>>936
オウムのように体験至上主義の罠にハマってもどうかと思うね。
三昧も実相どうの一時的なもので悦に浸っても、過ぎ去るわけで、
仏典と同化することなく、体験と同化して自我強化することなく、
手放してればいいでしょうけど。

以下、アーチャンチャー「手放す生き方−気づきの瞑想実践」より抜粋

・サマタによる心の平安は、私たちの最終目標ではない。
ブッダは、自身がサマタによる心の平安に執着しなくなるまで、
存在の真実を探求し続けた。サマタは修行の途上の一段階にすぎない。

・ブッダは、智慧を通じた解脱とサマタを通じた解脱の2つを説いた。
教えはシンプルで、ただ物事を手放すこと、物事をあるがままにしておく
ことだから、多くの努力やサマーディ(定)を必要とすることなく、
彼らはとても自然な形で手放すことの実践を始めることになる。
このシンプルな実践は、最終的に彼らを我(アッタ―)を超えた、もはや
手放すものも、つかむものもない場所へと導くことができる。
一方、サマタを通じた解脱を目指す人は、その経歴次第でより
多くのサマーディを必要とすることになる。彼らはとても厳格な方法で、
長い期間坐る瞑想をしなければならない。