われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳)

このように、仏教の「我(アートマン)」否定は形而上学的論議ではなく、むしろ、わたしたちの認識能力の届く範囲内である人間存在である
色・受・想・行・識(肉体、感覚、感情、意志、意識)のどこにも永遠の魂(アートマン)なるものは認められない、というものなのです。
バラモン教やわたしたちの知っている巷の宗教の教えは、認識の届かない領域(死後の世界とか霊界とかあの世とか)に関する
さまざまな憶測的断定に満ちています。しかし、仏教は、認識能力の届かない領域に関する断定はあくまでも知識として認めなかったのです。
だから、認識の届く範囲(色・受・想・行・識)にはどこにも永遠の魂(アートマン)なるものは認められない、
と主張したのです。これが仏教の永遠の魂(アートマン)否定の方法だったのです。

http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism52.html