【臨時】悟りを開いた人のスレ 1
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本スレは、荒らししか居ないので、
マジメな話、ここでしましょう。 本スレの基地外はコジ、ジャンキー、123、まこと、あと誰だっけ? 晃もそうだな。わらっちゃうおもか。
ああいう状況になるべくしてなったんだよ
悟った人間が居るとしたら、そこに集う人もそれなりなんだよ。
ああいう連中にはそれなりの人間しか集まらない。
真剣に悟りを熱望するならあんなスレから離れていくから https://www.youtube.com/watch?v=cFpnZldsIXM&feature=youtu.be
気分なおしにエンタメを笑。
うっ、今は天台浄土教に関心が・・・・。
1000年から900年前の天台浄土教は。
ファンタジーがあるわなあ・・・・。
叡山浄土教の研究 (1979年)
佐藤 哲英
を読む、後半に、その頃の源信著と言われる(そうでない)本の現在語訳があって、楽しい。 天台浄土教と後の真言念仏の違いを感じつつ・・・・。
恵心以降の天台浄土教の最初は観想の念仏で・・・・。
ファンタジーを感じる・・・・。
光明の観想やらで・・・・。
天台教学との無理やりの接合感なんか、すごく面白い・・・・・。 それ以前は、正式密教である真言密教、空海の即声吽の三部を読んで・・・・。
正式でない、高野聖、真言念仏と山伏、がどの部分を引用し、
どこに力点を置いていたか?・・・と調べてていた・・・・。
高野聖、真言念仏と山伏は、真言、梵字の持つ神秘的な力に集中していたようだ・・・。
と今更に気づいた・・・笑 http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-6.html
声字実相義
のあたりで、真言、梵字の持つ神秘的な力、超越的な力、呪術的な力を追及し始め、広がったようだ。
悟りの教相は、ほとんど探求されることが少なく、有名な学者はいたが・・・・。 叡山浄土教の研究 (1979年)
佐藤 哲英
は、マジで天台浄土教の三昧感に溺れる感じがあって・・・・相当にはまっている・・・笑。ほぼマイブーム笑。 後白河法皇時代に、絶世期があった、仁和寺の真言密教は、謎が多い・・・・。
神仏習合と真言念仏があるんだろうけども・・・。
いまだに謎だ。 >>1乙
こちらも参加するか。
仏教で使われている言葉の解釈は時代によって変遷しているというのが一般的な見解だよね。
時代だけでなく宗派によっても違うかもしれないし同じ宗派でも個人によって解釈が異なる場合もある。
龍樹の空と禅の空は違う、なんて意見もあるしね。
仏教には本当にたくさんの宗派がある。
こうなってくるとブッダが説いた教えにもっとも近いものだとされているいわゆる初期仏教を知りたくなる。
けれど仏典の中で比較的成立が古くブッダの教えに近いと考えられている原始仏典でさえも編纂会議を経て様々な付加や削除が行われているとある。
同じ経典でも古く成立した部分と後から付け加えられたものがあったり。
漢訳の阿含経のほうが古いと推定されることも多いとあるサイトには書いてあった。
そしてそもそもその原始仏典とされるものもブッダの入滅から400〜500年ほど経ってからのもの。
こういう前提がある。
さらに。
こちらは仏教はもちろんその歴史にも疎い、上記のものもさっき適当に検索かけて繋げたもの。
という前提もある。
それらを考慮して聞いてほしいんだけど。
釈迦の教えにより近いものを捉えようとした場合、特定の仏典を取り上げて考えるよりも複数の仏典を見比べてそれらに共通するものに着目するってやり方は1つの方法としてアリだと思うんだ。
そしてさらっと検索したらこういう意見があった。
「空」「縁起」「無常」の法が共通しているかもしれないと。
これについてどう思う?
これらの言葉の解釈はひとまず無視して、これらの言葉が表すであろうある概念が仏教の根幹を貫いているといってもよさそう? >>12
原始仏典自体の意義は、どうなのか?
という議論は、割愛させていただく。
ただ、原始仏典は何なのか?は、
****************************************
「阿含経」、?gama アーガマ
ウイキペディア・フリー百科事典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%90%AB%E7%B5%8C
****************************************
と、紹介させていただく。
その「阿含経」の日本語訳の大御所は、
増谷文雄 博士
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E8%B0%B7%E6%96%87%E9%9B%84
その弟子の、中村元 博士
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%85%83_(%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
だ。という事を、紹介させていただく。
私は、増谷文雄 博士の、辞典集である「阿含経典」全6巻を入手し、読んでいる。
阿含経典 全6巻(筑摩書房 1987年)→新版 ちくま学芸文庫 全3巻、2012年
私は、
阿含経
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1514771346/
のスレ主です。
ネットに阿含経典の一部分を載せているので、それを読んでみられるのも、よかろう。 >>13
そういう指針を示してくれるようなレスはありがたい。
原始仏教に詳しい人と話がしたかったんだ、そちらが気が向いたときに智恵を授けてもらいたい。
もちろん会話を重ねるときはこちらも最低限の知識をもつ(阿含経などを読む)のがマナーだということは承知している。
そういう礼儀を守らないことを許してほしい。
あとで読むつもりではあるけれど他の読み終えていない本を優先する必要があるんだ。
あと、阿含経のスレはチェックしていくよ。
1つだけ質問があるのだけれど。
「死ぬのが怖い」
という人に対して行った釈迦の説法って阿含経の中ではどのようなものがあるのだろう?
検索しても検索方法がいまいちなのかなかなか、自分の言葉(自分の解釈)で語るサイトが多くて。
キサー・ゴータミーの話などから方向性はわかるんだけどね、彼の言葉であるとされるものが知りたい。 ここからは皆に向けての書き込みになる。
阿含経についてちょっと検索してみたが解説でこういうのがあった。
釈迦は「なにかの世界観を示したのではなくこの世の苦から解脱する道を示した」と。
その解脱するための道具としての縁起の法は最初はきわめて素朴な形で書かれているとある。
――――――――――@
これあるがゆえにこれがあり、これ生ずるがゆえにこれが生ずるのであり、これなきがゆえにこれがないのであり、これ滅するがゆえにこれが滅するのである。
――――――――――南伝相応部経典
これは相依性(単独で自立してそれ自身で存在しているものはない)のことを示すと。
――――――――――A
比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。
比丘たちよ、生によって老死がある、という。
このことは、如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているのである。
法として定まり、法として確立しているのである。それは相依性のものである。
――――――――――B
比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。
……
如来はこれを証りこれを知ったのである。
これを証りこれを知ってこれを教示し、宣布し、詳説し、開顕し、分別し、明らかにして、しこうして汝らも見よというのである。
――――――――――南伝相応部経典
ここで気になることがある。
Aの「このことは、如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているのである」の部分。
これは認識する人の有無に関わらず縁起は世界の原理として存在することを示しているように見えるんだ。
これは一般的にはどのような解釈がされているのだろう? ここでさらに皆に聞きたいのだが。
仏教ってそもそもなんなのだろう、という疑問がある。
阿含経を解説したサイトを見てる感じではこうなる。
釈迦は生・老・病・死などの人間が生活を営む上で生じるであろう苦しみを滅することを最優先の課題として捉え、縁起の法を説き理解させることによりそれを達成させようとした。
と。
自分も現時点ではこの視点とかなり近い考え方であるんだ。
「真理の一部を開示する形で作られた苦の制圧マニュアル」なのではないかと。
ここでいう真理とはこの世界の原理のこと。
仏典すら読んだことない奴がなにを言ってるんだと思う人もいるだろうけれど、仏教という森に足を踏み入れていないからこそ見えてくるものもあると考えている。
ここで「真理の一部」としたのには理由がある。
真理というピラミッドがあるとする。
真理の一部開示とはこのピラミッドを横からみたもの△を示すこと。
このピラミッドは真上からみれば□となる。
このように真理というピラミッドは『視点』により形が変わる。
釈迦はあえてピラミッドそのものではなく△または□のみを使って説法した可能性があるのではないかと考えている。
これらの根拠を列挙することもできるけれどあくまでも自説のため今は控えておく。
というか>>1はどこにいったのだ。
このままではこちらの独壇場になってしまう。
ま、こちらは過疎ってる方が好きだから一人でもここを利用するが。
パチンコもさ過疎ってるのが好きなんだよ、皆はぼったくりを警戒して行かないだろうけど。
俺からしたら人が少ないのは贅沢なんだ。
子供の頃、近所の寂れた映画館によく行ってた、そして本当に誰もいない映画館で大スクリーンを独り占めする。
そのときの癖が抜けないのかな、それとも人より欲張りなのか。 一応名前を伏せておいたが、
>>1はどこにいったのだ。
というレスが有るため、
>>13が、>>1です。
と、名前を明らかにします。 わからなかったw
まだまだ洞察力がなってないなこちらも。
あまり長文ばかり書くのもどうかなと思ったんだけど、ごめんね。
ちなみに鬼和尚がよく投稿してた2年前くらいの本スレの雰囲気が個人には好きだ。
バカっぽい書き込みもあれば、熱い討論してる人たちもいたりして。
眺めてるだけで本当に楽しかった。
今の本スレもあれはあれでよいんだけどね、勢いがついててもう追えなくなってきた。
読むのが苦痛になってきてたから潮時かなと思ってたらこのスレが。
わりと緩い話も好きだから、そういうのも書いていくと思うが。
スレの状況をみてかな。 >>20
住人になるならいつでも歓迎するぞ。
今日は町内の作業でくたびれた。
これから始まるんだよな草刈りとの格闘が。
釈迦に相談したらなんて言ってくれるかな。
そういえば阿含経の中のこれに笑った。
「世尊よ、わたしどもは、女人をどのようにすべきものでありましょうか」
「アーナンダよ、見ないがよろしい」
「世尊よ、見た時には、どうすればよいでありましょうか」
「アーナンダよ、話をしないがよろしい」
「だが、世尊よ、話しかけられた時には、どうすればよいでありましょうか」
「その時は、アーナンダよ、用心するがよろしい」
こちらがアーナンダなら二行目で吹いてしまうんだが。 このスレの参加人数が少ないのでこちらの仮説を提示する形にする。
あと、こちらは仏教のことをあまり知らないということを伸べておく。
阿含経を検索してみてふと疑問に思ったことがある。
釈迦の言う「無我」とはそもそもなんなのだろう?
とりあえず軽く検索してみたからそれをまとめてみようと思う。
どんどんツッコンデもらって構わないし、これはそのために作ったものである。
テーマ:無我
A――――――――――
ラーダよ、色(肉体)は無我である。受(感覚)は無我である。想(表象)は無我である。行(意志)は無我である。識(意識)は無我である。
―――――――――――南伝相応部経典23-17
B―――――――――――
比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有ものにあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
―――――――――――南伝相応部経典22-15
このように実際に釈迦は「無我」(アナートマン)とされる言葉を使っていた。
このアナートマン(anatman)という語は「我、自身」を意味するアートマン(atman)に否定を意味するアン(an-)を付けたもの
このアートマンとはウパニシャッドの言葉であり、まとめるとこんなとこ。
アートマンとは?
@真実の自己である。
Aあらゆる生物の根底にあるものである。
Bこれは生物のように滅びることがない。
C人はこれを中心にして生存を繰り返す。
D具体的なものとして認識できないものである。
無我とはこのアートマンの否定であるわけだけども、一般的な見解ではこうなっている。
・釈迦はアートマンの存在を否定したことはない。
・アートマンは真実として捉えることができないものだからそのような仮定(妄想)を用いて作られた教えは愚かなものである、と相手にしなかった。
釈迦はいわゆる形而上学的問題に対しては沈黙したとされている。
つまりはアートマンそのものを否定する立場をとらない(同じ土俵に乗らない)はずであるから、この一般的な見解にはそれなりの説得力がある。
そもそもアートマンというよりウパニシャッドそのものを相手にしていなかった、と思われる。 では釈迦の言う「無我」とは一体なんであるのか?
これは先ほど述べたように否定の言葉であるわけだが。
それはアートマン(我)を否定したものではなく「真実として捉えられないもの」を否定したものではないのかと。
ここでいう真実とは形而下(時間・空間の中に形をとって現れるもの)のことね。
それならなぜわざわざ「我」を否定したのか。
釈迦はウパニシャッドが描く宗教世界の中で生まれ育ってきた。
いうなればウパニシャッドが世界そのものだったわけである。
その世界の根本にあるのが「我」というわけで。
こういう視点からいくと無我はこう言い直せるんだ。
無我とは「真実として捉えられるもの」または「時間・空間の中に形をとって(感じられるものとして)現れるもの」と。
この言い直した言葉で南伝相応部経典から引用したABをみてほしい。
なんだかよくわからなかった文章がすっきりする。
A
色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(意志)、識(意識)は「真実として捉えられるもの」である。
B
色(肉体)は無常で、無常なものは苦で、苦なるものは「時間・空間の中に形をとって現れるもの」である。
「時間・空間の中に形をとって現れるもの」は、自分たちの自由にならないものだし永遠不変なものではないのである。
どうだろうかな。
実は無我に関するものは阿含経のこのABしかみてないんだ。
他の説法ではおかしなものになるかもしれない。 ここで提起された疑問なりテーマは、倶舎論を紐解くといい線まで行くと思いますよ。 自殺教唆の邪鬼がくる意味はなんだ?
せっかく日本鬼子がいい問題提起したあと
邪鬼がしゃしゃるか?自殺教唆の邪鬼
坐禅年数自慢の邪鬼 愚者論の題材は邪鬼で十分だ
自殺教唆の愚者よ。坐禅年数自慢の邪鬼よ >>32
HN付けてくれ。透明あぼーん処理するから。
そうすれば無駄にスレを消化しないで済む。
根拠のない非難中傷を繰り返し、議論の阻害をするのはやめ給え。
邪魔だよ、坊やw >>12 ・・・「空」「縁起」「無常」の法が共通しているかもしれないと。
これについてどう思う?
これらの言葉の解釈はひとまず無視して、
これらの言葉が表すであろうある概念が仏教の根幹を貫いているといってもよさそう?
12の人は、「これらの言葉の『解釈』」と、
「これらの言葉が表すであろうある『概念』」とは異なると思っているようだが。
どう異なるの? 35.
空、縁起、無常、とかは対象の問題である。
宗教は対象の問題ではない。
それでは何か。 ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見て万有引力の法則を見出したのと同じなのでは?
お釈迦様は深い禅定より、諸々の現象から真理として空だの縁起だの無常という法則を発見された。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています