外道の独り言 10
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします 「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です 極めて恣意性の強いスレであることを了解願います 上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく (むしろその逆で過疎って欲しいくらいです) 「真摯なる碩学」が パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です 自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください 昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです 自由に書き込みしたい方は↓こちらへ ひだ =^・ ・^= まり ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2 ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524 前スレ ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1526072224/ ログ保管庫 ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html >>312 それは、竜樹のいう「相依性」ですが、そこには、時間性を有する因果が欠落している ので、一切の空性(自性の欠落)を説明するのには良いですが、あるものの『発生』を 説明できません。 >此があれば彼があり、此がなければ彼がない。 これを「横」みれば、相依性ですが、(時系列にのせて)「縦」にみれば、因果です。 おそらく釈迦の言う「空と観ぜよ」は、諸行無常の観点からからしても、後者だったのではないかと? さて、唯識は「全てはこころから生じる」というスタンスですが、・・・・これは唯心論と非常に親和性が 高く、そして、かつてこのスレにいた隠居というコテの「生命教」とも類似していますw ですので、隠居に対して行った突っ込みを、ここでも行いましょうw ⇒「こころが全てを生じる」のであるならば、「こころが生じる以前には、何もなかったのか?」 というやつですw つまり、今から40億年前の地球を考えましょう。 その時には、生命が全くいません。 当然、こころもありません。 では、40億年前には地球は存在しなかったのでしょうか? >>314 お前のそのキリスト教に対する激しい嫌悪感は、一体、何によって生じたのかな?w かつては、隠居もイエスに対して異常な憎しみをさらけ出していたが、それに勝るとも劣らぬw 何があった?w >>288 まず、>>312 でレスした通り、 1.阿頼耶識は、「種子・肉体・自己を取り巻く環境」、つまり一切を認識対象としております。 2.阿頼耶識は、末那識が阿頼耶識を認識対象とすることによってともに生じるものです。 そして、「全てはわが心の展開」という視座なので、田中′1も田中′2(→肉体(有根身))も、鈴木も山田も輪廻転生も阿頼耶識も(自己を取り巻く環境(器界))の認識対象としてとすることにより転識して現象しているものと考えられます。 つまり、人人唯識で、それぞれの世界(一人一宇宙)で輪廻転生をしているので「個別性」は問題にならないというところでしょうか。 最も、「一人一宇宙」まで「個別性」として見るのなら、もうそこは観測者効果としか言いようがないんですが。 生命の存在が地球誕生以前になかったという前提もおかしいよね。 海底火山の熱水が噴出しているところにも生命が居るのが確認されている 火山性の毒ガスを養分にして生きている ということは宇宙の☆には至る所に生命が存在しうるってこと。 >>316 (^。^)気にすんな、お前さんらには一生縁の無い話よ。(笑) >>315 流石はパーピマンw 唯識は外境実存主義とはバチバチなんです。 > 「こころが全てを生じる」のであるならば、「こころが生じる以前には、何もなかったのか?」 非有非無としか言いようがありませんね。 > では、40億年前には地球は存在しなかったのでしょうか? 40億年前に地球があったという認識が現象しているとしか。 ブッダも物事は心によってつくり出されると述べられた。 だからジャンキーみたいに人を見下して、自分たちアゲするような そのような悪い心は持つなってこと >>321 (続き) > 「こころが全てを生じる」のであるならば、「こころが生じる以前には、何もなかったのか?」 > では、40億年前には地球は存在しなかったのでしょうか? まぁ、↑これ自体が、井筒俊彦先生の仰ってた「言葉の意味作用」なんですけどね。 > 「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみ」 (大乗起信論) > つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。 そして、こうしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。 (井筒俊彦 意識と本質−精神的東洋を索めて) はっきりしてるのは 「論理的思考では悟れない」 これだよ。 ブッダも論争はやめよと述べられた。 つまりいくら論理的思考で戦っても悟れないということ。 ブッダの言葉を素直に受け入れ実践する人は悟れるんでしょうが ジャンキーみたいに人と論争して「お前は分かってない」 「俺は分かっている」 これでは絶対に悟れないちゅーこと(笑) >>324 相変わらず分かっていませんねぇ? そうやってあなたが論争を仕掛けてくるから「分かってない」「他人の経験や知識に対する妬みや嫉みでしょ?」とこちらはあなたとの論争を避けているんですよw このスレは確かに敷居が高い。 相応の知識が無いとレスの応酬が出来ない。 その敷居が高いスレを見下しマウンティングすることによって「俺スゲー」状態になってるんですよw To:元オームさん&基地さん、qxOUC1gkさん 315.覚者になれないバービマンである。ばーかマンである。 なんでか。 その内容が誤りであるからである。 なんでか。 「こころが全てを生み出す」 の反論をもう一つw (ジャンキーは嫌がるかもしれんがw) ある人を遠くからスナイパーが狙っています。その人は勿論、そんなことは知りもしません。 そして、其のスナイパーの撃った弾丸は、その人の後頭部に命中し、そのひとは 一瞬で死んでしまいました。 さて、その人は勿論、スナイパーの存在も弾丸も認識していません。 しかし、その全く心の片隅にも思い浮かばなかった弾丸によって、その人は 死んでしまったわけです。 ・・・・・・このように、唯心論的スタンスというのは、その外部・・・・・ 即ち認識外からのアタックには実にもろいのです。 私が言う事じゃないんだろうけど、批判者へ一言w > コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということ だ。 (井筒 俊彦 意識と本質−精神的東洋を索めてより) だけど、 > 諸仏の説法は、二諦によっておこなわ れる。 > 世俗諦と勝義諦とである。 > これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。 > ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。 > 勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。 (龍樹 「中論」) という事なんですよ。 >>309 >>>294 >>(^。^)俺の場合だと、求道心をバカにしてるから、キリスト教とかバカカルトがヘドが出るほどキライな訳だが。(笑) >求道心を馬鹿にしていると、何でキリスト教とかカルトが嫌いなんだ。 おっと勘違いしているかもしれないな。 そのレスだと、俺が求道心を馬鹿にしていると読めてしまうんだよな。俺だけかw キリスト教とか馬鹿カルトは求道心を馬鹿にしているから嫌いだ。 ということでいいのか。 >>315 ごもっともです。 > 諸仏の説法は、二諦によっておこなわ れる。 > 世俗諦と勝義諦とである。 最も多いのが、この二諦をごちゃまぜにして語るバカw 現在の日本の仏教が葬式仏教と揶揄されることへの問題点などを 対論しているときに、「全ては空なんです。だから何の問題もありません。」と チャチャ入れてくるアホ・・・・・こういうのが多いんだww >>328 いや、一向にかまいませんよw、所詮は方便なのでw 唯識無境で外境はないんです、つまり、まぁ、其々が閉じこもった世界にいる訳でw 勿論、色即是空って逝きっぱなしじゃ宜しくないわけで。 > 禅本来の見所から言うと、「山は山にあらず」という矛盾命題の指示する絶対無意味の次元から、 > 人はさらに翻ってまたふたたび「山は山」という有意味性の次元に戻らなくてはならない。 (井筒俊彦 意識と本質−精神的東洋を索めて) ダンマパダ 1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。 もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。 ──車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 ダンマパダの最初から唯識と業論の両方について金口の説法してるねw 唯識や中観の仏教の祖師かたは 原始仏教から逸脱しないようにされていた。 しかしジャンキー属する禅宗は、公案や禅問答のような言葉遊び あるいは輪廻を否定する断見などの 仏教から逸脱した所が多すぎる。 >>335 ふーんw 1.禅宗は、輪廻転生を否定してるわけでもないけど?※1 2.禅宗は、言葉遊びをしていないけど?※2 ※1 > 六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり(白隠禅師坐禅和讃) ※2 > 言葉遊びは、言葉の持つ音の響きやリズムを楽しんだり、同音異義語を連想する面白さや可笑しさを楽しむ遊びである。(wikiより引用) >>298-303 愛語というのは、衆生に接したとき、まず慈愛の心を起こし、労りの言語をかけることだ。 すべての暴言は慎むべきだ。 世俗には安否を問う礼儀の言葉があり、仏道においても“珍重”(ごきげんよう)、“不審”(お元気ですか)といった挨拶の言葉がある。 『法華経』の「提婆達多品」にある、「衆生を慈念すること、なお赤子のごとし」といった気持ちで言葉を語るのが愛語である。 徳のある者は褒めてやり、徳のない者に対しては憐れんでやるとよい。愛語を心掛けていると、次第に愛語が上達する。 そうすると、普段は思い付かなかったような愛語が出てくるものだ。 現世の寿命の続くかぎり、好んで愛語せよ、そうすれば未来の世までもその功徳は続く。 恨みを抱く仇敵を降伏させ、高い地位にある人と親密になれるのも、愛語がその基盤にあるからである。 顔を合わせた人から愛語を聞けば、聞いた人の表情が喜びにあふれ、心が楽しくなる。 顔を合わせないときでも、愛語を聞けば、その言葉が聞く人の肝に銘じられ、魂に染み入る。 知るがよい、愛語は愛心より起こり、その愛心は慈悲の心を種子としている。 愛語には世界を一変させる力のあることを学ぶべきであって、ただ相手の能力を賞讃するだけのものではないのである。 (道元「正法眼蔵―菩提薩埵四摂法」) 面(むか)わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず…まさに肝に銘じ魂に銘じておきましょう、例え匿名掲示板でも。 337.愛語、か。 それは言葉の問題である。愛心より起こり、慈悲の心から起こる、か。 それを、愛語バカ、と言う。愛心バカ、と言う。慈悲バカ、と言う。 はい。ジャンキーみたいな暴言や罵倒は慎み愛語します。 分かっちゃいるけど辞められない♪ と言う歌が昔流行りましたなぁ! 僧兵諸君 Www (≧▽≦)ノ >>328 これは西洋哲学で唯心論が批判される時によく出されるような例ですね 「スナイパー」「弾丸」に気付く・気付かないは、 六識、意識までのもので 「弾丸」とか「銃撃」そのもの(現象)は阿頼耶識によってるってことになるのではないでしょうか 「自分(内部)」と「世界(外部)」が分かれて存在してる、 そういう物理的、科学的実在論に慣れ親しんでる現代人の我々には 唯識は、ちょっと抵抗のある世界の捉え方かもしれない >先ず道元禅師は『正法眼蔵』発菩提心の巻の中で >「一弾指(指を一つはじく)のあひだに六十五の刹那(瞬間、時間の観念的最小単位)ありて、・・・五蘊(五つの存在構成要素)ともに生滅す。 >しかあれども、凡夫かつて覚知せず。覚知せざるがゆえに、・・・刹那生滅の道理を信ぜざるなり。 >もし如来の正法眼蔵涅槃妙心(悟りの心)をあきらむるがごときは、かならずこの刹那生滅の道理を信ずるなり」 >と説かれています。 http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/hw-zen49.html 部派仏教以降の刹那消滅論を取れば、阿頼耶識でなくても(涅槃を除く)全ては刹那消滅しています。 例えスナイパーに撃たれて銃弾が脳幹を貫通して即死したとしても、厳密には貫通してから死ぬまでに何刹那かはあるはずなので、 刹那に生じた心処法には撃たれた衝撃やら感覚やらがあり心法の方には意識がありまた滅する、 これを何刹那か繰り返して死に至るのだと思います。 道元が説くところでは刹那消滅は凡夫には覚知はされないようとのことで、 確かに禅定を極めた人でもヴィパッサナーや摩訶止観での心の観察・内観をしても刹那消滅は知覚はできないと思います。 ただ、スナイパーの例に戻ると知覚は出来ないですが刹那に意識はされていることにはなります。 撃たれる前との識別は刹那にされますが何刹那か後に死心(最後の心)となるので知覚はされない、ということになりますかね!? また、唯識では撃たれてから死心までの何刹那かの心や心処は阿頼耶識に薫習され種子となる? テーラワーダとかだと死心前までの業が次の名色に入る結生識をつくる? ということにもなりますかね!? 343.唯識は心理学である。 よってして、唯識は認識の機関である。 それは存在の問題ではない。 だからして、唯識は存在を決定することはできない、ことになる。 バカには理解できない。 ★阿頼耶識は基体となるかどうか? これを論じるには一番シンプルに無常・苦・無我の三相で考察するのがいいかと思います。 阿頼耶識は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我(非我)である。 無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体(アートマン)でもない。 そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。 (上記の参考は漢訳 雑阿含経3-36 正観察↓) http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7051902.html という展開に持っていけるかどうか、持っていけたら五蘊と一緒なので基体にはならないと思います。 阿頼耶識以外にも心(チッタ)でも業でも同様にして基体となるかどうか測れると思います。 ただし、業(=行)を現代の長老方のようにエネルギーとしてしまうと混乱が生じるかも。 スマナサーラさんは仏教のエネルギーは物理学のエネルギーとは違うといっていましたが、 しかし潜在力とか(行としての)形成力とかの言葉を使うと物理学のエネルギーに近くなりそうな…。 そうなると、現代の物理学では確かエネルギーから物質が生じる(これで空即是色を説明する先生もいるそうな)ことになっていたと思いますが、 エネルギーはそのままブラフマンに置き換えられて基体となるかも、と思います。 しかし断定はしませんし、私にはできませんw 一代みたいな人材と出会えたのは、 まさに盲亀浮木だったんだな・・と、感じ入る今日この頃w >>347 浮木盲亀と言えば優曇華花にゃん🎵 南無南無 (*^人^*) 僧兵諸君、お早うにゃん♪(*^。^*)ノ” 南無南無 (-∧-)合掌・・・ https://i.imgur.com/BcQdC7y.jpg これが「独善による善意の押し付け」というキリスト病患者特有の症状だ。 驚くべき事に、彼らは疚しさなど全くなく、善行としか認識してないのだよ。 この様な醜悪な「善意」が、世界中で蔓延してる訳。 (^。^)判らんだろうが、一応な。(笑) >>350 「独善」とか「醜悪」とか、随分と「他者」を裁くね その裁く基準自体も己自身の「善」によっているんだろうに 一神教系の信者たちは、単一の価値体系への没入こそが最も価値ある生き方と信じているからしょうがない。 それは、自分たちの中では「信仰の深まり」として推奨されるが、一端、外に向かうと「自己の価値体系の『強制』」となり、それを拒否する者は「悪」であるという 極めて独善的な思考に陥る。 最も顕著な例は、イスラム原理主義たちのテロリストと言うことになるが。 ・・・・彼らの思考は、「イスラム教を信仰しない者は悪であるから改宗を強制するのは正義であるという思考」なんだよな。 「それは強制されるべきもの」という規定。 一方、キリスト教徒たちは、「キリスト教を信仰していないのは神を知らない愚か者 だから、自分たちが教えてあげる」という(彼らなりの)「善意」によることが多い。 だから、ムスリムのような明確な暴力行為を行うことは、(現在では)稀だが、従わない者たちに対しては自分らのコミュニティから排除したりと陰湿な行動を とる傾向がある。 ・・・・・・まあ、どちらも、それぞれの宗教を狂信的に信仰している者たちの話だが、実際、リアルで話してみた感想では、キリスト教徒たちの殆どは、ファッション感覚で 宗教に接していたし、少なくと善意の押しつけみたいのを感じたことは少ない。 (ただ、モルモン教徒は少しその傾向があったw) ・・・・・・イスラムは重かったw やはり宗教への傾倒度と言う点に関しては キリスト教の比ではないなww 釈迦の二枚舌ってホントなんですか? 相手によって言うことが違うのだとか? 輪廻転生、三世因果は、それを信じないと 悪いことする人間に言うという見方もある ようですが?だとすると、それらを信じる 人間や、宗教団体の人たちは因果応報を 信じないと道徳的に生きられない人たち。 あるいは、見方によっては、騙されてる 人たちとも言えるような。だから釈迦は 輪廻転生を否定してるなんて話も、 あるのかな? かつて、一代が輪廻を「現象の連鎖」という観点から説明したことがあったが、 あれは、おそらくミャンマーのテラワダの説っぽいねw 今、みなおしてみたが、視点は面白いんだけど、やっぱり「弱い」やw 自業自得のような明確なラインを必要する事象の説明が無理だね。 あえてそこには触れないようにしてるんだろうが。 自分以外の誰かが「悪い」、「愚かだ」 自分と他者が分かれてある(無明)、この無明の上から是非善悪をすると どれだけ精緻に様々な視点で理非の論を立てても 結局「俺が正しい、お前が悪い」から出られない 「他人の過失を見るなかれ 他人の過失を見る なかれ。 他人のしたこととしなかったことを見るな。 ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。」 ってのは、そういうこと(無明)なんかね >>353 wwwwwwwww 「二枚舌」という言い方は、あまりよろしくないw 「対機説法」と言いましょうw 「輪廻業報論」が、倫理的に有効に作用するということは実際、あったでしょう? 特に古代ではね。 しかし、現代では「悪いことをすると地獄に落ちる」を本気で信じてる人が どれだけいるか? 宗教団体に属している人でも、ガチで信じてる人の割合はそんなに多くないのでは? まあ、各宗教団体にもよりますがw >>358 「悪口」や「批判」、それはそれでそのまま… でも、「正しい自分」と「間違った相手」が【ある】として行う これが無明っていう妄想の苦しみなんだろ? >>351 「お前らは正しい仏教を知らないにゃん☆」 ⬆これは独善に見えるが、それは私の善を基準としてだけの話なんだね? 「気違いにゃんカワイイ」 ⬆自分の半値にこんな事を書くのは醜悪だが、これも私の善を基準としただけのものなんだね? そもそも、あの文で「裁く」という発想が、キリスト教的だよ。 (^。^)裁きの日なんて来ないから安心なさい。(笑) >>352 イスラムというのはキリスト教の改変であり、個人的には極めて優れた改善がなされたものと認識してる。 キリスト教が国権を掌握していた時代と現代のイスラムを比べれば一目瞭然だろう。 キリスト教という疫病は…… (^。^)長くなるし、バカカルト信者供が涌いてきてるから暫く遠慮するよ。(笑) 邪魔したな。ノシ >>360 「正しい」とか「間違ってる」とか、色々思ってる「自分」 この主体ってのがどうなのか それを確かめる方法が仏教でしょう? 「正しい」「間違ってる」、究極同じことなんだから 「間違ってる」も含めて全部正しいんだから >>326 >相応の知識が無いとレスの応酬が出来ない。 デタラメと間違いだらけだけどね(特にパーピマン)。 まともなのはJunkieさんは他、僅か2.3人いるかどうかであって... あとはすべてレベルが低過ぎる。 後で時間が取れたら少しずつ投稿を始めます。 それまでは遊ばせておくから。 切り口はいくらでもあって、逆に困るくらい。 まっ、遣りやすいところから始めます。 >セブン バカが、また何か始めるみたいだから相手してやってww 392Junkie-Ooyama2018/05/22(火) 00:24:01.72ID:wh1MMrx6 >>390 成程ね、接心への参加経験はあると。 「あの時は」って事は今迄一回きりってことかな。 ともあれ、俺の言う参禅は老師から公案を頂いて問答する事です。 彼此法縁には恵まれていたんで、接心は少なくとも百回以上は参加させて戴いてるけどね。 393Junkie-Ooyama2018/05/22(火) 00:35:46.68ID:wh1MMrx6 一番回数が多かったのは24炷(しゅ)/日かなぁ。 典座とかやってた時は回数減ったけどね。 時には本山からわざわざ管長が来てくださって提唱をして下さったけどね。 367junkie- ooyama2018/05/21(月) 19:23:52.32ID:67Ztlv5B >>364 同じだよ。 むしろ、(本証の)妙修から入る道元禅の方が大変かもな。 てか、専門道場で何年腹練ったの? 370Junkie-Ooyam2018/05/21(月) 19:42:46.43ID:LwxKK+T5 てか、専門道場で何年腹練ったの?>>369 390J.Ooyama2018/05/21(月) 23:15:09.79ID:67Ztlv5B>>392 >>389 >いや、公案の方がわかりずらいけどなぁ。 参禅した事あるの? >>361 >キリスト教という疫病は…… マジレスすると ま、成立自体が判断力の無い愚か者の救済なので、 イエスが疫病化させる意図が無くとも、判断力の無い愚か者の対象の救済なので。 エラー発生が当然なのだよ。 トランプ支持者のように、イスラエルにキリストが再臨するので、トランプ・マンセーみたいな、 アメリカ独自のイスラエルにキリストが再臨するので、トランプ・マンセーのカルチャーがあるから、 確かに疫病に見える笑。 >>353 ブッダの対機説法は有名ですが、説法する相手が在家でもあれ修行僧でもあれ輪廻の存在そのものを否定した説法はしてなかったと思います。 因果応報は、ひょっとすると最初期の経典と言われているスッタニパータの第四章、第五章では触れられていなかったかもしれません (肯定否定の前に業らしき言葉がブッダの口から出ていない)。 その第四章、第五章の説法の相手は修行僧です。 ブッダの直弟子に対する説法もみられますが、バラモン(教?)の学生への教えも多くそれらは説法対象者が個人名で出てきます (マーガンディヤ、アジタ、ティッサ・メッテイヤ、など)。 スッタニパータの第三章コーカーリヤ経では、ブッダの二大弟子と言われたサーリプッタとモッガラーナを誹謗中傷した修行僧コーカーリヤが その業により地獄に堕ちたことをブッダ自ら諸々の修行僧に訓戒とともに伝えたことが記されています。 661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら゜わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはおの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。 666 けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。 >>368 の続き ところで、こういった説法の他に経典には「感興のことば」という感興に催されて自発的に発した言葉があります。 それらを集めたのがウダーナ(自説経)です。 ≪ウダーナ≫ 初期仏教経典のうち、パーリ語のみが伝わる小部の計15経の第三。その重要性はきわめて高い。 また九分教、十二分教という古い分類にも、その一として名があげられている。 優陀那、憂陀那と音写し、また感興偈(げ)、自説経などと訳す。 仏陀がその感じたところを自ら発して、詩(偈)の形をとるものが起源となる。 現存するのは南方仏教の伝えたパーリ語テキストのみである。 それは、最初に散文によって説明したあと、末尾に偈がある。散文が後世の追加であることは確実で、詩のみが古い。計80よりなる。 なお、ウダーナを経の一形式とみなして、そのたぐいのものを初期仏教資料であたっていくと、仏陀(ぶっだ)だけでなく、 仏弟子、バラモン、国王、天その他のウダーナもある。[三枝充悳] その感興のことばは↓で読めます(小部経典3:ウダーナ) http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html 輪廻については、例えば 7.1 第一のラクンダカ・バッディヤの経(61) そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。 「〔輪廻の〕転起を断ち切った。願望なき〔あり方〕へと離れ去った。干上がった川は流れない。 断ち切られた〔輪廻の〕転起は〔もはや〕転起しない。これこそは、苦しみの終極である」と。 7.2 第二のラクンダカ・バッディヤの経(62) そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。 「〔輪廻の〕転起を断ち切った。願望なき〔あり方〕へと離れ去った。干上がった川は流れない。 断ち切られた〔輪廻の〕転起は〔もはや〕転起しない。これこそは、苦しみの終極である」と。 など、他にも沢山の輪廻についての感興のことばが見られます。 >>369 の自己レス 7.1 第一のラクンダカ・バッディヤの経(61) そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。 「〔輪廻の〕転起を断ち切った。願望なき〔あり方〕へと離れ去った。干上がった川は流れない。 断ち切られた〔輪廻の〕転起は〔もはや〕転起しない。これこそは、苦しみの終極である」と。 ↓ 7.1 第一のラクンダカ・バッディヤの経(61) そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。 「上に、下に、一切所において解脱した者は、『このわたしは、存在する』と随観する者ではない。 このように、かつて超えられたことなき激流を、解脱者は超え渡った――さらなる〔迷いの〕生存なきために」と。 「上に、下に、一切所において解脱した者は、『このわたしは、存在する』と随観する者ではない。 このように、かつて超えられたことなき激流を、解脱者は超え渡った――さらなる〔迷いの〕生存なきために」と。 杞憂かもしれませんが、このブッダの感興偈は無我を説いている説いていないとか煩いことになるかもしれないと思い、原文をあげておきます。 “uddham adho sabbadhi vippamutto, ayamhamasmiti ananupasst; evam vimutto udatari ogham, atinnapubbam apunabbhavaya” ※文字化けしそうな、例えばmの上に・があるようなパーリ独特の文字はmにするとか多少直しています。 とは言っても、私にはパーリ語は分かりませんがw、anatta(パーリ語で無我)あるいはattan(パーリ語で我・アートマン)みたいな単語は見当たらないように見受けられます。 随観とありますから四念処による観行瞑想で身随観、受随感、心随観、法随観を行って、 無常・苦・無我(非我)の三相を観察した結果、身・受・心・法の随感で有為法での無我(非我)を正見するということになりますかね。 般若心経で言えば「照見五蘊皆空」といったところでしょうか。 一応四念処(四念柱) http://abhidhammattha-sangaha.blogspot.com/2014/07/blog-post_34.html >法は無我であることを観察することで、あらゆるものには第一義法(心・心所・色・涅槃)だけしかないと知ることができます。 とありますが、随観つまり現在のヴィパッサナーを瞑想の主に置いているテーラワーダでは経量部と同じく法は現在においてのみ有となっていたと思いますが、 細かいことは分かりません、勉強します。 本来は座学ではなく瞑想して観察できまでになったら凄いのでしょうが、すごく時間がかかりそうですわw 中観とか唯識とか、いろいろあるけど 原点は原始仏教ですよね。 中観や唯識を学ぶに当たっても、原始仏教から逸脱していたら疑わしいと思う。 龍樹菩薩も原始仏典を「聖典」と呼んでいたように 帰る場所が原始仏教だと思いますね。 話題を変えて、「アルボムッレ・スマナサーラ. Power up Your Life パワー・アップ・ユア・ライフ: 力強く生きるためにブッダが説いたカルマの法則」より あなたが他人に「あなたは過去生で他人を助けてあげなかったから、今は貧乏です。自業自得です」と言うと、 それは他人を侮辱するという自分の悪業になるのです。自分が惨めに生まれ変わる原因をつくることになるのです。 気をつけましょう。 これは全くその通りですね。 >>374 同感です。 近現代の仏教の学者の説はもちろん、三蔵の論蔵なども例えば唯識の護法の成唯識論はもちろん、 「おっしゃる通り阿含経を土台にしていると言われている龍樹の中論」などでも多少なりともバイアスはかかるので、 WまずはW原点のアーガマ(パーリのニカーヤや北伝の阿含)から当たるのが良いと思いますね。 もちろん中観や唯識の思想もそれぞれ優れているのを認めながら。 >>256 原始教団における葬儀の実態ということで、 “ゴータマからの直接的な比丘たちへの葬儀の指示”があった という仏典の記録を紹介して頂き有難うございました。 これは、この私の見てきた中では2/5ch内で初めての指摘かと思いました。 大変、勉強になりました--晴らしい投稿に感謝します。 >>257 >先祖供養と輪廻転生は矛盾するのではないか >という意見もあるようですw 輪廻転生の宗教であるヒンドゥーにおいてもピトリ・パクシャの先祖供養期間(満月から新月に掛けての二週間)と祥月命日(年一度の月日 同日の本命日)においては、 現代の日本仏教と殆ど同じようにして燈明と華と香と供物を捧げて祈り、神と先祖霊を勧請して供養します。 ただ日本との決定的な違いは、お墓を持たないということ。死者の遺骨は聖なるガンジスに流し、死者の霊魂は存続しているから供養をする、 と。たとえすでに他の人間や生命体に転生しているかもしれないけれども、しかし、これらの供養の行為は無駄ではなくて効果をもたらすも のとされる。 ゴータマの場合も然りであって、今日の日本仏教に繋がるような“祖霊への供物を捧げての供養”を明確に説いています。 『実に次の五つのしかたによって、子は東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。― 「われは両親に養われたから、かれらを養おう。かれらのために為すべきことをしよう。家系を存続しよう。財産相続をしよう。そうして、 また祖霊に対して適当な時々に供物を捧げよう」と。 実にこれら五つのしかたによって、子は東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。また父母は次の五つのしかたで子を愛するのであ る。すなわち〔1〕悪から遠ざけ、〔2〕善に入らしめ、〔3〕技能を習学させ、〔4〕適当な妻を迎え、〔5〕適当な時期に相続させる。 実に子は、このような五つのしかたによって、東方に相当する父母に奉仕し、また父母はこれら五つのしかたによって子を愛するのである。 このようにしたならば、かれの東方は護られ、安全であり、心配がない。』 (『パーリ長部-第三一経』シンガーラへの教え/善生経) パーリ語の「peta」(亡霊,祖霊,父親,餓鬼)、“逝去した父親たち”(亡霊,餓鬼)(peta^nam ka^lakata^nam)ということで、ゴータマは 大乗が説くような特定個人への廻向(追善供養)はできないものとしながらも、不特定多数の祖霊たちが落ちているであろう餓鬼界の先亡者は 供養によって救済ができるものとしており、その方法として沙門・バラモンたちに供養/布施をするようにと説いています。そして、その施主 としての果報(功徳)は死後に布施した分の供物の荘厳を施主本人が受け取ることになる、と。また、特別な儀式がなくてもバラモンに供養し て食してもらうだけで良いとされています。 よって、仏教徒にとっては施餓鬼供養が如何に大切なものであるかが分かります。祖霊供養を営む日本仏教の僧侶というのは、まさに現代 のパラモンたちに相当するものであり、先祖代々の位牌を祀って供養する智恵は見事にゴータマの教えにも適っていると見ていいと思います。 尚、いわゆる四十九日で(すぐ次の人間として)転生するかのような短絡的な思想は後代のものであって、実際上はいつ転生するかというの は個人差が甚だ大きく、永く餓鬼界に落ちている先亡者たちは当然、次の人間としての転生などは遥かに先の話です。従って、すぐに転生す るなら先祖供養する意味はないという考え方はまったく間違ったものだということがわかると思います。 詳細/参考論文 http://nbra.jp/publications/69/pdf/69_26.pdf (藤本 晃著『パーリ四ニカーヤに説かれる先祖・施餓鬼供養』) >>232 >一代やセブンにボコボコにされて逃げだしたこと、もう忘れた?ww エッ、どの誰がボコボコにされたって??? それはパーピの頭のことじゃないのかい? あなたは毎度、過去スレの古い遣り取りを知らない新しい参入者やギャラリーが増えると、 何故か、急に威勢良くなって調子に乗るよね。 一年前にも、『▼▼▼仏教は不幸な死にかたした人は前世が悪いと言うらしい▼▼▼』スレで あなたは私に同じようにして威勢を張って、この私にガッチリと叱られたのを忘れたの? ハッキリいってこの私から見れば、トップレベルでダメだった典型がその一代ですよ。 確かに頭はイイ(本物の著名な学者だったしね)けれど信仰からくる思い込みと決め付けが激しいから、 彼自慢の参考文献の誤読があまりにも酷かった...。 自分から近代仏教学の大天才だと讃えた石飛氏は著作で、 実は、一代の主張とは真逆の「ブッダはアートマンは無いなどとは説かない。それは部派からの伝承だ」 と、明確に述べていることすらも分からないのだから(彼の誤読はこれだけに限らない)。 そう指摘されて、いなくなったでしょ (その後も数回、この私に絡んできたのは本当は私には分かってましたが、敢無く撃沈されたでしょ)。 あの方の良いところは、非常に真面目なところ、信仰(心)が厚いところ、勉強熱心なところです。 そして、この私が非常に強く感じたのは、恐らくあの人はこの私と性格気質が酷似するタイプだということでした。 それと、ある意味で彼が真言阿闍梨であったということも、私からは好感が持てる要素の一つです。 それから、あの一連の議論の後で実は、 この私は石飛氏とは個人mailにて数回に渡る対話をしています(たぶん初めてそのことを伝えますが)。 しかし残念ながら、わたしの方であまりにも勤務が多忙過ぎて対話を打ち切りっています。 また実際、もう学者にわざわざ確認する必要性も殆どないものと感じたということもあったので...。 女史に対する印象としては、誰に対しても等しく親切丁寧に対応する素晴らしい方であるということ。 セブンはこの私にいわせれば、 恐らく私の主張については殆ど理解しており分かっている(頭の回転が速くて頭脳の方は相当にキレル)。 ただし、「認めたくない」ということなんだろうと見ていますよ(本人はこれを否定するでしょうが)。 もちろん、認めないのは本人の自由です。 >>364 >>セブン >バカが、また何か始めるみたいだから相手してやってww ん? 何故、他人に“援け”を求める? 人任せにしないで自分で論戦してきなさいな! そんなに自己の見解に自信があるのならば。 人が負け惜しみを言うとき、それは話に関係のないことを 言うときである まさに、まことがそうであった 小川一乗 小川 一乘(おがわ いちじょう、1936年 - )は、日本の仏教学者、文学博士、真宗大谷派の僧侶。 大谷大学名誉教授、真宗大谷派講師[1]、西照寺[2]住職。 元大谷大学学長、元真宗大谷派教学研究所所長。専攻はインド仏教学。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E4%B8%80%E4%B9%97 後生(ごしょう)での往生あっての浄土真宗なのに 「釈迦は輪廻転生を否定した」などと真宗批判とも受け止めかねない自論を持ち出してどうするの? これが噂の真宗赤旗左翼派唯物論僧か? なんだかんだで、確認する術がないのだから、信じるか、信じないかの話になってしまうね それとも、神通力で、過去生のすべてを見た人が、実録で報告されてるのかなあ しかし、どちらかというと、あるような気がする、、、 なんとなくの世界 輪廻転生は否定すべきである。 なんでか。 事実として、存在しないからである。 先祖供養は否定すべきである。 なんでか。 それは孔子のやることである。 バカ宝珠のやることである。 解脱した覚者のやることではない。 >>386 神通力とは能力者が鍛えに 鍛えた洞察力の事にゃん♪ お経を読んだり坐禅をして 身に付く物では無いにゃん♪ 南無南無 (-∧-)合掌・・・ w >>387 >先祖供養は >孔子のやること >宝珠のやること >解脱した覚者のやることではない さて、 解脱していない者、孔子の系譜にない者、宝珠(と同思想)でない者、 つまり、それ以外の、日本人、欧米人、アジア人etc.etc.もまた、 先祖供養をすべきでない、とw 何をしたらよいのか?とw 太古からの人類史上、先祖供養的なことをしていない人類が、 はたしてどれくらいいるんだろうかね・・・。 多数決とかwwwwwww 両親や祖父母が死んだとき、或いは、その更に先の父母祖父母を思う(感謝尊敬する)とき、 君は、多数決で多い方の感情を抱くんだ。 ふ〜ん、変わった人だね・・ >>390 >>392 少しは民俗学的視点、人類史的視点も持ってみたらどうだ? なぜ、ヒト(という種)は、葬送儀礼を続けているのか?とね。 自分が自然そのものなくせに、自然を排除しようとしている、という 養老さんの唯脳論思い出したわw 雑: 六方礼経でシンガーラカに言われることは、 勝義only視点なら、ちゃんちゃらおかしい「無駄事」「愚かな行為の極み」なわけだが、 お釈迦さんは、そんな視座で彼と接していない。 そこには、(後の大乗仏教にもちゃんと繋がる)、慈悲の視線、 世俗で生きることの尊重があるよ。 394.世俗で生きる、ならば、宗教は必要としない。 そこに、あるのは、世俗の習慣である。 その世俗の習慣が先にある。そこに宗教的意味を付加しただけのことである。 民俗学的視点を持てば、そうなる。 >>155 対機説法、方便ですよ? 我々は真理を言語により文節しているって事なんです。 つまり、真理は言葉では表せない。 しかし、言語による方法でしか真理は示せないのも事実ですからね。 > 諸仏の説法は、二諦によっておこなわ れる。 > 世俗諦と勝義諦とである。 > これら二種の諦の区別を知らない人々は、 > ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。 > ことばによる説明によらなくては、勝義は説か > れ得ない。 > 勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさと > られない。 > (龍樹「中論」) > 「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念 > に随えるのみ」 > (大乗起信論) > つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。 > そして、こうしてコトバが脱落し、「本質」が > 脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない > 「存在」そのものだけが残る。 > (井筒俊彦 意識と本質−精神的東洋を索めて) w >>395 >世俗で生きる、ならば、宗教は必要としない 有史以来、 誰が、 宗教を生み出し、育て、改訂し、再生産し続けているか、 お前の顔についてるのは節穴かw >そこに、あるのは、世俗の習慣である だからw、 多様な世俗の習慣の中の、或る種のものを近代学問が「宗教」としてラベリングしたわけだが、 『世俗に生きる人々の中から生まれたもの』であることは変わらない。 否定云々でなく、生物としてのヒト(が世俗的に生きるところ)から必然的に生じるという意味で不可分だろうが。 399.世俗で生きるならば、宗教は必要としない。 そこを理解できないバカである。 不可分ではない。 迷信とは不可分である。 それを宗教だ、と断定するバカであることになる。 迷信やってるのが、ごこが悪い、と居直ることになる。 >>400 必要とするか否かは個人の判断に委ねられるんじゃないんですか? それとも貴方は思想や良心の自由を認めないの? 宗教は宗教そののが必要とされた訳ではなくて社会背景があって必要とされたり利用されたりしてきたんだよ 今の時代で考えるなら文化や趣味娯楽としての意義が大きいんだろうね ↓外界実在論?について ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/50/1/50_1_340/_pdf カマラシーラの知識論と因果論の検証 常住な自性 − 仏教以外の見解 「仮設としての」という意味で 無常な自性 − 瑜伽行派の見解 積集した原子という点での『外界実在論は成立しない』 以上の論点は カマラシーラの独創ではなく ダルマキールティの文脈からして明らかである さらに外界実在論の論破としては 遠近の区別により対象自体に明瞭・不明瞭があるのではなく それは知識自身によって起こるものである ダルマキールティは (1)原因が存在する前に結果が存在する場合 (2)結果が別の場所からやってくる場合 (3)別の原因の結果である場合 それに対し カマラシーラは (1)(2)の場合が回避され得ると認めるが (3)の場合が回避されるとは認めていない >>247 に続いて ★輪廻転生する主体は識(識別作用)であるということの経典から証明 2 「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.) http://manikana.la.coocan.jp/canon/vakkali.html 13 「もう十分だよ、ヴァッカリよ、お前が、この腐敗した身体を見ても、何になるだろうか。 ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしを見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。 というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」 (略) 34 そのとき、尊師は、比丘たちに呼びかけた。 「比丘たちよ、イシギリ・パッサ・カーラシラーに向かって、出かけよう。そこでは、善男子ヴァッカリが、刀を持ちだした」 「おっしゃるとおりにしましょう、尊師よ」と、かの比丘たちは、尊師に同意した。 35 そこで、尊師は、たくさんの比丘たちとともに、イシギリ・パッサ・カーラシラーに赴いた。 36 尊師は、遠くから、尊者ヴァッカリが寝台の上に、還滅した蘊(=死んだ身体)を横たえているのを見た。 37 ちょうどそのとき、煙のように立ちこめた黒雲が、東に走り、西に走り、北に走り、南に走り、上に走り、下に走り、四維に走るのであった。 38 そこで、尊師は、比丘たちに呼びかけた。 「比丘たちよ、お前たちは、この煙のように立ちこめた黒雲が、 東に走り、東に走り、西に走り、北に走り、南に走り、上に走り、下に走り、四維に走るのを見ているかどうか」 「はい、見ています、尊師よ」 39 「比丘たちよ、悪魔パーピマン(波旬)が、善男子ヴァッカリの意識(識)はどこに住しているのかと、かれの意識を探し求めているのである。 40 比丘たちよ、善男子ヴァッカリは、かれの意識は住することなく、完全な涅槃に入ったのである」 立派な人・善男子(=仏法に帰依した男)のゴーディカ同様にヴァッカリも解脱した時点で刀を取って自害してしまいました。 その悪魔パーピマンはヴァッカリの識を探し求めましたが見つけることはできませんでした。 ヴァッカリは完全な涅槃(般涅槃・パリニッバーナ)に入ったからでした。 >>378-379 ありがとうございます。 その例では餓鬼界の祖霊が挙げられていますが、 廻向・回向は祖霊がどの界(どの善趣・悪趣)に赴いても効力を発揮するものとされているのでしょうか? >>384 >そして、その「業」についても、 >「生まれによって卑しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって卑しい人ともなり、行為によってバラモンともなるのであるC。 >と説き、実体論的な輪廻転生説に基づく業思想を否定している。 こういう経典から特定の部分のみを切り取って情報操作するのはどうでしょうか? これはスッタニパータの第一蛇の章の<7、賤しい人>にある説法ですが、そのあとには 139 かれは神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、情欲を離れて、ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。(賤しい)生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行なっているのが見られる。 140 ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行っているのが見られる。 141 そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。(身分の高い)生れも、かれらが悪いところに生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。 142 生まれによって賤しい人となるのではない、生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人となり、行為によってバラモンともなる。 http://hosai.world.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm?guid=on と、ちゃんと「来世においては悪いところに生まれる」と輪廻転生説に基づく業思想で説法しています。 説法の相手が火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャだったから分かりやすくバラモンの教えである輪廻と業を用いて対機説法した、と理屈をつけることは可能ではありますがw >>378-379 追伸です。 曹洞宗には甘露門というお経があり、その中に招請発願というお経がありますが 是諸衆等。 發心して一器の浄食を奉持して。普く十方窮盡虚空。周遍法界微塵刹中。 所有國土の一切の餓鬼に施す。先亡久遠山川地主乃至曠野の諸鬼神等。 請う来って此に集れ。我れいま悲愍して。普く汝に食を施す。 願くは汝各各。我が此の食を受けて。轉じ將って。盡虚空界の諸佛及聖。 一切の有情に供養して。汝と有情と普く皆飽満せんことを。 で始まります。 この経は今ではお盆などの先祖供養の際に供物と一緒に捧げ読むものとなっているようですが、 あなたのレスを拝読して元々は餓鬼界の祖霊に回向するお経だったのではないかと、そう思うようになりました。 私の法力wで一切の餓鬼を此処に集めて食を施すのは返って罰当たりな気がして読むのが引けるのですが、 でも仏壇に供物を捧げた時には読むようにはしています。 元々は曹洞宗の檀家経本に載っているお経なので、私が読んでも回向できるものと思いこれからは信念を持って供養のために読むようにします。 甘露門とセットになることが多い大悲心陀羅尼は、>>57 のニュースにもより脳にいいかという理由もあって最近とみに読むようにしています。 もともと聴いててなんだか不思議な言葉の力、エネルギーを感じていた不思議なお経ではありましたが。 ただ、夜に真言を唱えるのは不謹慎とのことで朝の読経時に読むようにしています。 大悲心陀羅尼〜甘露門 https://youtu.be/9hlu-FNtZwc 世の中虚仮唯仏のみ真なりにゃん♪ 南無南無 (-∧-)合掌・・・ 思惟し思弁するのみにあらず八正道という実践法を説き更には先祖供養まで指示したり善業として在家信者に勧めたりしているのだから 釈迦はやはり単なる哲学者ではないよね >>408 古の伝説の人だから良いも悪いも 尾鰭が付いているにゃん♪ 今更実体を知る事は不可能にゃん♪ 南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>408 大乗ならともかく 根本仏典とかで >先祖供養まで指示したり とか、あるのかしらん? ちなみに 自分の場合は (大乗)密教も肯定なので >先祖供養まで あっても良いと思うけど _ _ _ 一応、念の為に 大乗のみならず パーリ経典(根本仏典)も(意図的に?)編纂されたものである それでも、とりあえず スッタニパータの第4章と第5章 がもっとも古い経典だったと考えられている。らしい? >>410 の続き ↓(大乗)密教の場合は ttp://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-walk/cat29/post-99.html 護摩の思想 インドから中国を経て 空海に及ぶ頃にはこの火の行事が高度に思想化され 『火を真理とし、薪を煩悩とし、真理をもって煩悩を焼く』という思想に至った ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81 密教においては 仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる 衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる 死後の成仏をはじめとする その他、諸々の効果を成就させる _ _ _ 仏そのもの 仏性からの真如縁起をもって 大悲・大智をもって 煩悩障と所知障とを離れているから迷いの世界にも停滞せず 衆生を救済するために迷いの世界の中で活動するから 涅槃の境地にもとどまらない 無住処涅槃 ↑これは大乗の場合でつ 先祖供養について・・・・ 先祖供養は、回向の概念により、自業自得から自業他得へと変成した大乗の 教説と言い切ってるな、佐々木閑はw >先祖供養は >自業自得から自業他得へと変成した >大乗の教説と言い切ってるな、佐々木閑は ご教示ありがとうございます m(_ _)m とりあえず スッタニパータ第4章 少しだけ読み直したけど むしろ 「先祖供養というような『想い』を手放しせよ」 というような方向性でつね (おじゃるは 先祖供養も肯定でつ 一応、念のために) 唯識派か? 中観派か? ↓ ↓ ttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0090/BO00900L031.pdf ダルマキールティは プラマーナ(直接知覚と推理)を 効力を有する実在(勝義有)を明らかにする整合した智であるとする カマラシーラは プラマーナを 有という言語行為及び 常・無常なる実在の自性を排除する 無なる言語行為を明らかにする智とする ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98 仮設としての 縁起に依存して 阿頼耶識 さとりに達するための修行の障害(覆)がない無覆無記 末那識 我癡・我見・我慢・我愛 − 障害がある有覆無記 >>405 の自己レス >その例では餓鬼界の祖霊が挙げられていますが、 >廻向・回向は祖霊がどの界(どの善趣・悪趣)に赴いても効力を発揮するものとされているのでしょうか? この答えは、>>379 に挙げて頂いた 詳細/参考論文 http://nbra.jp/publications/69/pdf/69_26.pdf (藤本 晃著『パーリ四ニカーヤに説かれる先祖・施餓鬼供養』) の25ページ以降で、ブッダと在家バラモンにしてブッダの在家信者でもあるジャーヌソーニへの問答として詳しく書いてありますね。 特に29〜33ページに私の質問の答えがブッダの説法としてまんま書いてありましたw せっかく参考論文までアップして頂いたのに確認不足で申し訳ありません。 >>394 原始仏教コミュの「先祖供養と氏神崇敬」を勧める原始仏典 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=683880& ;id=47573281 1.八正道の正見 「布施と供養と死後の世界と神々と業の報いは実在する」 ですが、ソース経典として挙げられている ・第117経 「聖道経」 八正道 (原仏7 P149–160) http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29096929& ;comm_id=951429 完 をよく読むと、確かに供養というか原文まんまだと施し物、供え物、捧げ物などは、 『徳行のひとつではあるが、結局は[迷いの生存の]下地をつくる、煩悩をともなった正しい見方』の方に分類されてますね。 とは言ってもこのスレで『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』の完全出世間で方で生きていく方がいるのならば別ですが、 そうでないのならば『徳行のひとつではあるが、結局は[迷いの生存の]下地をつくる、煩悩をともなった正しい見方』で良いのだと思います。 「母は存在する、父は存在する、自然発生する生きものは存在する」 まさかこのことまで真諦だからと否定している方がこのスレにいらっしゃるとも思えませんしw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる