Qクリスチャンは無謬か?
Aいいえ、聖書の中でクリスチャンは無謬などではなく、代わりにそういった発想は神の御言葉とは正反対の態度である、と語っています

★使徒ですら、主に従うことが困難であることの実態

「金持ちの青年」の話では、ペテロたちは、自分たちは「何もかも捨てて従って来た」と胸を張るが(マタイ19:16−22 .)、その彼らにしても繰り返し試みに会っている。
湖上で嵐に会ってパニックに陥り、信頼の欠如を露呈する(マルコ 4:3541)。パンの奇蹟の後、多くの者がつまずいて離れ去った時、動揺は十二弟子の間にも広がった(ヨハネ 6:66−69)。
奇蹟から学ばず、心が閉じていて、湖上を歩くイエスに驚き怪しんだこともある(マルコ 6:48−52)。
弟子たちの無理解は折々叱責されている(マルコ 7:18、8:17−18、9:19)。
ピリポ・カイザリアで、受難予告を聞いたペテロが示したの反応は、メシア王国での栄達を目論んでいた野心を暴露してしまった(マタイ 16:13−23)。
ユダは銀貨 30 枚でイエスを売るが、ペテロも大祭司の官邸で見とがめられイエスとの関係を否定することになった(マタイ 26:14−16、69−75)。
復活の主から新たに召命を受けた後も、ヨハネと自分を比較して、再度「あなたは、私に従いなさい」と諭されることになった(ヨハネ 21:21−22)。
驚くべきことに、イエスの昇天の直前でもペテロは地上の王国の再興を夢見ていた(使徒 1:6)。
こうした弟子たちの姿を描くことで、新約聖書は「自分の十字架を負い」イエスに従うこと(マタイ 16:24)の困難さを明らかにしている。