マインドフルネス瞑想 Part9
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
前スレ
マインドフルネス瞑想 Part8
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1519401863/
メンタルヘルス板
【瞑想】マインドフルネス 6【気づき】 http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1508008965/ 瞑想と催眠術は関係があるとおもってて、他人から補助された軽めの瞑想が催眠術ではないか?
高僧とか、スポーツで成績出してる選手とかは、催眠術には掛からないと予想。
日常で自力で瞑想(催眠)状態になれるので。
術を受けたところでそれが特別ではないと認識できていて。
たとえば、催眠術に掛かる坊さんはニセ物の可能性ありで、イチローとか催眠術に掛からないとおもう。 調べてきた同じだろ?無我で表されるのが催眠・瞑想の理想で。
「自己催眠」は「瞑想」とどう違う? - goo ニュース
https://news.goo.ne.jp/article/lifehacker/trend/lifehacker_166918.html
変性意識状態とは?
変性意識状態は瞑想状態なのですが、じつは催眠術をかけられた状態も変性意識です。
http://seishinkougaku.com/kanemochininaruhouhou-gyousyubetu/kanemochi-benkyou/henseiishikijyoutai02.html
瞑想とは何か?
瞑想をすることで、変性意識状態になることができます。この原理を応用したのが催眠術です。催眠術師は、催眠をかける人を変性意識状態にすることで暗示をかけます。
https://laboratory.brainhuck.info/category1/
アスリートが実践する精神と肉体を連動させる方法 2015.02.17
ポジティブな独り言、目標宣言、視覚化、瞑想、催眠、NLPの実践が、パフォーマンスを上げるのにどのように役立つかについて論じていきたいと思います。
世界最強のアスリートたちが、どのように使ってトップに上りつめたかを見ていきましょう。
https://www.lifehacker.jp/2015/02/150217connect_mental_and_physicalself.html
催眠状態の「脳」で起きていること 2016.08.17
催眠状態に陥っているヒトの脳内は、いったいどうなっているのか? 何らかの変化が脳内で起きているのだろうか?
その興味深い実相が、米スタンフォード大学医学部のDavid Spiegel氏らによるMRI検査の研究報告で明らかにされた。
催眠は、暗示に左右されやすい変性意識状態の一種。催眠時に3つの明瞭な脳内変化が認められた。
変化1:脳を司る主要ネットワークの一部である背側前帯状皮質の活動が低下
―この領域は物事を比較する機能を有し、心配するに値するかどうかを判断する際に働くといわれている
変化2:脳の最も進化した部位であり、集中力の源泉である背外側前頭前野と身体状況の把握を司る島皮質のつながりが増大
―催眠状態下では、その人の心拍数や血圧を変えることも可能とのことだ
変化3:一方、背外側前頭前野と創造性に富む初期モードネットワークのつながりは減少
――このDMNはぼんやりしたり、自分のことを考える際に活性化する領域
http://healthpress.jp/2016/08/51-2_2.html 完全な無我なら、スポーツなどでパフォーマンス上げる必要もないだろうが。
リミッター外しは延長線上に無我があって、弱めの無我、瞑想では。
身体能力の限界は脳が決める!?思い込みを捨てることでリミッターを外し、もっと身体能力をアップさせよう
http://www.logophilia.com/sport/limiter/
柔軟な発想力を手に入れろ!頭のネジを一瞬で外す5つの方法 2017.02.08
http://careersupli.jp/career/neji/
脳リミットのはずし方 | 茂木健一郎 | Amazon 2018/3/14
「自分にはムリ」「どうせムダ」「普通は」など、自らが脳に作った限界を解除し、脳の力を最大化するための、AI時代の脳の活かし方
自分の限界は、自分がつくり出した幻想だと知ること。
自分という枠から飛び出す勇気を持つこと。失敗を恐れずに、変化を心の底から楽しむこと。
さあ、脳リミットをはずして、“脳力”を最大化しましょう!
https://www.amazon.co.jp/dp/4309248535
なぜ我々はリミッターを外すことができないのか?〜それは脳に原因があった
2016.09.16
よく「我々人間は30%の力しか使えない」と言いますが、なぜ100%の力を使えないのでしょうか?脳と体の関係からその理由を解説した論文をご紹介します。
なぜいつも「火事場の馬鹿力」がだせない?
脳を守るために肉体活動に制限?
なぜ力を出し切れないかという理由は数多くあるのですが、その一つに脳の生理学的特徴が関係しているようです。
脳は大きさでは体重の約2%に過ぎないのですが、そのエネルギー消費量は全消費エネルギーの約20%になるそうです。
しかもこの脳というのはエネルギー不足に非常に弱く、ほんの数分間酸素によるエネルギー供給が止められただけで多くの組織が不可逆的に損傷してしまうという特徴があります。
そのためヒトの生体は、この脳を守るため、脳に十分なエネルギーを与えるために、肉体の活動に制限をかけているそうです。
生体メカニズムが肉体の活動に制限をかけてまで守ろうとする脳。我々は体だけでなく脳の健康ももっと意識すべきかもしれません。
http://jeb.biologists.org/content/211/11/1792 俺も催眠は興味あって、催眠と瞑想は似た部分あるなとは思ってるけど、同じだとは思わない。
瞑想が目指してるのは催眠と違って、意識によってコントロールされる世界ではない。
そういったものをすべて手放したところが瞑想。 目標はちがうだろうが。
実際にワザを披露する前(テレビなどのパフォーマンスとして)の、
予備催眠や催眠深化をしてるだけの状態は瞑想状態と近いのかと。深さに差はあるが。催眠にも瞑想にも。
催眠深化法を行うタイミングと催眠誘導のセオリー
https://ameblo.jp/konzentherapy/entry-12290760339.html そこでいうなら近いのは「集中」という部分だけでは。 催眠によって、特定の場で何か特定のことがらが上手く行ったとして、それが根本の苦の解消にはならないというのが瞑想という立場の考え方。 イチローで思い出したけど、肩の力を抜きたい時に必死に肩の力を抜こうとしても抜けないけど、膝をゆるめれば肩の力も抜けると語っているのを見たことがあって、
刻一刻と変化していく現在の自分の体の状態を正確に捉えらることが出来てるのだから、イチローもマインドフルネスに近い状態で生きているんだなあと思ったことがあった。 知識ばかりで物事を理解しようとする典型的な無明。
瞑想が催眠と同じかどうかなんて自分でやって確かめたらいい。 瞑想は思考じゃないよ。
思考で分かることなら、論理哲学でもやればいい。 論理哲学は思考をするが、
瞑想における思考は、気づきの対象であって、主ではない。
瞑想でやることは、あくまでも気づき(正念)。 そんなことしてどうなるのか、と思うかも知れないが、
気づきの力を育成していくと、例えば、日常生活のなかで
色んな状況におかれた時に、自分がどう思考するべきか(意業)、
どう反応すべきか(口業、身業)、それを選ぶ選択の自由が得られるようになる(如理作意)。 平たく言い直せば、自己制御能力が高まる。
車の運転にたとえるなら、
身体に宿る自我を操作している心(意識)を
冷静で優秀なドライバーに育てていくことができる。
頭もよくなる
性格もよくなる(そうしたいと望んで、その方向に努力すれば) 最終的には、人智を超えた悟りの智慧と解脱に達する。
(仏法に素直に忠実に従い、そうしたいと望んで、その方向に努力すれば) どう思考するべきかは、八正道の正見、正思惟に対応する。三学では慧学にあたる。
どう行動するべきかは、八正道の正語、正業、正命に対応する。三学では戒学にあたる。
どのように瞑想するかは、八正道の正精進、正念、正定に対応する。三学における定学にあたる。 日常生活においては、正しいことを、適切な方法で行う。
そこに八正道のすべての項目、あるいは三学のすべての項目がすでに含まれている。 まあそんなに興奮するな
それくらいのことこのスレにいる人間なら知ってるから 気づきの対象として「思考」と呼ばれているものは、思考ではなく、浮かんでは消える思いというか妄想というか、そういうものであって
論理哲学?でいうところの「思考」とは別物なのでは 思考に飲み込まれる>哲学
思考に気づいて放棄する>瞑想
思考を強制・上書きする>催眠・洗脳 想(sanna)と見(ditthi)の区別は有用。
瞑想中に出てくる思考は想。
思い込み、固定観念は見。 お釈迦様はスジャータの乳粥の差し入れを食したあと、菩提樹の木の下で坐禅を組んで瞑想し、
「血が枯れ果て、肉がただれ、骨が腐っても、悟りを開くまではこの場所を絶対に立たないであろう」という強い決意をもって坐禅を続け、
一週間後の明けの明星が上がる時に悟りを開いたけど、その悟りとは死は生によって起こり、生は有によって起こり、有は取によって起こり、、、
という十二支縁起だったと聞いたことがある。
このどうして死ぬのか、それは生まれるからだ、どうして生まれるのか、それは存在(有)があるからだ、と考察していったのは思考ではないの? >>815
うんうん 至極真っ当な分析なんですが 私の小さな体験を通してもそれは違うだろうな と容易に想像できます どちらかというと一瞬にして根源となる理解が起こった
ご本人はこの時点で分析も理屈での理解ももう必要無かったんだろうと思います が それをまだ理屈で考えてしまう人々に教える時に 理屈が必要になるんです
最初期は単純な縁起で12も無かったと思いますが それでも これがあればかれがある のように理屈が必要になる 普通の人でも理解できるんですが 小さな悟りでさえ 得た人にとっては全く理解の仕方は異なります
文章でカレーの味を理解するのと 食べて理解する違い 衝撃度的にはこれ以上の違いがあります
ですから考察は自分以外の人のために行う作業だと思いますよ 本来はいらない作業 自分に起きたこと、状態などを後から考察するのは大事だとマハーシの本にも書いてあったと思うけどね
考察しないで最後までいける人はそれでいいけど、
思考によって思考の必要ない部分をきちんと知り日常と修行に活かしていくのは大切だと思うけど
禅定や思考が生じない状態などはもちろんあるけど、それとそれを考察しないってのは話が別でしょう
きちんと考察しないせいで以前入れた状態になかなか入れないなんて話もあるし
思考(雑念や必要ない思考)が生じなくてもよくなるために正しく思考(考察や熟考)を使っていくのは仏教全般にあることだと思うけど 哲学って思考に飲み込まれてる状態かなあ。
自発的に考えてるのは、飲み込まれてるのとは別なような。
哲学じゃなくて例えば数学でもいいけど。
頭に勝手に浮かんでくるイメージにとらわれてしまうのと、
何か問題があってそれについて思考することはごっちゃにしない方がいいような。
そこを一緒にして、すべて放棄したら動物になってしまう。 マインドフルネス瞑想は価値判断しない、
っていうのが大前提になってると思うんですが
そこらへんとのかねあいはどうなんですかね トリガーがあって、そのトリガーに執着(飲み込まれ)て分からないことを理解しようとする 価値判断しないというのは体験することに対して、良い悪いあるいは好き嫌いという自動的に起こる判断をやめようということでしょう。
何か問題があった時に、それをどう対処すべきか考えるのとは違うんでは。 >>815
観察による洞察。
例えば、天文学者が、天体の並びや運行を知るのは、
観察によるのであって、思考によるのではない。
体験的な理解。
言語は思考を介するため、言語的説明による理解は
概念的にならざるを得ない。
地図と現場の関係でいえば、言語説明は地図であり、
地図の理解は思考であり、現場を見るのが観察。 言語では、富士山を十合目と、10に分割して説明することもできるし、
1%から100%まで、100に分割して説明することもできる。
概念的には、いくらでも複雑化(または単純化も)できる。
しかし、体験的には富士山は富士山。
身体を五体と分けることもできるし、上半身、下半身と分けることもできる。
内蔵、筋肉、骨、筋、皮、のような組成毎に分けることもできる。
概念的には、いくらでも、どんな風にでも分けられる。
しかし、体験的には、身体は身体。 体験だけでは生きていくことさえ出来ないではないというお話? >>361
>359神も仏も名無しさん2018/05/19(土) 00:39:25.50ID:o3b2Gtmd
>>>344
>思考は我ではないよ
>
>真理追求の思考は我から生じないかもしれん^^
これか^ ^
謎解けた^ ^ >>822
智慧を得た後なら思考の質も変わる。
ある程度瞑想が進めば、思考が自我を守る方向にしか働いていないことに気づくだろう。
価値判断はたいてい、自我を肥大させる方向に条件付けられる。
それが極端に進んだケースがイデオロギーだったりする。
思考を正しく使いたければ、一度思考を自我から引き離してやる必要がある。 思考自体してはいけないと勘違いすると、ドアを開けっ放しでも気づかないし、しばらくして気付いたあとも喜ぶというヘンな人になってしまう。 >>825
菩提樹の木の下でひたすら瞑想しながら何を観察していたのですか?
心(エゴ、チッタ)の動きですか? 思考なしにどうやって日常生きるのか疑心暗鬼になってた時期は俺にもあった。
ある日、気づきを重ねていった先に得られる新しい認知の形式(仏教的には智慧等と呼ぶが)が開かれて全ての疑問は氷解したよ。
ああ、なるほど、こういうことか、ってね。
人間は思考に頼らずとも目前の問題を解決するために脳の新たな部分を開発させるのだと思う。
安心して取り組んだらいい。 >>835
え、日常の判断に思考使ってないの?
ジュース買うのにお金出すときどれが10円玉で100円玉か判断せず無意識か直感で財布から出してるわけ? 5ちゃんねるの修行者は、如理作意までも燼滅すべきものだと思っている。 >>805
なにやらいろいろと勘違いしている様に見受けられるが… いつもの観察至上主義者で天体は望遠鏡で心理作用は瞑想で観察することで真理真実に到達できる、の人でしょ
前はテーラワーダのスレで連投していた人 体験智の話は、話になった時点で概念化するから
概念(思考)から抜け出した経験のない人に言って
理解を求めても無理。 エックハルトトールは言います。
「あなたが自分の内面で思考を超えた次元に触れれば、思考することが最高レベルの在り方ではないことがわかります」と。 極度の集中力が持続して、一時的に思考に流されない状態になったとしても
日常生活ではまた思考を使うんだよ。 日常で思考を使う時は、適切に使う(という訓練をする)ことになる。
適切に思考するとはどういうことか、というのは、仏教的には四諦
に基づくことだと思う。
世間的な仕事や問題への対処としては、GTD(Getting Things Done)
やZTD(Zen To Done)のようなモデルが分かりやすいかも知れない、
と個人的に思う。
気づきの力が弱い人は、刺激に対して(貪瞋痴で、本能で)反射的に反応する。
気づきの力が強い人は、刺激に対して(如理作意で、理性で)選択的に反応する。
反応を選ぶ自由が得られる。 「結局思考を使わずに生活なんてできないよね 」
思考は我執を伴うから迷う・・^^
直接知覚か・・非思量か・・^^
まっ・・^^
聖人は思考ではなく智慧でみてるからな・・^^ 知恵は、損か得か。(我執を伴う)
智慧は、真か偽か。(我執を伴なわない)
おまえらは 知恵を使うほう・・^^
う〜〜〜〜〜〜〜〜ん^^
この違いはでかい^^ 気がつかなくたって体なんか勝手に動いてるもんだよ
むしろ勝手に動いてる体や勝手に浮かんでくる思いに気付くのがマインドフルネス
自動操縦状態から脱するのがマインドフルネスで、勝手な動きに委ねてしまうのは傾向性の奴隷になってるのに過ぎない カンポンさんの本にも「思考は止められない」「悪いものではない」
「巻き込まれるのではなく、それを観る」と。
>>844さんと同様の見解だったような気がする。 体が知ってることは勝手にできても頭を使わないとできないことは考えるんじゃないのだろうか
テストの答案も体が勝手に動いてできるのだろうか
だとしたらすごいけど 九九とか考えなくてもできるだろ
禅の先生は一目でクラス全員の名前覚えられるけどおそらく考えてはいない
空間的情報などチンパンジーでも瞬時に覚えられるわ。
俺もあまり物考えてないスカポンタンだが極まれにしか出来んわ…
つまりサルになれ!ちゅうことだ 第T篇 第三章 剣 第五節 敬わるべき人
〔神いわく、ー〕
「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、
今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、
『わたしが語る』と言ってもよいのでしょうか。
また『人々か〔これこれ は〕<わがもの>である、と語っている』と言ってよいのでしょうか。」
〔尊師いわく、−〕
「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、
今や最後の身体をた もっている真人となった修行僧は、 『わたしが語る』と言ってもよいでしょう。
<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいでしょう。
真に力量ある人は、世間における名称を知って、 言語表現だけのものとして、
〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。」
(神々との対話(サンユッタ・ニカーヤ)) >>849
観察によって実感できましたか?それがありありとわかるということは もう相当観察力がついているはず この実感は今までの自分という感覚 思い込みをぐらつかせ 自分という概念に疑念を起こさせます
思考 感情 動作 ほとんど勝手に自動的に起こっている 観察している自分だけは違う それでは観察する自分が本体なのか? もしかして観察する自分さえも.....
このパターンがベタなパターンです 頑張ってください! 今まで2つの認識だったのが瞑想によって3つになるといえばわかりやすいかな。
思考(自発的な思考。問題解決などに使う)
雑念(無意識に流れている。デフォルトモードネットワーク)
智慧(上記2つを使用することなく、直接事実を認識する)
智慧に関してはそれを体験してない人には理解困難だと思う。
普通は何かを知覚した瞬間、概念化するから。
例えばりんごを見た瞬間、りんごだと理解する。
智慧で見たなら、りんごという概念以前のその存在そのものを知覚する。
心も同じ。
智慧で怒りを観察すれば、心身に生じる純粋なエネルギーを感じるだけになる。 概念以前の存在そのものというのは、意味をもたない存在ということでしょ
日常生活において思考の代わりになるものとは違うのでは 九九は暗記だし、人の名前を覚えるのも暗記力
仏教のいう智慧ってのは、そんなもんなのか >>856
とても静かなものが観ている、ただ身体が動いている
その静かなものを邪魔するものが出てこないのです。
ただ気づいているという表現が一番近いものです。 >>859
多分チンパンジー以下だと思うけど…
そんなもんとか言う?
わかる範囲で言ったつもりだ立たんだけどなぁ… テストの話は、じゃあ九九じゃなくてもいいや。んー、1から1000までの整数の総和とか、例えばの話 整数だと簡単過ぎか…てそういうもんだいでもないな
ようするに、自由な視点から物事を捉えるって話。 自由な視点からものごとを捉えるのが仏教の智慧というなら、わからないでもないけど
それがイコール整数の総和を求める能力に直結するというのが分からない。
智慧が開かれると、そんな数学的能力が手に入ると本気で言ってんの? >>852へのレスとして>>853を書いたわけでしょ
例えテストの答案だったとしても頭を使わずに体が勝手に答を導きだすと
それが仏教の智慧であると おほよそ、心三種あり。
一つには質多心(シッタシン)、此の方(=中国では)に慮知心(=思考して分別する心)と称す。
二つには汗栗多心(カリタシン)、此の方に草木心(=草木のような心)と称す。
三つには矣栗多心(イリタシン)、此の方に積聚精要心(シャクジュウ セイヨウシン)と称す。
このなかに、菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。
菩提は天竺の音(菩提とはインドの言葉(ボーディ(=悟り)の音写)、ここには道(ドウ)といふ。
質多は天竺の音、ここには慮知心といふ。
この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。
この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。
菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願(ホツガン)し、いとなむなり。
そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。 例えだつってるだろ
〇〇智とか解説する必要ないだろ? 仏教の智慧があれば頭を使わずにテストの答案が書ける
なんていうことの例えになってるんすかそれ いや、発想は考えて得るものじゃないでしょっていう話
まあ考えてもいいけど マインドフルネスはモンキーマインド
とは反対の状態
つまり、猿になってはいけない それで思考なしで日常生活は送れるの送れないの?
7×6は瞬間的に42って答え出ても7×3×8は思考で考えるんじゃないの?
そもそも7×6だって瞬間的に思考してるんじゃないの?
思考しなかったら7も数字だとも思わず視覚上の白の上の黒い線か模様でしかないんじゃないの?
瞬間的に「7」「×」「6」の意味を思考してそれを掛け算だと思って答えを出してるんじゃないの?
それが自動的にしろ自分でわからないほど瞬間的であるにしろ思考はあるんじゃないの? >>860
なるほど! 良い感じじゃないですか
どんどん自分に起こることを観て下さい! 全部です! できれば24時間です! 勇気を出さないと観られないことがあるかもしれません
ある特定の状況になった時 初めて気づくようなこともあるかもしれません 無意識が邪魔をして誤魔化そうとするかもしれません
でも自分の微細な変化を頼りにしていけばきっとひと段落つくところまでいけると思います 応援してます! 映画マトリックスで例えるなら、仮想現実の世界(マトリックス)で生きている状態が無明、智慧が開かれるとは、プラグを抜かれて現実世界を知るということ。
いくら説明しても本人が直に見るまでは理解できない。
仮に現実世界を知っても、それを受け入れられず、結局マトリックスに戻ってしまう人もいる。 自分が思考しているというのは幻想。
思考が思考しているのであって、心とはその一部を選択的に映し出しているに過ぎない。
未だ、自分が〜する、と考えている人はまだ智慧の目が開かれていない。 それなら思考はあっても巻き込まれないとか
思考は脳や心がしているもので自分がしているわけではないって言わないと
思考はなくなるって言い方じゃ誤解を招くよね テストに望むのに思考は必要としない、みたいなこと言いたがる人って
瞑想とか仏教の人間じゃなく超常現象のマニアとかそういう類いだろう 俺のことか
九九とか考えなくてもできるだろと言ってるんだが 1から1000までの総和は幼稚園児でもわかる話です 九九覚えるのって暗記じゃなくて仏教の智慧なのか
へー >>872
> それで思考なしで日常生活は送れるの送れないの?
送れないんじゃね?
あんまり考えなくても送れることは送れるが左と右の区別はつかなかったりはするな。
>
> 7×6は瞬間的に42って答え出ても7×3×8は思考で考えるんじゃないの?
例が良くない。
21x8=168ならそらで言える人は結構いるはず
たとえば20日x8hはいくつだ?
> そもそも7×6だって瞬間的に思考してるんじゃないの?
「しちろくしじゅうに」と言語化するタイプと
'7*6' => '42'が反射的に出てくる人がいるだろうな。
7を6倍せよ、なら思考する。
> 思考しなかったら7も数字だとも思わず
7が数字であるというのは、後から出てこないか?
7は数字という属性をもつけどいちいちそんなことかんがえないだろ?
> 視覚上の白の上の黒い線か模様でしかないんじゃないの?
いいとこ突いてる。
7 ,VII 七 という形が数字の7だと思うのは記憶によるもの
(想かな?)
> 瞬間的に「7」「×」「6」の意味を思考してそれを掛け算だと思って答えを出してるんじゃないの?
意味は考慮してないよ。掛け算だとも認識してない。
無意識的には認識してるかも。
> それが自動的にしろ自分でわからないほど瞬間的であるにしろ思考はあるんじゃないの?
んーどうだろう。
反射的に処理してるけどそれを思考と呼ぶかどうかは知らん あっと付け加えると、思考を最小限にすることは可能だね。
煩雑な処理をしなければ良い。 >>877
超常現象のマニアではないな、説明の付かない写真は撮れるが、説明つかなねーな、で終わり。
まあ、なんていうかな、共感性の強いタイプ?ではあるかもしれん。
母方のほうは揃って心霊体質だが俺はなんも気にしてない。 仏教ってさ、考えること自体をやめろって教えじゃないでしょ
あらわれては消える妄想や雑念に囚われて価値判断や感情に縛られないようにしようってんじゃないの
なんで数学みたいな部分まで考えるのやめようみたいな思い込みしてるの そもそもテストの話だったのにあんたが99(数学)の話にしたんじゃないのw
なんで世の中いろんなテストがあるのに99だけを例に話をしだすんだよw 考えてないと言ってるんだから単純にバカなんだと思う まぁ、空間把握がチンパンジーには遠く及ばないなたしかに ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています