マインドフルネス瞑想 Part9
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
前スレ
マインドフルネス瞑想 Part8
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1519401863/
メンタルヘルス板
【瞑想】マインドフルネス 6【気づき】 http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1508008965/ >>685
誰それ?
教えて
私の先生、全く落ち着き無いです。 日本曹洞宗の開祖である道元禅師は、「座禅をする時は心を左の掌に置くべし」と言いました。
これは、道元禅師が中国で師事した如浄禅師(宋朝時代の代表的禅僧)からの教えだといいます。
これも頭を空っぽにするには、意識を頭から出して、掌の上に置くようにしなさいということです。
(心がスーッとなるブッダの呼吸法 高田明和) まず悟りと宗教 哲学は全く関係がないと思って下さい
ある日普通の主婦 サラリーマンがそれらのバックボーン無しにそれに至ることも当然あります
また仏教の専売特許でもありません 他宗教の聖典でも目覚めに関しての記述はたくさんあります
また悟った後に本を書いて伝える人もいれば 瞑想教室を始める人もいるでしょう 何も生活が変わらない人 同じ仕事が続けられなくなってリタイヤ 転職する人もいるでしょう
共通するのは自分を含めて世界のことに興味が無くなること それと同時に楽になることです
他の人にも楽になって欲しいというところだけは何故か残りますが 中には思わない人もいたかもしれません
宗教は予備校 方法論なんです 悟っていない人にだけ役に立つサークルのようなものです 誰も質問してないことを突然解説始める人の頭の中ってどうなっちゃってるんだ?
普通の日常会話でもそんな感じなのかね? まぁまぁ、良いではないですか。 それぞれの瞑想への考え方の一端が分かるから。 慈悲の瞑想の功徳に、神々に愛されること、神々に守られること
というのがあるそうですが、この神々(天人)というのは、天部のこと?
テーラワーダでも神々が人間を守るというような思想があるの? マインドフルネス瞑想は治療を目的とした瞑想で
宗教などのオカルトとは切り離した瞑想だけど
宗教板で、マインドフルネス瞑想を語る目的は何? 元々はメンタルヘルス板にあったスレで
ここは論文が大好きなお利口さんが宗教を語る人を排除する為に立てたスレじゃないの?
結果的にはマインドフルネスを語る上でルーツの仏教に触れざるを得ないから
メンヘル板のスレは過疎って消滅
ここが生き残ったという流れでは? >>683
> 仏教学者の間には仏教がはじまったのはどの瞬間か(つまるところ悟りとは何か)という定番のネタがあって、
もうこの時点で悟りと仏教を一緒にしてるがな。
頭悪いの? みんなこのスレくらい仲良くやろうよ
ただでさえ苦しみ多い世の中に、さらに苦しみを増やすことはないだろ っていうか瞑想、座禅を数ヶ月続けてたら肩甲骨の間がどんどん痛くなってきてるし腰痛も酷くなってきた。
一応背筋は伸ばしてしかも脱力してやってるつもりなのだが… 藤田一照さんの禅のやり方はアレクサンダーテクニークや野口体操等のボディワークの経験も活かされているらしいから、そういう人には特に良いんじゃないかな >>698
座禅を一日何時間もやってるの?
座禅じゃなくて、ほかの生活習慣も疑ったほうがいいような気がする あるいは、生活習慣とは関係ない加齢に伴う疾病とか、
加齢等にも関係ない疾病とかね
ともかく、自分の身に起きてることを、ただちになんでもかんでも
瞑想とか座禅に結びつけるのはいかがなものかと思うんだ 坐禅もマインドフルネスも自律訓練法もみな『瞑想』の一種だね。 禅寺での7日間の「接心」に行ってきた。 特段の心境の変化は無かったが
非日常の時間の中で、それなりに楽しい経験だった。 >>702
その定義は通用する範囲はあまり広くないかも ヨガにも「瞑想」あるやんか。 呼称は違ってもやることはオナシ。 南無阿弥陀仏と唱えて阿弥陀仏と合一しその時に自分の煩悩も苦しみも悦びをも含めて全てのエゴを阿弥陀仏に明け渡します
それをバクティヨガと言います 他人が何言うかで自分がやること変えるのか
人生大変そうだな… 悟りは身心脱落、である。
身心脱落、した主体は、坐禅をするか。否、それは座禅バカである。
その主体は、瞑想、ヨガをやるか。否、それはバカのやることである。 自分は恐れを克服するために瞑想してるけど、心を観察してると、物事そのものを恐れるのではなく、「恐れている状態」になることを恐れていることに気づいた。
結局恐れとは、外部の環境よりむしろ、心が映し出すものを恐れ、その心が映し出すものと自分を同一視することから生じているのだなと理解できた。
このスレでよく瞑想してると怖いものがなくなるという人がいるけど、なくなるというより、もともと実在しないものを恐れていたからなくなったように感じるのではないか。
そんなことを瞑想しながら考えてました。 >>711
凄いですね 進んでますね
加えて恐れ 恐怖の具体的な現象とは何なのか 体の反応なのか思考の中で完結しているのか観察してみるのも良いかもですね
元々実在していなかった とも言えますし 少しの間 確かに実在したが 自分であえて記憶から引っ張り出して気にし続けようと努力していた とも言えるかもです
何故同一視するのか せずにはおられないのか 自分のことがどんどん解ってきますね〜 悪欲(無為な性行為、無為な物欲食欲など)を認識して浮かぶたびにしない方向に意識を向けるんだが合ってるのかな >>711
それから色々分析したり考えたりするのはもちろん問題ないというか仕方ないというか自然なことなんですが 本当の本当の理由なんていうのは本人はもちろん誰にもわかりませんので深追いしない方が良いかもしれません
本当のことは観ている瞬間にしかない と 1秒でも過ぎてしまったらそれはもう妄想(分析がほぼ100%確実だとしても)だと思っていただく方が良いかと
もうそろそろ いきなり気づきが向こうからやってきそうな段階でしょうかね 頑張って下さいね 自分の存在自体を強く感じつつ観る 精神統一 集中! >>715
ここは宗派によって違いがあると思いますが 私なら 1.欲望を認識した瞬間を観て 間髪入れずに 2.それは悪いことなんだ と浮かぶ思考 感覚をそのまま観ますかね
少なくとも二つが浮かんできていますので 二つ観るようにしてましたよ >>715
無為な性欲、無為な食欲、無為な物欲を悪欲と捉えてるけどあってるの?って話…ジャネーナ
依存症を自制してるんだがそれであってるか?って意味ならあってるというかそれでいいんじゃないか? 【サマーディ(三昧)からモークシャ(解脱)へ】
ハタヨガの聖典『プラディーピカー』は、サマーディ(三昧)についてこう説明する。
それはあたかも塩が水に溶けて一体となるように「アートマン(真我)とマナス(意)とが、合一した状態である、と。
ヨガスートラなどの古典ヨーガが、サーンキヤ哲学による世界観をともなった二元論に依っていたのに対し、ハタ·ヨーガでは、ヴェーダーンタ哲学により近い概念を採用する。
それによれば、この三次元的な世界はアートマンと
いう唯一、真の実在である「我」が仮に描いた幻的な
存在に過ぎず、人がもし、その唯一の真理であるアートマンの実相を覚醒したとき、その個体はアートマンと同一の実在であるブラフマン(宇宙我、神々)と合一するというものである。
そのことを仏教ではブッダの境涯(輪廻からの解脱) と呼び、ヨーガでは、梵我一如(神人合一)と呼ぶのである。
『プラディーピカー』はさらにこう続ける。
個我(ジーヴァ·アートマン)と最高我(パラマ·アートマン)との二つが均一となり、合一し、すべての観念が消え去った状態をサマーディと呼ぶ、と。
この場合の最高我とは、もちろんブラフマンのことでもある。
こうした仏教の如来蔵思想にも通じる個々人の真の我という概念が、宇宙の絶対的な意識と合一するという感覚は、ウパニシャッド哲学を背景とするインドにおいて、古くから存在した考え方であった。
実は、このような明確な解脱の感覚は古典ヨーガ(制御のヨーガ)には存在してない。
これらの普遍性をもった解脱の概念はハタ·ヨーガ
(活性のヨーガ)の登場によって、初めて具体的な方法
論をともなって確立したのである。 観察よりも自在にジャーナに入れる能力の方が現代社会では役立つような気がするな。
まだ軽いジャーナしか入れないけど、ストレス感じる場面でもジャーナ入ると一瞬で幸福感が湧き上がるし。
確かに観察に比べると根っこから取り除いてないから一時しのぎでしかないけど普通の人は薬や酒とかに頼ったりするからそれに比べて遥かに健全。
やり方は簡単で、一呼吸の観察ができるなら数日か数週間でジャーナに入れると思う。
観察瞑想ばかり持ち上げられてて、集中瞑想はなんか軽く見られてる印象だなあ。 >ストレス感じる場面でもジャーナ入ると一瞬で幸福感が湧き上がるし。
そこまで行けば大したもの。自分もそうだが未だその域には達していない。 >>723
それはサマタじゃなくてヴィパッサナーをしてるからじゃないか?
観察はせずに、呼吸以外に生じるものを無視して全ての意識を呼吸に注ぐように瞑想すれば比較的入りやすくなる。
毎日30分ひと呼吸も見逃さない勢いで集中したら、二週間くらいでジャーナに入れるようになった。
自分にはヴィパッサナーで嫌な感情を受け入れる勇気がなかったからそれを消す方に特化したら上手くいったな。 一時の瞑想で何を得てもその後の行為が得たものの現れにならなければ悟りではない >>722
私はサマタ 集中して止めるところから入ったので知っていますよ 観察する瞑想はやるつもりがなかったので仮死状態になるまでやりました これで決着をつけようとして
でもやっぱり仮死状態では足りなかったようで 心のお喋りが極端に恒久的に減るという結果になりましたね
そのお陰か観察の瞑想で次々気づきがやってくるまで2ヶ月もかからなかったように思います 最初から心も観れましたしね
求める力が強ければ今の状態から自然に遷移していくはず
でも幸福感は無かったなー 個人差が大きいんでしょうね うーん... >>726
仮死状態ってどのくらいの期間どんな状態になったんですか? 「仮死状態」ていうのはいささか盛りすぎなんじゃないですかね、失礼ながら >>726
幸福感を感じるコツはあって、日常で感じた微かな幸せ(美味しいものを食べる、風呂に入る等)に意識を集中させるんだ。ジャーナに入れるくらいの集中なら何倍にも幸福感が倍増されるはず。
それを習慣にしてれば、ただジャーナに入るだけで幸福感に満たされるようになる。
>>725
悪いが俺は悟りは目指してない。
ていうか、ここにいる人の多くは悟りより日常を楽に生きるために瞑想してるんじゃないのか?
そういう風に厳格になりすぎて瞑想の敷居を高くするのはどうかと思う。 幸福感は自分が幸福に思えば幸福なんだから自己催眠と同じとわかれば簡単にできるようになるよ
ただ病気や痛みや身体的な不調のときでもできるようになるのがむずかしいだけ
不幸に感じてるとか心に感じてるだけなら自分でそう思ってるだけなんだから幸福に思えば幸福に思える
ただそれだけのこと
それほど集中力がなくても観察で心は単なる心にすぎないとわかればできるようになるよ >>733
幸福感について、同じような事が出来る人がいたんですね >>733
ありがとう そうか そんな単純なことだったんだ....
今更になって最近やっとその辺りのことを見つめ直してたところでした ありがとう
>>729
仮死状態はインパクトあり過ぎたかもしれませんね 一回のサマタ1時間ぐらいで 2週間ぐらいまともに歩けなくなって 2ヶ月ぐらい後遺症が残った感じでしたよ そんなことが期間をあけて2回ぐらいありましたかね ◼︎道元 典座教訓
「宋の天童寺に留学中だった私(道元)はある夏の日、中庭で寺の老典座(食事係)が海草を干しているのを見た。
老人は眉は白く腰は曲がっていたが、炎天下に竹の杖をつき、汗だくになり、苦しそうに働いていた。
私は気の毒に思って近づき、年齢を聞くと老人は『68歳だ』と答えた。
『なぜ、下働きの者にやらせないのですか』
老人は答えた。『他の者とやらは、私自身ではない』
『なぜ、今のような炎天の日中にされるのです』
老人は答えた。『今のほか、いつを待てと言うのか』
私はその場を離れた。そして廊下を歩きながら、典座職の重要さを考えたのであった」
「また私が上陸許可を待って港の船の中にいた時、ある老僧が食材の買入れに港にやってきた。
船室に招いて茶を勧め、話を聞くと
『私は、阿育王寺の典座である。故郷を出て四十年、歳も六十を越えたが、これからまた20キロほど歩いて、食事の用意に寺まで帰らねばならぬ』
『飯の用意など誰かがやるでしょう。何か差し上げますので、ゆっくりしていかれては』
『それは駄目だ。外泊許可を貰っていないし、典座は老人にもできる修行、他人には譲れぬ』
私は聞いた。
『あなたほどのお年なのに、なぜ忙しく働いてばかりいて、坐禅したり先人の教えを学ばないのですか。それでいったい何のいいことがありましょう』
老僧は笑って言った。
『外国からきたあなたは、どうやら何もわかっていないようだ』
私はこれを聞き、大いに驚き、また恥じた。
そして老人は「もう日も暮れた。行かねばならぬ」と立ち上がり、寺へと帰っていった。
私が多少とも修行のことを知るようになったのは、実にこの老典座の恩によるのである」
道元は日本に帰国してより建仁寺に留まったが、建仁寺の典座が食事の用意を軽く考え、職務を適当に行っていることを見、宋との落差を非常に遺憾とした。
そして『典座教訓』を執筆し、典座職の重要性と、その職務要領を詳細に書き残した。 心の中に、例えば過去幸福感を感じたときのイメージを思い浮かべて感情をコントロールしたり、
辛かったときのイメージを思い浮かべてその書き換えをしたり、
っていうのは以前流行ってたNLPがそんな手法・技法を多用してたと思う
NLP以前にそういう心理療法があってNLPはそれを拝借しただけかもしれんけど あいかわらず、NLPでぐぐると
マインドフルネス関連以上に怪しげなサイトもわんさか引っかかってくるなぁ
ご注意ご注意 >>737
臨済宗の食作法は体験したことがないけど、曹洞宗の食作法は接心に何度か
参加しているので体験している。
常住坐臥。全てが修行で食事も修行の一環ということで坊さんも袈裟を付けたまま
食事をとる。 食事の流れも実に素晴らしく「美しい」といえるほど。
寺によって多少の違いはあると思うが淡々と進む食事は体験の
価値アリだと思う。慣れない内は食べたような気がしないと思うかもしれないが
機会があったら是非「禅宗の食事」を体験するといい。 >>741
俺のこと言ってる? 誘導してると思ったら勘違いだよ
よく読め 食事を作るにしても、食事を取るにしても
それらは実は瞑想なんですけど、説明しにくいのですが
全ての動作において気をつけている
というか、心を置く、留める、念ずるとでも言うか
だと理解しています。 まぁ、回峰行を「歩行禅」と言うくらいだから確かにそうなんだが・・・ ていうか、このスレに来てる人間で食べる瞑想なりレーズンエクササイズとか
歩行瞑想知らない人間いないでしょ 日常の中で何事も気づきをもって丁寧にやりなさい、ってなんかお説教にしか聞こえないし、何人が実践できるんだろう。 英語が上達したければ〇〇すればいいよ、っていうのは説教じゃないし
英語が上達したい人のなかでそういう方法やりたい人だけやればいいんじゃないですかね
マインドフルネスとは限られた場で実践するものではなく、
こういう方法もありますよ、っていうのは説教じゃないし、
マインドフルネス瞑想をやりたい人、そういう実践をしたい人・やりたい人がやれば
やればいいんじゃないですかね 長年引き込もってるがマインドフルネス瞑想?して2日で謎の覚醒が起こったことがある
ベットで横になってたらいきなり世界が氷ついた感じで自分が死んだ感じがして、ぼんやりツベで動画探してたらマインドフルネス瞑想ってのを見つけてやってみた
初日は真面目にやったが、2日目はストーブにあたりながら猫背でやった
んで背中が丸まって口もポカーンと開けてもう死んでもええわって気持ちで座ってたら息してなくて気づいたら頭のなかがスッカラカンになってた
んで見えるものぜんぶに感謝の念が湧いてきて今までの世界と違いすぎて最初はガクガクビビってたが、とにかく意欲や興味が半端なく湧いてきてそっこーで10年ぶりにバイトの面接いってたわ
あんだけ社会不安でビビってたおっさんなのに余裕で年甲斐もなく若い連中に混じって働いてた
まあバイト辞めてまた引きこもってるがねw ええ話やなーおもいながら読んでたら
辞めたんかいw ほんとかどうかは別にして引きこもりみたいに自分の時間が持てるのは
過去生の修行から今生でも修行できる時間が与えられてるなんていう人もいるし
せっかく時間があるんだから瞑想や修行してみるのはいいことだと思う あるいは引きこもりにとっては就活が最高の修行なのではないだろうか? >>749
なんかごめんw
あれ以来瞑想はしてるが、自分の体験が自我の崩壊だったとするとやっぱ我が無くなるには自分に心底嫌気がさしてることがキーポイントなのかもしらん >>750
一応まじだ
つかかなり控えめに書いたつもりだ
当時書いたら魔境だなんだとバカにされて終わったw >>751
何社も落ちまくって心底辟易したらあるいは
おっと、なんかはしゃいで長レスしてすません
寝ます 鼻の頭に意識を集中するのはどうでしょうか?
また、URLなんかを知ってる人は教えてもらえると凄く助かります そんなんただの躁鬱だろ
瞑想はやったらあかん病気もあるから気をつけなよ >>747
いや、そういう意味の説教じゃなくてな。
日常の生活の中の行動を丁寧にやりましょうって、マナーとか道徳的な目的以上に何があるの?
それが瞑想であるなら、なんらかの効果があるんでしょう?
3ヶ月くらい気づきを持って物事を丁寧にやってきたつもりだけど、精神面は変わった実感ないんだよ。 どんなことでも丁寧に3か月も続けたら何らかの精神的変化はあるだろうし、
何も変化ないっていうなら期待しすぎで自分が見えなくなってるんじゃないの?
まあそれは一般論として瞑想で変化がないならやり方がわるいか真剣さが足りないかじゃないのかな
それにどれくらい真剣にやったのかはわからないけど結論出すのに3か月は少ないかと
本当に真剣にやれば一か月でも変化はあるかもしれないし適当にやってると10年経っても何も変わらないかも 座禅中に妄想に耽ってるからだろ
思考以外に足場を作るのが目的なのに思考に浸かってたら意味がないぜ >>757
> 日常の生活の中の行動を丁寧にやりましょうって、マナーとか道徳的な目的以上に何があるの?
> それが瞑想であるなら、なんらかの効果があるんでしょう?
それって、そもそものマインドフルネスの理念なり目的なりそういったものがわかってないんじゃないの?
呼吸瞑想も歩く瞑想も食べる瞑想もそこらへんは一緒でしょ
じゃあ、呼吸瞑想もうまくいってません、なので呼吸瞑想もマナーでしょ、道徳でしょ、ってなる?なんないよね
マインドフルネスの理念とか目的とかってなんだよって聞かないでね。標準的なテキストに載ってることを羅列するだけになるから 宗教的な立場からは、瞑想の「目的」って言葉を使うことが正しいのかよくわからんけどね >>757
ここの趣旨から説明すると 丁寧に ではなく 自分を観察しなさいということになります 観察しようとすると 結果的に動作 思考がのろまになって 一つ一つ丁寧に行う傾向に確かになります
最初は大雑把に観て段々と虫眼鏡 顕微鏡 電子顕微鏡 というふうに微細に観察を進めていきます 観察して分析して納得する段階から最後は観察だけになっていきます
そんなことで何が変わるんだ 馬鹿らしいと思うのが普通ですが 思考 理屈以外の理解の仕方があることを初めて体験することになるでしょう
目的は辛いことから逃れるため 真実を知るためです 能力を高めるのが目的ならば手っ取り早い方法は他にあります 仕事でミスして落ち込んだ勢いでケンタッキーチキンをマインドフルに腹一杯食べました
ありがとう 緊張を消そうとする→現在の自分の否定→マインドフルネスではない
緊張を自覚する→今を生きている→マインドフルネス 自分の場合、完全にリラックスしているより、程よい緊張感が有ったほうが良いと思うが・・ しかし過剰に緊張しやすい性で大勢の前でスピーチできないとか面接で問い詰められたりするとパニクって冷静な応答ができないとか
そういうのは瞑想で克服できるのかというとかなり厳しいのではないかと思う
瞑想で不動心が生まれるというけど自己流だからかその不動心がなかなか芽生えないねw >>771
やっぱ禅寺とかにいって指導してもらうべきか
http://www.rinnou.net/cont_02/zen_info.html
でも参禅できる寺は俺の家からは遠いんだよな
田舎の自営業の朝7時半から店を開ける俺には夜しかまともに時間が取れないのだが夜に座禅の会をしている寺はうちの県にはない
隣県にもない
ヨガスクールか… 坐禅会は黄檗宗だけにあらず。 禅宗は他にも曹洞宗や臨済宗もある。
特に坐禅会をやってなくても、毎朝とか毎夕坐る住職なら大抵受け入れてくれる。
近所の禅宗の寺に当たって見るといい。
もしその住職が余り坐らない人でも、他の寺を紹介してくれるかもしれない。
但し、禅宗とは一口に言っても宗派によって違いがある。よって其の宗派のやり方が
自分に合う合わないもあるかもしれない。
宗派による違いぐらいは事前に良く調べておいたほうがいい。
また、お手軽なのは、youtube で「坐禅の仕方」で入力すればイロイロ出てくるから
基本くらいは学べる。 ツベが何でも教えてくれる便利な時代だわw
因みに>>772 氏は何県住まい? >>773
ありがとございます
宮城県住まいで菩提寺は曹洞宗ですが住職は座禅の指導をしているなど聞いたことがないし
ちょっと難しいところがある住職なので指導されるのも難しそう
YouTubeでは雲堂の動画を見てそれから雲堂のアプリを使って座禅している
たまにマインドフルネスのアプリも使う
一般的にはサマタ瞑想で精神統一してからヴィパッサナーなんだけど
自分の場合はアナパナというか呼吸の観察・実況をしている内に段々と呼吸が落ち着いてくるからそれからサマタというか気持ちの良さに集中できる呼吸をしているから順番が逆かなとは思っているw
アナパナの前には禅の欠気一息で邪気を出す暗示をかけたりもしているからやはり自分の瞑想は色々なもののフュージョンで自己流だw >>774
宮城辺りは「曹洞宗」のお寺が多いと思います。 菩提寺の住職が苦手なら他の曹洞宗の
住職に相談して見ては如何でしょう。
自営業だそうですから、来店のお客さんに他の曹洞宗寺院の檀家さんもお出でかと思います。
気軽に話のできる住所ということであれば、その住職に相談してみてはいかがでしょうか。 追記
『宮城県での坐禅会』で検索したら、曹洞宗の坐禅会が随分ヒットしましたが・・ >>776
お陰様で我が家から近い、かつ夜に座禅会しているお寺が見つかりました!
有益な情報ありがとうございましたm(__)m https://www.youtube.com/watch?v=v09nboZMRIk
タイ仏教瞑想法
これどうなんだろう
タンマガーイ寺院はスキャンダルや批判もあるが、この人の瞑想は落ち着くし、
ティクナットハンの瞑想も「体を楽〜に」の繰り返しだからよく似てる
白隠のなんその法もだけど、サマタ瞑想のリラックスもいいもんだと思うな 禅宗が大嫌い
禅宗に対する「怒り」で自分自身を傷つけています
って言えば? 坐禅をしてもなんにもならん
という言葉の意味を勘違いしている例 カバットジンのマインドフルネスストレス低減法でさえ
「何かを得ようと期待するのではなく、瞑想すること自体を目的として励むのが最良の方法」
と言っているではないか。 ティク・ナット・ハンや仏教3.0の藤田一照は禅宗でございます ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています