マインドフルネス瞑想 Part9
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
前スレ
マインドフルネス瞑想 Part8
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1519401863/
メンタルヘルス板
【瞑想】マインドフルネス 6【気づき】 http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1508008965/ >>119
ごめんなさい 見落としてました
今の私の段階での実感を書きますよ 結論からいうと 明日お前の右腕を切り落とす と言われてもうわー痛いだろうな としばらく想像した後 夜は眠れると思います
どちらかというと 右腕が無かったらこれが出来なくなるのか でも義手ってどれぐらいの性能なんだろう テレビで見るすごい奴は高いんだろうな
ぐらいの思考だと思う 今の私だと 殺す と言われるとまだ 戸惑いがある 来週ではダメですか? という感じが残っている
軽い無我の境地でもこうなります ガチでSATSUGAIされるシーンになったらもうどうにも出来ないし黙って諦観するしかないな >>155
座間市で殺された9人の女の子はみんな諦めて殺されたのかねえ
自殺志願といいながら本当に死にたい人はいなかったと犯人は言ってたが
死を意識してながらもいざ死ぬ段となったら恐怖する
口で言うほど死ぬ覚悟というのは生易しくはないと思うな >>154の続き
何故こうなるのか 例えで言いますと 下手な例えかもしれませんが 鏡がない世界で暮らしていたとします
周りは機械仕掛けのロボットばかりでそれぞれ役割を持って動いている世界です
自分の仕事はそのロボット達を操って効率良く作業をさせることでした ある日偶然鏡を見つけて自分の姿を見た瞬間に 自分もロボットだと知ってしまったんです
思考も感情もある 自分を感じられる でもロボットでした 現実は何も変化しないんです でも認識がガラッと変わってしまう 自分は相変わらず感じられるが 思っていたような自分ではなかった訳です
無理のあるたとえ話ですが感覚的にはある種類似した話です 事前の予測とか覚悟にもとづいた将来の感情・感覚なんて全然信用してないですね。
少なくとも自分の場合は
過去の実体験をふまえてみてもあてにならない
未知の領域に踏み込んだ場合の感覚について、自分のそれまでの経験値から
ある程度の想像はできても真の実感なんて感じるの、凡人の自分にはムリ
所詮他人事と一緒だから 近年、瀬戸内寂聴さんが大病してこんなつらいと思わなかった(大意)って言ってましたが
そんなもんです
覚者の方は違うんでしょうが、所詮他人事だから、なんでも言えるんですよ 覚者でなくてもその時点で既に廃人なら、あきらめの境地にはなるかもしれません
そういう人たちの経験譚をいくつかみかけたような気もします
でも、これも他人事です 目の前にある世界は過去の繰り返しではなく
常に未体験の新しい世界だもんな 身体や生命は大事ですからね。
執着や苦しみのない、あきらめたような状態を保持したまま
問題の対応にあたれると楽ではありますけど。 カバットジンのマインドフルネスストレス低減法は、まさに病人や怪我人に対して書かれてるような書物だけど、そこにあるのは諦めや逃げをすすめるようなものではない。むしろ逆。 カバットジンさんは受容や、痛みを受け入れる
のような方向でもないんでしたっけ。
どんな感じなんですか? カバットジンのワークショップとかあれば行って実際に会ってみたい
日本に来ることはないのかな マインドフルネスでいう受容とか受け入れるというのは諦めることではないよ
そういう誤解をしている人というのはどこでマインドフルネスを学んだのだろう ごちゃごちゃ言わずにマインドフルネスのルーツとなっている四念処が説いてある大念処経を熟読して
マインドフルネスやヴィパッサナーの根源を学んでその通りに行ずればいいじゃない
大念処経現代語訳
https://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757 >>166
自分は、何かを守ろうとする感覚(何かへの執着)があるときに、不安がありました。
その守ろうとする感覚(何かへの執着)を手放したときに、不安が消えたことがあります。
不安のもとになっていた問題に対しても、不安などが消えたままマインドフルに対応することで
問題を解決できたことがあります。 >>166
横だけど
アクセプタンスは諦めないこととか投げ出さないこととか信じ抜くこととかかいてあんの?
アクセプタンスとレジスタンスは真逆のような気がするが… >>153
> 横からだけど、音をただ音と認識するのってサマタじゃない?
ん?ああそうだね。たしかに。
> マインドフルネスやヴィパッサナーの観瞑想では、音という外部入力によって生じる身体の反応と、それに付随する心の動きまで随観するよね?
マインドフルネスはわからんがアビダルマのほうでパンニャッティだパラマッタだ言ってたな。
無我の洞察が重要だとか。(←同意)
> 音を音として認識したところでプロセスを止めちゃったら、何も観察できないよ。
プロセス…そうプロセスね。
受をパラマッタとして識をパンニャッテイとするのもプロセスというか方便なんかな。
真諦は不変であるなんてしちゃうと矛盾してくるわけだが…
想もパラマッタかな?どうなんだろう…
だれか僧いない? 呼吸に意識を向けるだけ、そういわれると困ってしまうのがエゴなんです。
話がそれで終わってしまう。そうさせないと暴れるわけです。 >>172
呼吸に意識を向けるだけ
はマインドフルネスの初歩
古今東西の覚者で「呼吸に意識を向けるだけ、それでお仕舞い」などと言った人物はいない >>154
すごいな、そこまで出来るか
でもその感じわかる >>154
全身麻痺になった苦しみを瞑想で乗り越えた、タイのカンポン・トーブンヌムさんもそういう境地だったのかな。
カンポンさんは、「苦しむ人」から「苦しみを観る人」になると表現されていたが、あなたのレスも、生じてくるものを苦しむことなくただ観るだけのような意識状態に見えます。
瞑想で本当にそういう意識になっていけるならもっと真剣に瞑想やろうかな。 若いうちは健康なのが当たり前で身体が少し悪くなるだけで大げさに驚くし悪い所も良くなるけど
年齢を重ねていくと悪い所があってもう良くもならず、さらに年々悪くなる一方でやがて死ぬことまで見えて来るからね
いま20くらいの人だって数十年後には死ぬわけだし運が悪ければ何かが原因で来年にも死ぬかもしれない
死ぬ時には何も持って行けないし今あるもの全て失わなければいけないと本当に考えたら
ものの見方、考え方、いま何をすべきかもいろいろと変わるだろう 1000年続くとされる琵琶湖の
伊崎の棹飛びというものがあるのだけど
これもこの心の状態を図るものではないかと
観ています。 >>178
結論をいうとおっしゃる通りなんですが それを自然に任せず 短期間で徹底的に心身で理解しようというのが瞑想かな? と思います
ある瞬間を境に殆どのことに興味が持てなくなってしまう 薄れてしまう だからといって廃人なのかというと
地域の掃除に参加しても汗だくで今までやったことがないくらい集中して楽しく掃除できてしまう 昔はあんなに嫌だったのに...
これが 勝手に起こる のがミソです でもあんなに好きだった趣味は30分も続かないんですよね 飽きて帰りたくなる
不思議だ.... >>176
>>177
一番簡単な無我なり自我の理解 自分の正体がハッキリわかるまでの悪戦苦闘と プロ野球選手とかオリンピック代表になる努力とでは どう考えても前者の方が簡単です 圧倒的に
ですから世界中で私程度の状態になってる人は掃いて捨てるほどいると思いますよ 今や珍しくもありません
その気になったらもう一歩踏み出すのも良いかもしれませんね 楽になります 生きるのが >>178
>いま20くらいの人だって数十年後には死ぬわけだし運が悪ければ何かが原因で来年にも死ぬかもしれない
>死ぬ時には何も持って行けないし今あるもの全て失わなければいけないと本当に考えたら
>ものの見方、考え方、いま何をすべきかもいろいろと変わるだろう
無常 憑(たの)み難し、知らず露命(ろめい)いかなる道の草にか落ちん、
身(み)已(すで)に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停(とど)め難し、
紅顔(こうがん)いづくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)なし、
熟(つらつら)観ずる所に往事(おうじ)の再び逢うべからざる多し、
無常 忽(たちま)ちにいたるときは国王大臣親暱(しんじつ)従僕(じゅうぼく)妻子珍宝たすくる無し、
唯独り黄泉(こうせん)に趣(おもむ)くのみなり、
己に随い行くは只(ただ)是れ善悪 業等(ごっとう)のみなり。
(意訳)春の若葉が秋には紅葉し、冬に散ってゆくように、あらゆるものは刻々と姿を変えていく。我々の身体もまたその理のなかに存在し、やがて歳をとり、老いて、死にゆく。
少年だった頃の面影は一体どこへいってしまったのか。あとかたすら残ってはいない。
今一度、心静かに命について考えてみたい。ひとたび過ぎ去れば、時は二度と戻らず、命もまた一つしかない。
国王や大臣の強大な権力や、親や兄弟や友人との友情や、妻や子どもとの愛情や、あるいは金銀財宝の力をもってしても、その事実は少しも変わらない。我々はその時が来たら、一人で死にゆくしかないのである。
そんな我々に随ってくるものがあるとすれば、それは生前に為した善悪の行いの業(カルマ)だけである。
http://www.osoushiki-plaza.com/library/kyouten/img/kyoten06.gif
死ぬときに持っていけるものは過去世から現世へと貫いて現世で果が得られなかった業だけ
だから悪をなしてはならない
因果応報は必ずあり来世以降その報いを必ず受けるからである 瞑想はしてないけどマインドフルネスの嫌な気分とかを客観視するやつやってるけど効果が凄い
なんか前まで思い出す度に嫌な気分になってたことを思い出してもなんとも思わなくなった
そのうち忘れれそうだ >>155
どうにもできなくって、それで諦観しちゃうの?
俺なら恥も外聞もかなぐり捨てて泣きわめいて命乞いすると思うよ
俺柔道の経験あるんだけどね。昔、先輩に毎日毎日何度も何度も
寝技でギュウギュウに締められるわけ。文字通り締められる、首を
参ったしても放してくれない
苦しくって苦しくって涙もでるし、パニック状態だよ
身体的、精神的苦痛のさなかに放り込まれたら、そんなもん
それから大病したり、何度ものたうち回るような手術したりし、人生の奈落に落ちたりしたけど
やっぱりそんなもんだと思うね あ、でもマインドフルネス自体を否定してるわけじゃないよ
>>144は俺のレス。>>158-160も俺のレスだけど 人を殺すだけの覚悟持ってる人間の意思が命乞いで覆るのか? >>186
覆るかどうかは関係ないんじゃないですかね
相手の都合じゃなくて、自分の感情の話ですよ
所詮架空の話をしているという点で、あなたと自分は同じ土俵の上に立っていますが、
あなたの想像するような心境には俺はなれませんね じゃあ、なんでマインドフルネスやってるか、っていうと
いまより少しましになれるかも、ってとこですかね、死ぬまでに
解脱するかしないかとか、仏教的なランク上げ(?)とか、そんなん知りません
そんなんできるとも思ってません 自由への第一歩は、自分の思考は「ほんとうの自分」ではない、と気づくことからはじまります。
思考力重視の傾向は、人間の意識が進化していく過程のひとつの段階にすぎないので、意識なくしては思考は生まれませんが、
意識は存在するために、思考を必要としません。
さとりをひらくことは、思考を超えたレベルに到達することです。
エックハルト・トール >>181
具体的に、どのくらい瞑想したら楽になりましたか?
もう1年くらい右往左往しながら瞑想やって、怒りとか将来の不安とかは以前に比べたら少なくなりましたが、いまいち生きるのが楽になったという実感はありませんね… >>191
冥想をするのに、冥想の成果にこだわってはなりません。
むしろ神を喜ばすために冥想しなさい。
もし良い結果を求めてすれば、その結果がやってこないとき落胆することになります。
バガバット・ギータの中で、クリシュナは「成果を期待しない行為」を勧めています。
冥想もまたそのような気持ちで、取り組まれるべきです。
成果への執着のない冥想に取り組みなさい。
(パラマハンサ・ヨガナンダ)
http://mandalaya.com/s7.html >>194
>>181の、瞑想をすれば違う自分になれると語る人からワンセット 朝早起きして座ろうと起きてはいるんだが、どうしても横になりたくてまた寝てしまう
みんなどうしてる?
休日なんかは自分のペースで起きて一時間くらい瞑想できるんだけど
平日に早起きして座ってる人尊敬するわ どうしても不快感に耐えかねて横になってしまう
実施してる人、どう工夫してるのか教えてくれ! >>190
おお!1年も続けているなんて凄いですね! その期間でハッキリ自分のことに気づいた ああ 自分は怒っていたんだとか 自分は悲しんでいたんだとか 心の奥底で失うのが怖かったんだ
そういう突然の理解は無かったですか? 一度でもあれば もう無限に落ちる滑り台から自分の意思で滑り始めています。
もし そうでないなら精密さと強度を高めても良いかもしれませんね 精密さは思考感情感覚が起こる瞬間を捉える話
強度は自分の体をパーンと叩いた時に 叩いた感覚と叩かれた部位の感覚が一時的でも高まると思います これを叩かずに集中力で全身なり上半身なりに作り出す話です >>198 の続き
みなさんが理解できないのはスポーツのように練習すれば徐々に上手くなるという思い込みがあるんだと思います
徐々に上手くなるのは 観察の方法 なんです 私たちは観察が上手くなりたいんじゃないんです そんな面倒なこと本当はしたくない
できれば認識が一気変わるスイッチが体のどこかにあって押して解決!が楽で良い そのスイッチを見つけるために面倒な瞑想が必要なんです
ですからスイッチが見つかる 押す瞬間までは多少前向きになったりする程度でそれほど劇的な変化はありません スイッチを押してないんですからね
期間は命をかけて3ヶ月 普通に熱心にやって3年 日常生活を大事にしながらなら5年から10年ぐらいではないでしょうか 心を扱うことだから我見や執着や欲の強い人間は毎日時間をかけ死ぬまでやっても何も変わらないかもしれないし
我見や捉われをなくそうと自分に対して謙虚な人間なら少しの時間で大きく変わるかもしれないし個人差がはかり知れなく大きい 始めて1年と少しだけど短期記憶と頭の回転というか、考えてる問題について閃きが来ることが明らかに増えたな
前頭葉の機能改善がなされた結果だと思うけど
神経科学者や脳科学者、PTSDに関わる領域の研究者たちが言ってることは事実やわ スマナサーラが言ってた「怒りはヴィパッサナーで怒っていることに気づいた瞬間に消えるから念を常に保て」とかいうのは思い込みでしかないと思う
思い込みが効いてるうちは怒りは消えるように自制が働くだろうが早い人では数週間で思い込みが覚めてしまうだろう
なるべく覚めないようにするには毎日ヴィパッサナー瞑想をして念を意識する(少なくとも意識したつもりになる)ことだと思う
しかし瞑想はヴィパッサナーよりも天台止観やヨガで取り入れている丹田呼吸のほうが有効な気がする
これを毎日15分ずつやってると心身ともに健康になっていって胆力がついてくる
丹田の場所が分からなかったら仰向けの状態から少し上半身を腹筋を使って持ち上げると固くなる臍の下の部分
ここが丹田なのだがその丹田を特に息を吐くときに意識して呼吸するといい そう思うならマインドフルネス瞑想やめて丹田呼吸法やってりゃいいだけのこと >>189
特に俺宛のレスっていうわけじゃないだろうけど、
エックハルト・トールも随分前に読んだよ
マインドフルネスと親和性もあるし、言ってることもちょっとスピリチュアルな部分除けば
納得することも多いし←これ、多分以前にも書いた
脱線するけど、あちらの国の方々って、どん底状態から
突然覚醒したっていうバイオグラフィー、ストーリーつくるの大好きだよね
その一点がもう胡散臭さを醸し出してて鼻つまみたくなる。臭いから
エックハルト・トール、バイロン・ケイティ、ヘイル・ドゥオスキン・・・みんな一緒だもの 君の物言いも十分臭いよ
何きどってかっこつけてんだか
イメージやストーリーに囚われてるのはどっちだろうね
自己の放棄が起こっただけだろ
単にそうしたことが起こっただけ
一神教的文化ではそういうことが起こりやすいだけの話 エックハルトの思考との脱同一化とかいうやつって
ウパニシャッド哲学のヤージュニャヴァルキヤの「それはアートマンではない、それもアートマンではない(ネーティ、ネーティ)と何が違うの?
エックハルトも本当の自分とかってアートマンみたいなのを認めてるし本当違いがよく分からん
ヤージュニャヴァルキヤ
https://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/86.amp >>204
本当のサティが入るようになればあなたにも分かると思いますよ。
頭でいろいろ考えて思い込むのは自由ですが、スマナサーラ師の名前を出してあなたの間違った見解を広めるのは控えてもらえませんか? 引きこもってどん底だった頃に比べて
きちんと生活できるようになったし忙しくても段取りをテキパキ決めて仕事をこなせるようになった
だけど
相変わらず怒りが定期的に爆発してしまう
怒りの頻度と程度は少しマシになった気はする
怒りの後の気持ち悪さ、毒がまわってる感じも認識できるようにはなった
本で瞑想を知って日常生活で取り入れながらでもうすぐ3年だけど
自分が瞑想できているのか分からなくなってしまった >>210
あなたには本当のサティが未だ入っていないのですよ >>207
> 君の物言いも十分臭いよ
> 何きどってかっこつけてんだか
気取ってかっこつけてるですか?笑
面白い感想いただきました。びっくりですわ、あははは 「自己の放棄」ってなんですか?
自己の放棄とやらがおこると、どん底状態だった人間がいきなり覚醒して、
メソッドやら真理やらを語り始めるんですかね
よ!アメリカンヒーロー万歳!! よくスピ系のブログで良いこと書いてるのに
コメ欄で煽られた主が発狂してるのと似てる >>214
俺?それともあちらさんのこと?
俺のことなら、見ての通り良いことなんて書いてないし、以前からずっとこんなだよ
露悪的でかっこわるいのあからさまだし、書いたとおり解脱とはかけはなれた人間だから
年がら年中切れまくってる >>206
バイロン・ケイティ…
http://thework.com/sites/thework/nihongo/
ナニコレわっかりやすっw微笑ましいというかなんというか…
よくしってんねこんなの…
まぁ、日本では売れてないんだろうなという感じはする…
ヘイル・ドゥオスキン…
軽くググったらセドナメソッドの人?
>>213
> 「自己の放棄」ってなんですか?
手放しとか観念したってことだろ
> 自己の放棄とやらがおこると、どん底状態だった人間がいきなり覚醒して、
> メソッドやら真理やらを語り始めるんですかね
えてしてそういう物だろ
よっしゃメソッド作ったろ!と思うかどうかは別の話だけど。
>よ!アメリカンヒーロー万歳!!
自己啓発マニアなら詰まらん事いわずにセドナでもやっとけや!
癇癪なら医者に逝け 219 世間をよく理解して、最高の真理を見、激流を超え海をわたったこのような人、束縛を破って、依存することなく、煩悩の汚れのない人、
──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
220 両者は住所も生活も隔たって、等しくない。
在家者は妻を養うが、善く誓戒を守る者(出家者)は何ものをもわがものとみなす執著がない。
在家者は、他のものの生命を害って、節制することがないが、聖者は自制していて、常に生命ある者を守る。
221 譬えば青頸の孔雀が、空を飛ぶときは、どうしても白鳥の速さに及ばないように、
在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。
スッタニパータ
http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
オマイらも世に遠ざかって林の中で瞑想すべし
そうすれば出家者に近づける
もちろん執著を捨てて節制するのは大前提である オマイらも、と言わずに自分が世に遠ざかって瞑想すれば?
自分が出家者に近づけばいいのでは? >>221
なんで念仏は出家も林も関係なくて
マインドフルネスは関係あるの? >>223
自力修行するのなら完成を目指したほうがいいだろ >>224
念仏は自力修行じゃないの?
念仏は完成を目指さないの? >>226
他力本願いいな
自分はやらずに人にやれって言える態度がいい >>210
それは良かったじゃ無いですか、そこまで出来ている
怒りがみえているだけでもたいしたものですよ 自己とは何か?って考えると脳のニューロンを流れる電気信号が映し出す幻影でしょ
あると信じれば出現し、無いと信じれば消えてしまう
幻影だから
子供にとってはサンタクロースがいるし、大人になれば消える
その程度のもん 内なる世界と外なる世界が(我々の)自我を通して普遍的世界を見ている ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。
だから坐禅も他力的なとこがある >>230
「誰?」って問自体が自己とその他を肯定するものだから答えようがない
信じるってことに関しては縁起による現象でしょ
雷とか雲に「誰?」って問わないでしょ >>233
全く説明になってない
>>229
>自己とは何か?って考えると脳のニューロンを流れる電気信号が映し出す幻影でしょ
>あると信じれば出現し、無いと信じれば消えてしまう
脳のニューロンを流れる電気信号が映し出す幻影が自己であると信じれば出現し無いと信じれば消えてしまう
はい、ではあると信じている主体は何? >>234
だから
主体ですら幻影ですよ
主体も客体もない
自己がないと信じる主体ですら幻影なんですよ >>235
「自己がないと信じる主体ですら幻影である」と信じているのは誰? >>211
本当のサティが入るためにはやはり普段の瞑想をしっかりすることが大事でしょうか?
>>228
恐れ入ります >>236
それも幻影で
それを信じているのも幻影です
「誰?」を探してもどこにも居ないのです
諦めて下さい 全ては真我が作為したことで全ての質問はエゴが生み出す。 >>239
>それも幻影で
>それを信じているのも幻影です
>「誰?」を探してもどこにも居ないのです
そう信じているのは誰? >>241
幻影です
ずっとやり続けますか?
どっちが先に幻影からおさらばしますかねw >>242
幻影だというのならそれを証明してみなされ >>243
実体が見つからないからです
誰も見つけられません
貴方、見つかりましたか?
「我思う故に我あり」ですか?
それこそが幻影じゃないんですか? >>238
怒りがみえているっていうのは、大変なことなんですよ
みえてないから、殺人やその他傷害事件が起こるわけですから
でも心を自分の心を観るのは、とてつもない恐怖であることは
よくわかるんです。
自分が全てさらけ出されるから、普通は拒否されますから
醜い部分があからさまになるから >>245
他と切り離されても尚、普遍の自己として存在し続ける実体です
見つかってないですよね?
もしかしたら肉体のどこかに、いや、肉体と遠く離れたところにあるかも知れないけど
見つかってないですよね?
貴方は何か心当たりありますか? >>245
おまえの問いは全部俺のことだぞ
我こそが唯一神 お釈迦様ですら私という主体的な存在はないって言いましたね
お釈迦様ですら幻影に過ぎなかったのです
悲しいですか?
自分が幻でしか無くて悲しいですか?
僕は全ての苦しみから開放されました
だってなにも失うことが無いってわかったからです
もうおっかなびっくり生きなくて良いとわかったからです >>247
>他と切り離されても尚、普遍の自己として存在し続ける実体です
誰がそれを実体であると定義してるの? >>251
「私と思い込んでいる幻」を認識しているのは誰なの? >>252
私と思い込んでいる幻がです
どこまで行っても幻なのです
だからお釈迦様は
「そんな不毛なことに執着するな」って教えたんです
貴方がこれまでどんなに苦しい人生を送って来たのかしりませんけど
やっぱり「貴方」は幻なんです
それを受け入れて楽しくやりなさいよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています