般若心経 実践篇
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ほとけの心は「で・あ・い」の三つに尽きる。
「で」は「デタラメ!」、
「あ」は「あきらめ!!」、
そして「い」は「いい加減!!!」
(ひろ・さちや)
般若心経
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1522314305/ >>749
別に少し脇道に逸れたぐらいでガタガタ騒ぐんじゃないわよ
「貴様」って誰よ? >>749
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ初めまして
>武術流派が成立した背景には、
日本の文化伝統があった。古く
から神道・仏教・修験道などで身心をかけた修行法が定着していた。
室町時代には歌道や能楽、生け花、茶の湯などの芸道で、一芸に達
すれば、他にも通じ真実にも触れ得るとして、一事専念を言う「道」
の考え方が成立していた。芸道の中で「型」を中心にする教習法が
あり、目録の形態もあった。15世紀初期には、さまざまな道の一
つとして「兵法」(剣術)が挙げられていたが、後期に入って明確
な武術流派が形成されたのである。
だそうです
色即是空 空即是色 般若心経には具体的な瞑想方法は書いてありません。
般若心経の実践とは仏道の実践に他なりません。
宗派によっていろいろな考え方もあるでしょうが、禅宗のように「用即性」の立場からすれば、仏道とは看経や坐禅、布施や持戒等とは限りません。
「日用即妙用」ですから、武道の中にも華道の中にも茶道にも、ひいては日常生活そのものの中に仏道の実践があるんです。 般若心経は小難しい理屈でけむに巻かれているようで好かないが、日用即妙用は好きになれそうかな。 現代社会は、特に物質社会とも言える程に物(モノ)が溢れている時代です。
改めて家の中や部屋を見ると、モノで溢れかえっていた、という状態でしたら、まずは断捨離をして物を減らす事は効果的です。
物を手放して、物欲や執着(しゅうじゃく)も手放すというのは、暮らし上手の智慧の一つである。
人間の根本は心です。
これは「悉有仏性(しつうぶっしょう)」で、
その心が「空」じゃなくてはいけません。それを日常生活にいうと
「とらわれない心で生きなさい」
「正直に生きていきなさい」
というのが、
現代的に般若心経を説明すると、そうなります。 百歩譲って、いくら磨いても玉にならないとしてもだよ、
磨かない玉よりはよくなるぜ。
ここいらが非常に味のあるところじゃないか。
(中村天風) 仏教・神道・儒教は武士道を支える上で特に重要な思想です。
仏教からは、運命を受け入れること、死への親しみ・親近感を。
神道からは、主君に対する忠誠や先祖への尊敬・敬意。
儒教からは、主に孔子や孟子の思想を取り入れるなどして武士道の源としてきました。
「論語読みの論語知らず」(孔子)
ただ知っているだけで、それを行動に活かさない人。
「知行合一」(王陽明)
武士は行動の人というように、
蓄えた知識も実際に使わなければ意味がない。
行動に反映されてこその知識・知恵である。
知識と行為は一体である。
本当の知は実践を伴わなければならない。
武士道精神は、
こうした思想・宗教観を背景に成り立っています。 昨今、政治家や官僚、企業経営者、スポーツ指導者
などによる倫理観の欠落・腐敗が引き起こす不祥事を背景に、
この武士道精神が再評価され、重要な役割を果たすかもしれません。
日本人が培ってきた道徳・見識・考え方・教養が、
今の進みすぎた資本主義・拝金主義の世界で、
もう一度人として大切なもの・守るべきものへの示唆を与えてくれると考えられます。 武士道の基本理念は七つ。
義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義
です。 義とは、
人間としての正しい道、
正義を指すものであり、最も厳しい規律として求められます。
武士道の基本はフェアプレイの精神。
困っている相手が敵だろうと手を差し伸べ(敵に塩を贈る)、
決して姑息・卑怯な手段を用いないことが鉄則です。
打算や損得で動くのではなく、
自分の正しいと思った道を貫く(義を通す)ことが、
武士の正しい姿とされてきました。 勇は、
義を貫くこと。
自分の正しいと思った道を進むために必要な勇気。
ただし、勇気といっても、自ら危険を冒して犬死にするものは「匹夫の勇」として蔑まれます。
「本当の勇気とは、生きるべき時に生き、死ぬべき時に死ぬことである」(水戸光圀) 仁は、
弱い者、負けた者を見捨てず情けをかけ慈しむ。
女性的な優しさを持った徳のことです。
孟子は
「不仁にして国を得る者は之有り。不仁にして天下を得る者は未だ之有らざるなり」
と説き、この仁が王なる者として必要不可欠な徳であるとも言っています。
「義に過ぐれば固くなる。仁に過ぐれば弱くなる」(伊達政宗) 礼とは、
他者に対する優しさ・敬う気持ちを型として表したもの。
相手への気持ちを動作で表現し伝えようとするこの礼は、
礼儀作法としてお辞儀や挨拶など細かく分けられ伝えられてきました。
ただ、礼という作法もあくまで礼儀の一部でしかないため、
日頃から慈愛と謙遜の心を持ち、物事に当たることが求められています。 誠は、
新撰組の旗でも有名。
武士にとって、嘘やごまかしは臆病な行為と見なされます。
士農工商という社会的身分の高い武士には、
他の人間よりも高い「誠」の精神が求められました。
よって武士はその行い・言った言葉には嘘偽りが無いとされ、
約束などにも証文を必要としなかったのです。
「武士に二言はない」という言葉は、
この誠を貫く姿勢が生み出しました。 名誉は、
自分に恥じない高潔な生き方を守ること。
名誉自体の概念は、
外聞や面目などで言い表され、
その裏にある「恥を知ること」「羞恥心」のことでもある。
「人に笑われる」「体面を汚すな」といった言葉で立ち振る舞いを正され、
名誉という人としての美学を追求するための徳を養っていきます。 忠義は、
武士がなんのために生きるのか、を表すものです。
主君に絶対の忠誠を誓いながらも、
媚びへつらったり、
何にでも従い追従する者は、
佞臣、寵臣とされ忠義とは見なされませんでした。
時には命をかけ自ら意見し、
主君を正しい道に進ませようと説くなど、
あくまで自発的な行動が求められます。
忠義を誓うべき相手は、主君という限られた存在だけでなく、
己の正義に値するものであるという点が本質にあります。 おはようございますバルタンさん^^)/
まだまだ未熟者ですがほんの少しでも前進していけるよう努力してまいりますm(_ _)m dp9さん、おはようございます。
マイペースが一番ですよ。
学問・宗教・哲学は、好奇心の成就と達成に喜びを見出だすことであると思います。
自分の好きなことをやりましょう。 生まれつき好きなことしかできない体質のようです^^;) 今日は、ガッツ石松さんのお誕生日です。
1949年6月5日生まれ 年齢 69歳
君の悲哀がいかに大きかろうと、
世間の同情を乞うてはいけない。
同情の中には軽蔑の意が含まれているからだ。
「ガッツ石松のひとり言」より。 ガッツ石松さんの伝説は、
プロボクサーとしての輝かしい戦績だけではありません。
数々の伝説や名言も残しています。
伝説のひとつには、「ガッツポーズ」の生みの親である!
ガッツ石松さんが勝利した際にした拳を上げるポーズが「ガッツポーズ」の由来だとも言われています。 ハリウッド映画「太陽の帝国」に出演した際に、
スティーブン・スピルバーグ監督についてマスコミ記者から、
「スピルバーグはどんな人でした?」との問いに
「うーん、外人だったね」
と答えた。 スカイ・ダイビングに挑戦する事になったガッツ石松さん。
飛行機からダイブする瞬間に、
「ちょっとまってくれ!風向き見るから」
と言った。 仏教では、
受持(じゅじ)
読経(どきょう)
誦経(ずきょう)
解説(げせつ)
書写(しょしゃ)
の五つを、
五種法師(五種行)といい、
大切な修行法とみなしています。 愛しき友は何処(いずこ)に
この身は露と消えても
忘れはせぬ熱き思い
「誠」の名に集いし
遠い日を
あの旗に託した
夢を〜♪
https://youtu.be/1fDi73kM8fQ 般若心経は「般若波羅蜜多」と言う名のフリダヤを説いたテキスト
フリダヤは漢訳すれば心真言で、内容は最後に説かれるガテーガテー呪である
般若心経は、前半に観自在菩薩が「深般若波羅蜜多」と言う名の瞑想を行った時に得た境地をシャーリプトラに説明し、後半でそれは即ち真言であり、それによって全ての三世の諸仏が悟りを得たと説く
そして最後にその真言とは即ちガテーガテー呪であると説く
これが般若心経のアウトラインである
インドではこれをベースに多くの般若心経系の瞑想法が生み出され、チベット大蔵経には多数現存し、漢訳でも1つ残らせている
日本の宗派の違いによる般若心経の解釈の違いなど全くの無意味で、般若心経とはまさに真言を説いた経であり、それに基づいて、元のインドでは盛んに瞑想が行われた >>779
その問いに、答えを出せる人なんていないと思う。
真言も般若心経も知らなくても、生活には困らないという現実を、どう思いますか?
興味があり、役に立つと信じているから、学んでますが、
これだけが正しい!なんてのは推測でしかありません。 試行錯誤しながら、真実に近づく。
なら、わかります。 サンスクリット語
(オーム) ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
般若心経
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 娑婆
ぎゃーてい ぎゃーてい はーらーぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼーぢー そわかー 江戸柳生家は、
柳生新陰流の宗家です。
(新陰流の正統は尾張柳生)
将軍家剣術指南の看板で、各大名の陪臣が柳生の道場に弟子入りしました。
文字通り、柳生の剣は天下の剣でした。
この剣術の師匠と門弟のネットワークで、諸国の動静を探り出した。
この師弟の関係は、藩の主従関係よりも堅い。
大目付柳生宗矩は、これを最大限利用しました。 柳生は今の奈良県、伊賀は三重県、甲賀は滋賀県の豪族です。 およそ五百年前の戦国時代、
上州(群馬県)に生まれた上泉伊勢守藤原秀綱(のち信綱)は、
若くして刀、槍などの諸流の武術に通じていました。
中でも愛洲移香斎から陰流を学び、
その後新たに「転」(まろばし)という考え方に目覚め
工夫を重ねて新陰流を拓きました。 当時、大和にいた柳生石舟斎宗厳は新当流の遣手で五畿内随一といわれた兵法者でありました。
伊勢守は京に上る途上、伊勢国司北畠具教卿の紹介で興福寺の子院である宝蔵院において、
宝蔵院胤栄を立会人として石舟斎と会いました。
石舟斎は上泉伊勢守と立合いましたが足下にも及ばず、
直ちに流祖の弟子となり新陰流を究めます。
その後、無刀の位について開眼した石舟斎は、
伊勢守から正統第二世の印可を授けられました。 石舟斎は五男・宗矩と共に徳川家康公に新陰流を上覧に供しました。
その縁で、宗矩は家康公に仕えることになり二代将軍秀忠公、三代将軍家光公の兵法師範となりました。
このことによって新陰流の名は天下に知られることとなりました。
宗矩は「江戸柳生」の開祖となりましたが、
宗矩の曾孫・俊方以降は他家からの養子が家督を継ぎ、
石舟斎以降の柳生家の血筋は惜しくも絶えてしまいました。 一方、利厳は石舟斎の長男である厳勝の次男として生まれました。
利厳の兄久三郎は朝鮮で討死し、利厳は嫡孫となりました。
彼は幼いころから、資質、兵法ともに祖父石舟斎に瓜二つと言われ、児孫の中で最も石舟斎に愛されたと伝えられています。
祖父の膝下で兵法を修練し、正統第三世の相伝を授けられました。
後に、利厳は尾張初代藩主徳川義直公の兵法師範となり、居を尾張に移し、「尾張柳生」の礎を築きました。
元和偃武(げんなえんぶ)の時代に適応した「直立(つったつ)たる身の位」を考案した利厳は、
その子連也厳包とともに新陰流の術理を発展させました。 柳生新陰流は単なる斬り合いの技ではなく
天下を治めるための妙術「活人剣」を理想としています。
そのあたりが徳川将軍家から認められた所以でしょう。
技としては、
心身ともに「無形の位」を本体とし、
千変万化の敵に対して、
無理なく転変して勝つ自在の刀法とのことです。 「無刀取り」は、
いわゆる「真剣白刃取り」ではなく、
斬りこんでくる相手の腕を極め、
刀を奪い制する技です。
石舟斎宗厳はこの「無刀取り」を徳川家康の前で披露。
さらに自ら木刀でもって打ち込んできた家康からも、
見事その木刀を奪い取ります。
驚嘆した家康はその場で新陰流に入門。宗厳はその指南役に五男の宗矩を出仕させ、
以来柳生家は一刀流の小野家とともに
将軍家の剣術指南役を務めることとなり、大いに隆盛しました。 武道の試合は、
「試し合い(ためしあい)」 と書きます。
礼に始まり礼に終わります。
「礼」は武道哲学から来ており、
「今日は貴方がいてくれたから自分の実力 (現在地)を確認することが出来ました。
貴方という存在に感謝を致します。」
という思いから武道では「礼」を重んじます。 武道の稽古とは、
自分の内なる神仏との対話であり、日々、自分と向き合い、
昨日出来なかったことを、今日できる様に稽古≠行います。 「無刀取り」は、現代における究極の正当防衛です。
「無刀取り」とは武道の技(心)で相手の武器 (邪気)を払(祓 )い、
人の権威に纏わりつく、それらの一切をはぎ取る。 すごいなあ
白刃取りは絶対無理だろうと思ってましたけど、
「無刀取り」も出来る気が全くしませんね。。。
実際にやれるって、、そんな人現代にいるんでしょうかね? >>794
無刀取りの究極は、
相手を裸にする。ということだと思います。 この宇宙に存在するものの
全ての本質は『空( くう)』である。 久遠の昔から永遠の未来にかけて、
変わりなく存在する事象のすべてを、
仏教では法と呼ぶ。 傾聴で最も大切なことは、
話し手の方に「聴いてもらえている」と実感してもらう事です。
うなずきとあいづちは、この「聴いてもらえている」を作っていくことができる傾聴技法です。
「うなずき」とは首を立てに振ってうなずくこと。
「あいづち」は話し手の方が話している最中に、聴き手が発する「あいの手」です。
傾聴時は、「はい」「えぇ」「そうなんですね」などのあいづちを使います。 刀を常時装備していた武士にとって、
剣術は必修の技術として訓練されていました。
柳生新陰流があくまで剣術である以上、その技は、刀を使うための技術であり、
更に言ってしまえば、殺傷のための技術でもあるわけです。
柳生新陰流 月影
「月影」は、
飛燕と呼ばれる型の四番目に相当する技で、
片手で相手の手を斬りに行き、
それを相手が避ける動作に従って体当りをする技です。
https://youtu.be/qUBuxx8CAAs 素手の武術・空手について
もともと空手は、中国から沖縄に伝わり、沖縄で独自の発展を遂げた武道です。
「手(ティー)」という沖縄に元々存在した武術に、
中国から伝わってきた中国拳法が影響を与えたとされています。
中国・唐から取って「唐手」となりました。
その後1922年(大正11年)にお茶の水の教育博物館で開催された
「文部省主催・第一回運動体育展覧会」で沖縄の「唐手」が紹介されることとなり、唐手が東京進出したのですが
その際唐手を紹介したのが「富名腰義珍(ふなこしぎちん)」先生です。 その富名腰義珍先生が「唐手」を「空手」に変えました。
親交のあった鎌倉円覚寺の慧訓管長のもとで参禅し、
『 色即是空 空即是色』よりヒントを得て唐手を空手と改めたそうです。 空手は武術の基本になります。
例えば拳の代わりに、
手に剣を持てば剣術になるし、
棒をもてば棒術に、
槍をもてば槍術になります。 心経=文字は後世の人々が作ったもの。文字(漢字)そのものには、意味は無い。(サンスクリットを音訳) >>798
> 鎌倉円覚寺の慧訓管長
あの古川尭道老大師ですよね?
知らなかった。
円覚寺派おそるべしw 世間と自分を比べてしまうと、
際限なく膨らむ「欲」に振り回されてしまう。
そんな生き方はやめて、
本当の「自由」と「余裕」を獲得するには。
すべてのものは「空」だ。
色は空に異ならず、空は色に異ならず、色はすなわち空、空はすなわち色。
生滅せず、きれいも汚いもなく、増えもせず、減りもせず。 >>804
鎌倉・円覚寺の選仏場の横に、
空手道始祖、富名腰(船越)義珍の
「空手に先手なし」
の碑があります。 言霊信仰
我が祖先は、自分が生かされている自然の恩恵に神々の存在、働きを認め、その神々に感謝した。
そして、願いや望みを叶えていただこうと、神々をお招きし、歓待申し上げたのである。
それが祭りである。その厳粛な場で神々に述べられたのが祝詞である。
神に奏上する詞は聞くものの心に響く、荘重典雅な格調を備える日本語の古い形であって、その背景には言霊信仰があった。
言葉には霊力があって、一種霊妙な働きをなすものとされた。これがいわゆる言霊信仰で、祝福を述べれば幸福が招来され、呪詛を述べれば不幸に至るという信仰である。
祝詞はこの言霊信仰の上に成立したもので、盛んにほめ讃える詞を使う。 JaneStyleだと、レス番号が擦れるみたいです。 >>777
きちんと本文を読め
その通りのことを書いてある
サンスクリットの原本やチベット訳も参考にすればより明確になるが、君は研究者ではなさそうだから誰かの原本からの翻訳本でも参照すれば良い
真言や般若心経を知らなくても生活には困らない、との質問だが、当たり前でしょ誰かそんなこと言っているのか?
君が興味がある、役に立つと信じようが勝手だが、学ぶなら正しく学べ
せめて本文をきちんと読め
>>800で間抜けなことを書いてあるが、般若心経において音訳しているのは固有名詞と特に翻訳が困難な多義語(この場合真言)、そして鳩摩羅什や真諦、玄奘のような訳経僧が訳すべきではないと判断した単語のみ
prajnaparamitaはこの経の核となる単語で、本文の最後でわかるようにこれは最後のガテーガテー呪の固有名詞として般若心経では扱われているためそのまま般若波羅蜜多
jnanaparamitaは瞑想法の名称、固有名詞なのでそのまま深般若波羅蜜多
Sariputraは固有名詞なので舎利子
anuttrasamyaksam bodhiは阿耨多羅三藐三菩提
というか君は全体的に勘違いしている
空理論なら『中論』を読めば全て書いてある
般若心経は『中論』で説かれた空を土台として般若波羅蜜多のフリダヤを説く経であって、空はメインのテーマじゃない
空を語るなら『中論』でよい 般若心経 実践篇とあるが、『般若心経』が何を書いてあるテキストかも知らずに実践とかバカバカしいわ
結果空手とか笑える
脳筋はその程度なんだろうな 菩薩は、人を笑わない。
(明るい笑いは別だが)
あなたのレスには慈悲がない。
慈悲がないなら仏教じゃないよ。 テキストなら、前スレで因縁果さんたちと、さんざん語ってきた。 仏教には、理と事があります。
「事」とは、
現実や実践をあらわします。
主体的な実践です。
「理」は、
理論や推論をあらわします。
客観的な理論です。
六波羅蜜を学ぶのは理、
実践するのが事です。
知識を身に付けるのが理、
知識を活かすのが事です。 慈悲なら『八千頌般若』と『大智度論』で意味を捉え、『華厳経』と『大日経』住心品を読めばいい
素朴やつが知りたいなら初期の仏伝で十分 >>810
語った結果がこれならカスみたいな議論したんだろうな >>807
横から唐突にすみません。
あなたは般若心経の核心をこの経の何処に見出されますか? あなたは理のみですね。
だからと言って、蔑んだりしませんよ。
声聞と菩薩の違いだけですから。 >>814
わたしは、ではなく、『般若心経』は、フリダヤを説いているテキストであるため核心も当然フリダヤ
それは何かと言えば最後にある心真言であり、このテキスト成立以降、般若波羅蜜多の心真言を用いた瞑想法を説く次第が多く作られるようになった
フリダヤ以外のところは先行する他の経論で説かれており目新しい箇所はない ジャンキーさん。
私でしたら、
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 娑婆
ですね。
それから、玄奘三蔵に感謝します。 それ玄奘訳の音写と漢字が違うだろ、感謝どころかバカにしてる
そもそも法月三蔵や般若三蔵、智慧三蔵、法成三蔵らが居なけりゃ玄奘三蔵が省略した般若心経の全文は伝わっていない 内容も理解せず、実践の仕方も知らず、雰囲気だけで知ったかして素人の文章を喜んでコピペする
これで般若心経 実践篇とは笑える >>820
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ呪文はお釈迦様の教えではなくバラモン教の教えなのではありませんか? お二方ともありがとうございます。
宮坂先生の本は大分昔に拝見致しましたが、真言によって発現(はつげん)した智慧(知見)を実践として武道に活かす事はいかにも日本的じゃありませんか。 呪文は、仏教以外だと思います。
玄奘三蔵は、大乗仏教の根幹を成す「空」の思想を広めるために短い経典を作り、
その末尾に漢語に音訳したもの
「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
の呪文を加えた。 「観自在菩薩」は、「観世音菩薩」ともいいます。
「観自在」には、
世の中の多くの人々から観られつつ、
多くの人々を観て救うはたらきが自由自在である
という意味がこめられています。
「観世音」とは、
この世の人々の苦しみ悩み音声を観察して、
かれらの苦悩を救いとるという意味があります。 上に宮坂氏の名前が出ているがあの本の翻訳なら正確だ
良い本に出会えたな
一方、当たり前だが『般若心経』は玄奘作ではないし、空は『中論』において「八不」という形でこれ以上ないほど簡潔に、短文で示されている
もちろん『般若心経』最後のフリダヤも唐突に付け足されたのではなく、『般若心経』の本文を読めばわかる通り、
「菩提薩埵依般若波羅蜜多故」から主題の「般若波羅蜜多」の話になり、
「般若波羅蜜多」によって三世の諸仏がanuttrasamyaksambodhiを得たことを示し、
「般若波羅蜜多」は真言であり、
虚しくなく真実の言葉であると言い、
その言葉とは何かと言えば、
ガテーガテー(以下略)である、
という流れの中で出てくる
六波羅蜜の般若波羅蜜をフリダヤ即ち心真言に置き換えたのが『般若心経』の画期であり、以降、インドにおいてはこれを般若仏母の心真言として読誦する瞑想が流行する >>825
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ「無財の七施」があるそうですが
眼施(がんせ) 常に温かく優しい眼差しを施すこと
和顔施(わがんせ) いつもニコニコ笑顔で接すること
言辞施(ごんじせ) 優しく時には厳しく叱る愛情のこもった言葉
身施(しんせ) 自分の身体を使い奉仕すること
心施(しんせ) 心配り・気配り、思いやりの心を持ち、相手の立場になってみること
床座施(しょうざせ) 座席や場所、地位を譲ること
房舎施(ぼうしゃせ) 家や部屋を提供すること
笑顔で接するのはかまわないですよね? 826
玄奘に感謝とか言いながら玄奘が誤訳として捨てさった「観世音」という鳩摩羅什三蔵の訳語を解説
コピペばっかりしてるからそんなチグハグなことになる 結局、般若心経 実践篇というタイトルは看板だけか
これじゃ誤解篇だわ >>827
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ観自在菩薩が阿羅漢である舎利弗に教えを説くのは設定がおかしくありませんか? 観の瞑想に長けた修行者は、
智恵を得るための観の瞑想を深く修行することにより、
体と心を構成する全ての要素は空であると看破し、
一切の苦を乗り越えた。 >>827
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ質問は流行り云々では無く呪文はお釈迦様の教えですか? >>828
愛情のある笑いなら、むしろ、推奨します。
大事なのは、愛です。
人を蔑む笑い(嗤い)は、慈悲ではありません。 >>831
まず大前提として、『般若心経』の大品にある通り、釈尊が「広大甚深」という名の瞑想を行なっていた時、観自在菩薩は釈尊の威力によって「深般若波羅蜜多」という瞑想を行い、舎利弗も釈尊の威力によって観自在菩薩に質問する
観自在菩薩も舎利弗も、どちらも釈尊の瞑想によって操られている存在である点は押さえておかねばならない
これは『般若心経』の経題に「仏説」が付く理由なので無視できない点である
本題だが、大乗仏教とはまさに阿羅漢、比丘衆よりも菩提薩埵が優れているとする思想であるためこのような構図になる
密教の場合はさらに持金剛衆という新たなグループが生まれ菩薩衆を凌駕する >>833
『般若心経』においては、これが仏説である インドでは、釈迦が仏教を創始する以前から、
パリッタという呪文が民間に流布していた。
毒蛇に噛まれたときや病気平癒、雨乞いなど何か危難に遭ったときに、人々は呪文をとなえて災厄をのがれようとした。 釈迦は呪文や呪術的な呪いなどを用いることを厳しく禁じていた。
仏教は神のいない宗教であり、釈迦の教えに従って生きることによって、
人間が持つ短所が次第に無くなり、やがては完璧な人間になることを目指す。 しかし、仏教が広い地域に住む様々な階層や種族の間に広まっていく過程で、
その地域の人々の習俗や信仰を取り入れていく必要に迫られた。
そこで、釈迦の本来の教えに反して、呪文や呪術が仏教にも取り入れられたのである。 般若心経の言葉も、インドから中央アジアの広い地域で唱えられていた呪文なのである。
漢語に音訳したもの
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃーていぎゃーてい はーらーぎゃーてい はーらーそうぎゃーてい ぼーじそうか [呉音] )
サンスクリット語の読み方
gate gate para-gate para-sam-gate bodhi svaha
(ガテーガテー パーラガテー パーラサンガテー ボジスヴァハ)
真言 (マントラ) として、この部分を唱えます。 このような多くの呪文が次第に仏教に取り入れられ、次第に醸成されたのが密教で、
古い時代に呪文を集積した密教を「雑密」と呼ばれ、
そして、それらの呪文を整理して組織体系化し仏教的に整備したものが「純密」と呼ばれた。 他でリクエストがありましたので貼ります。当然、コピペですよ。
現代語訳「般若心経」
超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。
この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。
この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。 見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。
味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。
揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。
先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。 >>836
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ貴方は話しをそらしますね
>般若波羅蜜多のフリダヤを説く経であって
呪文はお釈迦様の教えでは無く般若経は仏説である
でよろしいですか? 菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。
勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。
生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。 この般若を覚えとけ。短い言葉だ。
意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。
嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。
気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。
いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?
『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』
心配すんな。大丈夫だ。 釈尊は常に対機説法を行なっている
ある伝承でパリッタを否定していたところで、相手によってはそれも変わる
例えばバラモンの子に、お前はバラモンの子ではなく、仏の口より生まれた仏の真子であると言ったかと思えば、別の伝承ではバラモンの子に対してお前は理想のバラモンとなれば良いのだと言っている
実に釈尊の教えとはこのようなもので、相手に応じて表面上の主張は変わるため伝承から一言二言取り出したところで無意味
釈尊が話している相手のことを知り、またその時代背景を知らねば伝承が意味するところを理解することはできない >>834
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ分かりましたありがとうございました >>844
『般若心経』においてはフリダヤは明確に仏説として示されている
なお「般若経」は別の経を指すから間違えなきよう >>847
∞ノノハ∞
川^〇^ハレオメェ〜は話しをはぐらかしてばかりだなお
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