【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 >>619
心を見通す能力と、その人の人格が素晴らしいかは
別なんですよ。
視力が良い人を人格者と言わない。
人を助けるために、いかに受け取った情報を組み立てて
役立てるか?そこに個人の采配、生き方のセンスが現れちゃう。 瞑想が上手い
有名な指導者
弟子が多い
だからといって人格者とも限らない!? |lililililililililili/ .ヽlili| /:::::::,ヽ#"ヽ` "゛/ :::::|
ililililil ilili〆 /⌒ lili/ /::::::/ .,,=≡, ,,≡=, l::::::|
(ili -・=V =・- V) i::::::l゛ .,-・= ,!. =・- l::τ
゚li " (・_・)ヽ l* |:::::| :⌒ /.. iヽ ⌒u|::i
)人 > ⇒( 人( (i::i″ ,ィ__) i/
_ __:ヽ、__ __,イ_ ヽ U / ::::/:::〈 i
/;:;:/゚。 ⌒。゚\;ヽ ヽ_ ノ::``ーー''ヽ _/
|:;:;:;:;Y * /;く;:\ __人 ` ̄´ 人_
|;:ヽ:;:;: \ ̄/;:;/;:;:\ /: : : : : ` " λ : :ヽ: :\
|:;:ヽ:;:;:;:;ヽ/, / ⌒つニ/⌒ ヽ: : : :\ /▼ヽ/: :く: : : \
|;:;:\;:;:;:// /< 二二)(二二): : : : : :\▲/:_・:/: :_: : : :ヽ__
|:;:;:;:\;:;:|| | < __)ゝ__人: : : : : : : ▼// ̄__つ (__)
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ヾヽニニ/ヽ--'/: : : : : :\: : : :| | | < ___) (__)
反 知 性 主 義 者 >>625
このタイミング...
書きたいこととバックグラウンドになる経験もありますが、そこは今は書かずに流れに穏和に応じて書きますね
あなたが云わんとすることも分かるので、それは胸に留めておきますの ブッダの教えや先達の長老方の教えを疑っていてすみませんでした。ここにおいて、
謝罪させていただきます。 慈悲の瞑想が好きでやっていたけど、気が付いたら慈悲もどきのエゴの瞑想になっていた
自分以外の人達の幸せを願っていたよ
幸せになってほしいと思っていたよ
でも、自分のものさしで推し量った幸せや、自分に都合の良い幸せ像の押し付けになっていた
それに気付いて微妙な気持ちになった
アーナパーナ・サティからやり直すわ >>632
360度廻って同じところ
でも、それはまた違うものだと私は思います メーテルさんのまとめで知って、眼からうろこだったよ。
ペラヘラ祭は、土着宗教のサマン神と仏陀の合祀されたものだってこと!
スマが自分を仏陀その人と勘違いしてるぐらい奢っていても
「荒ぶるヤカー」スマ神と仏陀、サマン神の合祀 スマン神だと思ったら理解できた。
理性とか、自己観察とか言うからなんか変だなぁ〜変だなぁ〜と思ったよ。
土着信仰をひろめに来たんだね。
スマン神さまにお稲荷さんをお供えして、おみくじ引いてあげるね。
日本にもそういうの、もともとあるんだよ。早くいってくれればいいのに。
なんでヴィパッサナー瞑想とかしなきゃいけなかったんだ・・?! >>635
私がまとめたものじゃないですけどね
今後ともみんなで改訂してペタペタ貼っていきましょう >>637
死刑は五戒を破ることになるので良くない。
仏教国ではありえない。 苦から逃れる。
それは、現実の娑婆世界からの逃避?
苦しむ因となるものから逃れる。
瞑想して思考停止する。
釈迦仏には、悩みも苦しみもなかったのだろうか?
解脱?悟り? 成仏とはいったい何?
仏教の最終ゴールとはなんですか?
成仏したあとは、どこを目指すのですか?
この娑婆世界を離れて、仏の住む寂光浄土というものがあるのしょうか?
誰かが言っていたように、「苦を除く」という目的であれば、現代科学を駆使して物理的人体改造で事足りるのでは?
しかし、そうなってはもはや「人間」では無くなるような気がしますが如何? >>639
まずは入門書から読んで便器してください。そんな基礎からここで説明するのはスレ違い >>640
あなたに答えられる訳がない。
上から目線でものを言う慢心者は、仏法者ではない。
スルーして結構です。あなたに答えは求めていない。
ある生徒が疑問に思ったことを先生に質問した。
それに対し、先生曰く「そんなことも分からないのか!」と。
生徒は先生に「自分の知識の有る無し」を評価してもらおうと思ったのではない。 「答え」を知りたかったのです。
これは、認識と評価を混同した例である。
本当に仏法を理解している人の説明は、釈尊が「種々の因縁、種々の喩え」によって広く教えを説いたように、実にわかりやすい。
反対に理解していない人の話は、自己陶酔型の説明が多く、分かりづらい。(学校においても、一級の教師と3流の教師の違いはまさにそこにある。)
いままで、いろんな板で多くの論者のレスを見てきたが、大抵はその定義が成り立つ。
そして、一番分かっていない者ほど「そんなことも分からないのか!」という捨てセリフを言いたがるものだ。(笑 そして、もう一つ私の持論だが
仏法は実践しないと本当には分からない。
何度も例えに出すが、バットを振ったことにない人間が野球教本を何万冊読もうと、草野球のレギュラーにすらなれない。ということだ。 >>639
現実世界から逃れるというより、より明らかに現実とコミットすることだと思うよ
だいたい、我々の思考や感情は現実に基づいていないことが多い
体調が悪くて不機嫌になり、自分は不幸だなぁ、とか相手が悪いんだ、とか思うことは
現実的ではないけど、本当に思ったよりよくあること。
虫の居所が悪くて、他人を悪くとらえたり、逆にちょっと良いことがあると慢心したり
まあこれらは極端な例だけど、ちょっと観察するとこういうことは本当に、毎瞬舞瞬
自分の中で起こっている。
それらを明らかに観察すると、ちょっと距離が出来て、より現実的になる。と思う。
その究極の地点が仏教で言う解脱であり、一神教で言う神の国かもね。 たとえば・・・ケンカするときは、どうしてもそのときはケンカしなきゃいけない、
相手が悪いのは絶対。自分は言わなきゃならない。と思う。
でも、それは現実ではない。けんか腰になる必要はないし、それどころか発言せず
退出することだってできる。
けんかする必要がないのに、そのときは、他に選択肢がないと感じている。
これが仏教で言う迷いであり、苦でしょう。
卑近なところで言えば5ちゃんでの議論、拡大すれば国家間の戦争。
宗教者でさえ
本当は必要がないことなのに、おびただしい時間と労力を使って傷つけあう。
瞑想は時間の無駄という人がいるけれど、僕はそうは思わないな ブッダの教えで私たちにもたらされるものは「私」からの離脱です。
「私」からの離脱が起こった時、苦の滅が行われます。
これらを初めて体験する場合、初めて本当の意味で「私」とは何か、「苦」とは何かを知ることになるでしょう。
逆に言えば、「私」からの離脱が起きない限り、それらを知ることは出来ないということになります。
それらは、空気と同じであまりにも当たり前すぎて私たちには捉えることが出来ないのです。 「私」がいない世界を想像できますか?
悟った人は、「私」がいない世界を生きています。
「私」がいない世界を今この瞬間感じて生きているのです。
一般的に考えて、「私」がいない世界はあり得ないことはよく分かります。
そう、悟った人というのは、ごく一般の人間、ごく一般の生命では到底あり得ない、宇宙の中で極めて特異な生命であり、正に仏法の稀有さを体現している人だと言えるでしょう。 ブッダの教えの本当の価値は、悟った時に初めて分かると言えます。
一度預流果になってしまえば、必ず阿羅漢になると言われる所以はそこにあります。
「私」からの離脱は、生命の存在の根本を覆す、比類のない価値観の変容をもたらします。
その凄まじさを体験した後は、もうその瞬間以降はブッダに帰依するしかありません。
「もう、これ以上のものは宇宙に存在しない」と確信が持てるようになります。
ただ、そういった話を聞いて「私は悟ってないからブッダの教えの本当の価値は分からないんだ。」と落胆する人がいます。決して落胆しないで下さい。
私たちが取るべきなのは落胆ではなく、「私は知らない」を自覚し、驕り高ぶることなく謙虚に精進するという事なのです。 >>646
「私」からの離脱
に出発点として不必要な困難を招く誤謬があるよう私には思えます。
このスレの発言のどれがあなたですか?
つなげてみなければ分かりませんので >>649
このスレでは>>638だけです。
参考にならないと思います。
すみません。
前スレでは
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/
ID:leT8Ny+V
ID:wKv6syH8
など発言してますよ。 >>650
ありがとうございます
明日、会社でプリントアウトして考えてみます
悟らなくとも仏法は活かしてゆけるのではないかという立場です。
なので、どうしても悟らなければ仏法は意味がないという日本テーラワーダ系の論調に過敏になってしまいます。
「私」からの離脱よりも在家は洞察によって過剰な「私」への執着を落とすことの方が有効ではないかと考えています
もちろん、悟り、あるいはそれに近い方々がその風景を大いに語って頂くことはありがたいことですが
その意味もあってスマナサーラ長老の法話に納得がいかないのです >>651
>悟らなくとも仏法は活かしてゆける
仰る通りだと思います。
活かしてゆける、つまり実践の道中でも果実は得られるということですよね。
そして、「私」への執着を落としていくということは、正に日常生活で活きてくる在家にとって重要なことだと思います。 みんな、よりよい人間になるとか、人として幸福に生きるとか、此岸の話しか理解できない人が多いよな。
来世で天界に生まれ変わるとかもそう。此岸の話。
それは別に否定しないけど、彼岸に渡る話こそが仏法の真骨頂なのに。 悟りや解脱は、現実逃避じゃないと思うよ。
そもそも凡夫が考える現実とやらが主観であって、幻想なんだからね。 >>654
確かに凡夫には端的な主観しかなく幻想かもしれませんが、彼岸に渡るまでは旅じゃないですか
親切な指南書みたいなものがあった方が楽だと思うのですが >>651
>なので、どうしても悟らなければ仏法は意味がないという日本テーラワーダ系の論調に過敏になってしまいます。
日本テーラワーダというより上座部仏教圏全般じゃないですかね?
あちらは輪廻思想が強いから、ならば生まれ変わってもいつか解脱できるというのが前提で、
解脱という概念が強いんだろうけど、欧米人や我々はそうは行きませんからね
解脱できなくても今の人生でなにか善いものが生み出せるというモチベーションがないと
アメリカでマインドフルネスを広めたジャック・コーンフィールド氏は、テーラワーダのもつ
そうした二元性(悟りか否か)に疑問を持って、アメリカでインサイトメディテーションセンターを
設立したときに、極力そういう概念を排除したという(「悟らなくたっていいじゃないか」より)
僕もゴエンカさんの法話を合宿で聞いたときは、「瞑想するか不幸な人生か」みたいな考えに
囚われて非常に怖くなりました。
いまでは、瞑想はすくなくとも善いものだから善いものをうみだし、それは自分や
他者や環境にも善いだろう、と気楽に考えてます >>655
仏教徒にもいろんな層がいるので、それぞれに合った法門を選べば良いのだと思いますよ。
現世的な幸福や成功を望む人は、本人がそう望んでいる以上、他人がどうこう言っても仕方ないし。
ただ、テーラワーダの人(特に出家するような人たち)は、解脱や悟りに至る乗り物として、その伝統を
死守しているわけですよね。
伝統の方から、世間一般の風潮に歩み寄ってしまうというのは、伝統にとって死活問題だと思います。
解脱、悟りの法門が滅ぶというのが、人類にとってどれだけ巨大な損失なのか、輪廻ってあるのかな?
とか考えているような人たちは、絶対に分からんでしょう。 八正道は、出世間の道だけど、
目標を世俗の願望成就に入れ替えても、ほぼそのまま応用できると思うけどね。
どんな目標達成も、正念、正精進で前に進むし
問題解決は正見、正思惟によるし、
正語、正業、正命(要するに戒)という規律は目標達成、目的実現の土台である
ことに変わりはない。 人間関係の基礎は慈悲だし、仏法は現世で幸福に生きることや、成功にもそのまま使える。
ただし四諦、縁起(因果律)、生老病死に抗うことはできない。 問題は正定。
正定がないと、その人は人間の常識(というか思考による思慮別智)を
越えた領域を知ることができない。
できれば、人生で一度でも正定に至るレベルの座禅をやった方がいい。
究極的なところ、思考というのは、自我の中に生みだされる抽象概念で
しかないので、座禅でそこから抜け出した経験がないと、一生妄想のなか
にいたまま死んでいくことを意味する。 理性的な人々はとっても賢いのだが、
実は、とっても賢い妄想のなかにいる。
賢い妄想のなかにいるより、
妄想から抜け出す方が、ずっとずっと有意義なのだが。 やり方はお釈迦さま(仏)が全て教えて下さっている(法)。
サンガに行けば、実践して結果をだしている人もいるし、やり方も教えて貰うこともできる(僧)。
他に何が要る?
必要なものは既に全てある。 仏法僧に帰依し奉る。サードゥ、サードゥ、サードゥ。 >>642
一番わかってないのが長レス。お前が一番迷惑www
やめとけ あなたがたは既にニルヴァーナにいるのだ。
見なさい
陽炎に揺れる景色を
画家はあなただ!
要点を掴みなさい。 あなたはあなたに出会った事があるだろうか?
あなたは本当のあなたを知らない。
あなたの苦しみは真の自己からの絶え間ない
呼びかけなのだ。
忘れてしまったのかね?
本当の海の青さを
見るもの全てがあなたで輝いていたというのに
振り出しに戻りなさい。 >>644
実に解りやすいです。
>「私」からの離脱
というのは、>>654 さんの言うところの
>そもそも凡夫が考える現実とやらが主観であって、幻想なんだからね。
つまり、仏教で言うところの「唯識論」を土台とした教えなのでしょうか?
※幻想からの離脱?
>「私」からの離脱が起こった時、苦の滅が行われます。
喜怒哀楽といったものは、人間の生命状態の一部だと思います。
大乗仏教では十界論等に詳しく説明されています。
修行により「私」からの離脱により苦から離脱するのですね。
すると、喜びも含めて一切の感情から離脱することを意味するのでしょうか?
想像するに「死」と「「私」からの離脱」とはどう違うのでしょうか?
そもそも、ブッタには苦悩や苦痛はなかったのでしょうか?
喜びも悲しみも無い人間、それが仏の真のあるべき姿なのでしょうか?
質問ばかりですみません。 >>669
「死」と「私からの離脱」は同じものだ。
喜怒哀楽は起こるがそれを俯瞰して見ている者となる。
そこには平安しかない。 「死」と「私からの離脱」は同じってどういうこと?
死んだら自動的にに私から離脱できるってこと?
そもそも私から離脱ってなんだ。
釈迦族が滅亡したとき、最後に毒キノコで苦しまれたときも平安しかないって想像つかないな
仏陀は悲しくもなければ苦しくもないってこと? >>671
「私」からの離脱が起こった時、残るものは五蘊です。
感情や思考が全てなくなる機械人間になるわけではありません。
凡夫は五蘊と自我を分けて認識することが出来ないので、その辺のことを実感を伴った形で想像するのは無理だと思いますよ。 >>671
自我の死だ!
苦痛と快楽は同じものであり
ともに至福だ。 心身から離れる(心身を自分と同一視しない)ってことでしょ
生まれてから(あるいは過去生から)心身を自分だと思い込んで生きてきた思い込みの積み重ねをリセットするんよ
心身という常で無いものを自分だと言えるのかどうか >>674
その通りだ。
そして全て忘れ去られた時
なにものでもなくなると同時にあらゆるものとなる。 >>675
無にして全て 全てにして無。
おお あなたさまの悟りが見えまする
おちんちん大明神さまよ!!!!!! >「死」と「私からの離脱」は同じものだ。
すると、この世のすべての人々は容易に解脱できるということになり、
俗に言う、亡くなった人のことを「仏さん」とか呼ばれるのも、あながちウソじゃないという事になりますね。
では、苦悩に満ちた娑婆世界を生きている意味は何なんでしょうか?
仏の悟りは、そんなに簡単なものなのでしょうか?
少し違うように思えますが。
それから、人には過去世からの宿業があります。
瞑想から解脱に至るまで、人間の業はどう関係してくるのでしょうか?
仏法で言う、衆生の機根、すなわち下品、中品、上品も関係してくると思いますが。 >>677
解脱とは苦しみからの開放だ。
それは簡単な事ではない。
何故なら人は死を非常に恐れているからだ。
そして生きるためにもがき苦しむ。
だが、全てが台無しになった時
文字通り土台ごと崩れ去った時
あなたは精神的な死を迎え、身も心もボロボロとなる。
信じがたいかも知れないがそうなった時
あなたはかつてなかった程いきいきと生き始めるのだ。
あなたは身体でも感情でも心でもなかったという事を思い知らされる。
生きながらに死んだ者にとって死は祝福なのだ 死ぬ人は肉体が死ぬだけで精神的に死んでない
未練や執着、価値観や欲を残したまま死ぬ
それと精神的な私が死ぬのはまた別
肉体が死ななくても精神的な私が死(私からの離脱)ねば悟り、解脱
肉体が死のうと精神的な私が死んでなければその精神性(個我)が輪廻してしまう 生きながらにして死ぬ事の中には
生まれ、そして死んで行くという行程は当てはまらない。
生きる事と死ぬ事は等しいのだ。 因果からの形としての解脱はない。時間軸で生きている以上それはない。一切の修行は時間軸上に展開しているから。時間の上で行ったことの結果は時間の上にしか展開しない。
どんな素晴らしい瞑想でもそうです。
時空を超えているのは意識のみで「不昧因果」です。そこを修行によって異質なものに変化すると考えるのは「迷信」です。 しかし考えてみてほしい。
あなたが身体でも思考でも感情でも心でさえもない時、あなたは何だろうか?
意識、或いは気づきではないだろうか?
あなたではないものが剥がれ落ちたところでは世界もまた無いのだ。
世界が幻想ならば時空も幻想となる。
事実、今この瞬間に距離はない。
宇宙が誕生する以前から今この瞬間は、
たった今この瞬間であり、永遠に瞬間であり続けるだろう。
無論、森羅万象は諸行無常だ。
形あるものは時間の中で容赦なく変化し滅びて行く。
しかしあなたは形なきものだ。
異質なのは「時間の中にいる私」という考えであって
実際はあなたの中に時空があり世界があるのではないだろうか? >>1
宗教というのは一点の疑問にいかに答えるかで全く姿勢や教義が変わる
科学的自然説を用いるなら未来が無限というのは理解できるだろうが、過去の時間軸も無限ということになってしまう
時間軸が無限ということは、今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる
(神がいないのであれば)空間(宇宙とは別)にも(有か無かは別として)無限の過去があったと推定できるが、これも科学では説明しえない領域ではあるし
無限の過去があるなら(人類以前に)知的有機生命体ないしは機械が何らかの知的・技術的臨界点に達するための時間が無限にあったということであり、
それだけの時間があれば例えば宇宙を作ることさえも不可能ではないだろう
そう考えると自然として考えてきたものが機械的にエンジニアリングされた環境であったと考えることもできる
この疑問に対する宗教の答えを単純化すると3つに分けることができる
空間に無限の過去が無いという説においては永遠の全体を持つ神(時空間創造説)
存在と意識を小宇宙として限りなく細分化し死によって滅ばない主観と因果律(諸行無常、輪廻思想)
創造−存続−終末的破滅−創造を永遠に繰り返す(円環的時間)
始まりの存在を考えるのは科学の領域でもあるが、人類や(宗教も含む)文明の価値にも影響してくる >>137
そう?
知り合いに名声欲しさにボランティアを立ち上げ
会う人会う人に自分はいかに良い人間かを語る人がいた
憐れみよりもウンザリしたよ
だって哀れんで聞いてたら何十回も同じ話をされるんだぜ
それは自分を否定されたからウンザリするのではなく時間の無駄だからウンザリする
同じ様に悟ってない人ほど他人に言いたがるからな
憐れみはむしろ人を見下してるだけなのかもしれないしな >>678
>それは簡単な事ではない。
死が怖いのは分かるけど、必然的にいずれ皆死ぬんだから、簡単な事だと思うんだけど。
つまり、生きている時に修行する必要なんて無い事になる。
>「死」と「私からの離脱」は同じものだ。(>>670)
>>679
>肉体が死ななくても精神的な私が死(私からの離脱)ねば悟り、解脱
苦からの解放=>(私からの離脱)する事=>悟り・解脱
この考え方では、社会の中で生活する事など現実不可能ですよね。
世俗を離れ、自給自足して仙人のような生活でもしない限り、実生活の上では、仕事をして、家庭を持って、子どもを育てて.
..
そんなことが、「私から離脱した人間」に可能なのでしょうか?
悟らなければ、不幸になるのでしょうか?
ブッタは一切衆生を救済するために法を説きました。
救済は菩薩行だと思います。
苦からの解放は「(私からの離脱)」しか、他に方法は無いのでしょうか?
釈迦仏の前世による因縁を明かした「ジャータカ」に説かれる物語には釈迦の菩薩行が数多く説かれてあります。
座して瞑想というより、むしろ積極的に行動を起こして自身の命を犠牲にしてまでも人を救っていくような物語が多いです。
仏法者として姿勢の在り方を考えさせられます。
大乗仏教から学んだ私には、テーラワーダ仏教の修行の在り方が真反対に思えるし、仮に瞑想で自身の安穏を得られたとしても
、人を救うことは出来ないのではないでしょうか?
自分だけの幸福はあり得ないし、他人だけの不幸もあり得ない。自他供の幸福を祈る事こそ仏法者のあるべき姿のように思いま
す。 私(個人性)を自分と思わなければ私から離脱してるし世俗で生きようと何するのも別に可能なんじゃないの?
心身が心身のまま自然に生きて自分はそれを自分だと同一視せずただ観てるだけ
家庭を持つかもしれないし持たないかもしれないしどのように生きようと他人の人生のように生きるだけ
人を救いたければ救えばいいし救わなくてもいいし
でも人は自分自身で救われるものであって他人が救うもんじゃないよね
他人や覚者や教えは救われるきっかけにはなるけど
結局本人次第 >>686
>人を救いたければ救えばいいし救わなくてもいいし
>でも人は自分自身で救われるものであって他人が救うもんじゃないよね
なるほど。原始仏教を信奉される方々は大抵同じような事を言われます。
私はどうもその考え方には馴染みません。
仏陀もそうした考え方だったのだろうか?と疑問に思えて仕方がないのです。
釈尊の「誰人も見捨てない」という仏の慈悲の振る舞いとは、かけ離れていると思えるからです。 仏法というのは決めつけを廃して、洞察智を鍛える取説のような側面はないかな?
洞察力が働いている間は「私から離脱」しているし、他者に対する悪意の起こりようもない >>687
彼岸に渡っていない人が、他人を彼岸に導けるでしょうか。
ブッダは菩提樹下で無上正等覚に達してから他人を教え導きました。
それまではご自身の修行に専念していたのでは。 無私の奉仕は価値が分かりやすいけれども
無我の修行は世間的な尺度で価値を計れないものですから、
仏教徒でも理解できない人は多いのではないかと思います。 無私 ←世俗の価値観の尺度。方向性としては天(欲六界の上方)へ向かう。
無我 ←出世間の尺度。方向性としては彼岸へ向かう。
無私は、福徳。生天の方向。
無我は、功徳。解脱の方向。
自分が解脱したら、他人を解脱に導けるでしょう。
その方がずっと価値があると思いますけどね。 生天の教えは此岸。 次第説法の前半部。世俗の人に向けた説法。
解脱の教えは彼岸。 次第説法の後半部。悟り・解脱を志すよう促す仏道の本義。 そもそも他人を救うって他人の一体何を救うのさ
色界で何を救おうと他人の欲や我を救うだけだし、自分もまた他人を救ったという欲や我が生じてるだけでしょ
本当の救いとはその人が悟ることだけなんだし悟ってもない人が他人を悟りに導くことなんて偶然でしかできないし まず、ちゃんと瞑想してくださいとしか言いようがないのでは?あと、なるべく他人の
怒りや欲を引き起こさないようにしゃべるとか、それくらいしか自分には方法が見つからない。 悟りの智慧(瞑想による智慧)がないと、人は欲界善のことしか理解できん。 テーラワーダ仏教は魂の存在を認めていないのか
お釈迦様は認めていた気がするけど、矛盾してないかね その前に、君のその理解が正しいか検証する必要がある。 魂は巨大妄想の産物である
ttp://www.j-theravada.net/howa/howa163.html
byスマナサーラ長老 魂という言葉をどういう意味で使ってます?
輪廻の主体として、肉体とは別に存在する自我意識の塊のことを言っているのか
名色における精神現象のことを指しているのか。 仏教でも輪廻があるというから過去生未来生に相続するものがあるという意味で魂って言っちゃうんだろうね
どういう意味で魂というかというと、何が相続されるのかってことになる
例えば今生の自分の性質が相続されるとして、性質を自分だとみなしてる人からすると自分という魂が続くと見えちゃうし、
性質は無常で自分ではないと思う人からすると、輪廻するのは性質であって魂であるとか自分といえる何かはないということになる ブッダは、業報輪廻は説いたけど、魂が生まれ変わるとは言ってないでしょう。
五蘊無我だから。 >>693
慈悲の瞑想やってます?
あまり頭でっかちにならないように 【サティ】
729 :神も仏も名無しさん :2018/07/24(火) 22:17:34.86 ID:Q8eSm54r
さくらさん、これやって結果教えて!
面白いよw
自己顕示欲の強さを診断! 自分をアピールしすぎて嫌われてない? テストしてみよう
https://gakumado.mynavi.jp/gmd/diagnoses/47465
ちなみに俺の結果はこれ↓
https://gakumado.mynavi.jp/gmd/diagnoses/47465/result?total_point=0
【自己顕示欲:かなり弱い】逆に、絶対に目立ちたくないタイプ
逆に、絶対に目立ちたくないタイプ
あなたは自己顕示欲がかなり低いタイプのようです。「目立ちたい」「注目されたい」という気持ちはまったくなく、逆に「まわりに自分のことをあまり知られたくない」「放っておいてほしい」という気持ちを持っています。
そのため、本当はすごい実力を秘めているのに影に隠れてしまい、まわりから認識される機会を失っていることもありそうです。せっかくなので、得意なことだけでも自分からアピールしていくようにするようにしてみては?
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1523599761/729 大念処経を読むと、生活のすべての時、すべての局面において、
正しいことを、適切に行うように指導されていると思います。
修行者にとって、対人関係における正しい対処とは何か、また
適切な方法とはどういう在り方なのか。
実践としての仏法を、日常生活でどれだけ活かせるか、どれだけ
身についているかが表れる局面ではある。
センスが問われている。 自分のことだけ心配すればいい
そんな、無慈悲な教えが仏教だとは到底思えないのですが。
>>689
>彼岸に渡っていない人が、他人を彼岸に導けるでしょうか。
人を救うというのは、「解脱」に導くだけではありません。
歴史に名を残す偉人は、自身の生涯を、人々の救済の為に捧げました。
彼らは仏法者では無かったけれども、偉大な人間だと思います。
少なくとも、自身の幸福より、苦しむ人々の救済のために生きました。
彼らにとっては、「苦からの離脱」や自身の幸福など眼中には無かったと思います。
ただ、苦しんでいる人を何としても救いたい。彼らが幸せになっていく姿を見ることが、
自身にとっての最大の幸福であったに違いないと思うのです。
その振る舞いや姿勢は「ジャータカ」に見られるような釈尊の過去世の菩薩行(因位の修行)と完全に一致します。
たとえば、子どもを虐待し見殺しにする親が最近ではニュースで世間に物議を醸しています。
もはや畜生にも劣る極悪人です。
しかし、それを知っていて見て見ぬ振りをする人間がいたら、同じように悪人です。
「悪い事をする」事と、それを見ていながら「良い事」をしないのは、同じく悪なのです。
子どもを橋から突き落とし溺れさせる悪人、それを見ていながら、見て見ぬ振りで通り過ぎる普通の人
それが、仏教者としてのあるべき姿のでしょうか? 私が思うに、幸福は「苦しみが無い、悩みがない事ではない」と思えるのです。
むしろ「苦悩」が自身の境涯をより仏に近づけていく糧となるように思えます。
苦難を避けるのではなく仏法により乗り越える中で自身の生命が鍛え上げられるのです。
仏法ではこの事を「煩悩即菩提」と言います。
考えてみてください。
境涯が低ければ(生命力が低い)小さな悩みも、これ以上にない悩みに思えてしまいます。
逆に境涯が高まれば、それが大した悩みでもなかったかもしれません。
素人にとっては、平凡な登山でも苦痛に思えるでしょう。
熟練した登山者にとってみれば、険しき山々を悠々と、まわりの景色を楽しみながら登っていけます。
困難や苦悩を避ける生き方ではなく、むしろ五濁悪世のこの娑婆世界に自ら飛び込んで、
人々の救済のために、社会の繁栄と世界の平和の為に、この尊き仏法を教え弘めていく菩薩行こそ、
仏法者としてのあるべき姿に私は思えるのです。 智慧と慈悲は同じものなのだけど、人間の分別思考が別々のものとして認識してしまうのだと思う。
何が言いたいかというと、自利と利他は、最終的に同じことではないか、ということ。 釈尊が蓮華の花(仏法の象徴)を捻ったエピソードがありましたね。
拈華微笑。
大乗仏教を好む人は、そのパラダイムを通してみるから上座仏教が間違いに見える。
上座仏教を好む人は、そのパラダイムを通してみるから大乗仏教が間違いに見える。
ところだどちらも同じ蓮華の花なんでしょう、きっと。 ブッダは、菩薩行もしたし、禅も修した。
此岸の価値観の尺度でも価値のあること(奉仕や貢献)をしていたし、
彼岸の価値観の尺度でも価値のあること(戒律や瞑想)もしていた。
自分も含めて、どちらかだけの人は、まだ仏法の全体像を知らんの
だから、別の乗り物(大乗、上座、チベットなど)を批評するのは
慎重になった方がいいと思う。 禅僧は禅をやってる最中は、山に籠もります。
どんな名医も、名医になる前は大学の医学部に籠もります。 医学部でてない素人が、医療行為をするのは無謀です。 霊魂説は、たしか涅槃経で否定されていたように思います。
生命が三世永遠であることは、仏教の基本です。
転生するのでもなければ、生まれ変わるのでもない、そのままの自分が続くと考えて良いでしょう。
ただ、来世には自身の「業」に見合った環境と姿で生まれてきます。
1000万円借金をした人間が、一晩寝て目が覚めても、借金は変わらないのと同じです。
大宇宙そのものが、ひとつの生命体です。
この大宇宙の生命を離れて私たちの生命はないのです。
釈尊は、この大宇宙と人間及び一切の有情無情の生命を生命ならしめている「法」(能生の根源)を説いたのです。
ただ直接言葉にできないので、仏は一切衆生の説き示す為に夢中の言語を駆使して究極の「法」へと誘引し、悟らせようとしたのです。
これを「方便」と言います。
....と大乗仏教では教えています。 人として立派な行いをすることを否定するわけじゃないんですが、
悟りや解脱は、人として立派な行いの延長にあるわけじゃないですよ。
王子にとっての人として立派な生き方は、王として責務を果たすこと
でしょうが、ブッダはその道を選びませんでしたよね。
それは此岸のこと。欲界の善。人として正しい生き方です。
四諦八正道としての仏道は、彼岸への道。欲界からの離脱。人を超える道です。 瞑想してる人たちは、方便の源である智慧を、直接自分で観てるんですよ。 自分でというか、自分はその時いませんから
自分が見てるという言い方は正確ではないと思いますがね。 >医学部でてない素人が、医療行為をするのは無謀です。
仏法は「心の不思議」を説いたものです。
大切なのは「なんとかして救ってあげたい」という心が大切なのではないでしょうか?
見放したり、傍観したりするのは、やはり仏法者とはかけ離れていると思います。
キング牧師の歴史的名言。
「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める。」
「最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。」
「確かに、服従することは、安易な道である。しかし、道徳的な道ではない、臆病者の道だ。」
「圧制者の方から自由を自発的に与えられることは決してない。しいたげられている人間の方から要求しなくてはならないのだ。」
「最後には、我々は敵の言葉など思い出すことはない。思い出すのは友人の沈黙である。」
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「敵を恐れるな−かれらは君を殺すのが関の山だ。
友を恐れるな−かれらは君を裏切るのが関の山だ。
無関心な人々を恐れよ。 かれらは殺しも裏切りもしない。
だが、彼らの沈黙の同意があればこそ、地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。」
(ブルーノ・ヤセンスキー「無関心な人々の共謀」/江川卓・工藤幸雄訳 日本仏教って、禅定波羅蜜を修めてるところ、まだありますかね。
わたしは見たことないです。
達磨大師だって、龍樹菩薩だって瞑想(禅)を修めてますよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています