因みに唯識学における生死(輪廻転生)ですが、

> 識は必ず認識対象を持つものであって、したがって認識対象がなければ認識する主体、すなわち識もなくなる。

という前提で、
1.死の直前に生じた結生識が紅白二滴(卵子と精子)を認識することによって生が始まる。
2.阿頼耶識が身体を認識対象から外した時が「死」が訪れる。
そうです。

また、阿頼耶識はどこにあるかというと、当初は身体に宿る(「解深密経」)と説かれていましたが、「一切唯識」「唯識無境」の考えが中心となり、阿頼耶識の中に身体が存在すると変化したようです。