【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
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※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 五 ソーナ長老の章
一 王
このように私は聞いた。
あるとき、世尊はサーヴァッティ市外のジェータの林のアナータピンーディカ長者の園にお
られた。
さてそのとき、コーサラ国王パセーナディはマッリカー妃とともに王宮のテラスに登って
いた。コーサラ国王パセーナディはマッリカー妃に言った。
「マッリカーよ、そなたには自分より可愛いものが何か他にあるか」
「大王さま、私には自分より可愛いものは他に何もございません。それでは大王さまはいか
がでございますか』
「マッリカーよ、私にも自分より可愛いものは他に何もない」
そこでコーサラ国王パセーナディはテラスから下りて世尊のもとへ行き、世尊に敬礼して
かたわらに坐った。かたわらに坐ったコーサラ国王パセーナディは世尊に申し上げた。
「師よ、私は今マッリカー妃と王宮のテラスに登り、マッリカー妃に『マッリカーよ、そな
たには自分より可愛いものが何か他にあるか』と言いました。こう言うとマッリカー妃は、
『大王さま、私には自分より可愛いものは他に何もございません。それでは大王さまはいか
がでございますか』と私に言いました。師よ、こう言われて私はマッリカー妃に答えたので
す。『マッリカーよ、私にも自分より可愛いものは他に何もない』と」
ときに、世尊はそのことを知って、そのときこのウダーナを唱えられた。
心して至るところを遍歴したが、どこにも自分より可愛いものには出会わなかった。こ
の自分が可愛いということは他の人々にとってもそれぞれ同様である。だから、自分を
愛するものは他を傷つけてはならない、と。〔ウダーナ〕 自己愛を後にして神への愛を第一に持って来た、キリスト教国が世界に対して為した事を
見れば答えは明らかでしょう。
自己愛を先にしなければ慈悲心は成り立たないのです。
慈悲の瞑想の第1は自分の幸せを願う事からです。お間違え無く。
三連投ごめん。 そうなんだよね
自他の区別なく生きとし生けるもの全てに慈悲の念を持つのが慈悲の瞑想でその第一は慈悲を自分に対して向ける
この自分に対してというのは自他の区別をしない中でのひとつの存在(自分)
それから身内という意味では自分が好きな異性には最初はしないほうがいいとかも言われる
というのも好きな異性に対して思いを念ずると慈悲じゃなく愛欲がわいちゃうからね
でもそこらへんは全てのものに対して同じように念じられるように注意していけばまあいいかなと思うんだ
自分が慈悲を思いたい対象以外の対象(身近でないもの、自分が嫌ってしまってるもの)にも慈悲を念ずるし
自分へも他人へもその他の全てへも、全てに慈悲の念を持つのが慈悲の瞑想だよね
分別せず全てに慈悲の念を持つのが慈悲であり無分別なのに自他を分けて自分の幸せを願わないってのはおかしいよね >>906
慈悲の瞑想、慈経は、他の生命への慈愛、利他的なもので(中村元解説)。
自己愛という利己的な我執の自己になれということではないですよ。
907の引用は、他者への加害の禁止に転位させる善導の次第説法なんです。
仏教は自利だけを説いてません。
仏教は、自己愛性人格障害を生み出すものではないです。
>>909
自己こそ自分の主である、他人がどうして自分の主であろうか
(ダンマパダ160)
貴方の後世の哲学化理解だと、善法と不善法、解脱、悟りに役立つ教えと、
そうでないもの、また利益となる教えと有害となる教えを
ブッダは正邪真偽を実際に※分別していたのに、
自利と利他、道徳の説法も無分別では説けないでしょ。
無分別という精神的見解を持つ自我は、智慧なく択法覚支では説けない。
まぁ自利利他の教えなんだけど、自己を第一に渇愛で慈しみなさいなんてフレーズは
ないね。我執の克服、渇愛の克服、それが自己救済に繋がるわけで、
もちろん自己放棄、自己否定ということでもない。 >>910
誰も自己を渇愛で慈しみなさいなんて言ってないよ
自己であろうと他であろうと慈悲の瞑想において渇愛でなんて慈しまないでしょ
それから慈悲の瞑想は道徳がどうのという話じゃないと思うけど
慈悲の瞑を行ったとき一体誰が(自分の何が)一体何に対して慈悲の念を生じさせているのか考えたほうがいいと思うけどな
そもそもいまテーラワーダで行われている慈悲の瞑想は最初に自分の幸せ、自分の苦や悩みが無くなることを念じるでしょ >>911
テラワダの慈悲瞑の自分の幸せとかの部分は、原典の慈経にない後から作られた
ものです。修行メソッドですから、隨念効果もあり、それはそれでいいでしょう
けど。考えたほうがいいという観念ではなく、自発的なもので、
長部ソーナダンダ経
「智慧は道徳で清らかになる。道徳は智慧で清らかになる。 道徳から智慧が現れる。
智慧から道徳が現れる。 道徳と智慧はこの世でもっとも優れたものです。」
あれ、テラワダ教って智慧が現れるように修行しないの?
某長老さんは、智慧のある人は、慈しみがあると説いてますよね。 >>912
あなたの慈経の解釈がそういうものならあなたにとっての慈経はそれでもいいけど、
ただ慈経に自分の幸せを願うなみたいなことも書いてはないでしょ
道徳に関して道徳は無分別で説けないとあなたがいうからあなたのいう道徳が分別ある世俗的な道徳の意味だと思って言ったのです
そこで書かれているソーナダンダ経の道徳とはそういう分別あっての道徳ではなく分別をなくしていく道徳ではないですか?
智慧という言葉を使うならそれこそ無分別の立場からあらわれてくることでしょう
自分や他の様々を分別して智慧が現われますか?
慈悲の瞑想で自分の心身から苦や悩みがなくなることを思って何がわるいのかわからない
自分からも他人からも全てのものから苦がなくなればそれでいいと思いますが >>913
中部9正見経の十不善と三不善根の善法と不善法、
解脱に役立つ教えとそうでないもの、また利益となる教えと有害となる教え
正邪真偽を実際に分別(択法覚支)、分別主義とも言われてました。
>無分別の立場
貴方が、無分別という精神的見解に束縛されているので無分別を
一生懸命、正当化されるのでしょう。
そういう束縛からの解脱を説くのがブッダですよ。
原始仏典にも、無分別とは説かれてません。
ええと、修行上では無思考になることございますでしょう。
智慧の完成者が自己と他人を区別して、道徳、慈悲を実際説いております。
貴方のように無分別に束縛支配されず、思考を道具として
使えているわけです。 横から
>>914
無分別は不戯論のことだよ。
ニッパパンチャ。 >>914
慈経の全ての生きとし生けるものが幸せであるようにという生きとし生けるものに自分が含まれない意味がわからないのですが
あなたにとっては含まれないという解釈なのでしょうしそれはそれでいいです >>915
いや、私も学者先生と同じく徹底的に調べたら仏典上に無分別は説かれてなく、
修行論の説明で無分別を便宜上使っているだけなんです。 >>916
Sn.150「全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)」
Sn.149「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、
そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の
慈しみの意を起すべし。」
Sn.148「他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いを
いだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。」
すべて、〜に対して、ですよ、自己に対してとは説かれてません。
他人とも使ってますよね。 >>918
結局のところあなたは自己をあくまで瞑想する自分(主体)と捉え、私は自分の心身を他人と同じ瞑想の対象と捉えているのです
私から見れば自分は母でもあり私の心身はその私の子供であるし生きとし生けるものに当然自分が入るのです
だから慈経の解釈も変わります
あなたはそういう見方をしてないとわかりましたのでそれでいいです どちらも、相手が言ってもいない極論を相手に反論しているだけに見えて、実に滑稽。
>マッリカー夫妻への、自衛愛から他衛 >自他分別なき、大海の如き慈悲
前者は、確かに自分を優先させているけれども、
それは、他を蔑ろにして、或いは無視して、
或いは常に・必ず、自分よりも後とする・自分の利よりも下位グレードとして扱う、
ということではなくて、
他者の利益を(不害を)確かなものにし、やがてそれが、自身の最上の善なる行為となさしめるために、
気付きをうながしているだけでしょ。
決して自己中心的な思想が説かれているわけではないでしょ。
なぜ、他をがいしてはいけないのか?という理由付けとして、これほど説得力があり、
むしろ、現代社会に於いて、大層希薄となってきている
「相手の立場となること」「他者の気持ちを想うこと」そうした想像力を生じせしめるのに、
「わかりやすい」んじゃないかね・・・。
(まあ、子どもの虐待なんてのは、昔からもあったことだろうけれど、
最近のは、ほんとうに想像力の欠如に起因するんだろうな、とも思うわけで・・。
また後者は、
区別しなくていい、吟味しなくていい、無条件の平等でいい、条件・環境・状況を無視していい、
或いは、たとえ他者の不害のためであっても、まず自衛を掲げることを忌避し、嫌悪し、
更に極端に自己を犠牲にしてこそ徹底的に自己の利益を避け・寧ろ自ら不幸になることによって、慈悲の本質とする、
ということでもないでしょう?
(どっかのすれでの行き過ぎたボランティア理解と重なる話だけれど、
自分を優先して犠牲に資、不幸にしてたら、それはそれで、逆の位相で、平等無分別に外れるしw)
分別してたら、それが、扱いの相違になり、やがて単なる区別を通り越して差別と化していくから、
そうならないよう、わけ隔てない視線の投げかけが、仏法の(慈悲の)本質だということを言いたいだけでしょう。 >>919
実は貴方の言いたいことは分かりますよ。
すべては一体、全体の部分であって、部分は全体に含まれ、同質性という
=ヘーゲル哲学、梵我一如的
禅宗の悟り話的で、もう あるあるな話でしょ。
中村元の解説では、我執の克服で、こだわりがなくなり開かれた自己によって、
※他者と素通しになり、慈愛という美質が湧くものとあるけど。
まぁ自他区別ない同質性でもいいけど、ヒンドゥー的、大乗的でいいのでは。 >>904
藤本晃「仏教の正しい先祖供養 功徳はなぜ廻向できるの?」
水野弘元(監修)、戸田忠、ウ・ウエープッラ(訳注)
「アビダンマッタサンガハ―南方仏教哲学教義概説」
http://www.kotobuki-p.co.jp/nakayama/index5-2.htm#012
ですかね。前者は電子書籍しかなく、後者はアマゾンではなく出版社のHPに在庫があると思います
後者の副読本として
藤本晃「『アビダンマッタサンガハ』を読む」
をオススメします(こっちも電子書籍しかない)
あとは
バッダンタ・ニャーヌッタラ「テーラワーダ仏教が伝える慈経」
http://www.kotobuki-p.co.jp/nakayama/ryosyo_01.html#jikyou てゆうか無我が分かってないから自利だ他利だって議論になるんでしょ。
無我なら「生きとし生けるものが幸せでありますように」で何の問題も無い。
まず渇愛を無くして、無我にならないと。 >>922
おおーありがとうございます、ちょっとしらべてみますね
アビダンマ難しそうで放置してたんですがちょうどいい機会ですので勉強してみようとおもいます >>923
自利利他は、堂々と仏典上の仏陀の教えにありますけど、
無我に囚われてばかりで読んでませんでしょうか。
自己放棄でも否定でもなく、虚無化でも、極論化でもなく、
無我で実現する自己を仏典上で認めてますし。
某スマ長老は、出家者でない人に、堂々と皆と議論して下さいと
説いていますけど、さてその真意は何でしょう。
慈悲でもって根拠をもとに教え諭すのが、プロなのでしょうけどね。 >>925
自利利他と慈悲は別の話でしょう。
無我ならば、慈悲行において何の矛盾も、
問題も生じないのは確かではありませんか?
慈悲の中に自利利他を持ち込む必要は無いでしょう。
もったいぶらないで下さい。言いたいことがあるならどうぞ。
真意は何ですか? >>925
ちなみに、無我で実現する自己とは何ですか? 世間の基準と出世間の基準を、一つにまとめようとするから、おかしくなる >>ALL
世間の真理はこう、出世間の真理はこう、のダブルスタンダードでいいじゃん。
そうであることこそが、
一神教のような、ワン・スタンダードによる歪さかを回避できてる仏教らしさだと思うんだけどね・・。
マッリカーへの教えのどこがおかしいのか?
自他の分別を本当になくしてしまったら、日常のあらゆる事柄が崩壊する。
ブッダは、そのような、人々の社会の崩壊を説いたのか?違うだろ?
無分別は、あくまでも仏の視線、仏の価値観であって、
それで日常の様々な事象を処理していけると考えているとしたら、
よっぽどの世間知らずとしか言いようがない。 仏道実践は道、つまり過程なので、実践の段階によって体験内容は
違いますし、理解の仕方も違ってきます。
例えば、禅定に達していない段階での慈悲の瞑想は、どうしたって
常に自我意識があるはずです。
欲界善心ではない色界浄心の慈悲心が生じるのは、五蓋が滅して
禅定に達している時だけのはず。
自我の思考が生みだす欲界善心と、それらが一切無いところに生じる
色界善心は、まるで別物です。 仏教理解は、仏道実践者の立場によっても変わってくるはずです。
例えば、人生苦に打ちのめされた自殺寸前の奴隷と、
一国の王子に生まれついた菩薩が、同じ法門に出会っても
関わり方は全然違ってくるのではないかと思います。
出発点からすでに違うのです。 平等というのは、金太郎飴のような均一な理解ということではないはずです。 >>928
無我を悟ったからといって、自他の分別は無くなりませんよ。
無分別、つまり認識作用が止滅すれば無明が無くなるだけで、
日常生活はそのまま、業のまま、ただの人間のままですよ。 >>926
利他行の説く内容と、慈悲行の説くとこは関係している
ことが分かりますよ。学者と某長老の解説も同じです。
中部61と合わせ、利他が伴う行いを最高と推奨して説かれてます。
我有りの利己的な我執の克服の行いに繋がるからでしょう。
>>927
著名な学者や僧の専門書を読めば記述されてます。
もうあれこれ書くと、今度は貴方が抱く仏教で論戦するわけでしょ。
自分は苦悩が減少し、以前より生きやすくなれ、周りから好かれるようになり
仏教には感謝してます。どうぞ貴方も仏道で幸あれ。 >>929
禅定ではなく、智慧で自我を滅ぼした人の、
慈悲の瞑想はどうなりますか? >>933
それを言えば仏説は全て関係していますよ。
ただ、慈悲は慈悲、利他は利他で考えるべきだと思いますが。
慈悲、利他について説くあなたが、なぜ説明をしてくれないんですか。
経典、書物よりも行だと思いますがね。 仏教(上座部)も経典至上主義になりやすいからね。
初心の人は、とかく経典に文言に忠実になるし、
瞑想なり修行が進んだ人は、経典から離れて体験も交えるし、
そうした人が意見交換したって、白熱した並行線になるだけだよ。
お互いが違う所から意見を言っているんでね。 学問ばかりして、内容を理解せず、
お釈迦様に叱られた比丘がいましたよね?あれ誰でしたっけ? でもね、最初は経典に忠実に学習して
言葉とか定義とかをしっかりと勉強するのがいいね。
経典をほとんど読んでない比丘もいるしw
上座部ならパーリくらいは全部目を通して中身も憶えるくらいがいいよ。
これを土台にしながら瞑想や修行を続けて、
文言の世界とは違う実相に触れて、観念を超越して、
自我を見切って、主体の無いことを知見することだね。 >>938
でもどうでしょう。
お釈迦様は対機説法でたくさんの人に法を説きましたよね。
一個人に必要な説法は少しでいいと思うんです。
全部読んじゃうとかえって分からなくなりそうです。
比丘になるなら全部読んだ方がいいでしょうが。 >>936
オウムのように体験至上主義の罠にハマってもどうかと思うね。
三昧も実相どうの一時的なもので悦に浸っても、過ぎ去るわけで、
仏典と同化することなく、体験と同化して自我強化することなく、
手放してればいいでしょうけど。
以下、アーチャンチャー「手放す生き方−気づきの瞑想実践」より抜粋
・サマタによる心の平安は、私たちの最終目標ではない。
ブッダは、自身がサマタによる心の平安に執着しなくなるまで、
存在の真実を探求し続けた。サマタは修行の途上の一段階にすぎない。
・ブッダは、智慧を通じた解脱とサマタを通じた解脱の2つを説いた。
教えはシンプルで、ただ物事を手放すこと、物事をあるがままにしておく
ことだから、多くの努力やサマーディ(定)を必要とすることなく、
彼らはとても自然な形で手放すことの実践を始めることになる。
このシンプルな実践は、最終的に彼らを我(アッタ―)を超えた、もはや
手放すものも、つかむものもない場所へと導くことができる。
一方、サマタを通じた解脱を目指す人は、その経歴次第でより
多くのサマーディを必要とすることになる。彼らはとても厳格な方法で、
長い期間坐る瞑想をしなければならない。 >>936
だからw そう言ってるだろ。
それをわかってない二人が言い争ってるんじゃないのかい? >>941
七清浄
1. 戒清浄
2. 心清浄
3. 見清浄
4. 度疑清浄
5. 道非道智見清浄
6. 行道智見清浄
7. 智見清浄
1は戒律、2は禅定(サマタ瞑想)、3-7はヴィパッサナー瞑想と関係している。
在家でもできないことはないようだが。あくまで出家向きではあると思う。 >>942
>無分別は、あくまでも仏の視線、仏の価値観であって、
あー、禅宗のバイアスがあるんだ。
そういうものを価値観として重んじるなと仏典にあるけど。
>無分別、つまり認識作用が止滅すれば無明が無くなるだけで、
そして、お決まりのように、これ一点もってくる、毎度おなじみ
のあるあるパターン、いえ、そこだけが焦点でないでしょ。
あのー、無分別研究している学者先生がいて、
なぜ無分別の一点を重んじるのか、そのルーツが分かったんですよ。
無念無想、不思不観、無分別、不二へと陥った原因が解明された。
でもね、そこに固執している方と論争になるので、書きません。 オウムは帰依の対象が仏陀じゃないから仏教ではないので、比較対象としてどうなのかね。 >>945
学者の研究はいいですから、
無分別になってみてから言ってください。
たしかに無明が無くなります。 八正道
1. 正見
2. 正思惟
3. 正語
4. 正業
5. 正命
6. 正精進
7. 正念
8. 正定 ←サンマーサマーディ(九次第定)
サマタできる人は、出家でも何割か程度らしい。
なので、それ以外の人に向けたメソッドも開発されてきたということでしょう。
でも、仏陀が出家した高弟たちに教えた方法は経典の通り。 三学
1. 戒
2. 定 ←サマーディ
3. 慧
仏陀が教えた修行法はサマタ、ヴィパッサナー双修であって、
ヴィパッサナーオンリーのサマタ否定ではないはず。
ただ、一生掛けてもサマタが成功せずに挫折してしまうよりは、
続けられるメソッドで続けた方がいいのかもね、という理解。 修行寺の出家って、毎日朝から晩まで10時間くらい座禅ばっかりやる生活なんですよ。
それを何年もやる。
それでもサマタが成功して(禅定に入って)、禅定の定力を支えとしたヴィパッサナーを
修行していける人は、全体の3割程度らしい。 サマタ否定しようとしても、そもそも戒律がすでにサマタの始まりだと思うのよね。
個人的には。
サマタ否定の本当の意図を、その前後の文脈や背景と共によく検証してみると、事情が見えてくるんじゃなかろうか。 >>951
ん?サマタに執着するのが問題じゃないの? 色貪無色貪が無くなるのは阿羅漢になる時のはずだから、
ヴィパッサナーの修行をしている最中も、最後まで完全には
なくならないのでしょうけれども。
ただ、それをいったらサマタできない人は欲貪の段階なんです
けどもねぇ。 >>948
八正道のプロセスによって修習される四禅定は、
九次第定の中の四禅定とは異なります。
八正道の正定は、四禅定までの説明で終わっています。
七科三十七道品の中には、八解脱などの四無色定がその中に
含まれる修行は入ってません。 >>953
さぁw
オウムがどうたらこうたらって。よく分かりません。w 過去世を思い出したり、過去世の業を見て今世の生まれが
何故こうなっているのか、その理由を見たり、そういうことは
サマーディがないと思い出せない。
サマーディがあれば思い出せるので、そのレベルの観察ができ、
そのレベルの洞察が得られる。
過去世の記憶は、今世の自我の中からは、いくら頑張ったって
出てこないからね。 私は初禅ぐらいしか経験が無いのでよく分かりません。 >>951
否定でなく、貴方のように境地に執着してしまうわけです。
体験でもって自我強化してるわけで、しかも体験のその実体視で
意識誘導して、都合よく意味づけをしてしまう。
色受想行識の範疇の接触を縁としているのに。
深い禅定も作為的にもたらされたものは壊滅は避けられず、
無相定の限界を知りなさいと説かれ、
サマタを極めても解脱完成しないと説かれ仏典にありますが、
それを心解脱として、慧解脱が必須と説かれてますよね。 他宗教ならいざ知らず、サマタが最終的な到達点だと思っている仏教徒なんて、
今どきそうそう居ないと思いますけども。 >>958
仏陀が説いた八正道から正定を切り落として七正道みたいに改謬してしまう方が
ずっと問題だと思います。
これのどこが執着なのでしょうか。 私も初禅入りましたけど、まぁこんなもんかって感じでした。
別に執着はしませんでした。 こういう話が、迷信やオカルトのようなものだと感じている人が多いことは理解できます。
でも、率直にいって迷信は自我の妄想の方なんです。
心(精神現象)が、脳や身体といった物質から発生しているという現代人の信仰も、ひどい迷信です。
真相はまるで逆なんです。 >心は物質から発生している。
>精神現象は物理現象である。
↑
現代社会でもっとも普及している宗教的教義ですが
冷静に考えてみると、ひどいオカルトです。 >>965
思考、妄想は脳を使うんじゃないですか?
脳の中にあるような気がします。 >>965
オカルトじゃないだろw
単なる事実の積み重ね(五蘊の反応)であるだけで。
その先に何かあるのかどうかは、禅定をきわめてないのでわからんが。
少なくとも、965のような言い切りが仏教的でないことはわかるw >>957
「われには、われが、かつて存在したという思いもないし、
またわれには、われが未来に存在するであろうという思いもない。
潜在的形成力は消滅するであろう。
ここに何の悲しみがあるであろうか。」テーラガーター
テーラガーター
「わたしは、束縛をのがれ、煩悩のけがれのない者となった。
実に、わたしの誓願としたところのものは、
※過去世の生活を知る[通力]を得るためではなく、
すぐれた透視[力]を得るためでもなく、他人の心を読みとる[通力]をえるため
でもなく、死と生を知る[通力]を得るためでもなく、聴力を浄める[通力]を
得るためでもなかった。」 こう考えると、
片山さんは、ほんと、慎重だったんだなぁ・・・。(懐 >>968
七清浄
1. 戒清浄
2. 心清浄
3. 見清浄
4. 度疑清浄
5. 道非道智見清浄
6. 行道智見清浄
7. 智見清浄 ←それはココ
わいはもっとずっと手前。 >>966
思考を止めた(というか思考をスルーできた)ことがあるなら、
思考と、その思考を見ている意識が別なのは分かりますよね。
脳との相互依存関係で生じている現象が、精神活動の全部ではないはずです。
それは精神活動の表面というか、根っこではない。 時に自分の名前さえ忘れることがあったと言われる周利槃特
当然新たな知識を得ることはかなわず、瞑想することもせず、ただひたすらに掃除にに専心し、悟りを開く。
なかなかすごい逸話である。いろいろ示唆に富んだ内容である。
釈尊いわく
「悟りを開くということは、
なにもたくさん覚えることでは決してない。
たとえわずかなことでも、徹底して行うことが大切なのだ。
ほんの短い教えの言葉であっても、その言葉の本当の意味を理解し、
道を求めていくならば、さとることができるのです」と。 >>972
仏教が知識の詰め込みでないことは、明らかでしょう。
けど仏典を読んで気づかされたり、解脱に役立つ教えが含まれてますから、
読む自由を否定できないでしょ。
私は実践してますよ、けど教学にも救われ、助けとなり、
軽視せずよかったと実感があります。
でないと、サマディで過去世を等とか、マイ観念的仏教化していきますから。
仏典や解説を読めば、あーそういうことかとか、今に生きるってとか、
自我の構成についても分かり、何で観察瞑想するのかまで分かり、
知的準備なく、単に瞑想しろでは、健康効果で終わることもあるでしょ。
チャー師も、瞑想者の私とアイデンティティ化させるなと、
そうなると、貴方のように知識主と対峙してしまうのかもしれません。
9取(執着、対象と同化)、10有(仮構され)、11生(自我生じる)
アイデンティティを構成10有 サマーディの実体験をする人、正定の重要性を訴える人を見かけたら、
反射的に、その人は三蔵読んでないと思い込む癖はどこから来ているのか。
なんか歪んでる。
わいの本棚のほとんどは仏典と仏教関係書籍だというのに。 仏教徒が真面目に八正道を進んで行って、正定に入ったらいけないの?
過去世を思い出して縁起を観察する修行法、清浄道論になかったっけ?
ダメなの?? 本当は、心のどこかでそんなもん無いと思ってるんじゃない。
それが疑、五蓋なんだってば。 疑
戒勤取
有身見
これ全部あるでしょう。
マハシを指導しているスマナサーラ長老だって、一来果以上は
瞑想やらないとなれませんよと話している。
おそらく、修行者が本当に預流果に達したなら、それまで禅定を経て
いなくても、一来果に向かう過程で必ず禅定を経るはず。
預流果になれば五蓋が弱められるうえに、すでに疑がないので、ぶれずに
瞑想に全身全霊を傾けられるようになるからだと思う。
わたしは道果は達していないけど、道は見た気がする。 いま日本で流行ってるマハシ系の人たちの言う預流果って、
三帰依して戒律を守って瞑想しているから、来世悪趣に落ちる心配は(あんまり)なくて
ほぼ預流果と言ってもいいよね、という“ほぼ預流果”じゃないかと思ってるんだけど、
違ってたらごめんね。
だって三昧も経験してないし、それどころあるとさえ思ってない風だし、涅槃を見たわけ
でもないし、厳密にはまだ預流果じゃないはずなので、油断しない方がいいと思う。 不退転とは、「決して退かない、あきらめない、やめたりしない」
という意味で理解されていることが多いかもしれないが、多分違う。
一旦ステージが上がってしまったら、どんなに必死に戻ろうとしても、
以前の(俗なる)自分には戻りようがない、という意味なのでしょう。
だからこそ、「来て、見よ」と言われ、且つ、すべてが滅し、静まり、
再び母胎に宿ることがない(≒俗世の業を積むことがない)と言われるのでしょう。
その意味で、定を修める(極める)ことは、(どのタイミングどの段階かは別としても)
通過が必須な要素なんだろうね。 スマナサーラ長老版の慈悲の瞑想の文言の
悟りの光があらわれますように ←コレ
これは経典教学の智慧ではなく、瞑想による般若の智慧が
現れた時の表現としか思えない。
スマさんは知ってて、分かってて、黙ってる。 >>975
私は一切、正定を否定すること書いてませんよ。
純観行者がいて解脱した修行者がいたことは確かです。
私は以前の苦滅が済んで、日常実践で安楽に過ごしてます。
で、貴方の仏縁の着地点は、何でしょう。
聖者でも成りたいのですか、自己流でなく、こうなりたいと信頼できる師に
ついているのですか。
過去世を思い出す作業より、もっと合理的な悟り,解脱,涅槃に至る教えが
あること見つけられてないのですか。
九次第定にしがみついている様子だと、複数ある解脱プロセスが
整理できてなく、智慧の解脱の教えを見つけられてないのでしょうか。
相応部スシーマ経では、堂々と、解脱には、過去世どうのは、必須でないと
否定しています。それがブッダが必須と説いた、慧の解脱です。
五神通は解脱,悟りへの必須条件ではないと、明示されてます。
あと色界を超越して、寂静な無色界の解脱に身体をもって触れたか聞く、
それも否定、智慧によって解脱と。 >>980
>>981
>定を修める(極める)ことは、通過が必須な要素なんだろうね。
ところが仏典上では、極めること必須でないと説かれてます。
純観行者=乾観者
慧解脱の阿羅漢、サマタを極めることなく、観瞑想の解脱者
観瞑想でも集中が伴う初禅に入れてる
ちなみに、この実践で完全智の解脱可と説く、
中部10経、念処経、長部22経、大念処経、も目を通したのかな。
ええと、あれこれ流派の概念構想に沿って瞑想修行してても、
スマ長老が大先生と呼ぶ チャー師の教えの通り、結局、
シンプルに手放す生き方に落ち着くそうなんだけどね。
というか君らは出家した方が、修行環境整ってていいのでは? >>981
>悟りの光があらわれますように ←コレ
スマ長老は、
パーリ語で光といったら智慧という意味ですと答えてます。
>瞑想による般若の智慧が現れた時の表現としか思えない。
スマ長老の本には、
瞑想中の光は、幻覚で、智慧と関係なく誤解しないこととあり、
オウム麻原は、光を見て最終解脱したと自慢していたとあります。
ええと、貴方、都合よく意味づけして、妄想激しくないでしょうか。
そういう人が、過去世でどうのとか、正定が九次第定とかもう、
そもそも根本的なことが、、5ちゃんに来る人らしいですね。 まぁ、こういうことになるから密教化したのだろうけれども
もともとは秘密ではなかったはずのものだと思う。
秘密にしなくても、正定からの智慧(三学=戒定慧の慧)に達していれば分かることだし
達していなければ、妄想との判別がつかない。
それだけのこと。 思考の中だけでの仏教理解は、あくまで自我のなかに生みだしている概念だから
般若の智慧じゃないんだよ。
人智のなかに生みだす概念が、人智を超えることはない。
しかし般若の智慧とは、人智を超えたもの。 幻覚の光というのは、五蘊のなかに生みだした感覚のことでしょう。
五感が働いている。
夢を見ている時も、感覚がある。
禅は完全に決まると思考も感覚もない。
そこにある光は幻覚ではない。
心はもともと光だから。
(例えば、無色界の梵天には身体はない。)
梵天の話をするとオウムなら、梵天の勧請を受けた仏陀はどうなってしまうのか。 スマさんがいってる光を気にするなっていうのは、瞑想初心者がよく言う
光がみえただの、映像がみえただの、瞑想中にでてくる妄想のことでしょう。
そんなことは当たり前のことで、分かりきってるんですよ。
その辺の話をしているんじゃないんです。 スマさんが、心は光より○○倍速いとかって話してるのを聞いたことあるでしょ。 光を見るときはエゴが見てる
梵天を知るときはエゴが働かないとき(釈迦が梵天と会ったのは悟った後) >>989
ええと、貴方の一連の話から特に目新しいことはないです。
スマ長老は、仕事のある在家の現代人は時間がないから、
サマディを作らず、私が指導する簡便な止と観ヴィパッサナで
短い時間で結果が出せると本でも述べ、それを瞑想教室でも教えてます。
私も何回かスマさんの瞑想講座にも参加しました。
貴方は専念できる時間がたっぷりあるなら、貴方がしがみついた仏道を進まれ
実践してくださいな、相手より自己を観察せよでどうぞどうぞ。 >>993
光、ニミッタという幻覚を制御させて観の質を高められるとかね、
必要ないとスマさんが在家向け指導する瞑想で短時間で効果出せると
述べているけど、そこまで境地に執着する必要あるのかな。
しかも仏典上もサマタ(極め)修め必須でないと堂々と説かれていて。
サマタで無常が悟れても、智慧の開発はヴィパッサナとスマ氏説くが。
こういう体験をして何かを得ている比類なき私って、もうそれ自我構成強化。 このスレッドは1000を超えました。
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