■■■■■ 無 職 の 宗 教 ■■■■■
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ニート(イギリス英語: Not in Education, Employment or Training, NEET)とは、 就学・就労・職業訓練のいずれも行っていないことを意味する用語である。 日本では、15〜34歳までの非労働力人口のうち通学・家事を行っていない者を指して おり、「若年無業者」と呼称している。 信徒数 1990 17,840,000人 2016 668,000人 理由を考えよーぜ! 喜怒哀(苦)楽の感情が湧き起こるのは当たり前だが、後味を残さないこと。 クールとか冷静とかいう問題ではなく、感情に振り回されないとはそういうこと。 ざっくり噛み砕いて言うと、あらゆることに意味があるっちゅうこっちゃな。 人間には無限の可能性が眠っていると言った世迷い事を信じる程能天気ではない。 そんなものを心の支えにしなければ成り立たないモチベーションなどろくなもんじゃない。 まあそんなことを本気で信じ込んでいるのは一部の勝ち組だけだろうが、 なんとなくそういうものとして受け入れることで、容易く人生に絶望する凡人を量産しているのも事実。 自他の線引きをきっちりつけること。 自分の立場ですべきこと、する必要のないこと、すべきでないことのラインを明確に。 人間は理屈で動く生き物ではないってこと。 人の心を動かすのは内に秘めた情理のみ。 上っ面の計算を超えるから人を巻き込むことができる。 自分の行く先を固定化させないこと。 現在を起点として、未来・過去にも手に届く距離というものがある。 自分の中にないものはないものとして、あるもので進むしかない。 いくら自分を厳しく律したつもりでも人間間違う時は間違うし、 むしろガチガチに管理するから失敗に歯止めがかからなくなることもある。 人間の限界を弁えた上で、根をつめ過ぎないこと。 負けた時に負けた理由なんかいくら考えてもしゃーないよ。 負けた事実だけを噛みしめればそれでいい。当座はね。 何かをすればそこには必ず批判・反発・抵抗は湧き起こる。 それはそういうものと諦めるしかない。 過ぎたるは猶及ばざるが如し。不足があるのなら補えばいい。 人間、足るを知ることも必要。 一つの考えに留まり続けないことも大切。 自分や他人を責めることが悪いのではなく、心がこわばって抜き差しならなくなるのが問題。 昨今嫌われる勇気なんてのが取りざたされているが、 勇気なんて力こぶを入れている時点でまだまだ甘ちゃんやね。 嫌われるのがデフォルトになってしまえば、何を思い悩むことも企むこともない。 無理して嫌われる必要はないが、好かれる必要もないわけでな。 言うまでもなく人生は無駄の積み重ねの上に成り立っている。 ある程度の目星をつけて進む必要があるにせよ、全てを管理できるというのは思い上がりというもの。 効率的な目標の為に生活の全てを犠牲にしないこと。 ま、人の生き方なんて人それぞれで外野が口を出すことではないのかもしれんね。 自分で自分を追い立てて生きるのはしんどいだろうなあ。 自分が納得しているのなら誰も文句は言えない。 できひんことはできひんけど、少なくとも生きることに本気にはならなあかんにゃろな。 それで駄目ならしゃーない。 欠点を隠そうとしないこと。 そんなものはあって当たり前なので、卑下することも開き直る必要もない。 むきになって責め立てる向きには、憐れみを覚えつつも取り合わないこと。 人の意見はどんな耳の痛い意見でも聞く耳を持つ。 しかしながら従うことも含めて、最後に決めるのは自分。 それが個人の自由ということ。 怒り、あるいは相手を嫌うことを人間関係の選択肢の一つに含めない情愛は、 どんなに必死に押し付けて来ようとも愛情とは認めない。 それはどこまでいってもまがい物の愛情。 波風を立てずにいこうとしてもいずれは追いつめられて人を恨むんだから、 怒りぐらいは自分の手元に引き付けておけってこと。 どこまでなら大丈夫かの匙加減さえ見誤らなければその方が健康的。 衝突する前からへしょれてしまうような骨なしならしょうがないが、 少しは気骨があるのなら緊張の高まりをセーブしたり、後からリカバリーするテクニックはいくらでもある。 が、それは衝突を恐れない構えがあった上での話。日々の経験の中からつかみ取るしかない。 自分や他人に過剰な期待をしないこと。俺はそれしか言っていない。 向上心の意味を履き違えないこと。 好意であれ悪意であれ相手の領域に踏み込むときは、 干渉する枠をきっちり定め、主体性の領域を侵害しないこと。 人格を認めるとはそういうこと。 もちろんそれは双方向のものである以上、相手が自分の主体性をないがしろにしてくることもある。 そこに厳格な一線を持つ限りにおいて。 後は流れに身をまかせるだけ。思い通りには行かないもんさ。 処世は自分の感覚だけが頼りだと自覚すること。 何を通そうが譲ろうが、感覚や感情そのものに手を加えることはできない。 まあ人間なんてそんなに強い生き物じゃないから、あまり多くを求めてもしょうがないかもしれんな。 ギリギリまで頑張ってへたれるのはしゃーない。 獅子身中の虫・日顕 日顕(にっけん、1922年12月19日 - )は、日本の仏教僧侶である。 日蓮正宗総本山大石寺第67世法主。立正大学日蓮学科卒。 阿部姓、阿部 日顕(あべ にっけん)。越洋阿闍梨。1979年(昭和54年)登座。 2005年(平成17年)12月4日、大石寺で行われた広布唱題会の席で「今年中に 法主を退座する」と表明。大石寺法主の隠居は1956年(昭和31年)の64世日昇以来である。 あらゆる物事に白黒をつけようと躍起にならないこと。 世の中にはいい加減にしておいた方がいいこともある。 間断なくせきたててくる世間の要請は要請として、必死にならないこと。 傷つくことを恐れる気持ちは誰にでもあるが、受けた心の傷の痛みを薄めようとしないこと。 痛みを痛みとして感じることができるのは人間にとって幸せなこと。 心が高揚しそうな時ほど手元に引き付けておく必要性。肌感覚を手放さないという問題。 時の流れを自分のものにするためには、まず自分の空虚さを受け入れること。 欠点は克服するものではなく受け入れるものだと分かれば、さらに生きる意志につながる。 どこへも逃げられないと自覚することは後ろを向いてはいけないということではない。 降りると踏みとどまるの間を行きつ戻りつしながら心に弾力を持たせるということ。 こういう時代のこういう国に生まれ育ったことに有難みを感じつつ腹をくくること。 社会に何の違和感も感じないのであれば、特に言うことはない。 信頼とは共に積み上げ共有したものの高さによって決まる。 自分を守るのは人との距離感のみ。 何を信じ何を遠ざけるかの判断は受け身の関係性からは生まれない。 相手の腹の中を自分からまさぐっていかないと、上っ面の好悪、立場を超えた関係は見つからない。 努力なしに世の中を渡っていけないのは当然のこと。 努力が見える形で返ってくる境遇はそれだけで恵まれた人生。 世の中には努力だけではどうにもならない人生もいくらでもある。 自分の成功体験を人に押し付けないこと。 言うまでもなく何かをするということは何かを切り捨てるということ。 切り捨てられた者からの風当たりの矢面に立つことだけが、切り捨てた者への筋の通し方。 世の中はきれいごとだけでは回らない。 目先の損得勘定に優先する理想の存在も含めて、長期的視野に立った老獪な戦略性の必要。 後悔は萎縮、反省は改善。 自分の心の深くに根差した感覚は、誰がどう言おうと曲げないこと。 自分の中のドロドロした醜悪さを、まずは受け入れ許すこと。 あるものはあるものとして認め、先に進むしかない。 舌足らずで申し訳ない。自分の醜さを許したところでそれが消えるわけではない。 やり場のない怒りは何かにぶつけ表現することでしか解消しない。生きるというのは面倒くさいものだね。 自分のやっていることの罪深さは自覚しているつもりだ。 だが俺は基本的に人生に取り返しのつかないことというのはないと思っている。 言うべきことがなくなればやめるまで。俺みたいな最下等の人間でも人生に何の疑いも持たずに生きている。 どんなつまらない人生でも、その人間なりに歩んできた道のりの重みがある。 ということを認めること。 過去をおろそかにしないこと。 自分を構成するものは様々な人に支えられて成り立っている。 生きているのではなく生かされているという自覚が持てるかどうか。 舞い上がった気持ちを抑えきれない向きは、一度吐き出すだけ吐き出して、 行く所まで行った方がいいのかもしれんな。 中途半端に押さえつけるのは心の健康に良くないのかもしれん。 自分にとって得か損かの利害感覚を手元に引き付けることができない人間は結局何もできない。 エゴイズムが核にない人間ほど、薄っぺらい理想に吸い寄せられて身につかないきれいごとで自分を慰めるもの。 自分の存在がそこにいるだけで、多くの人間を押しのけ可能性を塞いでいるという宿命を噛みしめること。 大事であれ小事であれ気負わず淡々と。 どんなに力み返っても壁にぶち当たる時は当たるもの。 その時は嫌でも悩むんだから。 物事を大仰に受け止めないこと。 どんな想定を超える状況に立ち至っても、結果はプロセスの一つの通過点に過ぎない。 自分の想定と現実の間に落差をつくらないこと。 どんなに切羽詰まった状況が見えてきても張りつめないこと。 これは原因を外部に求め取り除くことで解消するのではなく、ひとえに自分の心のありようの問題。 どんな状況でも心に緩みを持たせ、遊び心を忘れないこと。 相手の気持ちは気持ちとして理解するとして、それに自分を左右されないこと。 どんなに距離の近い相手でも、どこまでいっても自分とは立場・人格の異なる人間。 情の存在は不可欠だが、それに流されないこと。 人間は他人に迷惑をかけずには生きられない。 逆に言えば他人から当然のように迷惑をかけられながら生きるしかない。 どちらの可能性も引き受けること。 自分の人生と自分が関わる世界にどのような未来が待っているか誰にも分からないということを受け入れること。 人生に過剰な意味づけをしないこと。 それが分かれば、他人のことを詮索することも主観を押し付けることもない。 人生を楽しむなんてことをやたら力こぶを入れて強調する奴もなんだかなあって感じ。 それは生きる過程においてそういう瞬間も訪れることもあるってぐらいのことで、的にして追いかけるようなものじゃない。 何か問題にあたる時は、自分の動機・プロセスをある程度筋道立てて言語化しておくこと。 人間は全て理詰めで動く生き物ではないが、心に整理された言葉があれば 状況・気分に一方的に流されることはなくなる。 困難な状況に向かう時は自分をドラマチックに演出しないこと。 全力で戦う時も無理にあがかないこと。 諦めるのではなく、負けないことに必死にならない。 どうしても人に悪意を向けざるを得ない時は正面から。 相手から反撃される可能性を奪わないこと。 終わった理由 答え 日顕ちゃんがトドメを刺したからです。 弱みを見せることは恥ずかしいことではないよ。 あるものをないものとして扱うことはできない。 人間突っ張って生きていてもしょうがない。 もっとはっきり言えば、自信なんてもんが要らんねん。 そんなものにすがるから人間は自分が道を踏み外すことにも気づかへん。 努力や積み重ねは必要だとしても、一瞬で崩れ去るものと自覚すべきだな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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