宗教5ちやんねるスレの人は経みんな熱心によむのだろうか。まるで正方眼蔵以外は入門書たまに観る位の私はまるで特に
中論なんて何で読まないコンプレックスはあるけど。お経なんて千年も昔の人の考えでそんなに新しく研究成果ではないと
今頃あーだこうだは無意味では無いのか私のコンプレックスのあらわれか。私には唯我論の出鱈目妄想のへぼで対抗する
しかない。宗教10級で同じルールで論争しても将棋には変わらない。みなへぼだし画論丸出し同じような者?所業無地用
何そんな事いま考えるのはテレビの映像と音声と他のおさわりとか匂いとか痛いとかの感覚器官の違いは何だろうか?
見る聞くなどはデジタル的で他のはアナログ的でつまり時間場所というか物にこだわる感覚器官なのかつまり体が優勢で
直接的で物理化学に傾くのか。視覚聴覚はデジタルとアナログを脳がデジタルに変換が優位でコンピューターの仲間鴨つまり
電波で送りやすい光通信で宇宙に光速で送れる。匂いでは何か言葉で送っても送れないような少しは理解できるようなでも
光や音である程そのひとが度想像するしかない野鴨。心もデジタルである程度頭に拘束される根びゅたーの様な者か?
何言いたいのか?何を私は考えているのか?つまりもる聞くとかの脳力は体が死んでもこの世うなあの世うな思考装置の仲
シリーズ化で次次と倫根するのかも?物は現地で調達するしかない野鴨。痛いを味わう原理は何処からくるのだろうか?
玄さ和尚はこれを大昔考えたけどなあこの人何を思ったのだろうか?達磨は中国に行きませんでした?