悉有仏性云々云う前に、仏性というものをしっかりと理解しておかないと話にならない。
禅宗(臨済宗)では、そのために公案(初関)を与えてしっかりと覚知させる。

趙州和尚、因みに僧問う、 「狗子に還って仏性有りや?」
州云く、 「無」。




空であると説くべきではない。
空ではないとも同様である。
その両者であるとも、その両者でもないとも( 説くべきではない。
それは仮の名称のために説かれる。
(龍樹 「中論」)

つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。
そして、こうしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。
(井筒俊彦 意識と本質−精神的東洋を索めて)