スタジオは「即逮捕!」と大ウケだった。
結局、ジミーは警察官に「熱中症で暑くて脱水症状で『(パトカーで)運んでください』と」と懇願。
すると「『セブン−イレブンまで運びますわ』ってなって、運んでくれた」と、パトカーで最寄りのコンビニエンスストアに“連行”してくれたという。
https://www.daily.co.jp/gossip/2018/07/14/0011445082.shtml いかりや長介
(いかりや ちょうすけ)
1931年11月1日 - 2004年3月20日
日本のコメディアン、俳優、ベーシスト、タレント。
「ザ・ドリフターズ」(バンド、後にコントグループ)の3代目リーダー。
本名:碇矢 長一(いかりや ちょういち)。
愛称は「長さん」。
ドリフ時代初期は芸名をいかり矢 長介(読み同じ)としていた。
ドリフ映画で使われる呼び名は「ゴリラ」「下唇」。 8時だョ! 全員集合
1969年10月4日から1985年9月28日に、TBS系列で毎週土曜日の20:00 - 20:54(JST)に放送されたザ・ドリフターズ主演の国民的人気バラエティ番組である。
常に日本のバラエティ番組を代表する存在であったのはもちろんのこと、記録にも記憶にも残る伝説の番組として現在も語り継がれている。
出典 wikipedia 「オイーッス!」
「8時だヨ!全員集合」のコントが始まる前に、いかりや長介が観客に呼びかけるときのあいさつ
「オイス」
会場も大きな声で
「オイーッス」
と返す。
この会場の声が小さいと
「声が小さい
もう1回いってみよー!」
「オーイス!」
となります。 突いて、突いて、押して、押して、払って、払って、最後に斬る。
「8時だヨ!全員集合」の剣術コントでのいかりや長介のセリフ。
リズムに合わせて斬るふりをする。 「だめだこりゃ」
「ドリフ大爆笑」のもしものコーナーでの、いかりや長介の最後のセリフ。
志村けん、加藤茶、仲本工事、高木ブーといったメンバーと絡みつつショートタイムのコントにチョーさん自ら出演。
そして最後に
「ダメだこりゃ」 「次いってみよー!」
「8時だヨ!全員集合」で、次のコントに移るときのいかりや長介のセリフ。 「さあ後半まいりましょう、後半しゅっぱ〜つ!」
番組後半のコント開始時の決まり文句。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています