外道の独り言 10
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1526072224/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html
↓外界実在論?について
ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/50/1/50_1_340/_pdf
カマラシーラの知識論と因果論の検証
常住な自性 − 仏教以外の見解
「仮設としての」という意味で
無常な自性 − 瑜伽行派の見解
積集した原子という点での『外界実在論は成立しない』
以上の論点は
カマラシーラの独創ではなく
ダルマキールティの文脈からして明らかである
さらに外界実在論の論破としては
遠近の区別により対象自体に明瞭・不明瞭があるのではなく
それは知識自身によって起こるものである
ダルマキールティは
(1)原因が存在する前に結果が存在する場合
(2)結果が別の場所からやってくる場合
(3)別の原因の結果である場合
それに対し
カマラシーラは
(1)(2)の場合が回避され得ると認めるが
(3)の場合が回避されるとは認めていない >>247に続いて
★輪廻転生する主体は識(識別作用)であるということの経典から証明 2
「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.)
http://manikana.la.coocan.jp/canon/vakkali.html
13 「もう十分だよ、ヴァッカリよ、お前が、この腐敗した身体を見ても、何になるだろうか。
ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしを見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。
というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」
(略)
34 そのとき、尊師は、比丘たちに呼びかけた。
「比丘たちよ、イシギリ・パッサ・カーラシラーに向かって、出かけよう。そこでは、善男子ヴァッカリが、刀を持ちだした」
「おっしゃるとおりにしましょう、尊師よ」と、かの比丘たちは、尊師に同意した。
35 そこで、尊師は、たくさんの比丘たちとともに、イシギリ・パッサ・カーラシラーに赴いた。
36 尊師は、遠くから、尊者ヴァッカリが寝台の上に、還滅した蘊(=死んだ身体)を横たえているのを見た。
37 ちょうどそのとき、煙のように立ちこめた黒雲が、東に走り、西に走り、北に走り、南に走り、上に走り、下に走り、四維に走るのであった。
38 そこで、尊師は、比丘たちに呼びかけた。
「比丘たちよ、お前たちは、この煙のように立ちこめた黒雲が、
東に走り、東に走り、西に走り、北に走り、南に走り、上に走り、下に走り、四維に走るのを見ているかどうか」
「はい、見ています、尊師よ」
39 「比丘たちよ、悪魔パーピマン(波旬)が、善男子ヴァッカリの意識(識)はどこに住しているのかと、かれの意識を探し求めているのである。
40 比丘たちよ、善男子ヴァッカリは、かれの意識は住することなく、完全な涅槃に入ったのである」
立派な人・善男子(=仏法に帰依した男)のゴーディカ同様にヴァッカリも解脱した時点で刀を取って自害してしまいました。
その悪魔パーピマンはヴァッカリの識を探し求めましたが見つけることはできませんでした。
ヴァッカリは完全な涅槃(般涅槃・パリニッバーナ)に入ったからでした。 >>378-379
ありがとうございます。
その例では餓鬼界の祖霊が挙げられていますが、
廻向・回向は祖霊がどの界(どの善趣・悪趣)に赴いても効力を発揮するものとされているのでしょうか?
>>384
>そして、その「業」についても、
>「生まれによって卑しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって卑しい人ともなり、行為によってバラモンともなるのであるC。
>と説き、実体論的な輪廻転生説に基づく業思想を否定している。
こういう経典から特定の部分のみを切り取って情報操作するのはどうでしょうか?
これはスッタニパータの第一蛇の章の<7、賤しい人>にある説法ですが、そのあとには
139 かれは神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、情欲を離れて、ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。(賤しい)生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行なっているのが見られる。
140 ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行っているのが見られる。
141 そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。(身分の高い)生れも、かれらが悪いところに生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。
142 生まれによって賤しい人となるのではない、生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人となり、行為によってバラモンともなる。
http://hosai.world.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm?guid=on
と、ちゃんと「来世においては悪いところに生まれる」と輪廻転生説に基づく業思想で説法しています。
説法の相手が火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャだったから分かりやすくバラモンの教えである輪廻と業を用いて対機説法した、と理屈をつけることは可能ではありますがw >>378-379
追伸です。
曹洞宗には甘露門というお経があり、その中に招請発願というお経がありますが
是諸衆等。
發心して一器の浄食を奉持して。普く十方窮盡虚空。周遍法界微塵刹中。
所有國土の一切の餓鬼に施す。先亡久遠山川地主乃至曠野の諸鬼神等。
請う来って此に集れ。我れいま悲愍して。普く汝に食を施す。
願くは汝各各。我が此の食を受けて。轉じ將って。盡虚空界の諸佛及聖。
一切の有情に供養して。汝と有情と普く皆飽満せんことを。
で始まります。
この経は今ではお盆などの先祖供養の際に供物と一緒に捧げ読むものとなっているようですが、
あなたのレスを拝読して元々は餓鬼界の祖霊に回向するお経だったのではないかと、そう思うようになりました。
私の法力wで一切の餓鬼を此処に集めて食を施すのは返って罰当たりな気がして読むのが引けるのですが、
でも仏壇に供物を捧げた時には読むようにはしています。
元々は曹洞宗の檀家経本に載っているお経なので、私が読んでも回向できるものと思いこれからは信念を持って供養のために読むようにします。
甘露門とセットになることが多い大悲心陀羅尼は、>>57のニュースにもより脳にいいかという理由もあって最近とみに読むようにしています。
もともと聴いててなんだか不思議な言葉の力、エネルギーを感じていた不思議なお経ではありましたが。
ただ、夜に真言を唱えるのは不謹慎とのことで朝の読経時に読むようにしています。
大悲心陀羅尼〜甘露門
https://youtu.be/9hlu-FNtZwc 世の中虚仮唯仏のみ真なりにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ 思惟し思弁するのみにあらず八正道という実践法を説き更には先祖供養まで指示したり善業として在家信者に勧めたりしているのだから
釈迦はやはり単なる哲学者ではないよね >>408
古の伝説の人だから良いも悪いも
尾鰭が付いているにゃん♪
今更実体を知る事は不可能にゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・
>>408
大乗ならともかく
根本仏典とかで
>先祖供養まで指示したり
とか、あるのかしらん?
ちなみに
自分の場合は
(大乗)密教も肯定なので
>先祖供養まで
あっても良いと思うけど
_ _ _
一応、念の為に
大乗のみならず
パーリ経典(根本仏典)も(意図的に?)編纂されたものである
それでも、とりあえず
スッタニパータの第4章と第5章
がもっとも古い経典だったと考えられている。らしい?
>>410の続き
↓(大乗)密教の場合は
ttp://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-walk/cat29/post-99.html
護摩の思想
インドから中国を経て
空海に及ぶ頃にはこの火の行事が高度に思想化され
『火を真理とし、薪を煩悩とし、真理をもって煩悩を焼く』という思想に至った
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81
密教においては
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる
死後の成仏をはじめとする
その他、諸々の効果を成就させる
_ _ _
仏そのもの
仏性からの真如縁起をもって
大悲・大智をもって
煩悩障と所知障とを離れているから迷いの世界にも停滞せず
衆生を救済するために迷いの世界の中で活動するから
涅槃の境地にもとどまらない
無住処涅槃
↑これは大乗の場合でつ 先祖供養について・・・・
先祖供養は、回向の概念により、自業自得から自業他得へと変成した大乗の
教説と言い切ってるな、佐々木閑はw
>先祖供養は
>自業自得から自業他得へと変成した
>大乗の教説と言い切ってるな、佐々木閑は
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
とりあえず
スッタニパータ第4章
少しだけ読み直したけど
むしろ
「先祖供養というような『想い』を手放しせよ」
というような方向性でつね
(おじゃるは
先祖供養も肯定でつ
一応、念のために)
唯識派か?
中観派か?
↓ ↓
ttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0090/BO00900L031.pdf
ダルマキールティは
プラマーナ(直接知覚と推理)を
効力を有する実在(勝義有)を明らかにする整合した智であるとする
カマラシーラは
プラマーナを
有という言語行為及び
常・無常なる実在の自性を排除する
無なる言語行為を明らかにする智とする
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98
仮設としての
縁起に依存して
阿頼耶識
さとりに達するための修行の障害(覆)がない無覆無記
末那識
我癡・我見・我慢・我愛 − 障害がある有覆無記 >>405の自己レス
>その例では餓鬼界の祖霊が挙げられていますが、
>廻向・回向は祖霊がどの界(どの善趣・悪趣)に赴いても効力を発揮するものとされているのでしょうか?
この答えは、>>379に挙げて頂いた
詳細/参考論文
http://nbra.jp/publications/69/pdf/69_26.pdf
(藤本 晃著『パーリ四ニカーヤに説かれる先祖・施餓鬼供養』)
の25ページ以降で、ブッダと在家バラモンにしてブッダの在家信者でもあるジャーヌソーニへの問答として詳しく書いてありますね。
特に29〜33ページに私の質問の答えがブッダの説法としてまんま書いてありましたw
せっかく参考論文までアップして頂いたのに確認不足で申し訳ありません。
>>394
原始仏教コミュの「先祖供養と氏神崇敬」を勧める原始仏典
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=683880&id=47573281
1.八正道の正見
「布施と供養と死後の世界と神々と業の報いは実在する」
ですが、ソース経典として挙げられている
・第117経 「聖道経」 八正道 (原仏7 P149–160)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29096929&comm_id=951429 完
をよく読むと、確かに供養というか原文まんまだと施し物、供え物、捧げ物などは、
『徳行のひとつではあるが、結局は[迷いの生存の]下地をつくる、煩悩をともなった正しい見方』の方に分類されてますね。
とは言ってもこのスレで『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』の完全出世間で方で生きていく方がいるのならば別ですが、
そうでないのならば『徳行のひとつではあるが、結局は[迷いの生存の]下地をつくる、煩悩をともなった正しい見方』で良いのだと思います。
「母は存在する、父は存在する、自然発生する生きものは存在する」
まさかこのことまで真諦だからと否定している方がこのスレにいらっしゃるとも思えませんしw >>415
>「母は存在する、父は存在する、自然発生する生きものは存在する」
>まさかこのことまで真諦だからと否定している方がこのスレにいらっしゃるとも思えませんしw
「母は存在する、父は存在する、自然発生する生きものは存在する」
まさかこのことまで真諦ではないからと否定している方がこのスレにいらっしゃるとも思えませんしw
に訂正 詰まらん事を考えるなら
晩飯の心配をするにゃん♪
(・◇・)ハラペコー! >>412
俺的には先祖供養は、
10世紀頃の、天皇貴族文化の劣化した祈祷先行密教の祈祷儀式から派生したものだろう、と。
ジャンキーのマーキングレス減少、いいことだ笑。 >>418
,, -──- 、._
.-"´ \.
:/ _ノ ヽ、_ ヽ.: おいおいwwwwww
:/ o゚((●)) ((●))゚oヽ:
:| (__人__) |: 天然宗教音痴のでおー君wwwwww
:l ) ( l:
:` 、 `ー' /: また今日もお笑いネタのご披露ですか?
:, -‐ (_). /
:l_j_j_j と)丶─‐┬.''´ wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
:ヽ :i |:
:/ :⊂ノ|: 532J.Ooyama2018/05/22(火) 12:10:34.27ID:uBIySK/+
タ=でおーだろw
502junkie- ooyama2018/05/22(火) 01:46:39.97ID:uBIySK/+
でおーにシンパシーを感じるのは統失か成りすましだからだよ。
509 名前:junkie- ooyama[] 投稿日:2018/04/18(水) 12:00:38.75 ID:GvLq/QTw [10/16]
>>503(続き)
あぁ、意味がわかった。
なりすましがいるからね、化ける奴がw
ボコられた相手の体験や知識に妬みや嫉みを抱き、なんとかして仕返したいから、多人数を装ったり別キャラ作ってdisったり、自作自演・自問自答・自画自賛をしてる奴がいるでしょw
化ける奴がねwww
281Junkie-Ooyama2018/04/17(火) 22:10:46.77ID:K2+iOMxL
また馬鹿が挑発してるw
しつこいんだよw
自作自演までしないと悔しくて耐え切れないんだろうな。
他人の知識や経験に対する妬みや嫉みだらけだな >>420
> 俺的には先祖供養は、10世紀頃の、天皇貴族文化の劣化した
> 祈祷先行密教の祈祷儀式から派生したものだろう、と。
だっておwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
____
/_ノ ヽ、_\
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
| / / / |r┬-| | (⌒)/ / / //
| :::::::::::(⌒) | | | / ゝ :::::::::::/
| ノ | | | \ / ) /
ヽ / `ー'´ ヽ / / バ
| | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l バ ン
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、 ン
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
先祖供養は自然災害に対する
恐怖心が生み出した自然発生的
な現象であって、仏教はそれを
上手く取り入れ坊主の利益に
なる様に利用しただけにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ 先祖供養の要素は、「儒教(…孝)」と「祖霊信仰」の融合が骨子且つ始原では?
(自然)災害に対する畏怖と忌避は、
自分らの所属共同体の先亡の霊達に因を求めることもあるかもしれんが、
多くは、それぞれ個々別々の「現象・立地の神格化」及び「禁忌に対する違背」からじゃね? アートマンは否定によって表されると師匠が言ってました。 >>426
確認だけど
> 初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、「…でない」によってのみ、
> アートマンが定義されるという。その属性を「…である」と定義することはできないという。
> したがって、「…である」ものではない。
という事ですか? >>429
我は...でない、故にアートマンと定義できるからです。
釈迦はアートマンを否定したという誤解が、輪廻転生との整合性が取れなくなり唯識という妄想をでっち上げたんです。 釈迦は、仏教は、無我によってアートマンを説いてます。
決してアートマンの存在そのものを否定してません。 仏教ではアートマンについては不常不断の立場。
言葉を変えれば無記です。 >>431
そのアートマンとは常・一・主・宰の我ですか? >>432
> 釈迦は、仏教は、無我によってアートマンを説いてます。
一寸待ってください、アートマンは「・・・である」と定義できませんよね?
つまり、「無我でない」によってのみアートマンが定義されるのでは? >>435
呪殺祈祷会に対抗してジャンキーも
天罰研究会を主宰すれば良いにゃん♪
ひゃひゃひゃひゃひゃ!(≧▽≦)ノ
南無南無 (-∧-)合掌・・・ このバイセクシャルのホモ豚は、興味もないことの
スレッドで書き込む >>437
貴方の上にも天罰を! *(^o^)/* 比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、
覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、したがって、
彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、
色の中に我有りとも、見ることはない…。一切は因縁の結ぶがままに有り、
一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、
われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳)
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、
このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、
『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、
まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。
まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)
「心身関係」対「個体のアイデンティティー」の本性についての、ブッダの見解は、
無我論の原則にしたがっています。その原則は、存在を構成するスカンダ(蘊)、
つまり心理・身体的集合体のほかには、それから独立の、自律性を持った、
永遠に生き続ける魂などはない、というものです。これは、仏教のすべての宗派に共通で、普遍的な教義です。
(ダライ・ラマ、『ダライ・ラマ、イエスを語る』、角川書店、108頁) 感興の言葉 より
40 ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)
アートマンであると見ることなのである。
しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は
「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。
はい、前半の一文・・・
「人が苦しみを見ないというのは、見ない人が」・・・・これは、無明に覆われている人、
即ち凡夫・・・一切皆苦を理解していない人・・・を、「苦しみを見ない人」と言ってるの。
そして、そういう人が誤って「アートマン」を己に見るわけ。
第二文・・・・
「しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は
「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。」
これは、一切皆苦が分かっている人は、『何がアートマンであるのか?』 を
⇒「さらに吟味してみる」 即ち、とことん探求する が、その結果、アートマンなどない
と言うことが分かると言ってるのw
これは、次の41を読めばさらに明らかw
41 (無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、
その(無明が)あるが故に、すがたをさらに吟味して見るということが起るのである。
この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。
無明に覆われて、即ち、何もわかっていない凡夫は、一切皆苦が理解できない。
だが、「その分かっていないこと」が真実を求める原動力ともなるのであって、とことん探求した結果、
「アートマンなどない」ことが分かり、その探求自体も終了する・・・・ってことw それでは、片山一良 からww
無我相経・・・・・
「比丘たちよ、色は無我です。比丘たちよ、もしも色が我であるならば、色は(変化せず)
病にかかりません。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』
と言うことが出来ます。しかし、比丘たちよ、色は無我です。それゆえ、色は(変化し)、病に
かかります。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』ということ
が出来ません。
受は無我です。・・・・・・以下繰り返し
相は無我です。・・・・・・
もろもろの行は無我です。・・・・
識は無我です。・・・・」
と、このように五蘊は無我である と説きます。
五蘊はいずれも、霊魂とかアートマンとか我とかといった実体的なものではなく、相互に依存した
ものでしかない。
「私のもの」という渇愛、「私」という慢心、「私の我」と言う邪見。
このような、(「我」というものがあるという)妄執によらず、如実に正しく智慧によって観よ
と説いています。
・・・・・・・はい、わかりますね?
どこにも、アートマン、真我なるものが存在するなどと書かれていません。
その存在を示唆する記述さえも全くありません。
勿論、「ない」とも言っていません。当たり前です。
あるものの不在を証明するのは、「悪魔の証明」と言って不可能だからです。
賢い釈迦は当然、それを知っています。 よって、アートマンなどないということを五比丘に
一つ一つ実証的に、「はい、これはアートマンではないですね。これもアートマンではないですね?」
と確認しながら、アートマンなどないことを納得させていったわけですw
「ないと断言していない。」⇒「なら、本音はあると思っていたかも?」⇒「いや、絶対にあると
思っていたに違いない」 wwwwwwwwww
アホの発想です。 「無いといっていない」⇒「では、あるんだ」 とはなりませんww
賢い皆さんは、騙されないようにねww >>433
無記とは悟りと同義です。
結局、釈迦は「これ」がアートマンであると発見し定義できなかった。 >>435
すでに無我という言葉が、アートマンは我ではないと定義してます。 >>434
いいえ、アートマンは常・一・主・宰の我ではない。
故にアートマンと定義する、が正解です。 >>439
パーピマンは、アートマンを誤解してます。
そこで説かれてるのは、アートマンは我では無いという意味です。
繰り返しになりますが、アートマンは.....であると言えないからアートマンと定義できるです。
そもそもアートマンを我と訳すのが間違いなんです。
アートマンはアートマンとしか言いようがない。 >>440
曲解してませんか?
アートマンを探求する行為が消滅するのであって、アートマンそれ自体は消滅しません。
ttp://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29096929&comm_id=951429
[迷いの生存の]下地をつくる、煩悩をともなった
『施し物は存在する、供え物は存在する、捧げ物は存在する、善悪の行為の果報は存在する』
− これを対処するために −
『煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』とはなにか
煩悩がなく、聖道に達し、聖道を修めている人の智慧、智慧の能力、智慧の力
『物事の解明という悟りの支分』(択法覚支)、聖道に属する正しい見方
これが『煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』である
_ _ _
>>415
>このスレで
>『煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』の
>完全出世間で方で生きていく方がいるのならば別ですが
たとえば
おじゃるの場合は
3秒も呼吸を観ることもできないけど
とりあえず
有余涅槃を目指したいと思うど
誰もが成仏するわけではない(五性各別)なので
この現世においては
たぶん無理なような気がします m(_ _)m
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
アーナパーナ瞑想を行う場合は
妄想、思考が入らないように
呼吸に30分〜1時間、集中する(気づく)ことを継続します >>441
その偈も無我=アートマンとして読み返してください。
結局、アートマンは五蘊ではないと言ってるだけです。
故に五蘊はアートマンと定義できるです。
アートマンは不滅であるというのは間違い。
アートマンは不滅ではないというのも間違い。
故にアートマンは無記としか言えない。
>>446 >栄進師匠へ
我(アートマン)
本来の語義は「呼吸」であったが、そこから転じて
生命、自己、身体、自我、自我の本質、物一般の本質自性
全てのものの根源に内在して個体を支配し統一する
独立の永遠的な主体などを意味する
− これに対して −
真如
自性清浄心、仏性、法身、如来蔵、実相、法界、法性、円成実性
法界体性智(大日如来の智)
栄進師匠が言ってるのは↑これのことかしらん? >>449
いや、よくわかんないんだけど^^
アートマンとはすべての本質。
この本質も実際にはあるのかないのかわからない。
分子、原子、素粒子.......アートマンw 何度でも言いますが、釈迦はアートマンを否定していない。
むしろ無我としてアートマンを積極的に説いた。 >>443
1.
「・・・でないによってのみ定義される」とは、概念化されるものではないって事ですよね?
無我というのは概念化ではないのですか?
2.
無我とは「我無し」であって「我でない」ではありません。「我でない」なら非我ですが? >>452
我がアートマンであるという概念の否定です。
故にアートマンと定義できるのです。
非我でもいいです。
>>449の続き
>>448 栄進師匠へ
↓宝珠殿のリンク
ttp://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm
…
アートマンについては無記…
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく
_ _ _
たとえば
プルシャの世界から
プラクリティの世界が創られた
仏そのもの(大日如来)が
縁起している世界を創った
↑ これのことかしらん? >>448
そこで、「アートマンである」というのも間違い、としてみたらどうだろうか? >>444
当時のバラモン達ではアートマンは「常・一・主・宰の我」と説かれており、お釈迦はその否定をされました。
そして、アートマンと区別する為「アナートマン」という言葉を使われてました。
であれば、お釈迦様はアナートマンを説いていたのであり、アートマンを説いていたのではありませんよね? 「アートマン」を捉えてるうちは、それを捉える「主体」(無明)の内でありつづけるとか >>453
しかし、非我で「ある」としてしまえば、それは定義化、概念化ですよね?
あくまでも「・・・でない」と無限に後退して否定されなければ定義されないものですよね?
つまり、「「「でない」でない、でない」・・・」、と。
つまり、「非我でない」でなければ定義化されないのでは?
>「アートマン」を捉えてるうちは、それを捉える「主体」(無明)の内でありつづける
仮設としての
縁起している世界の中で
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して
(それ自体、独立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、独立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存して
おじゃるも
栄進師匠も
たとえば
仮設としての
『アートマンが…!』という想いが、現れ、そして滅している
という感じでつね? >>439
その中部経典22「蛇喩経」(蛇のたとえと筏のたとえが説かれている経典)ではブッダはこうも説いています。
比丘たちよ、そのように心が解脱した比丘を、帝釈とともなる、梵天とともなる、造物主とともなる神々が探し求めたとしても、到達することはありません。
『これが〔新たな名色に〕依止した如来の識だ』と。
それはなぜか。
比丘たちよ、現法においては、私は如来を、(般涅槃した故に)随知されない者であると説きます。
比丘たちよ、このように説き、このように論ずる私を、一部の沙門婆羅門たちは、不実ゆえ、虚偽ゆえ、虚妄に、偽って、誹謗します。
『沙門ゴータマは虚無論者であり、存在する有情の断滅、消失、非有を説く』と。
比丘たちよ、私はそのようではありません。私はそのように説いてはいません。〔にもかかわらず〕彼ら尊き沙門婆羅門たちは私を、不実ゆえ、虚偽ゆえ、虚妄に、偽って、誹謗します。
『沙門ゴータマは虚無論者であり、存在する有情の断滅、消失、非有を説く』と。
比丘たちよ、私は昔も今も、苦と、苦の滅のみを説いています。
(以下、今だけを生きていれば過去を振り返って一喜一憂することはないので過去に遍知されたことは捨てなさい。
五蘊はあなたのものではないので捨てなさい。
と教えは続く)
訳文
http://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn03/mn03c07.files/sheet001.htm
ブッダは常住論、断滅論の極端から離れ中道を解くというのが素直な解釈で、
五蘊は以外に我がある(常住論)とか、五蘊以外には何もないので無我である(断滅論)の論者としてブッダを語ればブッダは悲しむと思います。
>非我でない
勘違いする人が居るといけないので
一応、念のため
青目(ピンガラ) 中論 觀如來品 第二十二
…
如来の滅後も、こう思惟してはならない
有るのか?無いのか?有ることもあり、無いこともあるのか?と
如来は戯論を超過する
人(おじゃる)は戯論を生じる
慧眼を破れば
仏を見ることはない
− これを対処するために −
我である・我ではない。というような『想い』も手放して
想う。という『想い』も手放して
想わない。という『想い』も手放して
非想非非想も手放して超えて逝く
↑間違ってたら スマソ m(_ _)m 真昼間から寝言が聞こえるにゃん♪
これぞ寝言地獄かしらん?
南無南無 (-∧-)合掌・・・
(大乗)密教の場合は
地水火風空識
この場合の識は
無明に依存している識ではなくて
法界体性智(大日如来の智)の識であるらしい
(だるま文庫 八宗綱要 真言宗 参照ヨロ)
_ _ _
ttp://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn03/mn03c07.files/sheet001.htm
『これが〔新たな名色に〕依止した如来の識だ』と
これを見ると
根本仏典とかも
仏そのもの
仏性からの真如縁起という感じがしますね? ある対象の存在について、「ある」「ない」を考察するとき、それは『非対称』であることを
まず、理解しよう。
なぜならば、「あることの証明、確認」は可能だが、「ないことの証明、確認」は、
(付帯条件を付けない限り)不可能であるからです。
即ち、「あることが証明できない」のであれば、それは、「ないことの蓋然性が高い」・・・
「少なくとも暫定的にそれは、『ないことに認定』します」
つまり、ないことが証明できない⇒あるかもしれない⇒あることと、ないことの可能性は、
半々だ・・・・とはならないのです。
・・・・・・・釈迦は、自己に属すると思われる対象を一つずつ確認しながら、これもあれも
我ではない・・・・として、如何なるものも我ではない と確認することにより、
我の存在肯定を却下しました。
「あることの証明、確認」が出来なかったのです。勿論、「ないことの証明、確認」は不可能です。
@現時点において、その存在が確認、証明できない
A将来において、その存在証明が実現できる可能性を示唆する有意な理論もない
@Aの条件を満たす対象は「ない」とするのが、論理的思考を支持する者で、釈迦はそのような
人だった考えられますねw 栄進さん、つまり(貴方の仰る)アートマンとは
1.「我ではない」としか定義出来ない
2.「無(非)我である」と定義できるのもではない
って事ですよね?
それ故「無(非)我とはアートマンである」というのは誤謬では? >>462
貴方は聞思修の実践を知らないのですか? >>465
つまりですね、アートマンとは、コレであると語れないんですよ。
アナートマンとは、アートマンの存在の否定ではなく、コレという存在
はアートマンでは無いという意味です。 >>464
釈迦は、アートマンがあるとか無いとか説いているのではありません。
アートマンとは、我であるコレであると言えないという本来のアートマン説を支持しているだけです。
そして悟りを開いてもアートマンとはコレであるとは発見できなかった。
無我とは、アートマンの否定ではなく、アートマンとは何かの説明です。 諸法無我とは、一切のあらゆる存在はアートマンであるという意味です。 アートマンについて釈迦は無記です。
この無記こそが悟りの本質だと思います。
>>470
栄進師匠へ
変化することのない
無為法の世界
如来の識
如来我(仏性)がアートマン
真我
↑これでしょ? >>471
いや、アートマンを「これでしょ?」と言えないんです。
故に一切の存在はアートマンなんです。 >>469
ヤージュニャヴァルキヤ
「非らず。非らず」 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』 4.5.6
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm
>しかし、人にとってすべてがアートマンそのものとなったとき、
>彼は何によって何を見るのであろうか。彼は何によって何を嗅ぐのであろうか。
>彼は何によって何を味わうのであろうか。彼は何によって何を語るのであろうか。
>彼は何によって何を聞くのであろうか。彼は何によって何を考えるのであろうか。
>彼は何によって何を触れるのであろうか。彼は何によって何を認識するのであろうか。
ヤージュニャヴァルキヤのアートマン論では、ブッダが分別した五蘊は認識対象になりますからアートマンではないのは
上記引用文と照らし合わせても妥当ですが、
一切のあらゆる存在がアートマンであるとまでここでは言っているのでしょうか?
もっとも、ウィキベテアのヤージュニャヴァルキヤのページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤージュニャヴァルキヤ
には
>彼によれば、この世界はすべてアートマンにほかならない。それは唯一のものである。
>しかし一方では、アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。
>したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、
>アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた。
と記載されており、またヤージュニャヴァルキヤは一元論のウッダーラカ・アールニの弟子でしたから、
上記引用文とは別に「この世界はすべてアートマンにほかならない。それは唯一のものである。」という思想を持っていてもおかしくないかもしれません。
しかし、ブッダの諸法無我は一切のあらゆる存在はアートマンであるという意味におくのは定説ではないですね。
少なくともブッダは五蘊についてははっきりとアートマンではないと言っているわけですし。
>>472
栄進師匠へ
質問させて頂きます
無為法って何だか知ってまつか?
縁起に依存している
有為法を超えている世界のことなので
それゆえに
無為法は
言葉では説明できない世界
無記ということになるけど
対機説法としては
涅槃(無為法・無記)に戻る帰る
というような導きになるのでつ
仏教の言葉を理解してまつか? >>467
であれば、なおさら「無(非)我とはアートマンである」というのはおかしいですよね。
「無我とはアートマンの説明である」というのなら整合してますけど。 >>473
五蘊はアートマンではありません。
ただそれだけのことであって、アートマンの否定ではありません。
釈迦は従来のウパニシャッドのアートマン説を否定したのではなく、それを正しく理解して如実に説いたと言うべきでしょう。 >>474
ごめん、あんまり理解してない。
パーピマンに怒られるけど^^ >>468
> アートマンとは、我であるコレであると
> 言えないという本来のアートマン説を支
> 持しているだけです。
つまり、「アートマンとは常・一・主・宰の我」という釈迦在世時のバラモンの説は本来の説ではなく、釈迦は原点回帰したというのですか? >>475
そうですか?
アートマンは我では無い、故にそれをアートマンと呼ぶことができる。
アートマンを説明するには否定によってしか定義できないのでは? >>478
そうです。
釈迦は、アートマンの解釈の原点回帰をしただけです。
仏教とバラモン教の違いは、バラモンという階級の否定にすぎません。
釈迦は特段何か新しいことを説いたわけでは無いです。
>>478
栄進師匠は
基本的な
仏教の言葉を理解してないようなので
たぶん
栄進師匠の云う
「アートマン」というのは
大乗で云うところの
真如ということではないかと? >>481
いえいえ^^
ですからアートマンを真如だの何だと言い換えても無意味ですよ。
別にそれでアートマンを理解できるのならいいのですが。
すべては真如である。
それでオーケーです^^
>何か新しいことを説いたわけでは無い
本当に
仏教のことを知らないんでつね?
その当時の
バラモンとかに
想受滅(滅尽定)とかありましたか?
その当時の
バラモンとかに
悟りに至る(戻り帰る)ための
菩提分法とかありましたか? >>476
>五蘊はアートマンではありません。
>ただそれだけのことであって、アートマンの否定ではありません。
あれ?
>>469
>諸法無我とは、一切のあらゆる存在はアートマンであるという意味です。
五蘊は一切のあらゆる存在の例外ですか?
そのように線引きできるものなのでしょうか? >>485
悟りというのは何か特別な境地でも何でもありません。
争わないこと。
ただそれだけです。
釈迦が当時菩提とか説いたんすかね?
ぜーんぶ後代の仏弟子がでっち上げた概念ではないですか^^ >>482
アートマンとは、なんですか?
仏とは、なんですか?
我とは、なんですか?
>>488
栄進師匠へ
質問させて頂きます
ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
(無限に続く輪廻の)運命から抜け出すための方法は?
どのような
方法で
「争わない」を実践するのか?そのための方法は? 普通は、わたし、というのは
お父さんとお母さんから、生まれてきた
この、体、と、その活動によって生まれる
行為や、言葉や、精神活動、諸々の、記憶、などなどの、統合されたものだと思います
これを、わたしと、呼びますが、問題ありますか?
もし、わたしが、いないのなら
ここに書いている人は、どこにもいないで
オールOKですかい? >>486
アートマンは五蘊では、ない。
故に五蘊はアートマンである。
矛盾してるようですが、否定によってしかアートマンを定義できないから仕方ない^^
言葉足らずですまんです。 この世にも、あの世にも、存在しないものが
掲示板に書き込みをする
このようなことは、ありますか? >>489
わかりません。
知りません。
すべて妄想かもしれません^^ >>480
だとすれば仏教史を覆す大発見ですけど、仮説としての根拠はどうなんですか? >>495
妄想かもしれないのに、なぜ
アートマンは、我ではないと、おもったのですか? >>490
方法ですか?
「何もしない」
ことがベターだと思います^^ >>492
もう一度
ヤージュニャヴァルキヤ
「非らず。非らず」 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』 4.5.6
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm
より
>この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは
>捉えることができない。捉えられないから。
>壊れることがない。壊されないから。
>こだわりがない。こだわらないから。
>つながれず、動揺せず、損なわれない。
>ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
さて、五蘊というのは壊れることがないものでしょうか?
ブッダは五蘊は形成されたもの(つくられたもの)であり無常である、と言ってますよ。
>>495
最低限の基本的な
仏教の言葉を理解してからじゃないと
栄進師匠が
何を主張したいのか?わからないので
教学としての勉強もしておいた方が良いと思いまつよ
栄進師匠へ
>>498
「何もしない」を実践するための方法は? >>493
いるに決まってるでしょ^^
無我を私が無いという意味で使うなら間違ってます。
そういう輩を悟りスレではムガムガ馬鹿と呼んでます^^
無我とは、アートマンは私では無いという意味です。
むしろ釈迦は本当の私、自分を探せと説いてます。 >>501
アートマンが、私であるかないか
そのようなことが、何の問題になるのですか? 「アートマン」とか「真如」とか「仏性」とか
どれが「違う」とかどれが「そうだ」とか分けることに意味はないと思うけどね
言葉自体、そこに裏支えするなにものかは成立しないってことだろうから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています