マインドフルネス瞑想 Part9
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
前スレ
マインドフルネス瞑想 Part8
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1519401863/
メンタルヘルス板
【瞑想】マインドフルネス 6【気づき】 http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1508008965/ >>726
仮死状態ってどのくらいの期間どんな状態になったんですか? 「仮死状態」ていうのはいささか盛りすぎなんじゃないですかね、失礼ながら >>726
幸福感を感じるコツはあって、日常で感じた微かな幸せ(美味しいものを食べる、風呂に入る等)に意識を集中させるんだ。ジャーナに入れるくらいの集中なら何倍にも幸福感が倍増されるはず。
それを習慣にしてれば、ただジャーナに入るだけで幸福感に満たされるようになる。
>>725
悪いが俺は悟りは目指してない。
ていうか、ここにいる人の多くは悟りより日常を楽に生きるために瞑想してるんじゃないのか?
そういう風に厳格になりすぎて瞑想の敷居を高くするのはどうかと思う。 幸福感は自分が幸福に思えば幸福なんだから自己催眠と同じとわかれば簡単にできるようになるよ
ただ病気や痛みや身体的な不調のときでもできるようになるのがむずかしいだけ
不幸に感じてるとか心に感じてるだけなら自分でそう思ってるだけなんだから幸福に思えば幸福に思える
ただそれだけのこと
それほど集中力がなくても観察で心は単なる心にすぎないとわかればできるようになるよ >>733
幸福感について、同じような事が出来る人がいたんですね >>733
ありがとう そうか そんな単純なことだったんだ....
今更になって最近やっとその辺りのことを見つめ直してたところでした ありがとう
>>729
仮死状態はインパクトあり過ぎたかもしれませんね 一回のサマタ1時間ぐらいで 2週間ぐらいまともに歩けなくなって 2ヶ月ぐらい後遺症が残った感じでしたよ そんなことが期間をあけて2回ぐらいありましたかね ◼︎道元 典座教訓
「宋の天童寺に留学中だった私(道元)はある夏の日、中庭で寺の老典座(食事係)が海草を干しているのを見た。
老人は眉は白く腰は曲がっていたが、炎天下に竹の杖をつき、汗だくになり、苦しそうに働いていた。
私は気の毒に思って近づき、年齢を聞くと老人は『68歳だ』と答えた。
『なぜ、下働きの者にやらせないのですか』
老人は答えた。『他の者とやらは、私自身ではない』
『なぜ、今のような炎天の日中にされるのです』
老人は答えた。『今のほか、いつを待てと言うのか』
私はその場を離れた。そして廊下を歩きながら、典座職の重要さを考えたのであった」
「また私が上陸許可を待って港の船の中にいた時、ある老僧が食材の買入れに港にやってきた。
船室に招いて茶を勧め、話を聞くと
『私は、阿育王寺の典座である。故郷を出て四十年、歳も六十を越えたが、これからまた20キロほど歩いて、食事の用意に寺まで帰らねばならぬ』
『飯の用意など誰かがやるでしょう。何か差し上げますので、ゆっくりしていかれては』
『それは駄目だ。外泊許可を貰っていないし、典座は老人にもできる修行、他人には譲れぬ』
私は聞いた。
『あなたほどのお年なのに、なぜ忙しく働いてばかりいて、坐禅したり先人の教えを学ばないのですか。それでいったい何のいいことがありましょう』
老僧は笑って言った。
『外国からきたあなたは、どうやら何もわかっていないようだ』
私はこれを聞き、大いに驚き、また恥じた。
そして老人は「もう日も暮れた。行かねばならぬ」と立ち上がり、寺へと帰っていった。
私が多少とも修行のことを知るようになったのは、実にこの老典座の恩によるのである」
道元は日本に帰国してより建仁寺に留まったが、建仁寺の典座が食事の用意を軽く考え、職務を適当に行っていることを見、宋との落差を非常に遺憾とした。
そして『典座教訓』を執筆し、典座職の重要性と、その職務要領を詳細に書き残した。 心の中に、例えば過去幸福感を感じたときのイメージを思い浮かべて感情をコントロールしたり、
辛かったときのイメージを思い浮かべてその書き換えをしたり、
っていうのは以前流行ってたNLPがそんな手法・技法を多用してたと思う
NLP以前にそういう心理療法があってNLPはそれを拝借しただけかもしれんけど あいかわらず、NLPでぐぐると
マインドフルネス関連以上に怪しげなサイトもわんさか引っかかってくるなぁ
ご注意ご注意 >>737
臨済宗の食作法は体験したことがないけど、曹洞宗の食作法は接心に何度か
参加しているので体験している。
常住坐臥。全てが修行で食事も修行の一環ということで坊さんも袈裟を付けたまま
食事をとる。 食事の流れも実に素晴らしく「美しい」といえるほど。
寺によって多少の違いはあると思うが淡々と進む食事は体験の
価値アリだと思う。慣れない内は食べたような気がしないと思うかもしれないが
機会があったら是非「禅宗の食事」を体験するといい。 >>741
俺のこと言ってる? 誘導してると思ったら勘違いだよ
よく読め 食事を作るにしても、食事を取るにしても
それらは実は瞑想なんですけど、説明しにくいのですが
全ての動作において気をつけている
というか、心を置く、留める、念ずるとでも言うか
だと理解しています。 まぁ、回峰行を「歩行禅」と言うくらいだから確かにそうなんだが・・・ ていうか、このスレに来てる人間で食べる瞑想なりレーズンエクササイズとか
歩行瞑想知らない人間いないでしょ 日常の中で何事も気づきをもって丁寧にやりなさい、ってなんかお説教にしか聞こえないし、何人が実践できるんだろう。 英語が上達したければ〇〇すればいいよ、っていうのは説教じゃないし
英語が上達したい人のなかでそういう方法やりたい人だけやればいいんじゃないですかね
マインドフルネスとは限られた場で実践するものではなく、
こういう方法もありますよ、っていうのは説教じゃないし、
マインドフルネス瞑想をやりたい人、そういう実践をしたい人・やりたい人がやれば
やればいいんじゃないですかね 長年引き込もってるがマインドフルネス瞑想?して2日で謎の覚醒が起こったことがある
ベットで横になってたらいきなり世界が氷ついた感じで自分が死んだ感じがして、ぼんやりツベで動画探してたらマインドフルネス瞑想ってのを見つけてやってみた
初日は真面目にやったが、2日目はストーブにあたりながら猫背でやった
んで背中が丸まって口もポカーンと開けてもう死んでもええわって気持ちで座ってたら息してなくて気づいたら頭のなかがスッカラカンになってた
んで見えるものぜんぶに感謝の念が湧いてきて今までの世界と違いすぎて最初はガクガクビビってたが、とにかく意欲や興味が半端なく湧いてきてそっこーで10年ぶりにバイトの面接いってたわ
あんだけ社会不安でビビってたおっさんなのに余裕で年甲斐もなく若い連中に混じって働いてた
まあバイト辞めてまた引きこもってるがねw ええ話やなーおもいながら読んでたら
辞めたんかいw ほんとかどうかは別にして引きこもりみたいに自分の時間が持てるのは
過去生の修行から今生でも修行できる時間が与えられてるなんていう人もいるし
せっかく時間があるんだから瞑想や修行してみるのはいいことだと思う あるいは引きこもりにとっては就活が最高の修行なのではないだろうか? >>749
なんかごめんw
あれ以来瞑想はしてるが、自分の体験が自我の崩壊だったとするとやっぱ我が無くなるには自分に心底嫌気がさしてることがキーポイントなのかもしらん >>750
一応まじだ
つかかなり控えめに書いたつもりだ
当時書いたら魔境だなんだとバカにされて終わったw >>751
何社も落ちまくって心底辟易したらあるいは
おっと、なんかはしゃいで長レスしてすません
寝ます 鼻の頭に意識を集中するのはどうでしょうか?
また、URLなんかを知ってる人は教えてもらえると凄く助かります そんなんただの躁鬱だろ
瞑想はやったらあかん病気もあるから気をつけなよ >>747
いや、そういう意味の説教じゃなくてな。
日常の生活の中の行動を丁寧にやりましょうって、マナーとか道徳的な目的以上に何があるの?
それが瞑想であるなら、なんらかの効果があるんでしょう?
3ヶ月くらい気づきを持って物事を丁寧にやってきたつもりだけど、精神面は変わった実感ないんだよ。 どんなことでも丁寧に3か月も続けたら何らかの精神的変化はあるだろうし、
何も変化ないっていうなら期待しすぎで自分が見えなくなってるんじゃないの?
まあそれは一般論として瞑想で変化がないならやり方がわるいか真剣さが足りないかじゃないのかな
それにどれくらい真剣にやったのかはわからないけど結論出すのに3か月は少ないかと
本当に真剣にやれば一か月でも変化はあるかもしれないし適当にやってると10年経っても何も変わらないかも 座禅中に妄想に耽ってるからだろ
思考以外に足場を作るのが目的なのに思考に浸かってたら意味がないぜ >>757
> 日常の生活の中の行動を丁寧にやりましょうって、マナーとか道徳的な目的以上に何があるの?
> それが瞑想であるなら、なんらかの効果があるんでしょう?
それって、そもそものマインドフルネスの理念なり目的なりそういったものがわかってないんじゃないの?
呼吸瞑想も歩く瞑想も食べる瞑想もそこらへんは一緒でしょ
じゃあ、呼吸瞑想もうまくいってません、なので呼吸瞑想もマナーでしょ、道徳でしょ、ってなる?なんないよね
マインドフルネスの理念とか目的とかってなんだよって聞かないでね。標準的なテキストに載ってることを羅列するだけになるから 宗教的な立場からは、瞑想の「目的」って言葉を使うことが正しいのかよくわからんけどね >>757
ここの趣旨から説明すると 丁寧に ではなく 自分を観察しなさいということになります 観察しようとすると 結果的に動作 思考がのろまになって 一つ一つ丁寧に行う傾向に確かになります
最初は大雑把に観て段々と虫眼鏡 顕微鏡 電子顕微鏡 というふうに微細に観察を進めていきます 観察して分析して納得する段階から最後は観察だけになっていきます
そんなことで何が変わるんだ 馬鹿らしいと思うのが普通ですが 思考 理屈以外の理解の仕方があることを初めて体験することになるでしょう
目的は辛いことから逃れるため 真実を知るためです 能力を高めるのが目的ならば手っ取り早い方法は他にあります 仕事でミスして落ち込んだ勢いでケンタッキーチキンをマインドフルに腹一杯食べました
ありがとう 緊張を消そうとする→現在の自分の否定→マインドフルネスではない
緊張を自覚する→今を生きている→マインドフルネス 自分の場合、完全にリラックスしているより、程よい緊張感が有ったほうが良いと思うが・・ しかし過剰に緊張しやすい性で大勢の前でスピーチできないとか面接で問い詰められたりするとパニクって冷静な応答ができないとか
そういうのは瞑想で克服できるのかというとかなり厳しいのではないかと思う
瞑想で不動心が生まれるというけど自己流だからかその不動心がなかなか芽生えないねw >>771
やっぱ禅寺とかにいって指導してもらうべきか
http://www.rinnou.net/cont_02/zen_info.html
でも参禅できる寺は俺の家からは遠いんだよな
田舎の自営業の朝7時半から店を開ける俺には夜しかまともに時間が取れないのだが夜に座禅の会をしている寺はうちの県にはない
隣県にもない
ヨガスクールか… 坐禅会は黄檗宗だけにあらず。 禅宗は他にも曹洞宗や臨済宗もある。
特に坐禅会をやってなくても、毎朝とか毎夕坐る住職なら大抵受け入れてくれる。
近所の禅宗の寺に当たって見るといい。
もしその住職が余り坐らない人でも、他の寺を紹介してくれるかもしれない。
但し、禅宗とは一口に言っても宗派によって違いがある。よって其の宗派のやり方が
自分に合う合わないもあるかもしれない。
宗派による違いぐらいは事前に良く調べておいたほうがいい。
また、お手軽なのは、youtube で「坐禅の仕方」で入力すればイロイロ出てくるから
基本くらいは学べる。 ツベが何でも教えてくれる便利な時代だわw
因みに>>772 氏は何県住まい? >>773
ありがとございます
宮城県住まいで菩提寺は曹洞宗ですが住職は座禅の指導をしているなど聞いたことがないし
ちょっと難しいところがある住職なので指導されるのも難しそう
YouTubeでは雲堂の動画を見てそれから雲堂のアプリを使って座禅している
たまにマインドフルネスのアプリも使う
一般的にはサマタ瞑想で精神統一してからヴィパッサナーなんだけど
自分の場合はアナパナというか呼吸の観察・実況をしている内に段々と呼吸が落ち着いてくるからそれからサマタというか気持ちの良さに集中できる呼吸をしているから順番が逆かなとは思っているw
アナパナの前には禅の欠気一息で邪気を出す暗示をかけたりもしているからやはり自分の瞑想は色々なもののフュージョンで自己流だw >>774
宮城辺りは「曹洞宗」のお寺が多いと思います。 菩提寺の住職が苦手なら他の曹洞宗の
住職に相談して見ては如何でしょう。
自営業だそうですから、来店のお客さんに他の曹洞宗寺院の檀家さんもお出でかと思います。
気軽に話のできる住所ということであれば、その住職に相談してみてはいかがでしょうか。 追記
『宮城県での坐禅会』で検索したら、曹洞宗の坐禅会が随分ヒットしましたが・・ >>776
お陰様で我が家から近い、かつ夜に座禅会しているお寺が見つかりました!
有益な情報ありがとうございましたm(__)m https://www.youtube.com/watch?v=v09nboZMRIk
タイ仏教瞑想法
これどうなんだろう
タンマガーイ寺院はスキャンダルや批判もあるが、この人の瞑想は落ち着くし、
ティクナットハンの瞑想も「体を楽〜に」の繰り返しだからよく似てる
白隠のなんその法もだけど、サマタ瞑想のリラックスもいいもんだと思うな 禅宗が大嫌い
禅宗に対する「怒り」で自分自身を傷つけています
って言えば? 坐禅をしてもなんにもならん
という言葉の意味を勘違いしている例 カバットジンのマインドフルネスストレス低減法でさえ
「何かを得ようと期待するのではなく、瞑想すること自体を目的として励むのが最良の方法」
と言っているではないか。 ティク・ナット・ハンや仏教3.0の藤田一照は禅宗でございます >>780
ほぅ・・・其の結論に至った理由を聞かせてほしい。 んなこたーない。 悟りを究めた仏でさえ瞑想しとるやないか。 別にわざわざ座禅がどうとか言わなくても悟った人に必要なものなんてあるのっていう 瞑想と催眠術は関係があるとおもってて、他人から補助された軽めの瞑想が催眠術ではないか?
高僧とか、スポーツで成績出してる選手とかは、催眠術には掛からないと予想。
日常で自力で瞑想(催眠)状態になれるので。
術を受けたところでそれが特別ではないと認識できていて。
たとえば、催眠術に掛かる坊さんはニセ物の可能性ありで、イチローとか催眠術に掛からないとおもう。 調べてきた同じだろ?無我で表されるのが催眠・瞑想の理想で。
「自己催眠」は「瞑想」とどう違う? - goo ニュース
https://news.goo.ne.jp/article/lifehacker/trend/lifehacker_166918.html
変性意識状態とは?
変性意識状態は瞑想状態なのですが、じつは催眠術をかけられた状態も変性意識です。
http://seishinkougaku.com/kanemochininaruhouhou-gyousyubetu/kanemochi-benkyou/henseiishikijyoutai02.html
瞑想とは何か?
瞑想をすることで、変性意識状態になることができます。この原理を応用したのが催眠術です。催眠術師は、催眠をかける人を変性意識状態にすることで暗示をかけます。
https://laboratory.brainhuck.info/category1/
アスリートが実践する精神と肉体を連動させる方法 2015.02.17
ポジティブな独り言、目標宣言、視覚化、瞑想、催眠、NLPの実践が、パフォーマンスを上げるのにどのように役立つかについて論じていきたいと思います。
世界最強のアスリートたちが、どのように使ってトップに上りつめたかを見ていきましょう。
https://www.lifehacker.jp/2015/02/150217connect_mental_and_physicalself.html
催眠状態の「脳」で起きていること 2016.08.17
催眠状態に陥っているヒトの脳内は、いったいどうなっているのか? 何らかの変化が脳内で起きているのだろうか?
その興味深い実相が、米スタンフォード大学医学部のDavid Spiegel氏らによるMRI検査の研究報告で明らかにされた。
催眠は、暗示に左右されやすい変性意識状態の一種。催眠時に3つの明瞭な脳内変化が認められた。
変化1:脳を司る主要ネットワークの一部である背側前帯状皮質の活動が低下
―この領域は物事を比較する機能を有し、心配するに値するかどうかを判断する際に働くといわれている
変化2:脳の最も進化した部位であり、集中力の源泉である背外側前頭前野と身体状況の把握を司る島皮質のつながりが増大
―催眠状態下では、その人の心拍数や血圧を変えることも可能とのことだ
変化3:一方、背外側前頭前野と創造性に富む初期モードネットワークのつながりは減少
――このDMNはぼんやりしたり、自分のことを考える際に活性化する領域
http://healthpress.jp/2016/08/51-2_2.html 完全な無我なら、スポーツなどでパフォーマンス上げる必要もないだろうが。
リミッター外しは延長線上に無我があって、弱めの無我、瞑想では。
身体能力の限界は脳が決める!?思い込みを捨てることでリミッターを外し、もっと身体能力をアップさせよう
http://www.logophilia.com/sport/limiter/
柔軟な発想力を手に入れろ!頭のネジを一瞬で外す5つの方法 2017.02.08
http://careersupli.jp/career/neji/
脳リミットのはずし方 | 茂木健一郎 | Amazon 2018/3/14
「自分にはムリ」「どうせムダ」「普通は」など、自らが脳に作った限界を解除し、脳の力を最大化するための、AI時代の脳の活かし方
自分の限界は、自分がつくり出した幻想だと知ること。
自分という枠から飛び出す勇気を持つこと。失敗を恐れずに、変化を心の底から楽しむこと。
さあ、脳リミットをはずして、“脳力”を最大化しましょう!
https://www.amazon.co.jp/dp/4309248535
なぜ我々はリミッターを外すことができないのか?〜それは脳に原因があった
2016.09.16
よく「我々人間は30%の力しか使えない」と言いますが、なぜ100%の力を使えないのでしょうか?脳と体の関係からその理由を解説した論文をご紹介します。
なぜいつも「火事場の馬鹿力」がだせない?
脳を守るために肉体活動に制限?
なぜ力を出し切れないかという理由は数多くあるのですが、その一つに脳の生理学的特徴が関係しているようです。
脳は大きさでは体重の約2%に過ぎないのですが、そのエネルギー消費量は全消費エネルギーの約20%になるそうです。
しかもこの脳というのはエネルギー不足に非常に弱く、ほんの数分間酸素によるエネルギー供給が止められただけで多くの組織が不可逆的に損傷してしまうという特徴があります。
そのためヒトの生体は、この脳を守るため、脳に十分なエネルギーを与えるために、肉体の活動に制限をかけているそうです。
生体メカニズムが肉体の活動に制限をかけてまで守ろうとする脳。我々は体だけでなく脳の健康ももっと意識すべきかもしれません。
http://jeb.biologists.org/content/211/11/1792 俺も催眠は興味あって、催眠と瞑想は似た部分あるなとは思ってるけど、同じだとは思わない。
瞑想が目指してるのは催眠と違って、意識によってコントロールされる世界ではない。
そういったものをすべて手放したところが瞑想。 目標はちがうだろうが。
実際にワザを披露する前(テレビなどのパフォーマンスとして)の、
予備催眠や催眠深化をしてるだけの状態は瞑想状態と近いのかと。深さに差はあるが。催眠にも瞑想にも。
催眠深化法を行うタイミングと催眠誘導のセオリー
https://ameblo.jp/konzentherapy/entry-12290760339.html そこでいうなら近いのは「集中」という部分だけでは。 催眠によって、特定の場で何か特定のことがらが上手く行ったとして、それが根本の苦の解消にはならないというのが瞑想という立場の考え方。 イチローで思い出したけど、肩の力を抜きたい時に必死に肩の力を抜こうとしても抜けないけど、膝をゆるめれば肩の力も抜けると語っているのを見たことがあって、
刻一刻と変化していく現在の自分の体の状態を正確に捉えらることが出来てるのだから、イチローもマインドフルネスに近い状態で生きているんだなあと思ったことがあった。 知識ばかりで物事を理解しようとする典型的な無明。
瞑想が催眠と同じかどうかなんて自分でやって確かめたらいい。 瞑想は思考じゃないよ。
思考で分かることなら、論理哲学でもやればいい。 論理哲学は思考をするが、
瞑想における思考は、気づきの対象であって、主ではない。
瞑想でやることは、あくまでも気づき(正念)。 そんなことしてどうなるのか、と思うかも知れないが、
気づきの力を育成していくと、例えば、日常生活のなかで
色んな状況におかれた時に、自分がどう思考するべきか(意業)、
どう反応すべきか(口業、身業)、それを選ぶ選択の自由が得られるようになる(如理作意)。 平たく言い直せば、自己制御能力が高まる。
車の運転にたとえるなら、
身体に宿る自我を操作している心(意識)を
冷静で優秀なドライバーに育てていくことができる。
頭もよくなる
性格もよくなる(そうしたいと望んで、その方向に努力すれば) 最終的には、人智を超えた悟りの智慧と解脱に達する。
(仏法に素直に忠実に従い、そうしたいと望んで、その方向に努力すれば) どう思考するべきかは、八正道の正見、正思惟に対応する。三学では慧学にあたる。
どう行動するべきかは、八正道の正語、正業、正命に対応する。三学では戒学にあたる。
どのように瞑想するかは、八正道の正精進、正念、正定に対応する。三学における定学にあたる。 日常生活においては、正しいことを、適切な方法で行う。
そこに八正道のすべての項目、あるいは三学のすべての項目がすでに含まれている。 まあそんなに興奮するな
それくらいのことこのスレにいる人間なら知ってるから 気づきの対象として「思考」と呼ばれているものは、思考ではなく、浮かんでは消える思いというか妄想というか、そういうものであって
論理哲学?でいうところの「思考」とは別物なのでは 思考に飲み込まれる>哲学
思考に気づいて放棄する>瞑想
思考を強制・上書きする>催眠・洗脳 想(sanna)と見(ditthi)の区別は有用。
瞑想中に出てくる思考は想。
思い込み、固定観念は見。 お釈迦様はスジャータの乳粥の差し入れを食したあと、菩提樹の木の下で坐禅を組んで瞑想し、
「血が枯れ果て、肉がただれ、骨が腐っても、悟りを開くまではこの場所を絶対に立たないであろう」という強い決意をもって坐禅を続け、
一週間後の明けの明星が上がる時に悟りを開いたけど、その悟りとは死は生によって起こり、生は有によって起こり、有は取によって起こり、、、
という十二支縁起だったと聞いたことがある。
このどうして死ぬのか、それは生まれるからだ、どうして生まれるのか、それは存在(有)があるからだ、と考察していったのは思考ではないの? >>815
うんうん 至極真っ当な分析なんですが 私の小さな体験を通してもそれは違うだろうな と容易に想像できます どちらかというと一瞬にして根源となる理解が起こった
ご本人はこの時点で分析も理屈での理解ももう必要無かったんだろうと思います が それをまだ理屈で考えてしまう人々に教える時に 理屈が必要になるんです
最初期は単純な縁起で12も無かったと思いますが それでも これがあればかれがある のように理屈が必要になる 普通の人でも理解できるんですが 小さな悟りでさえ 得た人にとっては全く理解の仕方は異なります
文章でカレーの味を理解するのと 食べて理解する違い 衝撃度的にはこれ以上の違いがあります
ですから考察は自分以外の人のために行う作業だと思いますよ 本来はいらない作業 自分に起きたこと、状態などを後から考察するのは大事だとマハーシの本にも書いてあったと思うけどね
考察しないで最後までいける人はそれでいいけど、
思考によって思考の必要ない部分をきちんと知り日常と修行に活かしていくのは大切だと思うけど
禅定や思考が生じない状態などはもちろんあるけど、それとそれを考察しないってのは話が別でしょう
きちんと考察しないせいで以前入れた状態になかなか入れないなんて話もあるし
思考(雑念や必要ない思考)が生じなくてもよくなるために正しく思考(考察や熟考)を使っていくのは仏教全般にあることだと思うけど 哲学って思考に飲み込まれてる状態かなあ。
自発的に考えてるのは、飲み込まれてるのとは別なような。
哲学じゃなくて例えば数学でもいいけど。
頭に勝手に浮かんでくるイメージにとらわれてしまうのと、
何か問題があってそれについて思考することはごっちゃにしない方がいいような。
そこを一緒にして、すべて放棄したら動物になってしまう。 マインドフルネス瞑想は価値判断しない、
っていうのが大前提になってると思うんですが
そこらへんとのかねあいはどうなんですかね トリガーがあって、そのトリガーに執着(飲み込まれ)て分からないことを理解しようとする 価値判断しないというのは体験することに対して、良い悪いあるいは好き嫌いという自動的に起こる判断をやめようということでしょう。
何か問題があった時に、それをどう対処すべきか考えるのとは違うんでは。 >>815
観察による洞察。
例えば、天文学者が、天体の並びや運行を知るのは、
観察によるのであって、思考によるのではない。
体験的な理解。
言語は思考を介するため、言語的説明による理解は
概念的にならざるを得ない。
地図と現場の関係でいえば、言語説明は地図であり、
地図の理解は思考であり、現場を見るのが観察。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています