>>110続き

662 名前:神も仏も名無しさん :2016/03/13(日) 21:59:55.17 ID:JVzMWD6J

★コリント教会の御霊の人が犯した罪の実態

コリントの教会に見出された「肉」としては、ねたみや争い、党派心、義母を妻とするような不品行、さらには、兄弟を躓かせても意に介さないとか、
他の人を顧みないとか、見下すとか、教会全体の益を図らず好き勝手に賜物を用いるといった、利己的な態度があった
( I コリント 1:10−12、3:3、5:1、8:9−13、9:23−33、11:17−22、12:21、14;4−19、26-33)。

このように、御霊の人でも容易に過ちを犯すのである
この過ちは罪の律法の誘惑から生じる


★罪の律法はキリスト者をもトリコにする

聖霊が内住するキリスト者の霊だが、無条件ですぐれた「霊性」を有しているわけではない。
からだにある「罪の律法」がキリスト者をも虜にしているので、「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と嘆きの声を上げるし(ローマ 7:23-24)、
罪の道具として利用されるからだは「死ぬべきからだ」であるから、「御霊によって、からだの行いを殺す」ことが課題となっている(ローマ 8:11、13)。

このように、御霊が内在する徳の高い使徒や信徒ですら、罪の律法である肉の課題を継続的に克服し続けなければならない


★「御霊の人」も地の原理に従って生きるなら 「肉に属している」

パウロは、「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ・・・ようではありませんか」と勧める(IIコリント 7:1)。
パウロはコリントの信者に対し「肉に属する人」、霊的に未熟な「幼子」に対するように話さなければならなかったと回想し、それが今も変わっていないと嘆いている(IIコリント3:1−3)。

このように、御霊の賜物が与えられている「御霊の人」が教会の徳を高めず、かえって混乱をもたらしている例もある

「御霊の人」をめぐってパウロが書いていることからも、聖霊をいただいている「御霊の人」が真に霊的であるとは限らないこと聖書では語られている