般若心経
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”考える以前にある世界”とは一体何のことか?
刹那生滅の世界である・・・^^ 「真実に存在しているもの(勝義有)は直接知覚されるが、仮象(俗説)として存在してい
るもの(世俗有)の知は、概念構想から起こり、擬似直接知覚に過ぎない」
「凡そ概念化構想がない知が、直接知覚である」 直接知覚とは,「思惟と記憶の分別を離れ」た認識を意味している 分別
仏教用語。
思惟 (しゆい) ,計度 (けたく) とも訳される。『阿毘達磨倶舎論』では,
(1) 自性分別,すなわち直覚作用のこと,
(2) 計度分別,すなわち判断推理作用のこと,
(3) 随念分別,すなわち過去のことを心に銘記する追想記憶作用のこと
の3種に分けて説明し,また意識は,三分別すべてを有しているので有分別であると
説明している。
大乗仏教では,凡夫(おまえら)の分別は,真実のものではなく妄分別であるとしており,
正しい真如の理を悟ることは,無分別智を得なければならないとしている。
おまえらでてきた^^ 自性分別
仏教用語。
『阿毘達磨倶舎論』で説かれる3分別の一つ。眼,耳,鼻,舌,身の5識が対象を識別する
作用。ほぼ知覚作用に相当する。 六識のうち、意識は三分別のすべてを有しているから有分別といわれ、
前五識は自性分別だけがあって、他の二分別がないから無分別といわれる。
『雑集論』巻二ではこれら三分別をすべて意識のはたらきとし、自性分別は現在、
隨念分別は過去、計度分別は過去と未来に共通すると説く。
ところが大乗仏教(ことに『摂大乗論』など)では、凡夫(おまえら)の起こす分別は
迷妄の所産で真如の理に契(かな)わないから、このような分別によっては如実に
真如の理をさとることはできないと説き、その意味で凡夫の分別は虚妄分別
(略して妄分別)であるとする。 真如に至るには、そのような凡夫の分別智を
はなれた無分別智によらなければならないという。
すなわち、菩薩は初地入見道の時、一切法の真如を縁じて、知るもの (能知) と
知られるもの (所知) との対立を超えた平等な無分別智を得ると説く。
この無分別を加行 (準備的段階) と根本と後得との三段階に分けるとき、
これらを順次に加行智・根本智・後得智という。 735.
“etam ādīnavaṃ ñatvā, 'dukkhaṃ viññāṇa-paccayā'.
‘意識によって苦がある’と、この禍を知って
viññāṇ'ūpasamā bhikkhu, nicchāto parinibbuto”ti.
意識が寂静した修行者は、飢渇なく、完全に吹き消されている 五 根
1 信根 信ずることから始まる
2 精進根 たゆまず研究する
3 念根 常に思う
4 定根 心が定まる
5 慧根 智慧となる あー世親ちゃんかー^^
なら友だちみたいなものだからいいや^^ この世は空だ幻影だ錯覚だと言って
座禅してるものの頭を叩いたら怒られる?? 3因縁果 ◆d........o 2016/12/31(土) 07:38:56.17ID:DrDBmli4
比丘は托鉢から戻ったとき、次のことを観察すべきである。
それは「六処によって生じる貧欲・瞋恚・愚癡などの不善法」が
捨断されているかどうか
「五妙欲・五蓋・五取蘊」が捨断されているかどうか、
「四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八聖道・止観」が
修習されているかどうか、
「明・解脱}が直証されているかどうかである。 5因縁果 ◆d........o 2016/12/31(土) 07:40:51.44ID:DrDBmli4>>9
「止を」修習すれば、心が修習される。
心が修習されれば、欲が貧欲が捨断される。
貧欲が捨断される心は「心解脱」という。
一方、「観」を修習すれば、慧が修習される。
慧が修習されれば、無明が捨断される。
無明が捨断される慧は「慧解脱」という。 無我が修習されてるかどうか確かめるいい機会だ^^
無我が修習されていれば「痛い」で終わる^^ 「五蓋・五取蘊」が捨断されているかどうか・・・^^
つまり・・^^
受想行識が捨断されているかどうかなんだよな・・^^ キリスト教「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」
う〜〜ん^^
キリスト教もあなどれん^^ 仏教なら「痛い」で終わるが・・^^
キリスト教だとさらに左の頬を差し出すのか・・・^^
う〜〜ん^^
よけいなおせっかいやな^^ 比丘は托鉢から戻ったとき、次のことを観察すべきである。
それは「六処によって生じる貧欲・瞋恚・愚癡などの不善法」が
捨断されているかどうか
「五妙欲・五蓋・五取蘊」が捨断されているかどうか、
「四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八聖道・止観」が
修習されているかどうか、
「明・解脱}が直証されているかどうかである。 六処によって生じる貧欲・瞋恚・愚癡などの不善法」が
捨断されているかどうか
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死 五欲
@ 色・声・香・味・触の五境に執着して起こす五種の情欲、
即ち色欲から触欲までのこと。また、これらの情欲の執着の対象となる
五境自体をも、人の欲を引き起こすものであるから、五欲、五妙欲、五欲徳と呼ぶ。 五蓋
五蓋煩悩ともいうが色界での四禅定への精神統一を妨げる5つの煩悩。
貪欲(むさぼること)・瞋恚(怒ること)・惛眠(眠ること)・掉悔(のぼせること)・
疑(うたがうこと)を指す。また、
道元禅師の師である如浄禅師は、これに無明(仏道の智慧が無いこと)を加えて
六蓋とする見解を示しており、只管打坐こそがこれら五蓋(六蓋)を除き、
五欲を離れる方法として優れているとしている。 五取蘊(固執の蘊)
取とは取著(しゅじゃく)、つまり固執という意味です。つまり取蘊とは固執の対象
(所縁)となるという意味があります。
五取蘊も五蘊と同様に、
色取蘊
受取蘊
想取蘊
行取蘊
識取蘊
の5つになります。 まず最初に法をあるがまま分類する形で五蘊が語られました。
ただ、単に五蘊と言う場合、阿羅漢に悟った人の構成要素も五蘊、
我々のような凡人の構成要素も五蘊となり区別ができません。
しかし、阿羅漢に悟った人は五蘊(自分という人間)に執着しておらず、
それ以外の人は五蘊(自分という人間)に執着が残っているという違いがあります。
また、阿羅漢以外の人はその執着の対象である五蘊を瞑想対象として、
阿羅漢を目指すことから、阿羅漢以外の人の瞑想対象としての五蘊という意味を
明確にするために、五取蘊という言葉が使われます。
要するに五取蘊とは悟ってない人の五蘊を意味しています。 「五妙欲・五蓋・五取蘊」が捨断されているかどうか、・・
けっこう意味深かった^^
おまえらのは五取蘊^^ 色取蘊
受取蘊
想取蘊
行取蘊
識取蘊
つまり・・^^
おまえらは受想行識に執着してるということだな・・^^
すなわち・・・^^
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」
やな^^ 五蘊皆空か・・・^^
「五妙欲・五蓋・五取蘊」が捨断されているかどうか、・・・
そういうことやな・・^^ 阿羅漢に悟った人は五蘊(自分という人間)に執着しておらず、 ・・・^^
阿羅漢・・「照見五蘊皆空」してるやんけ^^ ショウペンハウエル
『無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす』 CS133【癒し HEALING】心を整え人生を豊かにする哲学者たちのことば 04.ショーペンハウアー
https://www.youtube.com/watch?v=0DThZMooJT8 ショーペンハウアーの人類に残した言葉・名言集
https://www.youtube.com/watch?v=c2VZfvh-snU
またまた・・だれがうまいこと言えと・・^^ 仏典の意味を自分なりに咀嚼し
他者にも理解できるように説明できて
自分なりの仏典解釈が完成する。
だから初期仏教の釈迦の言葉を
そのまま覚えることはよろしくない。
縁起一つまともに中学生に
分かるように説明できないといけない。 唯識三年倶舎八年だからな・・・^^
難しいところもある^^ 釈迦 竜樹が見た風景も我らが見てる風景も
同じである。同じ空気を吸い同じ水を飲み
同じようなものを食べている。
では何が違うのか?
間違いに対しての態度が違う。
間違いとはバラモンの教えが間違ってると
いえる確かな思想を確立したことが違う。
本を読んでも自分の考えが確立する
わけではない。
自分の考えが確立させるのは至難である
思想というほどの事が出来ないならば
詩でも作るのがよろしい。 大いなるかな苦楽の二受。
三界一切の衆生、その中におぼれて、ついに出る事あたわず。 しかるに衆生の三界に流転するは、万法の幻化を知らずして、
その夢幻の六塵に貪着して、十悪五逆の幻業をつくるゆえに、地獄餓鬼の幻果を受く。
わが身本より幻なれば、その心もまた幻なり。
その心すでに幻なれば、その煩悩もなまた幻なり。
煩悩本より幻なるゆえに、その悪業もみな幻なり。
悪業ことごとくげ幻なれば、三途の苦果もこれ幻なり。
三途すでに幻なれば、人間天上もまた幻なり。
三界の生死幻なれば、四生の因果も、ことごとく幻にして、
一大法界のその中に、幻にあらざるものある事なし。
う〜〜ん^^
般若心経 に似ている感がする^^ 仏典の欠点はそれを作ったものが
上から目線で衆生を批判してる点。
働かざるもの食べるべからずである。 智慧とは五蘊から解き放たれたところにあり・・^^
五蘊から解き放たれたいがために般若心経をつくったかもしれん^^ 「中部経典72」 ヴァッチャ火経
さらに「解脱した人はどこへ再生するのか」という質問に対して、
ブッダは「如来の物質(色)をはじめとする五つの構成要素の集まり(五蘊)は
捨てられており、五つの構成要素の集まりという呼び名から解放されているから、
如来は再生するというのも、再生しないというのも、再生しつつ、しかも再生しないと
いうのも、再生するのでもなく、再生しないのでもないというのも適切ではない。
それは、あたかも燃えるものがなくなって消えた火が、どの方向へ行ったかを
言い得ないのと同じである」と答える。 「ヴァッチャよ、如来は見解に捕らわれることを脱却している。
ヴァッチャよ、如来は『このように物質(色)がある。このように物質の原因がある。
このように物質の消滅がある。このように感受がある。このように感受の原因がある。
このように感受の消滅がある。このように表象(想)がある。このように表象の原因がある。
このように表象の消滅がある。このように形成力(行)がある。このように形成力の原因がある。
このように形成力の消滅がある。このように意識(識)がある。このように意識の原因がある。
このように意識の消滅がある』と見る。
それゆえ如来はあらゆる妄想、あらゆる顚倒、あらゆる自我があるという見解(我見)・
自分のものであるという見解(我所見)・自己意識(慢)・潜在的煩悩(随眠)を消滅し尽くし、
離欲し、滅し、捨て、捨て去ったことにより、執着がなくなり、解脱したとわたしは説く」 考えていることが・・・
どこかの経典に書いてある・・^^
いつものことだ^^
なにも驚くことはない^^
寝る^^ このように物質の消滅がある。
このように感受の消滅がある。
このように表象の消滅がある。
このように形成力の消滅がある。
このように意識の消滅があると見る・・^^ 「それゆえ如来はあらゆる妄想、あらゆる顚倒、あらゆる自我があるという見解(我見)・
自分のものであるという見解(我所見)・自己意識(慢)・潜在的煩悩(随眠)を消滅し尽くし、
離欲し、滅し、捨て、捨て去ったことにより、執着がなくなり、解脱したとわたしは説く」
すんばらしい^^ 第三章
「ここに色があり、ここに色の生起があり、
ここに色の滅尽があり、滅尽に至る道がある。
このように、如来は、色に囚われず色を捉える。」
「ここに受があり、ここに受の生起があり、
ここに受の滅尽があり、滅尽に至る道がある。
このように、如来は、受に囚われず受を捉える。」
「ここに想があり、ここに想の生起があり、
ここに想の滅尽があり、滅尽に至る道がある。
このように、如来は、想に囚われず想を捉える。」
「ここに行があり、ここに行の生起があり、
ここに行の滅尽があり、滅尽に至る道がある。
このように、如来は、行に囚われず行を捉える。」
「ここに識があり、ここに識の生起があり、
ここに識の滅尽があり、滅尽に至る道がある。
このように、如来は、識に囚われず識を捉える。」 照見五蘊皆空 度一切苦厄
簡単にいうと・・
五蘊の囚われからの解脱が苦を消滅させると・・・^^ Heart Sutra / 般若心経
https://www.youtube.com/watch?v=DqsH_VLqUwA
觀自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、
一切の苦厄を度したまえり。
舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、
空はこれすなわち色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。
舎利子、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減ぜず、
この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、
色も声も香も味も触も法もなし。
眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くることもなし。
乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、
また、得もなし。得る所なきを以ての故に。
菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に心に罣礙なし。罣礙なきが故に、
恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。
三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。
故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。
これ無等等咒なり。
よく一切の苦を除き、真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の咒を説く。
すなわち咒を説いて曰わく、
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶
般若心経 簡単に言えば・・
「五蘊皆空なり」
なんだな・・^^ 菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に心に罣礙なし。罣礙なきが故に、
恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。 「菩提薩埵の般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし」 此岸(迷い)から彼岸(覚り)に到る智慧か・・^^
此岸(迷い)から彼岸(覚り)に到る智慧で五蘊を観じると・・^^
「五蘊皆空なり」 ・・^^
つまり・・^^
五蘊仮和合
五蘊仮和合は、特に有情の個体については、我として執着するような実体がないことを表す[ 色蘊 - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。(例:桜そのもの)
受蘊 - 感受作用(例:桜の木をみて「美しい」と感じること)
想蘊 - 表象作用(例:眼をつむって「桜」というイメージを思い浮かべること)
行蘊 - 意志作用(例:桜の枝を瓶にさしてみようと思い巡らすこと)
識蘊 - 認識作用(例:「桜」と認識すること) 五蘊に執着しないから・・^^
心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。
涅槃寂静やないかい^^ 涅槃寂静
諸行無常・諸法無我の事実を自覚することが、この涅槃寂静のすがたである。
無常と無我とを自覚してそれによる生活を行うことこそ、煩悩をまったく寂滅することのできた
安住の境地であるとする。
『大般涅槃経』においては、この娑婆世界の無常・無我を離れたところに、
真の「常楽我浄」があるとする。 諸行無常・諸法無我であるがゆえに空であると・・^^ 『色蘊は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『受想行識蘊は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
これやな・・・^^ 大般涅槃経』においては、この娑婆世界の無常・無我を離れたところに、
真の「常楽我浄」があるとする。
う〜〜ん^^
奥が深い・・^^ 菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に心に罣礙なし。罣礙なきが故に、
恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。
「それゆえ如来はあらゆる妄想、あらゆる顚倒、あらゆる自我があるという見解(我見)・
自分のものであるという見解(我所見)・自己意識(慢)・潜在的煩悩(随眠)を消滅し尽くし、
離欲し、滅し、捨て、捨て去ったことにより、執着がなくなり、解脱したとわたしは説く」 鐘の音に執着しているみたいなものやな^ ^
刹那生滅^ ^ 会話ができるというのは
音がちょうどいいように滅して
いるからなんだな^ ^ 色・声・香・味・触は滅するが故に認識できる・・^^
表現がおかしいか・・^^ 色・声・香・味・触は刹那滅があるから現象として生じる^^
う〜〜ん^^ 五蘊は刹那生滅があるから現象として生じる^^
表現がいまいち^^ まぁきっとどこかの経典にきっと書いてある・・^^
調べるか・・・^^
そのほうが速い^^ 龍樹(りゅうじゅ、naagarjuna、150年-250年)の著作といわれる『大智度論 』(だいちどろん)
[『大品般若経 』(だいぼんはんにゃぎょう)の註釈書]巻十五には、
まだ煩悩を十分に絶滅することができないで、有漏道(うろどう)にあって無漏道を得ていない
人々が「三種法印」を信ずべきであるとして
「一切有為生法無常苦印」・「一切法無我印」・「涅槃実法印」の三法印を示し、
また巻二二では
「仏法印に三種あり、一には一切有為法念々生滅し皆無常なり、二には一切法無我なり、
三には寂滅涅槃なり」といい、これを「一切作法無常印」「一切法無我印」「寂滅印」と
よんでいる。この部分が龍樹自身の著作であるとすれば、「三法印」はすでに龍樹時代に
成語化されていたといえる。 「一切有為法念々生滅し皆無常なり」
これやな・・・^^ 「金剛般若経」
「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観」
この世のすべては夢まぼろし、水泡や影の如くはかないもの。
いっさいのものは実体のない仮のすがた(仮相)で無常であるのに、
まことのもの(実相)で永遠だと錯覚しているから、とらわれ、執着する心が起こる、
すべては夢幻泡影の如しと観ぜよ 仏教においては、われわれの生存している世界は、すべて生じては変化し、やがて滅していく
諸現象・諸存在によって成り立っており、そうした諸現象・諸存在が無常であるとの考え方を
とっている。諸行無常の「行」(ぎょう、梵: saṇkhārā)も、時に有為と訳される。
このようななか、古くは阿含経から、世界の一切を色受想行識の五蘊に分けて示し、
これら五蘊が仮に集合して人間が存在している(五蘊仮和合)と説き、五蘊の無我を
表す考え方[、原始仏教以降存在している。
この五蘊はあくまで有為法であり、非現象である無為法は含まれていない。
原始仏教においては、存在とは自己存在を中心として捉えられており、
本質的なもの・理想の真理である無為法は、現象としての自己存在をまったく否定した
ところに現出する、次元を異にしたものと考えられていたためである。 有為法
形成されたもののあり方。種々の条件が集まって形成されたもの、という意味。
これは輪廻するわれわれの生存を構成する。
つくられたもの。因縁によって生滅する現象界の一切の事物。種々の原因・
条件によって生成された存在。因果関係の上にある存在。
それら(有為法)とは世路、言依)、有離)、有事である。
〔倶舎論〕
それら有為(法)とは何かというに、「またそれら有為法とは色等の五蘊である」。
色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊がそれら有為法である。
諸の縁によって集まり合してつくられたものが有為(法)である。
いかなるものも一つの縁によって生じたものは決してない。 〔倶舎論〕 まったく・・・^^
冴えん^^
こういうときもある^^
寝る^^ 「散逸構造論」
「世界(宇宙)は、時間が経つと、どんどん無秩序になっていく」と思われていましたが、
こんことに疑問をもったプリゴジンは、「1つの秩序が壊れ、その混沌から新しい秩序が
生まれる」現象を発見し、その理論を「散逸構造論」といいます。 「1つの秩序が壊れ、その混沌から新しい秩序が生まれる」 「混乱も極まれば秩序が発生する」
うん?
寝る^^ 自身の中のエントロピーの増大を抑えることによって死への到達を遅らせている、
つまり生きている・・・^^
う〜〜ん^^
寝れん^^ ちょっと気を抜くと・・^^
エントロピー・散逸構造が出てくる^^
まぁ・・当然だけれどもね^^ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています