ここからは皆に向けての書き込みになる。

阿含経についてちょっと検索してみたが解説でこういうのがあった。
釈迦は「なにかの世界観を示したのではなくこの世の苦から解脱する道を示した」と。
その解脱するための道具としての縁起の法は最初はきわめて素朴な形で書かれているとある。

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これあるがゆえにこれがあり、これ生ずるがゆえにこれが生ずるのであり、これなきがゆえにこれがないのであり、これ滅するがゆえにこれが滅するのである。
――――――――――南伝相応部経典

これは相依性(単独で自立してそれ自身で存在しているものはない)のことを示すと。

――――――――――A
比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。
比丘たちよ、生によって老死がある、という。
このことは、如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているのである。
法として定まり、法として確立しているのである。それは相依性のものである。
――――――――――B
比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。
……
如来はこれを証りこれを知ったのである。
これを証りこれを知ってこれを教示し、宣布し、詳説し、開顕し、分別し、明らかにして、しこうして汝らも見よというのである。
――――――――――南伝相応部経典

ここで気になることがある。
Aの「このことは、如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているのである」の部分。
これは認識する人の有無に関わらず縁起は世界の原理として存在することを示しているように見えるんだ。
これは一般的にはどのような解釈がされているのだろう?