牧師は、当然一週間、主日に備えて祈るんだろうけどその間お金を儲けることは難しい、、、いろんな理由をつけてお金を信徒から巻上げる算段をする牧師までもいる。
そりゃ、牧師や宣教師だって人間だから家族を支える為に必死だ。時には伝道集会や講演会などの理由・名目で献金を募りこっそりかなりな額の上前をはねる。
教会の役員をしていたので知ってるが、そのような悪事は既成教会より福音派などを謳うが実は個人商店化しカルト化した教会に多い。
宗教法人にすると公に会計書類を提出する必要も限りなく無いに等しいし(営利事業は別)、当然、有っても役員に現世的利益をちらつかせ、その目やその信徒さえ誤魔化せば良い。

これは忌々しきことだが現実で、神さまはそんなパリサイ化した指導者の状況を永遠に許すわけが無い。
少なくても牧師の衣を借るそのような教会関係者は無意味な事をしてる事に気がついていないか(気がつく義務は有る)、
気がついているとしたら、神さまは居ないから現世のうちに大胆に周囲を騙し、金を献金という名目で巻上げる、、、と腹をくくったか。
大半が後者だろう、神さまの前では言い訳は利かないのは当然だ。
キリスト教を騙り信仰を悪用した泥棒である。神殿の中で堂々と商売をしてるわけである。
自分だけは楽をして信徒には負いきれない重荷を押し付ける、自分の栄誉・宣伝のために意味の無い苦行などを強いるなど、あの手この手だ。

カトリック教会の修道士などは清貧を義務づける修道会も有るのはそういった現実的な意味も有るからだ。
現世と隔絶した生活、当然現世のままを享受するのは不適切と考える修道会が出てきてもおかしくはない。
社会的にもすばらしい業績を残すだけではなく、多くのものが信仰に導かれている。
一部の福音派と呼ばれる教会の中にはそれを非難しそんな肉的な行為で信仰に導かれるのではないと言う。
しかし、そんな戯言を言うのは、ただ、愛がないだけである。つまり、神さまから愛されていない、呪われた頭でっかちの牧師が言う事だ。

一度、献金した金品は法律的にも返還請求するのは難しい。
少しでも疑問が有るのなら、そういった牧師から離れその教会も去ることだ。
それは不信仰なことではなく、神さまに対しても素直なことである。
この日本でも、他にもすばらしい信徒の群れはたくさん有る。