マインドフルネス瞑想 Part9
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
前スレ
マインドフルネス瞑想 Part8
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1519401863/
メンタルヘルス板
【瞑想】マインドフルネス 6【気づき】 http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1508008965/ 人を構成する要素は色(体)と受想行識である・・^^
例えば・・^^
歩いている人を見たら色・受想行識が歩いていると・・^^
人は色・受想行識から離れられない・・
ゆえに苦が生じる・・^^
なぜなら・・色・受想行識が自分であると感じている・・^^
つまり・・色・受想行識が自分であると・・^^
ゆえに我執が生じる・・^^
すると・・思いどうりにならないと苦が生じる・・^^
生きるのが楽になるためには・・^^
色・受想行識への執着をなくせばいい^^
そうすれば・・寂静の境地に到る^^
これが「ここにいる」ことになる^^
う〜〜ん^^
やはり・・自分で書くと文章がへたや・・・^^
最悪・・^^ Heart Sutra / 般若心経
https://www.youtube.com/watch?v=DqsH_VLqUwA
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。
無智亦無得。以無所得故。
菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。
無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知。般若波羅蜜多。
是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。
能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多呪。
即説呪曰。
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。
般若心経 照見五蘊皆空。度一切苦厄。
つまり・・これやな・・・^^ 色・受想行識への執着をなくす・・^^
これはかなり難しい・・・^^
さてっと・・^^
温泉瞑想に行って
色・受想行識への執着をなくしてくるかなっと^^ 唯識的に簡単に言えば・・^^
前五識と阿頼耶識のみでいることができるかだな・・^^ 第八阿頼耶識・・貯蔵意識
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界) つまり・・・^^
「いまここ」とは・・^^
第八阿頼耶識・・貯蔵意識
↓↑
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓↑
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓↑
(外界)
この状態なんだな・・^^ ついでに・・・^^
五蘊皆空とは・・
これらは・・^^
第七末那識・・・自我意識
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識
空性であると・・・^^ う〜〜ん^^
なんでか知らんが連投した^^
すまん^^
ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
うわっ^^
では温泉瞑想へ^^ 1因縁果 ◆d........o 2016/07/23(土) 17:18:36.79ID:IFwNDQWa
石の上で瞑想し半年・・
何が見えてきたのか・・
書き込んでみようと思う
2因縁果 ◆d........o 2016/07/23(土) 17:23:41.49ID:IFwNDQWa
瞑想は止観と観察があると言われている・・
今日の瞑想はそれらを試行してみた・・
止観はなにも考えずに座ること・・
それは既に習得してる
3因縁果 ◆d........o 2016/07/23(土) 17:27:27.99ID:IFwNDQWa
習得してると言っても・・
高温のサウナから
低温の水風呂に頭から浸かり・・
石の上に座れば・・
必然的に止観の状態になる^^
4因縁果 ◆d........o 2016/07/23(土) 17:33:34.42ID:IFwNDQWa
仏教では瞑想を「止」と「観」の二つに大別する。止(奢摩他、サマタ瞑想)とは、
心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。
また観(毘鉢舎那、ヴィパッサナー瞑想)とは、不動の心が智慧のはたらき
となって、事物を真理に即して正しく観察することである。
このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。
止だけでなく観を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある。
はや2年が過ぎたか・・・^^
それなりのことはあったな^^
止観・は、しばしば2つの車輪に例えられ、不離の関係にある。 なんで自分のスレでやらずに出張してくるの?
強大な承認欲求がそうさせるの?
人に捨てろという自我が 食事の直前、なんとなくマインドフルになる
キリスト教の人は、食事の前に祈ったりするけど、あれもこれから食事をすることに自覚的になるあちらなりのマインドフルネスなんだろうな 妄想分別有る故に、我と人との隔てを成し、仏と衆生の隔てを成し、有無を隔てて、
迷悟を分かち、是非善悪の隔て有り。之を小心とは言うなり。
分別・妄想は、‘自分’を仮設(仮説)する故に‘他者’を作り、
自分を凡人と思う故に梵人(仏・ホトケ)との差別化に陥り、
知覚認識に従って有るとか無いとかを主張し、
自分は迷いの状態にあるとか悟りを目指すとかの二極化をひねり出し、
刷り込まれた情報・知識に洗脳されては是非善悪を振りかざしてアタマをフライパンにする。
これが小人[←→大人]の心というものである。
アタマをフライパンにする・・^^ この身は本より法身の体なれども、法身なる事を知らずして、わが身と思えるは
、法身を見かくして、わが身と思い、わが身に迷いて、貪瞋煩悩をつくり、
ふかく悪道にしずむなり。 まず一重のまよいは、この身は、地水火風の四大を、仮にあつめて、つくりたてたるものなり。
身の内の皮肉筋骨のたぐいは土なり。
涙よだれ血などは水なり。
あたたかなるは火なり。
出入の息と、うごきはたらくは風なり。
この地水火風をはなれては、わが身というべきものなし。
ただ今なりとも命おわりて、地水火風もとにかえりぬれば、
ただ白骨となりて、つゆほどもわが身とたのむべきものなし。
かかるあさましき白骨を、わが身と思いて、千生万劫、
このされこうべにつかわれて、地獄の業をのみつくりて、三
途にしずみはつるは、おろかにあさましきことにあらずや。 かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、
わが身と思いて、千万年も、死すまじきように思い、
わが身ぞとかたく執着す。
これ一重の、凡夫のまよいなり。 瞑想なんて掘り下げたところで、何の意味もない
それじゃビジネスにならないから、あれやこれやと勧誘してくる
昼寝でもしてた方がよっぽどストレス解消になるよ あれやこれや以前に
瞑想の勧誘なんてされたことない 前にこのスレで離人症の話があったけど、ネルケ無方さんが初めて座禅をしたときに、頭だけじゃなく呼吸するこの体も自分なんだと初めて発見できたと言ってるのを見つけた。
ここが実感的に理解できるのが座禅であり瞑想であって、それは離人症とは別なんでは。 呼吸しているこの色(肉体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。
無我であるから、これはわが所有ものにあらず、我にあらず、また、わが本体(アートマン)でもない。
そのように正し智慧をもって如実に観察するがよいのである。
比丘たちよ、受(感覚)は無常である。・・・
比丘たちよ、想(表象)は無常である。・・・
比丘たちよ、行(意志)は無常である。・・・
比丘たちよ、識(意識)は無常である。
無常であるから苦である。苦であるから無我である。無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。
そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
そのように、正しき智慧をもって如実に観察するならば、遠い過去をふり返ってああ思いこう思うこともない。
遠い過去をふり返ってああ思いこう思うことがなければ、遠い未来を思いやってああ思いこう思うこともないであろう。
遠い未来を思いやってああ思いこう思うことがなければ、しつこい執著もないであろう。
もはやしつこい執著がなくなれば、その心は、色(肉体)において執するところなく、煩悩を離れて解脱し、
・・・受(感覚)において、・・・想(表象)において、・・・行(意志)において、・・・また識(意識)において執するところなく、煩悩を離れて解脱するであろう。
解脱するがゆえに、もはや動揺することなく、動揺せざるがゆえに充ち足り、充ち足りるがゆえに恐怖せず、
恐怖せざるがゆえに、おのずからまったく涅槃して、
<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。
このうえは、さらに迷いの生を繰返すことはないであろう>と知るのである。 それは煩悩を消したいという自分に焦点の当たった自己中心的(エゴ)な考えだからです。
つまり、煩悩を消したいと思う心の時点ですでにそれが欲(煩悩)だからです。
煩悩で煩悩を消したいなんて汚れた雑巾で床の汚れを一生懸命落とそうとしているのと同じです。
ますます汚れが目立つのは当然です。
結論を言えば先程も述べたように煩悩は絶対に消えて無くなることはありません。
今現在、自分が苦しんでいる原因が煩悩にあるからといってその煩悩を無くそうとして人生の大切な時間を無駄にしてはなりません。
煩悩は人間が人間として生きるためにすべての人に備わっている大切な心の機能、装置なのです。
この機能が無くっなてしまったら人間は生きていけません。 想念はどこから湧いてくるという話だよな・・^^
想念に従っている人ばかりだからね^^
いわゆる・・想念のいいなり・・これでいいのか・・^^
と言う話なんだよな・・^^ ・・となると・・・^^
想念を客観的に見る目が必要になってくる・・^^
想念は絶えず湧いてくるからね・・^^ 想念があって行動する・・・^^
ほとんどの人達はこれ^^
では・・想念とは何か?
これを考える人は少ない^^ う〜〜ん^^
解答言ってるな・・・^^
すんばらしい^^
解答知ってたけど^^
・・何か問題でも・・^^ この問題抜きに「マインドフルネス瞑想だぁああああああああああ」
何ていっても意味がない感がする^^ 壁に向かってブツブツ独り言いってる人がいて怖いんです うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ いやね・・^^
簡単に言うと・・・^^
あなたのまわりにおしゃべりな人がいたとする^^
なぜおしゃべりなのか・・・^^
想念がつぎからつぎに湧き出てるんだよ・・^^
なぜ想念がつぎからつぎに湧き出てるくるのか・・・^^
自我に執着してるからなんだな・・・^^
自我に執着しなければ・・寂静でいられる^^ ここで重要なのは・・^^
智慧と想念は別物なんだな・・^^
想念ではなく智慧でみる^^
智慧でみるということは・・^^
真理を見るということであり・・^^
これが重要なんだな・・・^^ マハリシ: サマーディだけが真理を示すことができる。
想いは、実在にヴェールを投げかける。
それゆえに、サマーディ以外の状態にあっては、実在が実現されることはない。
サマーディにあっては「私は在る」という感覚だけがあり、想いはない。
「私は在る」という経験は、静かであることである。
うん?
「いまここ」か^^ 言語は人の想いを他の人に伝達するための媒体にすぎない。
それは想念が現れたあとにのみ呼び起こされる。
「私」という想念が立ち現れたあとに、他の想念は続く。
それゆえ、「私」という想念が全ての会話の根源と言えよう。
>>488
やな・・・^^
おいらのまねや^^ どうも名のある人達はすぐおいらのまねをする・・^^
う〜〜ん^^
あかん^^ 結局これも三法印に行き着くんだよな・・^^
「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」
真我はどうだか知らんが・・^^ 「私は在る」というのは言葉の問題でもあるけど「私」という想念が生じてることじゃないよ
「私」という想念は「私」というのを対象としてる
そうではなく「私は在る」というのは「在る」というのが近い
寝て起きたとき最初に起こる存在してるという感覚
「私」という個人を意識する前、「私」というものを対象とする前に存在してる感覚だよ
そして「私」を対象にして認識されるものは「私」ではない
「私」はいついかなるときも主体ゆえに対象として認識されるはずがないし認識の対象とされたときそれは「私」ではない
対象となる「私」は「私は在る」から二次的に生じる観念としての「私」
マハルシやマハラジを丁寧に読めば皆が「私」というものを勘違いしてることがわかる 唯識的に言えば・・^^
第八阿頼耶識・・貯蔵意識
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界)
自我意識は無意識にあるから想念には出てこないね^^ 第七末那識・・・自我意識
我法二執の根本である。八識はみな思量の作用があるが、末那識は特に恒(間断なく常に作用する)と
審(明瞭に思惟する)との二義を兼ね有して他の七識に勝っているから末那(意)という。
思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、審(つまび)らかに根源的な心である阿頼耶識を
対象として、それを自分であると考えて執着し続ける。この深層的な自我心を滅することによって、
我々は初めて真の無我行を実践することができる。
第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩、作意・触・受・想・思の五遍行別境の慧、
大随惑の八(不信・懈怠・放逸・惛沈・掉拳・失念・不正知・散乱)であるとされる。
一説では、この識を因縁識といい、過去の事象が潜在する識といい、悪念の集結潜在力(障碍作用)の依所といわれる。 唯識的に言えばとかじゃなく
自分で自我意識がどの時点でどのように出るか、自我意識とは何なのかを自分自身を使って調べ熟考したほうがいいと思うけど 深層心理には、第七識の末那識と第八識の阿頼耶識が
あります。
末那識とは、いつも自分のことばかり考える心で、
自我執着心のことです。この自我意識は 我ち つまり自己に対する愚かさと
我見 つまり自己へのとらわれと、我慢 つまり自己へのおごりと、我愛
つまり自己に対する愛着という4つの煩悩として働き、
オレがオレがという心が出てくるのです。
阿頼耶識とは、記憶装置のようなもので、良いこと、悪いこと、あらゆる体験や
学んだことなど、何でも記憶し身についていて、それらのことが自然に、
自己の上に生ずることをさします。 簡単に言えば・・・
第七末那識・・・自我意識 が・・
つまり・・
我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩が無意識下にあると・・
それが想念として顕在意識に現れると・・^^
こういうことや^^
う〜〜ん^^
やはり・・下手や^^ その第七末那識・・・自我意識が第八阿頼耶識・・貯蔵意識 を見て
自分だと錯覚してると・・^^
こうなる^^ 「根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける」
これやな・・・^^ つまり・・・^^
自我など探してもどこにもおらん^^
ということになる^^ 「オレがオレがという心が出てくるのです。 」
うわっ^^
おまいらやんけ^^
だから絶え間ない想念が湧いてくるんや^^ 「オレがオレがという心が出てくるのです。 」
おいらはそういうことないので^^
想念がそんなにない^^
寂静しとるんや^^ こうなると・・・^^
会話するのも良し悪しだな・・・^^ 想念が出なけりゃいいなら寝てればいいだけで
一生寝てても悟りもしないだろうし自分が何であるかもわからないでしょ
自分や「私」という問題は想念がどうだかの問題ではなく(想念はあくまで修行の段階的な問題で)、
いかに対象とならない自分をあらわにできるかだと思うけど
ここはマイオンドフルネスのスレだからそれにあわせて言えば対象をただそのままの知覚にとどめ続けることによって
だんだんと対象でないもの、主体の正体があらわれてくる 主体の正体
虚妄分別とは・・^^
たとえば,《ウパニシャッド》文献に端を発するベーダーンタ学派,
サーンキヤ学派の考えによれば,われわれが経験するこの世界は,
われわれが自己の本体(アートマン)が何であるかを知らないこと(無知,無明)が
きっかけとなって展開したものであり,
つまりわれわれの日常的認識(分別,迷妄)が作り出したものであるとする。
これは仏教でも基本的には同様であり,《華厳経》の〈三界唯心〉,
瑜伽行派の〈唯識無境〉〈識の転変〉なども,
日常生活における主客対立の見方である〈虚妄分別〉の心作用が
この世界を形成すると説いている。世界はいわば〈観念〉の所産であることになる。… ところが、仏教では、この分別がくせ者であり、仏道の障りとされる。
「虚妄分別」(邪まな世界を作り出す分別)という言い方に代表されるように、
この分別によって、私たちに苦悩が生まれるというのが、仏教の考え方である
。仏教にとって分別とは、認識主体と認識対象を分け、認識主体を「我れ」として固執(我執)し
、認識対象を「我がもの」として固執(我所執)することである。
この分別によって、自己中心的な固執が生まれ、それによって苦悩が生まれる。
仏教では「煩悩は分別によって生まれ、分別は戯論(言葉によって固執の世界を虚構する
こと)によって生まれる」と説かれる
。私たちの世界は言葉によって虚構され、その虚構によって自己と自己の所有に
対する固執が生じ、勝れた他と比較して劣等感を抱いたり、劣った他と比較して
優越感を抱いたりする。その分別によって煩悩(苦悩)が生まれる。
人間は善悪・正邪の分別なしでは生きられないが、その分別によって人間は苦悩する
。そうした分別の本質が明らかになるとき、分別は分別のままにそれに固執しない智慧の
世界が開かれる、それを「無分別智(分別を超えた智慧)」という。
それは分別のない世界ではなく、分別の本質を知見し、分別が障りとならなくなる世界である。 うん?
その主体の正体が・・^^
日常生活における主客対立の見方である〈虚妄分別〉の心作用が
この世界を形成すると説いている
とこうなる^^
なにか問題でも?
自分で書くと何時間もかかるんだよな^^ う〜〜ん^^
マイオンドフルネスを超えたかもしれん^^ ・・・ではこのスレから去るか・・^^
ではでは^^ 私がこの肉体と言う物質であったならどうでしょう。
肉体を構成する物質は、約3年に1回入れ替わります。では、3年前の私は、今の私ではないのでしょうか。また、3年後の私は今の私ではないのでしょうか。
私の肉体を構成する物質は、少しずつ入れ替わって行きます。では、将来の何時の時点で、今の私ではなくなるのでしょうか。私とは、今の肉体を構成している物質の内のどれなのでしょうか。 うん?
>>522 さん・・・^^
「雑念だらけ」って言われてるよ^^ マインドフルネス瞑想を簡単に言えば・・
対向車線の車が想念だとすると・・^^
そっちに気が取られ今運転していることを忘れ・・
前を注意してみていない^^
つまり・・^^
対向車線の車・・想念は受け流すだけでいいんだよな・・^^
前をみて注意しないと^^
前を見て注意して運転しろ・・ということだな・・^^
つまり・・「今ここ」・・・^^ 意識的にしろ無意識的にしろネットに書き込んでしまう人なんだろうな おまいらは・・・^^
対向車線の車に注意をとられ・・^^
下手すれば・・それに突っ込んでいる状態^^
「ちゃんと前を見て運転しろ」・・こうなる^^ >>528
>>522 さんのこと悪く言うなよ・・・^^ でだ^^
車の運転をうまくするにはどうしたらいいのか・・^^
まずは車の構造を調べる^^
時にはメンテナンスをする^^
運転中の集中力を高める・・・ まぁ・・・^^
実際乗ってみなければわからないんだけれどもね^^ そうなると・・・^^
はじめは教官が必要なのか^^
うむ〜〜^^ おまいら叩かれる^^
「なんでやねん^^」
となる^^ かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、長老ラーダ(羅陀)は、世尊のましますところに至り、世尊を拝して、その傍らに座した。
傍らに座した長老ラーダは、世尊に申し上げた。
「大徳よ、無我、無我と仰せられますが、大徳よ、いったい、いかなることを無我というのでありましょうか」
「ラーダよ、色(肉体)は無我である。受(感覚)は無我である。想(表象)は無我である。行(意志)は無我である。識(意識)は無我である。
ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。
厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである。
そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、
<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>
と知ることができるのである」 つまりやな・・^^
五蘊の執着から開放されたら解脱にいたると・・^^
こういうことや・・^^
そこから・・
五蘊皆空かでてきたのかもしれん^^ マインドフルネスを簡潔に
「今ここでの経験に評価や判断を加えることなく
能動的な注意を向けること」と定義している 今ここでの経験に
→ 価値の役割
評価や判断を加えることなく
→ 距離をおくスキル
能動的な注意を向けること
→ 注意のコントロール 簡単に言えば・・^^
「妄想すんな」・・ということか・・^^ おまえらは・・・^^
スルーする技術が未熟だからな・・^^
想念が湧いたらスルーしろと・・^^
簡単や^^ けど・・・^^
これではまだ不十分や・・^^
「なぜ想念が湧くのか?」まで突っ込まんとあかん^^ そこがマインドフルネス瞑想と仏教の違いやな・・^^
仏教では「なぜ想念が湧くのか?」まで教えてくれている^^ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています