マインドフルネス瞑想 Part9
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
前スレ
マインドフルネス瞑想 Part8
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1519401863/
メンタルヘルス板
【瞑想】マインドフルネス 6【気づき】 http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1508008965/ 想念はどこから湧いてくるという話だよな・・^^
想念に従っている人ばかりだからね^^
いわゆる・・想念のいいなり・・これでいいのか・・^^
と言う話なんだよな・・^^ ・・となると・・・^^
想念を客観的に見る目が必要になってくる・・^^
想念は絶えず湧いてくるからね・・^^ 想念があって行動する・・・^^
ほとんどの人達はこれ^^
では・・想念とは何か?
これを考える人は少ない^^ う〜〜ん^^
解答言ってるな・・・^^
すんばらしい^^
解答知ってたけど^^
・・何か問題でも・・^^ この問題抜きに「マインドフルネス瞑想だぁああああああああああ」
何ていっても意味がない感がする^^ 壁に向かってブツブツ独り言いってる人がいて怖いんです うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ いやね・・^^
簡単に言うと・・・^^
あなたのまわりにおしゃべりな人がいたとする^^
なぜおしゃべりなのか・・・^^
想念がつぎからつぎに湧き出てるんだよ・・^^
なぜ想念がつぎからつぎに湧き出てるくるのか・・・^^
自我に執着してるからなんだな・・・^^
自我に執着しなければ・・寂静でいられる^^ ここで重要なのは・・^^
智慧と想念は別物なんだな・・^^
想念ではなく智慧でみる^^
智慧でみるということは・・^^
真理を見るということであり・・^^
これが重要なんだな・・・^^ マハリシ: サマーディだけが真理を示すことができる。
想いは、実在にヴェールを投げかける。
それゆえに、サマーディ以外の状態にあっては、実在が実現されることはない。
サマーディにあっては「私は在る」という感覚だけがあり、想いはない。
「私は在る」という経験は、静かであることである。
うん?
「いまここ」か^^ 言語は人の想いを他の人に伝達するための媒体にすぎない。
それは想念が現れたあとにのみ呼び起こされる。
「私」という想念が立ち現れたあとに、他の想念は続く。
それゆえ、「私」という想念が全ての会話の根源と言えよう。
>>488
やな・・・^^
おいらのまねや^^ どうも名のある人達はすぐおいらのまねをする・・^^
う〜〜ん^^
あかん^^ 結局これも三法印に行き着くんだよな・・^^
「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」
真我はどうだか知らんが・・^^ 「私は在る」というのは言葉の問題でもあるけど「私」という想念が生じてることじゃないよ
「私」という想念は「私」というのを対象としてる
そうではなく「私は在る」というのは「在る」というのが近い
寝て起きたとき最初に起こる存在してるという感覚
「私」という個人を意識する前、「私」というものを対象とする前に存在してる感覚だよ
そして「私」を対象にして認識されるものは「私」ではない
「私」はいついかなるときも主体ゆえに対象として認識されるはずがないし認識の対象とされたときそれは「私」ではない
対象となる「私」は「私は在る」から二次的に生じる観念としての「私」
マハルシやマハラジを丁寧に読めば皆が「私」というものを勘違いしてることがわかる 唯識的に言えば・・^^
第八阿頼耶識・・貯蔵意識
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界)
自我意識は無意識にあるから想念には出てこないね^^ 第七末那識・・・自我意識
我法二執の根本である。八識はみな思量の作用があるが、末那識は特に恒(間断なく常に作用する)と
審(明瞭に思惟する)との二義を兼ね有して他の七識に勝っているから末那(意)という。
思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、審(つまび)らかに根源的な心である阿頼耶識を
対象として、それを自分であると考えて執着し続ける。この深層的な自我心を滅することによって、
我々は初めて真の無我行を実践することができる。
第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩、作意・触・受・想・思の五遍行別境の慧、
大随惑の八(不信・懈怠・放逸・惛沈・掉拳・失念・不正知・散乱)であるとされる。
一説では、この識を因縁識といい、過去の事象が潜在する識といい、悪念の集結潜在力(障碍作用)の依所といわれる。 唯識的に言えばとかじゃなく
自分で自我意識がどの時点でどのように出るか、自我意識とは何なのかを自分自身を使って調べ熟考したほうがいいと思うけど 深層心理には、第七識の末那識と第八識の阿頼耶識が
あります。
末那識とは、いつも自分のことばかり考える心で、
自我執着心のことです。この自我意識は 我ち つまり自己に対する愚かさと
我見 つまり自己へのとらわれと、我慢 つまり自己へのおごりと、我愛
つまり自己に対する愛着という4つの煩悩として働き、
オレがオレがという心が出てくるのです。
阿頼耶識とは、記憶装置のようなもので、良いこと、悪いこと、あらゆる体験や
学んだことなど、何でも記憶し身についていて、それらのことが自然に、
自己の上に生ずることをさします。 簡単に言えば・・・
第七末那識・・・自我意識 が・・
つまり・・
我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩が無意識下にあると・・
それが想念として顕在意識に現れると・・^^
こういうことや^^
う〜〜ん^^
やはり・・下手や^^ その第七末那識・・・自我意識が第八阿頼耶識・・貯蔵意識 を見て
自分だと錯覚してると・・^^
こうなる^^ 「根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける」
これやな・・・^^ つまり・・・^^
自我など探してもどこにもおらん^^
ということになる^^ 「オレがオレがという心が出てくるのです。 」
うわっ^^
おまいらやんけ^^
だから絶え間ない想念が湧いてくるんや^^ 「オレがオレがという心が出てくるのです。 」
おいらはそういうことないので^^
想念がそんなにない^^
寂静しとるんや^^ こうなると・・・^^
会話するのも良し悪しだな・・・^^ 想念が出なけりゃいいなら寝てればいいだけで
一生寝てても悟りもしないだろうし自分が何であるかもわからないでしょ
自分や「私」という問題は想念がどうだかの問題ではなく(想念はあくまで修行の段階的な問題で)、
いかに対象とならない自分をあらわにできるかだと思うけど
ここはマイオンドフルネスのスレだからそれにあわせて言えば対象をただそのままの知覚にとどめ続けることによって
だんだんと対象でないもの、主体の正体があらわれてくる 主体の正体
虚妄分別とは・・^^
たとえば,《ウパニシャッド》文献に端を発するベーダーンタ学派,
サーンキヤ学派の考えによれば,われわれが経験するこの世界は,
われわれが自己の本体(アートマン)が何であるかを知らないこと(無知,無明)が
きっかけとなって展開したものであり,
つまりわれわれの日常的認識(分別,迷妄)が作り出したものであるとする。
これは仏教でも基本的には同様であり,《華厳経》の〈三界唯心〉,
瑜伽行派の〈唯識無境〉〈識の転変〉なども,
日常生活における主客対立の見方である〈虚妄分別〉の心作用が
この世界を形成すると説いている。世界はいわば〈観念〉の所産であることになる。… ところが、仏教では、この分別がくせ者であり、仏道の障りとされる。
「虚妄分別」(邪まな世界を作り出す分別)という言い方に代表されるように、
この分別によって、私たちに苦悩が生まれるというのが、仏教の考え方である
。仏教にとって分別とは、認識主体と認識対象を分け、認識主体を「我れ」として固執(我執)し
、認識対象を「我がもの」として固執(我所執)することである。
この分別によって、自己中心的な固執が生まれ、それによって苦悩が生まれる。
仏教では「煩悩は分別によって生まれ、分別は戯論(言葉によって固執の世界を虚構する
こと)によって生まれる」と説かれる
。私たちの世界は言葉によって虚構され、その虚構によって自己と自己の所有に
対する固執が生じ、勝れた他と比較して劣等感を抱いたり、劣った他と比較して
優越感を抱いたりする。その分別によって煩悩(苦悩)が生まれる。
人間は善悪・正邪の分別なしでは生きられないが、その分別によって人間は苦悩する
。そうした分別の本質が明らかになるとき、分別は分別のままにそれに固執しない智慧の
世界が開かれる、それを「無分別智(分別を超えた智慧)」という。
それは分別のない世界ではなく、分別の本質を知見し、分別が障りとならなくなる世界である。 うん?
その主体の正体が・・^^
日常生活における主客対立の見方である〈虚妄分別〉の心作用が
この世界を形成すると説いている
とこうなる^^
なにか問題でも?
自分で書くと何時間もかかるんだよな^^ う〜〜ん^^
マイオンドフルネスを超えたかもしれん^^ ・・・ではこのスレから去るか・・^^
ではでは^^ 私がこの肉体と言う物質であったならどうでしょう。
肉体を構成する物質は、約3年に1回入れ替わります。では、3年前の私は、今の私ではないのでしょうか。また、3年後の私は今の私ではないのでしょうか。
私の肉体を構成する物質は、少しずつ入れ替わって行きます。では、将来の何時の時点で、今の私ではなくなるのでしょうか。私とは、今の肉体を構成している物質の内のどれなのでしょうか。 うん?
>>522 さん・・・^^
「雑念だらけ」って言われてるよ^^ マインドフルネス瞑想を簡単に言えば・・
対向車線の車が想念だとすると・・^^
そっちに気が取られ今運転していることを忘れ・・
前を注意してみていない^^
つまり・・^^
対向車線の車・・想念は受け流すだけでいいんだよな・・^^
前をみて注意しないと^^
前を見て注意して運転しろ・・ということだな・・^^
つまり・・「今ここ」・・・^^ 意識的にしろ無意識的にしろネットに書き込んでしまう人なんだろうな おまいらは・・・^^
対向車線の車に注意をとられ・・^^
下手すれば・・それに突っ込んでいる状態^^
「ちゃんと前を見て運転しろ」・・こうなる^^ >>528
>>522 さんのこと悪く言うなよ・・・^^ でだ^^
車の運転をうまくするにはどうしたらいいのか・・^^
まずは車の構造を調べる^^
時にはメンテナンスをする^^
運転中の集中力を高める・・・ まぁ・・・^^
実際乗ってみなければわからないんだけれどもね^^ そうなると・・・^^
はじめは教官が必要なのか^^
うむ〜〜^^ おまいら叩かれる^^
「なんでやねん^^」
となる^^ かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、長老ラーダ(羅陀)は、世尊のましますところに至り、世尊を拝して、その傍らに座した。
傍らに座した長老ラーダは、世尊に申し上げた。
「大徳よ、無我、無我と仰せられますが、大徳よ、いったい、いかなることを無我というのでありましょうか」
「ラーダよ、色(肉体)は無我である。受(感覚)は無我である。想(表象)は無我である。行(意志)は無我である。識(意識)は無我である。
ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。
厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである。
そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、
<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>
と知ることができるのである」 つまりやな・・^^
五蘊の執着から開放されたら解脱にいたると・・^^
こういうことや・・^^
そこから・・
五蘊皆空かでてきたのかもしれん^^ マインドフルネスを簡潔に
「今ここでの経験に評価や判断を加えることなく
能動的な注意を向けること」と定義している 今ここでの経験に
→ 価値の役割
評価や判断を加えることなく
→ 距離をおくスキル
能動的な注意を向けること
→ 注意のコントロール 簡単に言えば・・^^
「妄想すんな」・・ということか・・^^ おまえらは・・・^^
スルーする技術が未熟だからな・・^^
想念が湧いたらスルーしろと・・^^
簡単や^^ けど・・・^^
これではまだ不十分や・・^^
「なぜ想念が湧くのか?」まで突っ込まんとあかん^^ そこがマインドフルネス瞑想と仏教の違いやな・・^^
仏教では「なぜ想念が湧くのか?」まで教えてくれている^^ 想念が湧いてきてスルーするにも限界がある^^
もとを断たんとあかん^^ そういえば・・・^^
この板で人気のあるスマサなんとか長老の動画がなんかあったな・・^^
探してみるか^^ スマナサーラ長老「悟りを開く瞑想について」
https://www.youtube.com/watch?v=SiqcshhHDJs
これかな・・・^^
自我も幻覚か・・・^^
思考もバイアス・貪・瞋・癡
思考を止める・・^^
だいたい2週間で成功する・・^^
思考を止めたら悟れる^^
簡単でしょ^^
思考止めるには今の瞬間に気付く^^
いいこと言うね・・・^^
見直した^^ 生まれ落ちた瞬間に100%のシステムを兼ね備えている
それに気づくことだ
そのシステムを叩き壊そうとするウィルスが蔓延している
絶対に感染しないように心得るべきだ マインドフルネスA 脳(ココロ)のエクササイズ
https://www.youtube.com/watch?v=yNNPr6gQ0yw
ウィルスというより・・副作用な気がするんだが・・・^^ ^^ を全板でNGワード登録した方がいいよ
どの板でも気分で荒らしてくるから 道元著『正法眼蔵 坐禅儀』には、
「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」
という一文がある。
そのまんまマインドフルネス瞑想やんけ^^
坐禅は、精神統一や瞑想のための手段としての“習禅”ではない。
命と心を開放する安心の教えの門である。
不染汚心(人間的意志が働きだす以前のあるがままの心)で坐る。
悟りの上での修行を信じ、確かめ続けていくということである。
不染汚心で坐るということはどういうことであろうか。
坐禅には、今までの経験・知識・価値判断などの意識や分別を持ち込まない。
いかなる思いが浮かんでも、浮かぶに任せ消えるに任せて一切取り合わない。
期待・疑問・感情などを持ち込まず、心のはたらきを停め「ただひたすら坐る」ことである。 「今までの経験・知識・価値判断などの意識や分別を持ち込まない。 」
この分別を仏教では虚妄とみてるんだよな・・^^
ここ重要^^ 「いかなる思いが浮かんでも、浮かぶに任せ消えるに任せて一切取り合わない。
期待・疑問・感情などを持ち込まず、心のはたらきを停め「ただひたすら坐る」ことである」
つまりや・・・^^
おいらが何を書いてもスルーする能力が大事や^^
おまいらを鍛えるために書き込んでいるといっても過言ではない^^ 不染汚心(人間的意志が働きだす以前のあるがままの心)で坐る。
う〜〜ん^^
道元ちゃんは分っておる^^ >>550
君はアホタレである
そもそも病気もないし当然クスリも必要ない
副作用?
麻薬を取り込まなければよいのだ
生まれ落ちた途端に100%の完璧なのだ
クスリを取り込まなければ副作用もないのだ 道元禅師は「修証不二」を説かれます。
修は修行、証は悟りのことです。その修行と悟りがへだたりがなく一体だということです。
常識的には修行が先で、悟りは後で、修行の結果お悟りがひらけることだと思いますが、
そうなると修行しながら悟りを待ち望むようになりかねません。
禅では、修行と悟りを対立させてその間にいろいろの思慮分別をさしはさむことを
「染汚」(ぜんな)といって、とても嫌います。
修行は汚れのない事が、不染汚の行でなくてならないのです。
修行のときは、求める心を投げ捨て、身も心も修行に打ち込むことが、
そのまま悟りだというのです。
う〜ん^^
色蘊は空寂なりの清浄の句義は是れ菩薩の句義なり。
受想行識蘊は空寂なりの清浄の句義は是れ菩薩の句義なり。
これに近い^^^ 資本主義という麻薬、共産主義という麻薬、
民主主義という麻薬、社会主義という麻薬
優れているという麻薬、劣っているという麻薬
肥えているという麻薬、貧弱という麻薬
全て捨ててしまえばよいのだ 正解を知っているだろう
しかし正解を実行することができない
麻薬に侵されているからだ
自分という幻
それが失われる苦しみ
苦しみから解き放たれる快楽
全て幻
生まれ落ちた途端に100%である
それに気付け 道元禅師 普 勧 坐 禅 儀
さて、坐禅するには、静かなところがよろしい。飲食の量は節度が大切である。
種々の縁(とらわれ)を放って、心ゆるやかにして静かならしめ、万事のいとなみを
休息(とりや)め、善悪是非の分別にかかずらわない。
心がはたらき動くのを停(や)め、一切思量をめぐらすことなく、また仏に成ろうと図ってはならない。
作仏は、迷妄の日常生活の上の坐臥に拘わるものでなく、「坐臥を脱落すべし」である。
巌のように不動のかたちで坐し、箇の不思量底を思量せよ。不思量底で、どう思量なのであろう。
思量はない。超出しきっている。ありとあらゆるものは非思量。人間界の是非、善悪等の思量分別を脱落し、
ただ打坐のみである。
不思量に止(とど)まり居る処のみを任運に、そのまま不思量底であるところ、本来の相としての非思量に在る。
これが、まさに坐禅の要術である。
坐禅は、禅定に習熟することではない。ただ本来おちつくべきところにおちつく、この上ない安楽の法門(おしえ)である。
究めつくしている仏のいのちはたらきそのまま、すなわち、修行即実証(さとり)の相(かたち)である。 「人間界の是非、善悪等の思量分別を脱落し、ただ打坐のみである。 」
マインドフルネス瞑想・・・^^
道元ちゃんのまねしやがった^^ 「箇の不思量底を思量せよ」
動画が確かあったな・・^^
探すか^^ 「坐禅は習禅にはあらず、. 大安楽の法門なり。不染汚の修証なり」 17/04/09 マインドフルネスとは「習禅」ではなく、「非思量」そのものだった
| 一法庵 : http://www.onedhamma.com/?p=5906
17/03/26 「これまでの何十年の人生がすべて間違っていた」という良き知らせ
| 一法庵 : http://www.onedhamma.com/?p=5878 因○果もうええで
お前おもんないから
これ以上スベリ続けたいんやったら好きにしたらええけども せっかく仏教や瞑想を知ったのにそれでもわざわざ遠回りする人は縁がないんだろうな
まあでもその人の道というか業やカルマなのかね
善友になれない他人は放っといて犀の角のようにただひとり歩むのがよいかな コテをつけて人を見下す人間と仲良くするよりは
犀の角のようにただひとり歩むのがよいだろうね 仏典 聖典に触れるのは多くの場合は害になることが多いような気がするけれど 意味はわからないのに何故か気になる 認識に影響を与える場合も多々あります 自己責任ですね
方法もたくさんあるでしょう 歴史に残っているマスター達は自己を観察する瞑想をしていたか といわれればそうではありません 帰依 明け渡し 完全な絶望の方が多いかも
ただ自己を観察する方法は普通の人である私たちにとっては確実な方法です 強力です それは何故か
雑念 想念をも丸ごと引っくるめて否定せず ただただ観察すれば良いからです 加えて途中途中でやる気の出るイベント サプライズがある
楽になりたい 真実を知りたい そんな人は続けて欲しいですね >>440
10日で得られると書かれているもの(roop-nahm)とは身体や心を観る認識が変わるものです。ちょっと説明しにくいですが、その段階まで行けば自分で認識が変わったとはっきりわかります。たぶん他の流派の名色分離智と同じだと思います。
ティエン師は10日で得られると書かれていますが、それは24時間気づきを保つことができる人です。自分には2年かかりました。
タイで瞑想を学んでもう5年以上ですが、苦滅には至ってません。在家で、仕事が忙しくて24時間気づきを保つほどのガッツが残されてませんからね。
それでもストレスや悩み苦しみは以前の100分の1くらいまで減りましたけどね。
ダンスでもいいですよ。気づきを保つことができるなら、ですが。 そう気づきが全ての入り口だった。
ここからはじまるなんて
書いてあるように気づき続ければよいだけ ドア開けっ放しにして喜んでる変な改行の人、習禅やってる感強い。 瞑想で智慧というのが得られると頭が良くなるの?
智慧と知恵でどう違うの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています