>  元々、仏なのに  』

ほとけとは、人類専用のコンテンツではない、

先に 山川草木国土 悉有 仏性
さんせん そうもくこくど しつう ぶっしょう

を、あれこれ言い回っていたが、山川草木国土は わたしである。

此処が分からないと、対象物と観る。羽目の陥る。

公案に言う、全宇宙は佛だよ、学んだばかりの入門したての修行僧が、問います。
門前にいつも寝そべってお寺にやってくる人にまとわりついて尾っぽを盛んに振っていくばくかの餌にありつこうとするあのイヌにもまさか仏性は無いですよね。

この新参(しんざん)の修行僧の問いに、師家は、有るよ、と答えた。

このやり取りを物陰から盗み見していた古参(こさん)の修行僧、答えを知ってるぞ、とニンマリとして、ポンと手を打ちほめてもらいたくて、師家の前に転がり出た。
犬にも仏性がございますか?
師家は しばらく見つめ 重い口を開きます、無。

これは、犬を他者としか見ない長年修行に明け暮れてきた修行僧にさtろらせたい!と慈悲の公案で、自他が一の如し、と言う。

二は二では無い、二は一の如し。この関門を透れば、色即是空、初祖古佛と供に手を把手(とって、はしゅ)歩み行く、のである。

それをもともと、佛である私が、何故、修行しなきゃならないのか、とマブダチ道元は日本中の先輩僧に聞き回った。
だが、答えは得られず、中国へ渡り訪ね回る。
幼い頃から中国人と接し読み、書き、話すことができた道元は、当時、ほとんどの人が文盲の人ばかりの中にあって、師家の侍者にと望まれるほどであった。
その夜坐に於いて隣りの僧が早朝からの激務に坐睡し始めた。
これを見とがめた師家が履いていた皮のスリッパを脱ぎ、片手に持って思い切りよく激しく打ち据えた。
堂内には、天地が割れる音がとどろき、道元はさとる。

道元も同事に打ち据えられた、のである。

片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、白隠は江戸時代の人であるが、二つの事は、同じである。

初関を透るは、色即是空である。

ひとつ指摘しておこう。道元は看話禅(かんなぜん)話すんじゃダメじゃーん、と言い、文字禅(もんじぜん)中国語で書いたものでやんなきゃな、と言ったものである。