般若心経
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経典成立の順番が、考古学や近代仏教学から言えば、天台の五時八教よりも空海の十住心論の方が正確なのが凄い。 空海の『十住心論』が、江戸時代中期に富永仲基が『出定後語』で「大乗非仏説」を唱えた経典成立の順と一致する点が多いのにも驚きです。 いま、まづ教起の前後を考ふるに、けだし外道に始まる。その言を立つる者、およそ九十六種、みな天を宗とす。曰く、「これを因に修すれば、乃ち上、天に住す」と。これのみ。
釈迦文これに上せんと欲するも、また生天をもつてこれに勝ちがたし。ここにおいて、上、七仏を宗として、生死の相を離れ、これに加ふるに大神変不可思議力をもつて、示すにその絶えてなしがたきをもつてす。乃ち外道服して竺民帰す。これ釈迦文の道のなれるなり。
釈迦文すでに没して、僧祇の結集あり。迦葉始めて三蔵を集め、大衆また三蔵を集め、分かれて両部となつて、のちまた分かれて十八部となれり。〈中略〉これいはゆる小乗なり。ここにおいて、文殊の徒、般若を作りてもつてこれに上す。〈中略〉これいはゆる大乗なり。 これ法華氏(これは富永の言い方で、いわゆる法華宗のこと)は乃ち大乗中の別部、従前の二乗を并せてこれを斥する者なり。
しかつに後世の学者は、みなこれを知らず。いたづらに法華を宗として、もつて世尊真実の説教中の最第一となせる者は誤る。
年数前後の説は、実に法華にまる。并呑権実の説もまた、実に法華にまる。
〈中略〉ああたれはこれを蔽する者ぞ。出定如来にあらざればあたはざるなり。
これ諸教興起の分かるるはみな、もとそのあひ加上するに出づ。そのあひ加上するにあらずんば、則ち道法何ぞ張らん。乃ち古今道法の自然なり。
しかるに後世の学者、みないたづらに謂へらく、諸教はみな金口親しく説く所、多聞親しく伝ふる所と。
たえて知らず、その中にかへつて許多の開合あることを。また惜しからずや。 富永は
釈尊であっても、従来のインドの教説に「加上」して、自らの教えを構築したと指摘することに注意した方が良いと思われます。
そして、その後も、同じように、仏教を信じた後代の者が「加上」したのに、その事実を見ることなく、
諸氏の教えもまた「金口親しく説く所、多聞親しく伝ふる所」と理解しているところに批判を寄せています。
問題は「大乗非仏説」というよりも、「加上説」が通じることを重視し、それこそが「真理」だとしたいところにあるようなのです。 仏教は原因と結果の繋がりから縁起説を唱えます。
物事には必ず原因があり、そこから結果が生じるというものです。
そして禅においてはさらにそこから高揚して、原因イコール結果という。
因果一如(いんがいちにょ)の姿勢をとります。
簡単に言えば、
良い事をすれば良い結果が生まれるから
良い事をしましょうが仏教の考えであります。 しかしこのアドラー心理学は、結果から原因を考えることを否定します。
完全に否定しないまでも何らかの影響はあるけれども、
行動の原因に過去は関係ないと教えています。
目的論と述べてますが、
目的があるからその原因が起こっているだけで、
目的が全ての行動を裏付けるというわけです。 <正法眼蔵現成公案>
諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり、衆生あり。
萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく滅なし。
仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに生滅あり、迷悟あり、生佛あり。
しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
自己をはこびて萬法を修証するを迷とする。
「萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく滅なし。」
うん?
般若心経 ? 舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、
空はこれすなわち色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。
舎利子、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、
増さず、減ぜず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、
眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、
乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、
老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、
智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩埵は、
般若波羅蜜多に依るが故に心に罣礙なし。罣礙なきが故に、
恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。 「諸法の仏法なる時節」
すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり、衆生あり。
「萬法ともにわれにあらざる時節」
まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく滅なし。 「すべての有り様を仏法から見る時」
迷いと悟りがあり、修行があり、生があり、死があり、諸々の仏がおられ、凡夫の人々がいます。
「あらゆる存在が皆、無我である時」
迷いもなく、悟りもなく、諸々の仏もなく、凡夫の人々もなく、生もなく、滅もありません。 つまり・・・^^
「あらゆる存在が皆、無我である時」
この境地で見たとき・・
照見五蘊皆空であり・・
舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。
乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。
であると・・^^ つまり・・
般若心経は三法印「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の境地で書かれていると・・・^^
こうなる^^
やはりな・・・^^
思ったとうりや^^ 自我の境地で見るならば・・・^^
うん?
「なんで無苦集滅道なんや^^」
と・・^^
「なんでみんな無なんや」・・
と・・・^^
見てる境地がちがうんや^^ ほとんどの人たちが自我の境地で見てるから・・^^
「ちんぷんかんぷん」なんだろうな・・・^^ 第十乾栗陀耶識・・仏覚、無上覚・・仏の世界
↓
・・・・・・・・・・解脱・・・・・・・・・・
↓
第九阿摩羅識・・仏性
↓
・・・・・・・・・・悟り・・・・・・・・・・
↓
第八阿頼耶識・・貯蔵意識→大円鏡智(自然をありのままに映す(見る))
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識→平等性智(その自然の中に自分も溶け込む(一体化))
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→妙観察智(その自然の動きを正しく観察すること)
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→成所作智(その自然の動きに対応して正しく行動すること)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界) 812因縁果 ◆d........o 2018/05/11(金) 17:09:36.42ID:DSPiH4/U
瞑想で自我を通り越し ^ ^
直接阿頼耶識まで行ったのか^ ^
それを過ぎれば仏になる^ ^
これが真実味を帯びてきた^^ 直接知覚から第六意識(思考意識)そして第七末那識(自我意識)を
スルーして直接第八阿頼耶識・・貯蔵意識まで到達したと・・^^
阿頼耶識は刹那生滅するからな・・^^
「空」の状態に到ったと・・^^
こうなる^^ 唯識だと識が智に変化するんだけど・・^^
う〜〜ん^^ 「自己をはこびて萬法を修証するを迷とする。」
すんばらしい^^
さすが道元ちゃん^^ 結論
彼岸に到達している人に書かれたら・・^^
おまいらは・・^^
ちんぷんかんぷんや^^ Heart Sutra / 般若心経
https://www.youtube.com/watch?v=DqsH_VLqUwA
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。
無智亦無得。以無所得故。
菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。
無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知。般若波羅蜜多。
是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。
能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多呪。
即説呪曰。
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。
般若心経 そうなると・・・^^
「度一切苦厄」梵語原文なし
これはやはり・・^^
違和感があるな^^ 1119.
“suññato lokaṃ avekkhassu, mogharāja, sadā sato.
空であると、世界を観なさい、モーガラージャよ、つねに気をつけて
att'ānudiṭṭhiṃ ūhacca, ―evaṃ maccu-taro siyā.
自分があるという見解を取り去って―このように死を渡る者でありなさい
evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ, maccu-rājā na passatī” ti.
このように世界を観ている人を、死王は見ることがない う〜〜ん^^
「空であると、世界を観なさい」と言っても・・
おまいらに言ったら・・空病になる^^
「現象世界は刹那生滅してるがゆえに空である」
と言ったほうがいいな^^
このほうがわかりやすい^^ 真俗二諦
真諦 paramārtha-satyaと俗諦 saṃvṛti-satyaのこと。
真諦とは,勝義諦,第一義諦ともいい,出世間的な絶対的真理をさし,
俗諦とは,世間諦ともいい,世間的な真理をさす。
その意味は経典によって種々異説がある。『倶舎論』などでは,
世間一般の常識とみられる真実を俗諦といい,法があると説くことを真諦としている。
また大乗仏教では,すべてのものには実体がなく空であると知ることを真諦となし,
言葉や思想で表わされる世界を俗諦というが,真諦をいい表わすためには俗諦に
よらなければならないと説いている。
浄土真宗では,仏法を真諦,王法すなわち世間的道徳を俗諦と呼んでいる。 「真諦をいい表わすためには俗諦によらなければならないと説いている。 」
ここらへんやな・・・^^ 中論
【11】しかも、仏陀たちには、その他にも、最高の真理を説くことをためらわなければならない
理由がある。
それは、〈すべてが空である〉ということが誤って理解されるとき、
それは、知恵の少ない者を破滅させる、ということだ。誤って捕らえられたヘビが、
捕らえた者を破滅させ、誤ってなされた呪術が呪術者を破滅させるように。 知恵の少ない者を破滅させる・・・^^
おまいら・・・・・^^
空病・・^^
うわっ^^ 【16】たとえば、君が「存在するものは〈それそのものとしてあるというあり方〉をする」と考え
るとき、君は、存在するものには原因や結果がないと考えていることになる。
〈それそのものとしてあるというあり方〉をするものは、原因にも結果にもなることができないからだ。
つまり、原因や結果を破壊している。
【17】が、君は、原因と結果を破壊するだけでなく、行為する者、行為するための手段、
行為をおこなうはたらきを破壊し、生じること、消滅すること破壊している。
それらは〈すべては空である〉ということによってなりたつものだからだ。
【18】君はこう反論するかもしれない。「それらのことがなりたつというのならば、
どうしてそれらのことが空なのか」と。私はこう答えよう。
「空であるということは、存在しないということではない」と。
「縁によって起きるものは、空なるものである」と私たちは説くが、そのとき私たちは、
縁であるものや、その縁によってひきおこされるものに執着し、それらが存在すると
想定している。そしてその限りで、縁であるものや、その縁によって起きるものは
存在することになる。しかし、それらのものがそれらのものであることができるのは、
それらが空なるもの(=〈それそのものとしてあるというあり方〉をしないもの)だからなのだ。
私たちが言っているのは、縁であるものや、その縁によって起きるものが存在しない、
ということではない。それらが空なるものだということなのだ。空であるとは、存在するというこ
とではないが、存在しないということでもない。そのいずれでもない。だから中道なのだ。
【19】縁によって起きるのではないものごとは何も存在しない。そして、縁によって起きる
ということがあるのは、ものごとが空だからなのだ。それだから、空でないものごとは何も
存在しない。
【20】君が主張するように、すべてのものごとが空でないものであるとしたならば、
生じるということも、消滅するということも、存在しなくなる。そのとき君には、
「4つの聖なる真理は存在しない」と考える誤りが生じることになる。
君の誤りをひとつひとつ見てゆこう。 弘法大師の『般若心経秘鍵』には、
心経とは「諸経を含藏せる陀羅尼なり」とある。
陀羅尼とは誦すれば諸々の障害を除いて種々の功徳を受ける秘密呪のこと。
だからこそ心経は多くの人々に愛され読誦され続けている。??
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶 横浜に万葉倶楽部というリゾートスパがあります。
露天風呂あり、足湯あり、岩盤浴あり、食事処やインターネット、仮眠室、駄菓子屋、漫画、ゲームコーナーなど一日中遊べます。 中論は縁起空を説いておられる^ ^
縁起と刹那生滅か^ ^ 有部によれば、この世界はダルマと呼ばれる存在の究極的な要素によって構成されている。
すべての現象世界はこのダルマが無数の因果関係を結んで生起して現実の存在になる。
具体的にいうと、生起した存在は生起した瞬間に消滅し、次の瞬間には新たな因果関係が
結び直されて新たな存在が生起する。
その瞬間、瞬間が積み重なってわれわれの経験的な現象世界が成り立っているという。
(刹那滅)
これやな・・^^ 複数のダルマがある瞬間に縁起の法が働いて、集合し現在に現れて一つの現象が生起する。
しかしその現象は刹那滅であるから、瞬時に消滅してダルマは離散する。
それが瞬間、瞬間で繰り返され積み重なって現象世界が成立するという。 「大乗では「縁起のゆえに無自性、空」であると説くところを、
量子論では、真空こそが量子が絶え間なく生成・消滅を繰返している舞台であるという」
うん^^ 道非道智見清浄
http://abhidhammattha-sangaha.blogspot.jp/2016/03/blog-post_234.html
刹那思惟法
「過去の刹那に生じた色蘊は、過去の刹那にすでに滅していて現在刹那まで存在しない。
だから無常、苦、無我である。」
うん?
かんがえが同じや^^ 縁起と刹那生滅・・・^^
思うに・・簡単に言えば・・・^^
十二縁起が刹那に生滅していると・・^^
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→(無明) 中論
【19】
縁によって起きるのではないものごとは何も存在しない。そして、縁によって起きる
ということがあるのは、ものごとが空だからなのだ。それだから、空でないものごとは何も
存在しない
う〜〜ん^^ 龍樹ちゃん^^
「縁によって起きるということがあるのは、ものごとが空だからなのだ。」
因縁果^^
「縁によって起きるということがあるのは、ものごとが刹那生滅してるからなのだ。」 「電子の周囲で絶え間なく生成と消滅を繰り返す電子‐陽電子対」というのを考えたとき、
その生成と消滅の時間を短く考えれば考えるほど、保存則からの逸脱が大きくなる。
しかも、生成と消滅の時間はほんとに短くないといけない。」
まじか・・^^ 『色即是空』というフレーズは、『空即是色(くうそくぜしき)』というフレーズと対になっている。
色即是空:万物(色)を本質的に突き詰めると、実体は存在しない(空)と考えられる。
空即是色:なにもない所(空)に、意味づけと認識によって存在(色)を見出すことができる。
この対になる哲学が、般若心経の本質であり、大乗仏教の本質である。 現代まで般若心経が残っているのは、誰も否定できなかったからと言えるかも知れない。
言うなれば般若(心)経とは、あらゆる思想への取り組みを「こだわり」であるとみなす、思想のブラックホール的な存在である。 「すべての知覚や感情をリセット&中和するところからスタートし、悟りを目指す」
という視点に立った人から、
「あなたの理論はこだわりすぎだ」と言われたら、誰も否定することができない。 素粒子は目紛しく生成と消滅を繰り返している^^
人間=素粒子 つまり般若経とは、諸哲学の上に立ち、「哲学とはこうあるべき」と言っている教えでもある。 般若心経が、日本人に好まれる理由としては、日本人の和の文化に合っているからだろう。
さて、考えるよりも実践する方が難しい。
人間にとって、こだわりを捨てるというのはなんと難しいことだろうか。 「縁によって起きるということがあるのは、ものごとが空だからなのだ。」
つまり・・・^^
「縁によって起きる」
因縁果・・^^
先取りしてたか・・・^^ 過去と他人の心を変える事は不可能である。
変えられるのは、未来と自分の心。
起きた結果については、有りのままを受け容れる。
その上で、「ならば、これから何をするか?」を考え、前に進む。 龍樹は、すべてのものは縁起するのであるから、固有の性質をもたず、
空であると主張した・・・
龍樹は、空思想が理解され難いのは人々が言語表現に基づいて物事を
区別立てるからだと考えた。
しかし、空を理解するためには、それを説く言葉も必要である。
そこで、空思想を勝義諦(最高の真理)、伝統教説や言語表現を世俗諦(慣習的な真理)と
する二諦説をとなえ、言葉によりつつも、最終的には言葉から離れるという態度を促した。
戯論寂滅か・・・^^ 【舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是】
シャリープトラーよ。
この世のすべての現象は相依性縁起によって生じ、
現象を起こす個々のものには実体がない。
物質も感覚も想念も意志も、自我をもってする精神作用(心処や心王)も然り。
常なるものは無く、すべては生成・変化・消滅を繰り返し
、万物は流転している(有為法:生相・住相・異相・滅相)。
目に見えるものや手にとれるものにのみ執着してはならないし、
目に見えないものや手にとれないもののみにも執着してはならない
(半眼=中道)。
無常なるものに常住不変を願い、それらに執着することが苦厄の因である
煩悩に他ならない。
それら、さまざまな現象を認識し、煩悩を生じさせ、もろもろの想念の起点と
なる我々の本質にも実体が無く、実体が無いからこそ、これを達観すれば
苦厄とは無縁となる
うん?
同じ考えや^^ 「常なるものは無く、すべては生成・変化・消滅を繰り返し
、万物は流転している(有為法:生相・住相・異相・滅相)。 」
ここらへんが^^ そろそろこのスレも終わりか・・・^^
1因縁果 ◆d........o 2018/03/29(木) 18:05:05.71ID:0jLZs2vt
般若心経を読んでみる^^
2ヶ月か・・^^
般若心経読んだことなかったが・・^^
それなりのことはあったな^^
次スレはないということで^^ 結論
「空」は自分の名前にあったでござる^^
灯台下暗しはこのことやな^^ 「敬天愛人」とは、天を敬い(うやまい)人を愛すること。
ここで言う「天」とは、「真理」「神」「宇宙」などといった意味です。
「森羅万象」や「真善美」といっても良いかもしれません。
それを敬い、それに従う。
そして「愛人」とは広い人間愛や万人への慈愛などを表します。
敬天愛人 色即是空 慧文(えもん、慧聞)は、中国南北朝時代の北斉の仏教僧侶(禅師)。天台宗の初祖(開祖)。
弟子である慧思の弟子、すなわち慧文から見て孫弟子に当たる智が天台宗を確立したため、遡って慧文が初祖とされる。
鳩摩羅什が漢訳した『中論』等の龍樹の著作を所依として禅観につとめ、「一心三観」を悟った。
ウィキペディアより 一法を通ずるものは万法を通ず。(道元『正法眼蔵』)
仏教の教えの一つ一つには、普遍的な教えが宿っている。
従って、一つの教えに通じている者は、あらゆる教えに通じていることになる。 『一理に達すれば万法に通ず』(宮本武蔵「五輪書」)
ひとつの道を究めれば、すべてのことに活かせる。 最澄は、密教を学ぶに際して空海を師として仰ぎ、弟子入りした。
また空海のところへ弟子を送り、密教経典を貸してほしいと依頼した。
空海はそれに対して、気前よく経典類を貸し出した。およそ十年間、両者の良好な関係は続いた。
だが、次第に両者の間に亀裂が生じていく。
最澄はある時、「理趣経」の注釈書「理趣釈経」を貸してほしいと依頼した。
しかし空海は丁重に断った。
「密教は体験を通してしか、理解することができません。
その中でも、理趣経はそのまま読むと、誤解を招く表現で書かれた聖典です。
ですから、特に直接来て授けないといけない教えなのです」 空海はそう書簡に記した。
別に、最澄の依頼自体を断った訳ではない。
理趣経は表面的に読むと性を礼さんした内容に受け取れる。
授けるならしっかりと授けるので、三年滞在して、一対一で学ぶようにと断ったのである。
密教の一番肝心な部分は、師から直接弟子に口伝で伝えられるものであり、それらは経典や解説書には記されていない。
しかし最澄は、すでに社会的に高い地位にあり、高野山に行く暇がなかった。
空海の突きつけた条件は事実上、無理な要求であり、断ったも同然だった。 全て勉強になるわ🎵
落ち着いたら、全部 ゆっくり読もう✨👰
ストレス軽減は良いこと。😸 「いわゆる妙適(みょうてき)清浄(しょうじょう)の句、これ菩薩の位(くらい)なり。」(所謂妙適清浄句是菩薩位)
これは、理趣経本文の冒頭部分にでてくる言葉であり、「十七清浄の句」とされるものの最初のもので、清浄についての総論とされているものです。 <引用>「空海の風景」司馬遼太郎より
妙適清浄の句、是菩薩の位なり
男女交接の恍惚の境地は本質として清浄であり、菩薩の境地にある。
欲箭清浄の句、是菩薩の位なり
男女が相手を欲し、その気持ちが矢のように飛ぶ境地は本質として清浄であり、菩薩の境地にある。
触清浄の句、是菩薩の位なり
男女が相手を触れあうことは本質として清浄であり、菩薩の境地にある。
愛縛清浄の句、是菩薩の位なり
男女が四肢をもって離れがたく縛りあっていることは本質として清浄であり、菩薩の境地にある。 妙適とは唐語においては男女が交媾して恍惚の境に入ることを言う。
インド原文ではSurataという性交の一境地をあらわす語の訳語であるということは、高野山大学内密教研究所から発行された栂尾祥雲博士の大著『理趣経の研究』以来、定説化された。
筆者(司馬遼太郎)もそれにしたがう。
インド人は古代から現代にいたるまで物事の現実のきょう夾雑性をきらい、現実から純粋観念を抽出するというほとんど本能的な志向をもっているが、
しかしこの語は性交の経典である『愛経(カーマストラ)』 においても媾合としてつかわれているというから卑語、隠語ではなくごく通常の用語として使われていたのであろう。 これが長安に入って唐語に訳されたときに、妙適という文字があてられた。妙適は長安の口語ではあるまい。
あるいは訳者がとりいそぎこういう造語をつくったのかもしれない。
なぜなら性交の各段階に関する分類や言葉はインドにおいてこそそれが明噺で、ほとんどいちいち成分を抽出して結晶化してみせるほどに厳密であったが、
インドにくらべて言語における明噺性のとぼしい中国にあっては造語をするしか仕方がなかったかともおもわれる。 因縁果先生
メーテルです。
私実は、北川麻子という名でツィターやってます。
そこで私なりの「空即是色はまちがい?」の反証を試みてます。
先生みたいに難しい事わかってないのだけど(無い知恵絞りました)
#仏教 か #般若心経 で出てくると思います。
おやすみなさい 存在と時間は、秩序を保ちながら如何に崩れることが可能かと
するのが中間存在、そこに集めて中心から全体を構成する。👰 「鉄郎はそれを知っていた。いいか、鉄郎にかすり傷一つつけるな!無事に地球に帰すのだ!」(キャプテン・ハーロック) ほとけの心は「で・あ・い」の三つに尽きる。
「で」は「デタラメ!」、
「あ」は「あきらめ!!」、
そして「い」は「いい加減!!!」
(ひろ・さちや) 有るということに執着しない。
無いということに執着しない。 めーてるさん
究極的には生と死が重なり合っていろと
考えているんだが^ ^ 生と死が重なり合うことで現象として生起する^ ^
簡単に言えば^ ^
光と闇か^ ^ ニューロンの発火か^ ^
次スレはこれにするかなっと^ ^ >>986
光りは光りであって
闇は闇でしゅ。👰
光りと闇の混合は ありましぇん。😸 光と闇は表裏一体です。夏の夜空を彩る花火が美しいのは、バックに漆黒の闇があるからです。光は、闇の懐に抱かれて初めて美しい光を放つことができます。
つまり、闇の本質を知らなければ、光の本質は見えません。
陰と陽ははっきりと真ん中で分けられる物ではなく、陰に傾いているものもあれば、陽に傾いているものもあるということを意味しています。
「陰を極めれば陽に極まり、陽を極めれば陰に極まる」とされ、一方が存在することで他方が成り立つ考え方です。
陰陽太極図
http://i.imgur.com/qIGCFVU.jpg
例えば、男性の存在を全く知らない女性は自分が女性であるということが認識できない。
男性も同じです。つまり、男性と女性の本質は表裏一体であるということです。
裏のない紙が存在しないように、表が存在するということは裏が絶対に存在していることを表しているのが、この陰陽太極図です。 >>990
確かに御高説最も
だから何?
説明のための説明
勝手に得意になってんじゃねぇよ
自分に何が欠けていたのかをまずは考えてみなよ 誰ともつながっていない人間など、この世にいるとお思いですか?
時には、本人さえ知らないどこかで、皆誰かを支え、誰かに支えられている。
人間とは、そういうものなのではないでしょうかね。 人間?
一切衆生は本より涅槃常楽の体にして、法身般若の智身なれども、この五蘊の色心に迷ひ、
ゆえに凡夫となり三界に流浪するなり。 この身は本より法身の体なれども、法身なる事を知らずして、
わが身と思えるは、法身を見かくして、わが身と思い、
わが身に迷いて、貪瞋煩悩をつくり、ふかく悪道にしずむなり。 ただ今なりとも命おわりて、地水火風もとにかえりぬれば、ただ白骨となりて、
つゆほどもわが身とたのむべきものなし。
かかるあさましき白骨を、わが身と思いて、千生万劫、このされこうべにつかわれて、
地獄の業をのみつくりて、三途にしずみはつるは、おろかにあさましきことにあらずや。
かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、わが身と思いて、千万年も、
死すまじきように思い、わが身ぞとかたく執着す。
これ一重の、凡夫のまよいなり。 「本人さえ知らないどこかで、皆誰かを支え、誰かに支えられている。」
う〜〜ん^^
空海ちゃんの『十住心論』でいくと・・
2番目かもしれん^^
1異生羝羊心・ 欲望、煩悩にまみれた心。.倫理以前の世界。
2愚童持斎心・道徳が芽生えた段階.。儒教の世界。
3嬰童無畏心・宗教心が目覚めた段階。インド哲学、老荘思想の世界。
4唯蘊無我心・己の無我を知る段階。声聞(小乗仏教)の世界。
5抜業因種心・己の無知を除く段階。縁覚(小乗仏教)の世界。
6他縁大乗心・人の苦しみを救う(大乗仏教)の段階。法相宗の世界。
7覚心不生心・一切は空であるという段階。中観、三論宗(大乗仏教)の世界
8一道無為心・すべては真実であるという段階。天台宗(大乗仏教)の世界。
9極無自性心・対立を超えるという段階。華厳宗(大乗仏教)の世界。
10秘密荘厳心・無限に展開する段階。真言密教(大乗仏教)の世界。 >>991 :メーテル :2018/05/15(火) 16:39:08.11 ID:jBMKOaCa
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>勝手に得意になってんじゃねぇよ
>自分に何が欠けていたのかをまずは考えてみなよ
「自分」てw http://www.zen-essay.com/entry/hannyashingyou
無無明 亦無無明尽
(むむみょう やくむむみょうじん)
私たちは、真実に眼を向けずに、自分本位の誤った認識で生きることで「苦」という感情を抱く。
真実とは、存在は「空」だということ。
誤った考えとは、自分を含む様々な存在が実体として存在していると思ってしまうこと。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ。
能除一切苦 真実不虚
(のうじょいっさいく しんじつふこ)
あらゆるものは「空」である。
この真実を本当に知る者は、どんな苦しみも、それが概念でしかない自分が築き上げた、さらなる概念であることに気がつくだろう。
だから苦しみから逃れようとして苦しむことなど、あるはずもない。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。