【イエス】癒し主 救い主 【キリスト】Part 206
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『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
(マタイ 22:37-38)
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
(ガラテヤ 5:19-24)
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
(ルカ 9:23)
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
(ヨハネの手紙第一 1:10)
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。
(マタイ 28:10)
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この但し書きがあるにも関わらず名前欄の記入無しで書き込む場合、それは話をする気の無い人で、このスレを荒らす人です。
荒らしは無視するようにしましょう。
「◆tZZfT7L/3w」「◆L2ew5aH3E3Qf」等の成りすましも過去の発言を追跡できないようにする荒らしなので無視しましょう。
類似スレで利用者を迷わせないために、次スレは>>970以降に立てましょう。
※前スレ
【イエス】癒し主 救い主 【キリスト】Part 204
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1521102982/ とはいえ、註解をチェックしてなかった。
ハーパー聖書注解を持っているので、チェックしてみよう しかし老クリスチャンさんは、1960年代には牧師に着任され、はや54年。
半世紀以上も、神学や注解書に学びながら
イザヤ書9:5 申命記32:8について、聖書を学ぶ一般人が持った疑問に
即応できないと。。。
いったい、老栗さんの神学とか註解とはなんなんでしよう。
せめて田川建三の「訳と註」をチェックされてください。
1960年代の神学だと目からうろこですよ http://www.kuwaei2000.com/Document/Reflection/misc-02.html
私も、神学らしきものを多少でも嗜むようになって、もうすでに50年以上になりますから、
当然自分の神学的拠り所とする神学者や神学書の多くは、古いものが多くなります。
決して時間が停止して、その古い神学から少しも成長しないのではなくて、
常に新しいものにも目を向けていますが、私は最近神学を始めたばかりの若い人たちよりも、
自分の判断がずっとしっかりした根を持って安定していると自負しています。
↑
1960年代から時間が停止していますよ
教義学 (Dogmatik) に関しては、私の時代に Karl Barth の影響を何らかの形で受け
なかった神学生は、いないだろうと思います。 私にとっても、「信仰について何事か
を語る」 という場合の道筋を教えてくれたのは、バルトでした。 そのほかにも
P.T.Forsyth とか ・・・、もちろんルターやカルヴィンのものも、それなりにいろい
ろ読んだと思います。
しかし、私の教義学の拠り所になったのは、なんと、もっと古い G.Aulen の
"The Faith of the Christian Church" でありました。 彼はスウェーデンの神学者で、
私が持っているのはその1973年版のペーパーバックですが、初版が出たのは1923年で
、最後の改訂が1960年になされています。 彼の名は、"Christus Victor" という贖罪論
の小冊子で有名ですから、ご存じの方も多いと思います。(佐藤敏夫訳の 「勝利者キリ
スト」 が、今でも古書で入手可能のようです)
↑
1923年の教義学では。。。21Cは無理でしょ。。。
このように、決してそんなに有能でも、また多読でもない私のような者が、それでもずっと "神学の成果の利用者" として現役であり続けることが出来たのは、それぞれの分野の拠り所となる神学者と神学書を持ったからだったのです。 私は、聖書神学を専門にして歩んで来た一人の老クリスチャンとして、
すべての方々に忠告したいと思います。
聖書を日常的に聖書注解書を用いて読んでいない人、
その著者たちへの尊敬の念を持って注解書に取り組まない人、
つまり正しい意味での釈義を軽んじて自己流の解釈や主張だけをしているような人、
そのような人に耳を貸してはいけません。
↑
そういう考え方だから、聖書に真剣に向き合わず、伝統的な釈義に逃げ
1920年代の教義学で満足し、最終的にはプロテスタントを捨てて、
カトリックに紛れ込まれることになったのではないでしょうか。
一個の信仰人として、自立されていないと思います http://www.kuwaei2000.com/Rev/2008/text-0809.pdf
> そうだとしたら、現代の文化的で教養豊かな時代に、聖書の知識もなしに、
>ただ拝んでいるだけの信心のようなものでは、信仰生活を継続することが
>無理であることは明らかです。純真ではあるが無知な信心では、
>旗竿の上に上げられた青銅の蛇が見えるだけです。
私は、「聖書の知識もなしにただ拝んでいるだけのような信心」をイエスは
愛されたと考えますが、老クリスチャンは批判的です。
しかし>>111のように、自分で聖書原典と向き合うのを放棄し
権威ある聖書学者や権威ある先達の神学を学ぶだけというのは、
「聖書の知識もなしにただ拝んでいるだけのような信心」だと思います。
老クリスチャンさんは、単に無能だから、嫉妬されているのではないでしようか >>117
勿論、原典知識があることは望ましいけれど
実際は世界中で翻訳すべては
完全に正しいと言い切ることはできましぇん。👰 >>118
実際はどの訳でも大差ないよ。
信仰による改竄がなされているから そもそも底本が違う
申命記32:8
BHSは「イスラエルの子の」
死海写本は「神の子らの」
70人訳は「神の御使いらの」
の三つも、さしたる差はない。
人々を人数に応じて分けたというだけの話なので、 御言葉が、霊と分かる人は、イエスを私たちの救い主としている人です。
御言葉がクリスチャンの中に豊かに住むことにより、神との交わりができます。
まず、普通の人はクリスチャンを人間の目で、判断することはできません。
そして理解できないでしょう。
老クリスチャンは、神様が大事にしている方です。 老栗さんは、イザヤ書も申命記も解らないのに?
神学書も自分の能力を踏まえて、中等レベルものしか読まれないそうですよ
中等レベルの神学を中途半端に収めるとも今度は増長して
「純真ではあるが無知な信心では、まちこさんになる」と非難されているのに? >>127
まちこさんは、普通の人に悪口をされていますよ
>まず、普通の人はクリスチャンを人間の目で、判断することはできません。
>そして理解できないでしょう。
こういうのを世間ではダブルスタンダードとして信用しません >>129
まちこさんは
銀座和光に行ったことがありますか? 若い頃、みゆき通りで働いていたので、和光は、何回も行っています。 銀座を妬む貧乏なルサンチマン野郎w
新宿二丁目のほうが反キリストだろう。 へー、そうなんですか?
まあ、その頃はクリスチャンでもないし、興味なかったですね。
毎日を忙しく飛び回っている時代でした。
このあいだ、大井のあるイトーヨーカドーで、銀座和光があると言って、妹がメガネを作ってきました。 >>134
貧乏人のバカが難癖付けてるだけでしょう。
聖書的な反論を出来ない無能がシャロン氏を妬んでるだけ。
神学的な反論ではなく、プライベート叩きの人格攻撃に陥っているカスですよ。 >>132
こいつコテハンの暇人だから。
別スレでバレてた。
つまり、シャロン氏の銀座を妬んでるカスは暇人一人だけ。
名無しとコテハンを使い分けるクズだから警戒したほうがいい。 なぜにカトリックは、雹のような者を産んだのでしょうか?
根本的な欠陥がカトリックにありそうですね クリスチャンで、自分が傷つく、という人、その人の言った通りになります。
ヨエル3:10
弱い者に、「私たちは勇士だと,」言わせよ。
☆だから、私は傷つくと言ってはいけません。
イエス様は勝利しました。私たちも勝利しているのです。
自分の信仰の言葉をしっかり保っていきましょう。 >>138
自身を非キリスト信者と自称するわりには、
カトリックへの攻撃を続けるバカがお前。
非信者がプロテスタントの肩を持つ矛盾。
非信者を自称するなら淡々とした態度でいればいいのに。
公正なフリしてる偏った偽善者は気持ち悪いわ。 おはようございます。
私は、父なか喜ばれることを、いつも行っています。
第一ヨハネ8:29
☆クリスチャン生活の動機はこれです。 >>141もう一度訂正です。
父が喜ばれることを、です。 私は神の信仰において生きています。ガラテヤ2:20
☆この御言葉も神を喜ばせる聖句ですね。 信仰なしに、神に喜ばれることはできません。ヘブル11:6 俺は自分を殺して
血と汗と涙を流して
キリストに従いましたよ 2000年(主日B年) 4月30日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
教会は今年も主イエス・キリストの復活を祝って、この期節のミサをささげます。
“信じる” という言葉と “愛する” という言葉が、特にヨハネ文書では密接に結びつけて使われています。
この “愛する” という言葉は、ミサをささげる群の中で、またミサをささげる群に向かって語られていることに注目したいと思います。
“主イエス・キリストを信じる人々を愛し、洗礼の秘跡によって新しく生まれさせてくださった神を愛する” ことから、すべては始まりました。
神が御子の十字架のいけにえによって、私たちを罪と死の支配するこの世から贖ってくださったからです。
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。 そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」(Iヨハ v.1)
“愛する” とは、救われた会衆が “共にミサをささげる” こと、“共にミサをささげ続けるために一致協力する” こととして、ヨハネ文書はこの言葉を使っていることを理解しましょう。
ですから、私たちが主イエス・キリストの復活を祝って共にミサをささげているなら、私たちは互いに愛し合っていることになります。
主イエスが最後の晩餐の席で残された言葉は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハ 15:12)でした。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>149
あなたの血は、流す必要はありません。
私たちは、主の御業を信じて行動するだけです。
ローマ6:6
私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、
罪の体が滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 もし、私たちがキリストと共に死んだのであれば、キリストと共に生きることになる、と信じます。
ローマ6:8
☆キリストの教えに従うことが、キリストと共に生きるのです。 中国はサタンに属している。
聖書のネット販売禁止か=宗教への締め付け強化−中国
2018年4月4日 15:53
中国のインターネット通販サイトから、聖書が一斉に姿を消した。
米政府系放送局ラジオ・フリー・アジアによると、当局が先月末、通販各社に販売禁止を命じたという。 >>156
独裁国が好きなの?
平和国家の日本に反対して、
独裁国の中国や北朝鮮を擁護するのはありえない。
日本国内でデモをしてる連中って論理が破綻してる偽善者ばかりだよ。 あなたは、祈っていますか?
祈ったら心配しないことですね。 >>158
あなたは大虐殺されてる人々の隣でも
助けず、動かず、平然と祈り続けてそうですね。
餓えてる人に必要なのは、祈りではなく食糧なんですが。
餓死寸前の人の前で祈る奴はただのバカです。 すべて何をするにもイエスの御名前でしています。
あなたは、ご自身の考えで、動いているのですか? >>160
何の根拠があって中国の宗教弾圧が緩くなると言えるのか。
独裁国を擁護しているようにしか見えないのだが。 祈ったら、感謝の祈りをするといい
感謝は忘れがちだからねー >>162
感謝は、祈ったことを任せられますからね。 大迫害されている人達を見て心を痛めるのは人間の本能であり
彼らの痛み、苦しみは直感で感じます。わたしは直感をも神様が
与えて下さったもの、と信じて祈ります。
勿論わたしはいつも全ての為に祈っていますよ。 >>163
議論どころか会話すら出来なさそうな感じですね。
あなたは低IQかな?w >>161
おそらくそれは「信仰の言葉運動」から来るものでしょう。 >>166
あなたと住んでいる場所が違うのでしょう。
まず、あなたは、神に祈れるように、なってください。
そうすれば、私の知能が理解できるようになるでしょう。 >>166
そのようなニュースを見て心痛める優しいあなたの心にこそ
イエス様は御心に留めておられると思います。
そしてあなたも彼らの為にお祈りなされば良いと思います。 >>168
> そうすれば、私の知能が理解できるようになるでしょう。
ここは笑うところかな?w そうそう私は昨晩から苦しくて悲しくて泣きそうで
まちこさんに直接お訊ねする以外に解決は無いと
思っていた事を思い出しました。
148神も仏も名無しさん2018/04/06(金) 15:01:36.37ID:cpgqIPtw>>150
>>146
十字架蛇・・・・・・・
150まちこ2018/04/06(金) 17:28:22.56ID:Clqa3cvf
>>148 アーメン!
「十字架のイエスは蛇」であったの記述は4福音書の御言葉の中の
どの箇所に書かれているのでしょうか?
十字架のイエス様は蛇の頭を足の下で砕かれました。
砕かれたサタンが地獄で三日間イエスを拷問出来たのですか?
何故聖書に無い事を・・・?
私の心はこのレスを見て苦しみ悶えます。 >>171
対立しないで対話をされたら良いですよ。 ローマ6:6
私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、
罪の体が滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
↑ ヘーゲン論理の安全装置が解ると、まちまりの言っていることも自然に解るようになる。
ほんとにわかったのかって ?
一元論とだけ言っておく。おち >>174
だって、中国擁護の態度への疑問を投げかけたら、
「祈ってますか」とかいうレスw
対話になりますか?ww
質問内容と噛み合ってない。
意味不明でトンチンカンなレス。 もし、私たちがキリストと共に死んだのであれば、キリストと共に生きることになる、と信じます。
ローマ6:8 >>152-153
何であれイーグルへ至る道は 数万もある。 メキシコのシャーマン
おち >>173
私が信じたのは、イエスがすべて私たちと同じになられた、と書いてあったからです。
罪ある者が、地獄で受けることも、すべて身代わりになったということです。
死んでいたイエスを復活させた神をしんじたら、救われるとも書いてあります。
その苦しみを知ったイエスは、一人でも地獄へ行かせないように、今も私たちに伝えています。
後で聖書から、探してみます。 >>173
キリスト像でも聖母像でも
蛇(サタン)を足で踏みつぶしてるけど
まちこはそれを誤って解釈しただけなのでは?w >>178
これまで聞いた説明の中で、最高に素晴らしい !! 説明です。 アーメン。
まちこさんが、あまりくだらない議論に巻き込まれませんように祈ります。 >>179
十字架にかかっているキリストは、みんなの病を身に受けた御姿です。
みんなの罪を地獄に置いて来て、神がイエスを復活させたことが勝利で、サタンも負けたそのことを覚えています。
だから、イエスの御名前で祈ると、サタンは逃げ、神が働かれるのです。 >>180
あなたはかつて私をチンピラ、やくざと断罪しましたね。
日本キリスト教団の牧師様は優しくて鷹揚でいらっしゃいますよ。 >>180
お前とかリンゴとか、自分の言葉が無く、ただコピペを貼るだけの無能は嫌われる。
カトスレでコピペ連投されると他のレスが埋まるから
すごく迷惑なんだわ。
お前の場合、長文だから他のレスが読みづらくなる。 >>178
聖霊によってイエス様は乙女マリアよりお生まれになりました。
肉で誕生されたのではない。そのイエス様に罪の支払う報酬としての死
はあり得るのでしょうか?
聖書の箇所を私も調べてみます、後程。 まちこさん
み言葉には「蛇の様に挙げられねばならない」とあり「蛇になった」とは
書かれてありません。
すみません、聖書の索引が上手く機能しません、私が暗記している御言葉は
もう変えられていてその言葉では探せないのです。 >>181
使徒19:15もありますから
一概にはいえませんけどね >>185
十字架蛇説にアーメン、と言ったのは、病気がサタンから来たものであって、イエスを仰ぎ見た者の病気が、十字架上のイエスが身代わりなって、とりのぞいてくれたことに、アーメン、と言ってます。
ですが、そこで、イエスが蛇になったとは、言ってません。
よく、人の病気が、私に移ることがありますが、少し経つと私から出ていきます
神様の業でしょう。
私は、いつも悔い改めているし、みんなを愛しているので、病気にはなりません。
では、なぜ、イエス・キリストは、十字架上で死んだのでしょうか?
シャロンさん、分かりますか? 何故、人は死ぬかは、罪の報いは死と言いますが、神から離れている人間は、死に向かうことになっています。
イエスが、罪を犯して、死ぬ?
決して考えられないことです。
ですが、神は、どうやってイエスを死なせることができたのでしょう?
私にはわかりませんが、ただ、天の父から離された証拠は一つ、マタイ27:46に「我が神、我が神、何故わたしをお見捨てになったのですか?」
前にも言ったように、イエス様は、すべて私たちと同じになったことです。
クリスチャンになる前の私たちは悪魔の子でした。
恐らく、イエス様は、我が神と言う頃に、神の計画により私たちと同じ姿にされたのでしょう。
そして、死んだ後も、神の計画を従順に遂行したのです。
私たちが、イエス様を褒め称えることは、神に従順になってイエス様の仕事を成し遂げたことです。
神は、イエスを死から蘇らせた神を信じたものは、救われる、と言ってます。 >>188 神から離れている人間は、死に向かうことになっています。
ヘーゲンは ハッキリと明確に死と言うものをテーマに置いているということ。
一元論なんですよ。
一方 パウロ神学には死は無い。死に代わってパラダイスとか フォアエバー・ヤングとかになっている。
二元論ですから。
ヘーゲンの神学には、銃器と同じように安全装置がかかっていて、
不用意に暴発しないようになっている。
恐るべしヘーゲン。世界の水面下での胎動を見るようです。
おち >>187
白夜(おとなり)さんは治らなかったでしょ。
あなたは、彼女が不信仰だったから亡くなったと言ってることになるよ。 オラの霊的成長が ようやくヘーゲンの言っている事がかろうじてかすかに理解できるところまで
手がかかりました。
申し訳ありませんでした。
おち >>190
信仰があっても人は死ぬのに、
死者を鞭打つような発言ですな。
どこのカルトだろうか。 >>190
↑ 結局 一般大衆というのは こういう風になる。
こういう人たちが 世界を滅ぼし聖人の悟りを棄損してきたのだと主張する。
今も だ。
( ^×^)アンタモネー おち >>188
以前にも同じ問題が議論されたときに、私の聖書講義の下記の部分を紹介したことがあります。
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
⇒ 2016-5 ⇒ 2.イエスの死
神学というとなにか難しい意味のわからない学問のように思う人がいますが、それは間違っています。
「教会の神学」 とは、代々の教会に受け継がれた来た信仰にしっかりと立って福音を理解することです。
レベルが低くても高くても、正しく信仰の上に立った福音の学びをしている人は、正しく神学しているのです。 >>190
彼女は、何度も死の淵に立たされました。
死ななかったことで、みなは主を褒め称えていました。
どうやって亡くなったかは、話すつもりは、ありませんが、兄弟姉妹仲良くしなくては、いけません。
これが、彼女の死によって学んだことです。 神の愛は死から復活という形をとります✨😊
クリスチャンは死を恐れないのです🎵✨ 2012年(主日B年) 4月15日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、 ・・・・・ 」(使 v.33)
この使徒たちの証しが、教会を真に教会とするのだということを、主日のミサを共にささげる兄弟姉妹一人一人に深く受け止めていただきたい。
“復活を証しする” とは具体的には、私たちが “教会を信じ、罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望む”(ニケア・コンスタンチノープル信条)ということに他ならないからです。
この信仰の証しが忘れられると、教会はその実質を失ってしまいます。
骨組みのある宇宙船は、地上に係留中もその姿を保っていますが、信仰の証しのない教会は、空から降りた熱気球のようにその姿を失います。
「イエスは生きておられる」(ルカ 24:23)、「復活なさったのだ」(ルカ 24:6)、「本当に主は復活された」(ルカ 24:34)、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ 28:20)。
そして、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使 1:11)
そうです。 「わたしたちの本国は天にあります。」(フィリ 3:20)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>196
え?!死ななかった時は褒め称えて
死んだら不信心のせいにするの?
低IQのカルトですなw 死の間際にいる人へは、快復を祈るよりも
死後の安息を祈るほうがキリスト教的だろう。
キリスト教は霊魂を救済する宗教なのだから。 >>196
以前、神より家族のことばを信じたから死んだと書いてただろ。 >>200
( ̄▽ ̄;)あ、キリスト教初心者🔰 発見!✴
「神の目に見えない本性即ち神の永遠の力と神性は…被造物によって知られはっきりと認められるのであって彼らに弁解の余地はない」
ローマ人の手紙1の16⭐⭐⭐ クリスチャントゥデイってサイトでの広告に霊媒師アンジェラとか出てくるけど、
交霊術はキリスト教で禁じられてるし、大丈夫か?コイツらw
広告は選べよ。 >>187
断片的にお答えしますと、
>では、なぜ、イエス・キリストは、十字架上で死んだのでしょうか?
シャロンさん、分かりますか?
人間として普通に亡くなりました。 >>208
.>前にも言ったように、イエス様は、すべて私たちと同じになったことです
それは違うと思います。
イエス様は罪なくして捧げられた生贄です。
罪ある者を神様がお受けになりません。
イエス様は汚れなき神の子であられましたので
生贄として捧げられたのです。
旧約時代に於いてもし穢れた動物なら生贄にはなれなかった筈です。
私たちと同じ罪ある人間なら生贄にはなれませんね。
それ以外の説明はまちこさん個人の信仰ではありませんか? 罪なくして犠牲の生贄として捧げられたイエス様、
折角の尊い死が私たちの死と同列に扱われるなんて
これ以上の神への冒涜は無いのではありませんか? 犠牲の死があったからこそ仰ぎ見る私たちは生きる者となりました。 >>209
イエスの処刑の罪状は、宮清めと神の冒涜罪。
衣を引き裂いて憤った大祭司の気持ちが、あなたには分からないのか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています