何でこの世は悩み苦しみまみれなわけ?作ったやつアホだろ?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
tahara@police.pref.aichi.lg.jp 岐阜の養豚場で県内11例目の豚コレラ発生 国と県の立入検査で不備指摘も対応取られず(東海テレビ) - Yahoo!ニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190330-00021603-tokaiv-l21
岐阜県によりますと、29日午前、美濃加茂市の養豚場から5頭の豚が死んでいるなどと連絡があり、検査したところ、30日朝豚コレラの陽性反応が出ました。
県はこの養豚場の豚およそ700頭の殺処分を進めています。
この養豚場には、3月15日に国と県が立ち入り検査し、イノシシや野鳥の侵入対策に不備があると指摘しましたが、その後も対応が取られていなかったということです。
古田肇知事は「今回の感染経路かは別として甚だ遺憾だ。改めて徹底をしてもらいたい」と述べました。 この世はパラダイス。
作った人、天才。
かんしゃカンゲキ 辛いことを
何の理由もないただの苦しみと思う段階は
まだまだ初期の段階
悩み苦しみ
物事を考えるのを進めれば
単なる苦しみとは限らないと思うようになる
その段階に至っていないので、
まだまだ修行が足らんなチミたち 人によっては、本当に苦しみの連続で
修行と思わないとやってられないだろうな、という人もいるし
そこそことんとん拍子に仕事にもつけて、充実した仕事で
お前だけはダメ、というような社会制度の被害にも合わない
家族もできて子供もいて、友達とはほぼ毎日あえて
たまに、資格取るとかでちょっと勉強しようとすると
ほんのちょっと物覚えが悪いだけで、自己啓発本のできない人向けの悩み苦しみと思ったりすると
その程度のどこが修行なんだと、いう人もいる 人によって、どれだけつらいかがちがう
(つらさの基準がわからないという人は、どれだけめちゃくちゃな人生を送らされているかで考えるといい)
その人の周りだけ、まともに返事をする人も存在せず、
精神障害があるような人がその人の人生を支配している状態だ
やることなすこと、なぜか成果が出ず、
何を勉強しても決して身につかないんじゃないかというくらい、いつまでたってもわかるようにならないのに辟易する。
自分が何を言っても、一言も周りに伝わらず、
泣き叫ぶのも我慢している。
もちろん何度面接を受けても全く採用されない。
何を言っても落ちるとしか思えない。
友達がおらず、仕事もなく、外に出たくもないので
自分の才能の使い道がない。
ずっと孤独で、若い身空ですでに、もうすぐ死んでしまうんじゃないか
年寄りがもうすぐ死ぬことに暗くなっているのと同じ気持ちにさせられる。まだ30代なのに
あまりにも孤独で、勝手に世界情勢に詳しくなる。
人前でほんの一言でも発すれば、人は二度と話しかけてこなくなるので人前で何もしたくない、
じゃあ人までに出たら黙っていようとすると、それもダメで人から嫌われ二度と話しかけてこない。
修行の人生とは、孤独である。
家族を含め、すべての人間は、この人のことが見えていないかのようである。
それでいて一言話しかけたら、返事をするとまともに聞いてももらえない。
だから返事をするのも意味がないが、返事をしなければならない。
もちろん、人生の最初はいじめを食らうことから始まり、
人生は絶望と、人間全体への憎しみから始まる。
上記は健康な場合であり、人によっては体の自由が利かないほどの病に侵されることもある。
これくらい、不自然なほどめちゃくちゃな状況で苦しまないと、修業とは言えない。 そこそこ幸せになれている人に、修行がないわけではない。
修行しなくていい人間は存在しない。
幸不幸の差はどこからくるのかというと、
現在のレベルと、進めやすいか進めにくいか、の二つがある。
1.現在のレベル
とりあえず目標を立ててやるとすると、とうぜん、レベルが低すぎたら先が長い。
だから最低レベルに到達するのも時間がかかる。
現在が低すぎて。
2.進めにくさ
幸不幸ではっきりしやすくて、理解している人が少ないのがこれ。
成長速度というものがある。
しかも、邪魔が入るか、邪魔が入らないかの差がある。
ようするに、誰もが認めてしまうくらい、とんでもなくでたらめな不幸に悩まされる人は、人生に邪魔が入っている。
また、現在のレベルが低すぎるだけでも、邪魔が入りやすい。
そりゃそうだろう。弱すぎる人には、そよ風をうけても瀕死にさせられる。
現在の状態が低すぎて、何が起きてもつぶれそうなほどダメージを受けるくらい、弱いから不幸にさいなまれている。
これは、ただ弱いだけである。
弱ければ何が起きても死にそうなくらい苦しむ。
弱い出来事くらい平気にすらなれていない人が多くて、あれがつらい、これがつらいといっている。 進めにくさ、とは、まさに、何をしても失敗しやすいということである。
弱すぎて、何をしても失敗する。
人によっては、存在しているだけで向こうから悪いことがやってくる。
言い換えてみれば「いかにもいじめてくださいと言っている」という弱い人のことである。
いかにも「いじめてください」と言っているかのように弱いから、
あれがつらい、これがつらい、何をしてもうまくいかない、という人は
そこにいるだけで不幸が降りかかるのである。
その理由として
1.運が悪すぎる
2.修行のため
ということになる。
だから悪いことが勝手にやってくる。
5ちゃんに来るような人たちは、存在しているだけで何だか辛そうである。 だから、そういう自動的に不幸が降りかかっているような状態を
終わらせる方法が存在しなければ、
みなさんがあまりにもかわいそうである。
それが、宗教なしでやれるなら何も問題ない。
本当に宗教なしで、自力で解決できるなら、宗教なんて誰も作らなかったかもしれない。
考えてもみよ。
あなたは自分があまりにもふがいないと思うため、
ああしなさい、こうしなさいと言われると「でも、こういう理由でむりだよ」と、言いたくてしょうがないはず。
しかもこの、出来ない理由探しは一生続くんじゃないかと思うくらい、やめられそうにない。
さて、そんな人が、宗教のような人生訓が存在しない世界で、自力で
自分の問題解決ができるだろうか。
あなた自身が「こういう理由があって無理」と言っているので、
問題解決したいが、過去の経験から、出来るはずがないと思うので、やらないはずである。
だから、人生訓というものがあるのである。 人生訓で戒めを持ち、立派な考えを寄せ集め、
人類同士、お互いに言って聞かせてきたのは、どうしても情けない自分に負けそうになるからだ。
負けそうになっているとき、何のアドバイスもなく、自力で解決できそうにない。
だから、解決できた人の考え方、やり方を参考にするのだ。
寄せ集めれば、人類を超越するほど、立派な考え方、やり方が生まれるかもしれない。
そうなれば、いったい何を目指して、目的のない人生を生きればいいのかは
こうすればいいのか、とヒントが得られるわけである。
そういうことをしなくても、自力で解決できるならどうぞ、宗教なんか忘れなさい。
人生訓なんて一切考えず、みごと、自力でやってのけなさい。
ただし、決して文句を言わないこと。
決して、つらい気持ちにならず、弱い人の悩み苦しみなど感じないはずである。
人生訓をバカにする人がいれば、その人は、自力でやってみたらいい。
バカにする人には、むしろ、自分は知っているからバカにしているといって
実際には進歩向上するためには何もしていないことが多い。
現在の知識量と実力で間に合うと思っている。
本当に間に合うならやってみればいいのに、やらないのである。
このように、バカにすると、何をしようとしているのか忘れてしまう。
宗教要らない、自力でやれるというならどうぞ、自力でやってみなさい。
言う通りなら、決して心が乱されないはずだから、やってみなさい。
普通は、そういう超人のようなことがなかなかできないので
人生訓をまとめて、お互いに学びあおうといっているだけである。
その一つが宗教なのである。 人生、生きにくさと、生きやすさが違うだけである。
何をしていても、経験と知識になるので、現在のレベルと、進み具合が違うだけである。
すべての日本の教育はこのことを全く理解できないので、特別ひどい。
だから、日本人は個人差を理解しようともしない傾向にある。
教育だけではなく、すべての組織が成り立つ条件は、個人差を理解しないものとする。
一人一人、状態と、必要なことが違うのである。
世界一力のある人間が「多様性が嫌い、みんな同じになれ」といったところで同じにならないのである。
世界一力があるといっても、不自然なことを願えば、間違っているのである。 人生いろいろ、だが辛さの暗黒が濃い。
それをいかに多様性あるレインボーカラーに仕立て上げるかは
人間一人一人の行動が明るい結果を生む絶対量にかかっている。
「何かいいことないかなー」といっていいことがあったことはない。
良いことは、作るものである。
地球の大自然は美しいものではあるが、皆さんの生活を楽にするものではない。
明るい気分にさせ、落ち込んだときには、自然の力を借りてもいいと思わせてくれるだろう。
自然は皆さんの仕事を代わりにやったりはしないが、
落ち込んだその場で、明るい気持ちにさせるなんて、自力でなかなかできることではない。
しかも落ち込んでいる本人がである。
どうしようもない時くらい、自分一人で抱え込まないで、人に相談してみるのも悪くない。
その人がこれみよがしにアドバイスし、なんだか傲慢と思ったら聞く必要はないのだ。
その人は神じゃない。普通の人間である。感じたことを、自分の言葉で言うだけである。
その言葉はきれいとは限らず、自慢するような言い方かもしれない。
だから、傲慢そうなところは無視して、かろうじて聞けたところだけ参考にすればいい。
それはきっと、自分では思いつかなかったヒントだろう。
そういうことを相手を通して知ったのだから、時間が短縮できてよかった。
そのことを相手に教える必要はない。つけあがるだけだ。そのくらいしてもかまわない。 人生訓は、その明るく生きる考え方を維持するために用意した言葉だ。
そういうことでもないと、人は弱くて、ついつい泣きたくなってしまう。
寂しくなったら誰かに励ましてほしい。
そういうのがまったくなくて自力でできるなら、どうぞ宗教を忘れなさい。
けっして文句を言わないことだ。文句を思ってもいけない。
バカにする人の言った通りなら、決してこういうことが起きないはずだから。
いままでさんざんバカにした人は、自力で行動したら絶対に文句はない。あるはずがない。
だが普通の人は、そんなことはなかなかできない。
落ち込むこともあるが、人生訓のようなものを用意したことで、回復が早くなる。
そしてまたやる気に満ちて、世の中を明るく照らすようなことを始める。
そのように明るい意欲を持った人が、世界平和のために行動する。
明るい意欲を維持するために、弱い人がどうするかと思えば
暗く冷たくならないように、忘れないように言って聞かせ続けるしかないのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています