神が来たことを知るには、霊感があることが基本となる。
これは無神論者でも全くの不可能ということではない。
無神論者でも霊感が働きさえすればかまわないんだ。
まずはそこをわからないといけない

神を信じる、信じないに関係なく、霊感が研ぎ澄まされた瞬間に来る。
分かりやすいケースで言えば必死こいて頑張っているときだ。
普段我々はぼーっとしているとき、心の傷からくる悪い感情もそのままになっていて
私たちは何もしなくても悪い感情が勝手に出てきている(何も感じないのが普通)
ムカつくことがあって怒った時は分かりやすい。悪い感情があれば霊感は鈍る。
ほんの少しでも鈍れば神は来ることができない。確認しようにも来なければ意味がない

来たとわかるには、確認方法よりも確認できる状態になりさえすれば
向こうから来てくれる。ほんのちょっと、好奇心くらいで軽く来てくれるわけじゃないが
一般的に立派だとか、人としてすばらしいような生活態度が取れていて
日々、精進努力できていれば、向こうの判断でやってくる。
まずはそうならない限り神は来ないと思ったほうがいい。いつでも簡単に来るわけじゃない。

来たのがわかるかどうかは、着た瞬間の人間の状態と
普段と、神が来れる状態を作るのに調子がいい状態との違いを知る必要がある。

何でもかんでも言葉にできないから説明は難しいが
論理的に当然とか、普段の状態と、神が来る準備ができている状態というものは感覚が違う
どう違うのかを証拠物件として示すことはできず、体験で知るしかない。体験についての質問があれば言う

普段から調子が良かったり、悪かったりしながら探り続け
それぞれの状態でどうなったかをよく観察するのが神を知る方法だ

それで、この探りながら精進する体験と、過去の宗教で嘘っぱちじみたことを言ってきた
聖典の記述というのは、そっくりであることを言っておこう。
聖典もおそらく不十分にしか記述していないため、今まで科学的な態度の人類は
聖典に書かれている意味を少しも理解していないと思う
だが、理解できないからと言って書かれていないことにはならない。
理解の仕方、探りの入れ方がちょっと違うだけである。