外道の独り言 10
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1526072224/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html >>420
> 俺的には先祖供養は、10世紀頃の、天皇貴族文化の劣化した
> 祈祷先行密教の祈祷儀式から派生したものだろう、と。
だっておwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
____
/_ノ ヽ、_\
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
| / / / |r┬-| | (⌒)/ / / //
| :::::::::::(⌒) | | | / ゝ :::::::::::/
| ノ | | | \ / ) /
ヽ / `ー'´ ヽ / / バ
| | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l バ ン
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、 ン
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
先祖供養は自然災害に対する
恐怖心が生み出した自然発生的
な現象であって、仏教はそれを
上手く取り入れ坊主の利益に
なる様に利用しただけにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ 先祖供養の要素は、「儒教(…孝)」と「祖霊信仰」の融合が骨子且つ始原では?
(自然)災害に対する畏怖と忌避は、
自分らの所属共同体の先亡の霊達に因を求めることもあるかもしれんが、
多くは、それぞれ個々別々の「現象・立地の神格化」及び「禁忌に対する違背」からじゃね? アートマンは否定によって表されると師匠が言ってました。 >>426
確認だけど
> 初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、「…でない」によってのみ、
> アートマンが定義されるという。その属性を「…である」と定義することはできないという。
> したがって、「…である」ものではない。
という事ですか? >>429
我は...でない、故にアートマンと定義できるからです。
釈迦はアートマンを否定したという誤解が、輪廻転生との整合性が取れなくなり唯識という妄想をでっち上げたんです。 釈迦は、仏教は、無我によってアートマンを説いてます。
決してアートマンの存在そのものを否定してません。 仏教ではアートマンについては不常不断の立場。
言葉を変えれば無記です。 >>431
そのアートマンとは常・一・主・宰の我ですか? >>432
> 釈迦は、仏教は、無我によってアートマンを説いてます。
一寸待ってください、アートマンは「・・・である」と定義できませんよね?
つまり、「無我でない」によってのみアートマンが定義されるのでは? >>435
呪殺祈祷会に対抗してジャンキーも
天罰研究会を主宰すれば良いにゃん♪
ひゃひゃひゃひゃひゃ!(≧▽≦)ノ
南無南無 (-∧-)合掌・・・ このバイセクシャルのホモ豚は、興味もないことの
スレッドで書き込む >>437
貴方の上にも天罰を! *(^o^)/* 比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、
覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、したがって、
彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、
色の中に我有りとも、見ることはない…。一切は因縁の結ぶがままに有り、
一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、
われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳)
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、
このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、
『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、
まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。
まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)
「心身関係」対「個体のアイデンティティー」の本性についての、ブッダの見解は、
無我論の原則にしたがっています。その原則は、存在を構成するスカンダ(蘊)、
つまり心理・身体的集合体のほかには、それから独立の、自律性を持った、
永遠に生き続ける魂などはない、というものです。これは、仏教のすべての宗派に共通で、普遍的な教義です。
(ダライ・ラマ、『ダライ・ラマ、イエスを語る』、角川書店、108頁) 感興の言葉 より
40 ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)
アートマンであると見ることなのである。
しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は
「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。
はい、前半の一文・・・
「人が苦しみを見ないというのは、見ない人が」・・・・これは、無明に覆われている人、
即ち凡夫・・・一切皆苦を理解していない人・・・を、「苦しみを見ない人」と言ってるの。
そして、そういう人が誤って「アートマン」を己に見るわけ。
第二文・・・・
「しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は
「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。」
これは、一切皆苦が分かっている人は、『何がアートマンであるのか?』 を
⇒「さらに吟味してみる」 即ち、とことん探求する が、その結果、アートマンなどない
と言うことが分かると言ってるのw
これは、次の41を読めばさらに明らかw
41 (無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、
その(無明が)あるが故に、すがたをさらに吟味して見るということが起るのである。
この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。
無明に覆われて、即ち、何もわかっていない凡夫は、一切皆苦が理解できない。
だが、「その分かっていないこと」が真実を求める原動力ともなるのであって、とことん探求した結果、
「アートマンなどない」ことが分かり、その探求自体も終了する・・・・ってことw それでは、片山一良 からww
無我相経・・・・・
「比丘たちよ、色は無我です。比丘たちよ、もしも色が我であるならば、色は(変化せず)
病にかかりません。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』
と言うことが出来ます。しかし、比丘たちよ、色は無我です。それゆえ、色は(変化し)、病に
かかります。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』ということ
が出来ません。
受は無我です。・・・・・・以下繰り返し
相は無我です。・・・・・・
もろもろの行は無我です。・・・・
識は無我です。・・・・」
と、このように五蘊は無我である と説きます。
五蘊はいずれも、霊魂とかアートマンとか我とかといった実体的なものではなく、相互に依存した
ものでしかない。
「私のもの」という渇愛、「私」という慢心、「私の我」と言う邪見。
このような、(「我」というものがあるという)妄執によらず、如実に正しく智慧によって観よ
と説いています。
・・・・・・・はい、わかりますね?
どこにも、アートマン、真我なるものが存在するなどと書かれていません。
その存在を示唆する記述さえも全くありません。
勿論、「ない」とも言っていません。当たり前です。
あるものの不在を証明するのは、「悪魔の証明」と言って不可能だからです。
賢い釈迦は当然、それを知っています。 よって、アートマンなどないということを五比丘に
一つ一つ実証的に、「はい、これはアートマンではないですね。これもアートマンではないですね?」
と確認しながら、アートマンなどないことを納得させていったわけですw
「ないと断言していない。」⇒「なら、本音はあると思っていたかも?」⇒「いや、絶対にあると
思っていたに違いない」 wwwwwwwwww
アホの発想です。 「無いといっていない」⇒「では、あるんだ」 とはなりませんww
賢い皆さんは、騙されないようにねww >>433
無記とは悟りと同義です。
結局、釈迦は「これ」がアートマンであると発見し定義できなかった。 >>435
すでに無我という言葉が、アートマンは我ではないと定義してます。 >>434
いいえ、アートマンは常・一・主・宰の我ではない。
故にアートマンと定義する、が正解です。 >>439
パーピマンは、アートマンを誤解してます。
そこで説かれてるのは、アートマンは我では無いという意味です。
繰り返しになりますが、アートマンは.....であると言えないからアートマンと定義できるです。
そもそもアートマンを我と訳すのが間違いなんです。
アートマンはアートマンとしか言いようがない。 >>440
曲解してませんか?
アートマンを探求する行為が消滅するのであって、アートマンそれ自体は消滅しません。
ttp://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29096929&comm_id=951429
[迷いの生存の]下地をつくる、煩悩をともなった
『施し物は存在する、供え物は存在する、捧げ物は存在する、善悪の行為の果報は存在する』
− これを対処するために −
『煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』とはなにか
煩悩がなく、聖道に達し、聖道を修めている人の智慧、智慧の能力、智慧の力
『物事の解明という悟りの支分』(択法覚支)、聖道に属する正しい見方
これが『煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』である
_ _ _
>>415
>このスレで
>『煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』の
>完全出世間で方で生きていく方がいるのならば別ですが
たとえば
おじゃるの場合は
3秒も呼吸を観ることもできないけど
とりあえず
有余涅槃を目指したいと思うど
誰もが成仏するわけではない(五性各別)なので
この現世においては
たぶん無理なような気がします m(_ _)m
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
アーナパーナ瞑想を行う場合は
妄想、思考が入らないように
呼吸に30分〜1時間、集中する(気づく)ことを継続します >>441
その偈も無我=アートマンとして読み返してください。
結局、アートマンは五蘊ではないと言ってるだけです。
故に五蘊はアートマンと定義できるです。
アートマンは不滅であるというのは間違い。
アートマンは不滅ではないというのも間違い。
故にアートマンは無記としか言えない。
>>446 >栄進師匠へ
我(アートマン)
本来の語義は「呼吸」であったが、そこから転じて
生命、自己、身体、自我、自我の本質、物一般の本質自性
全てのものの根源に内在して個体を支配し統一する
独立の永遠的な主体などを意味する
− これに対して −
真如
自性清浄心、仏性、法身、如来蔵、実相、法界、法性、円成実性
法界体性智(大日如来の智)
栄進師匠が言ってるのは↑これのことかしらん? >>449
いや、よくわかんないんだけど^^
アートマンとはすべての本質。
この本質も実際にはあるのかないのかわからない。
分子、原子、素粒子.......アートマンw 何度でも言いますが、釈迦はアートマンを否定していない。
むしろ無我としてアートマンを積極的に説いた。 >>443
1.
「・・・でないによってのみ定義される」とは、概念化されるものではないって事ですよね?
無我というのは概念化ではないのですか?
2.
無我とは「我無し」であって「我でない」ではありません。「我でない」なら非我ですが? >>452
我がアートマンであるという概念の否定です。
故にアートマンと定義できるのです。
非我でもいいです。
>>449の続き
>>448 栄進師匠へ
↓宝珠殿のリンク
ttp://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm
…
アートマンについては無記…
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく
_ _ _
たとえば
プルシャの世界から
プラクリティの世界が創られた
仏そのもの(大日如来)が
縁起している世界を創った
↑ これのことかしらん? >>448
そこで、「アートマンである」というのも間違い、としてみたらどうだろうか? >>444
当時のバラモン達ではアートマンは「常・一・主・宰の我」と説かれており、お釈迦はその否定をされました。
そして、アートマンと区別する為「アナートマン」という言葉を使われてました。
であれば、お釈迦様はアナートマンを説いていたのであり、アートマンを説いていたのではありませんよね? 「アートマン」を捉えてるうちは、それを捉える「主体」(無明)の内でありつづけるとか >>453
しかし、非我で「ある」としてしまえば、それは定義化、概念化ですよね?
あくまでも「・・・でない」と無限に後退して否定されなければ定義されないものですよね?
つまり、「「「でない」でない、でない」・・・」、と。
つまり、「非我でない」でなければ定義化されないのでは?
>「アートマン」を捉えてるうちは、それを捉える「主体」(無明)の内でありつづける
仮設としての
縁起している世界の中で
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して
(それ自体、独立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、独立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存して
おじゃるも
栄進師匠も
たとえば
仮設としての
『アートマンが…!』という想いが、現れ、そして滅している
という感じでつね? >>439
その中部経典22「蛇喩経」(蛇のたとえと筏のたとえが説かれている経典)ではブッダはこうも説いています。
比丘たちよ、そのように心が解脱した比丘を、帝釈とともなる、梵天とともなる、造物主とともなる神々が探し求めたとしても、到達することはありません。
『これが〔新たな名色に〕依止した如来の識だ』と。
それはなぜか。
比丘たちよ、現法においては、私は如来を、(般涅槃した故に)随知されない者であると説きます。
比丘たちよ、このように説き、このように論ずる私を、一部の沙門婆羅門たちは、不実ゆえ、虚偽ゆえ、虚妄に、偽って、誹謗します。
『沙門ゴータマは虚無論者であり、存在する有情の断滅、消失、非有を説く』と。
比丘たちよ、私はそのようではありません。私はそのように説いてはいません。〔にもかかわらず〕彼ら尊き沙門婆羅門たちは私を、不実ゆえ、虚偽ゆえ、虚妄に、偽って、誹謗します。
『沙門ゴータマは虚無論者であり、存在する有情の断滅、消失、非有を説く』と。
比丘たちよ、私は昔も今も、苦と、苦の滅のみを説いています。
(以下、今だけを生きていれば過去を振り返って一喜一憂することはないので過去に遍知されたことは捨てなさい。
五蘊はあなたのものではないので捨てなさい。
と教えは続く)
訳文
http://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn03/mn03c07.files/sheet001.htm
ブッダは常住論、断滅論の極端から離れ中道を解くというのが素直な解釈で、
五蘊は以外に我がある(常住論)とか、五蘊以外には何もないので無我である(断滅論)の論者としてブッダを語ればブッダは悲しむと思います。
>非我でない
勘違いする人が居るといけないので
一応、念のため
青目(ピンガラ) 中論 觀如來品 第二十二
…
如来の滅後も、こう思惟してはならない
有るのか?無いのか?有ることもあり、無いこともあるのか?と
如来は戯論を超過する
人(おじゃる)は戯論を生じる
慧眼を破れば
仏を見ることはない
− これを対処するために −
我である・我ではない。というような『想い』も手放して
想う。という『想い』も手放して
想わない。という『想い』も手放して
非想非非想も手放して超えて逝く
↑間違ってたら スマソ m(_ _)m 真昼間から寝言が聞こえるにゃん♪
これぞ寝言地獄かしらん?
南無南無 (-∧-)合掌・・・
(大乗)密教の場合は
地水火風空識
この場合の識は
無明に依存している識ではなくて
法界体性智(大日如来の智)の識であるらしい
(だるま文庫 八宗綱要 真言宗 参照ヨロ)
_ _ _
ttp://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn03/mn03c07.files/sheet001.htm
『これが〔新たな名色に〕依止した如来の識だ』と
これを見ると
根本仏典とかも
仏そのもの
仏性からの真如縁起という感じがしますね? ある対象の存在について、「ある」「ない」を考察するとき、それは『非対称』であることを
まず、理解しよう。
なぜならば、「あることの証明、確認」は可能だが、「ないことの証明、確認」は、
(付帯条件を付けない限り)不可能であるからです。
即ち、「あることが証明できない」のであれば、それは、「ないことの蓋然性が高い」・・・
「少なくとも暫定的にそれは、『ないことに認定』します」
つまり、ないことが証明できない⇒あるかもしれない⇒あることと、ないことの可能性は、
半々だ・・・・とはならないのです。
・・・・・・・釈迦は、自己に属すると思われる対象を一つずつ確認しながら、これもあれも
我ではない・・・・として、如何なるものも我ではない と確認することにより、
我の存在肯定を却下しました。
「あることの証明、確認」が出来なかったのです。勿論、「ないことの証明、確認」は不可能です。
@現時点において、その存在が確認、証明できない
A将来において、その存在証明が実現できる可能性を示唆する有意な理論もない
@Aの条件を満たす対象は「ない」とするのが、論理的思考を支持する者で、釈迦はそのような
人だった考えられますねw 栄進さん、つまり(貴方の仰る)アートマンとは
1.「我ではない」としか定義出来ない
2.「無(非)我である」と定義できるのもではない
って事ですよね?
それ故「無(非)我とはアートマンである」というのは誤謬では? >>462
貴方は聞思修の実践を知らないのですか? >>465
つまりですね、アートマンとは、コレであると語れないんですよ。
アナートマンとは、アートマンの存在の否定ではなく、コレという存在
はアートマンでは無いという意味です。 >>464
釈迦は、アートマンがあるとか無いとか説いているのではありません。
アートマンとは、我であるコレであると言えないという本来のアートマン説を支持しているだけです。
そして悟りを開いてもアートマンとはコレであるとは発見できなかった。
無我とは、アートマンの否定ではなく、アートマンとは何かの説明です。 諸法無我とは、一切のあらゆる存在はアートマンであるという意味です。 アートマンについて釈迦は無記です。
この無記こそが悟りの本質だと思います。
>>470
栄進師匠へ
変化することのない
無為法の世界
如来の識
如来我(仏性)がアートマン
真我
↑これでしょ? >>471
いや、アートマンを「これでしょ?」と言えないんです。
故に一切の存在はアートマンなんです。 >>469
ヤージュニャヴァルキヤ
「非らず。非らず」 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』 4.5.6
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm
>しかし、人にとってすべてがアートマンそのものとなったとき、
>彼は何によって何を見るのであろうか。彼は何によって何を嗅ぐのであろうか。
>彼は何によって何を味わうのであろうか。彼は何によって何を語るのであろうか。
>彼は何によって何を聞くのであろうか。彼は何によって何を考えるのであろうか。
>彼は何によって何を触れるのであろうか。彼は何によって何を認識するのであろうか。
ヤージュニャヴァルキヤのアートマン論では、ブッダが分別した五蘊は認識対象になりますからアートマンではないのは
上記引用文と照らし合わせても妥当ですが、
一切のあらゆる存在がアートマンであるとまでここでは言っているのでしょうか?
もっとも、ウィキベテアのヤージュニャヴァルキヤのページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤージュニャヴァルキヤ
には
>彼によれば、この世界はすべてアートマンにほかならない。それは唯一のものである。
>しかし一方では、アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。
>したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、
>アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた。
と記載されており、またヤージュニャヴァルキヤは一元論のウッダーラカ・アールニの弟子でしたから、
上記引用文とは別に「この世界はすべてアートマンにほかならない。それは唯一のものである。」という思想を持っていてもおかしくないかもしれません。
しかし、ブッダの諸法無我は一切のあらゆる存在はアートマンであるという意味におくのは定説ではないですね。
少なくともブッダは五蘊についてははっきりとアートマンではないと言っているわけですし。
>>472
栄進師匠へ
質問させて頂きます
無為法って何だか知ってまつか?
縁起に依存している
有為法を超えている世界のことなので
それゆえに
無為法は
言葉では説明できない世界
無記ということになるけど
対機説法としては
涅槃(無為法・無記)に戻る帰る
というような導きになるのでつ
仏教の言葉を理解してまつか? >>467
であれば、なおさら「無(非)我とはアートマンである」というのはおかしいですよね。
「無我とはアートマンの説明である」というのなら整合してますけど。 >>473
五蘊はアートマンではありません。
ただそれだけのことであって、アートマンの否定ではありません。
釈迦は従来のウパニシャッドのアートマン説を否定したのではなく、それを正しく理解して如実に説いたと言うべきでしょう。 >>474
ごめん、あんまり理解してない。
パーピマンに怒られるけど^^ >>468
> アートマンとは、我であるコレであると
> 言えないという本来のアートマン説を支
> 持しているだけです。
つまり、「アートマンとは常・一・主・宰の我」という釈迦在世時のバラモンの説は本来の説ではなく、釈迦は原点回帰したというのですか? >>475
そうですか?
アートマンは我では無い、故にそれをアートマンと呼ぶことができる。
アートマンを説明するには否定によってしか定義できないのでは? >>478
そうです。
釈迦は、アートマンの解釈の原点回帰をしただけです。
仏教とバラモン教の違いは、バラモンという階級の否定にすぎません。
釈迦は特段何か新しいことを説いたわけでは無いです。
>>478
栄進師匠は
基本的な
仏教の言葉を理解してないようなので
たぶん
栄進師匠の云う
「アートマン」というのは
大乗で云うところの
真如ということではないかと? >>481
いえいえ^^
ですからアートマンを真如だの何だと言い換えても無意味ですよ。
別にそれでアートマンを理解できるのならいいのですが。
すべては真如である。
それでオーケーです^^
>何か新しいことを説いたわけでは無い
本当に
仏教のことを知らないんでつね?
その当時の
バラモンとかに
想受滅(滅尽定)とかありましたか?
その当時の
バラモンとかに
悟りに至る(戻り帰る)ための
菩提分法とかありましたか? >>476
>五蘊はアートマンではありません。
>ただそれだけのことであって、アートマンの否定ではありません。
あれ?
>>469
>諸法無我とは、一切のあらゆる存在はアートマンであるという意味です。
五蘊は一切のあらゆる存在の例外ですか?
そのように線引きできるものなのでしょうか? >>485
悟りというのは何か特別な境地でも何でもありません。
争わないこと。
ただそれだけです。
釈迦が当時菩提とか説いたんすかね?
ぜーんぶ後代の仏弟子がでっち上げた概念ではないですか^^ >>482
アートマンとは、なんですか?
仏とは、なんですか?
我とは、なんですか?
>>488
栄進師匠へ
質問させて頂きます
ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
(無限に続く輪廻の)運命から抜け出すための方法は?
どのような
方法で
「争わない」を実践するのか?そのための方法は? 普通は、わたし、というのは
お父さんとお母さんから、生まれてきた
この、体、と、その活動によって生まれる
行為や、言葉や、精神活動、諸々の、記憶、などなどの、統合されたものだと思います
これを、わたしと、呼びますが、問題ありますか?
もし、わたしが、いないのなら
ここに書いている人は、どこにもいないで
オールOKですかい? >>486
アートマンは五蘊では、ない。
故に五蘊はアートマンである。
矛盾してるようですが、否定によってしかアートマンを定義できないから仕方ない^^
言葉足らずですまんです。 この世にも、あの世にも、存在しないものが
掲示板に書き込みをする
このようなことは、ありますか? >>489
わかりません。
知りません。
すべて妄想かもしれません^^ >>480
だとすれば仏教史を覆す大発見ですけど、仮説としての根拠はどうなんですか? >>495
妄想かもしれないのに、なぜ
アートマンは、我ではないと、おもったのですか? >>490
方法ですか?
「何もしない」
ことがベターだと思います^^ >>492
もう一度
ヤージュニャヴァルキヤ
「非らず。非らず」 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』 4.5.6
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm
より
>この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは
>捉えることができない。捉えられないから。
>壊れることがない。壊されないから。
>こだわりがない。こだわらないから。
>つながれず、動揺せず、損なわれない。
>ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
さて、五蘊というのは壊れることがないものでしょうか?
ブッダは五蘊は形成されたもの(つくられたもの)であり無常である、と言ってますよ。
>>495
最低限の基本的な
仏教の言葉を理解してからじゃないと
栄進師匠が
何を主張したいのか?わからないので
教学としての勉強もしておいた方が良いと思いまつよ
栄進師匠へ
>>498
「何もしない」を実践するための方法は? >>493
いるに決まってるでしょ^^
無我を私が無いという意味で使うなら間違ってます。
そういう輩を悟りスレではムガムガ馬鹿と呼んでます^^
無我とは、アートマンは私では無いという意味です。
むしろ釈迦は本当の私、自分を探せと説いてます。 >>501
アートマンが、私であるかないか
そのようなことが、何の問題になるのですか? 「アートマン」とか「真如」とか「仏性」とか
どれが「違う」とかどれが「そうだ」とか分けることに意味はないと思うけどね
言葉自体、そこに裏支えするなにものかは成立しないってことだろうから >>496
根拠ねー^^
お経に書いてるんじゃないですか。
>>502
たぶん
栄進師匠は
大乗で云うところの
真如に戻れ帰れ
ということが云いたいのかもしれない
>>501
本当の私、自分を探すための方法は?
>>504
お経に書いあること
理解できてないでつよね? >>503
インドの聖人とかは、非顕現が、アートマンだ、それが、本当のあなた
あなたは、現れてない
と、説きます
釈迦は、そのような非権限が、あなたとは、説かなかったのです
単に、それだけのこと なぜ、非顕現が、あなたという
現象は夢であるというような説を否定したのか
これでは、わたしが、残っているからです
残るからです
実質の非顕現には、何も無い
だから、それを、どうこう言えない
あるものはあるが、それは、因果によって、あるのであり、我ではない
我と呼べるものは、どこにもない
完全なる涅槃である >>499
アートマンは、五蘊ではない。
故に五蘊は無常であり壊れるでしょう。
しかし、一切はアートマンだから壊れることはない。
この矛盾の整合性をどうとるかですね^^
人間の死体も分解されて土に還るでしょ。
人間は五蘊であり壊れるけど、物質としては不滅じゃないのかしら。
それがアートマンと呼ぶ、、、、、理科は苦手なんで^^
>完全なる涅槃である
↓これでつか?
何であれ依存的に生じたものは
止むことなく、生ずることなく
滅することなく、永続することなく
来ることなく、去ることなく
区別されることなく、独自の性質がなく
そして概念的構築から解放されていることであると
教えて下さった最善の師である
完全なるブッダにひれ伏します
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m >>500
実践も方法もする必要もございません。
アートマンから脱線してすまん^^ >>507
「なにも無い」では「無い」があるということにならないだろうか?
「あるものがある」、ここが恐らく「仏法」に目覚めるっていうなにかじゃないかな >>466
知るも知らぬも同じ事にゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>509
残るものがない
あるものは、無常である
肉体は、我ではない
精神は、我ではない
肉体はあり、精神活動はある
これらは夢ではない
これらは、無常であるから、苦しみである
すべては、苦しみである
しかし、苦しみを感受する、我というものは、どこにもない
それがあれば、それのみである
これがあれば、これである 「無い」ではなく、「無い」ままに「在る」
無いままに、あるものがあるようにはたらく
「無い」も「在る」も認める余地なくはたらくそのもの
色即是空空即是色っていう、その間に認め認められる何者かが挟まらない 諸法無我 色身敗壊す。如何に?
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>510
無我について説かれたお経はいっぱいあるんじゃないですか。
自分で探して読んでください^^
>五蘊であり壊れる
地水火風空識に分解されて
手放して滅していく
縁起している世界を手放して超える
その直前までは
縁起に依存して
現れ滅して変化しているので
変化しないものではない
不滅ではない
アートマンではない
>>517
>>無我について説かれたお経はいっぱいある
意味を理解できてないでつよね?
>>514
難しくて意味がわからないけど
とりあえず
ご教示ありがとうございます m(_ _)m >>517
勿論、無我について書かれたものは幾らでもありますが、原点回帰をとなえている教典を提示して頂きたいのです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています