【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13
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>>618
熟練の僧侶は近くにいる人が考えていることとか分かることもあるみただよ
頭に浮かんだことを笑いながら指摘されたという書き込みを読んだことある >>619
心を見通す能力と、その人の人格が素晴らしいかは
別なんですよ。
視力が良い人を人格者と言わない。
人を助けるために、いかに受け取った情報を組み立てて
役立てるか?そこに個人の采配、生き方のセンスが現れちゃう。 瞑想が上手い
有名な指導者
弟子が多い
だからといって人格者とも限らない!? |lililililililililili/ .ヽlili| /:::::::,ヽ#"ヽ` "゛/ :::::|
ililililil ilili〆 /⌒ lili/ /::::::/ .,,=≡, ,,≡=, l::::::|
(ili -・=V =・- V) i::::::l゛ .,-・= ,!. =・- l::τ
゚li " (・_・)ヽ l* |:::::| :⌒ /.. iヽ ⌒u|::i
)人 > ⇒( 人( (i::i″ ,ィ__) i/
_ __:ヽ、__ __,イ_ ヽ U / ::::/:::〈 i
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ヾヽニニ/ヽ--'/: : : : : :\: : : :| | | < ___) (__)
反 知 性 主 義 者 >>625
このタイミング...
書きたいこととバックグラウンドになる経験もありますが、そこは今は書かずに流れに穏和に応じて書きますね
あなたが云わんとすることも分かるので、それは胸に留めておきますの ブッダの教えや先達の長老方の教えを疑っていてすみませんでした。ここにおいて、
謝罪させていただきます。 慈悲の瞑想が好きでやっていたけど、気が付いたら慈悲もどきのエゴの瞑想になっていた
自分以外の人達の幸せを願っていたよ
幸せになってほしいと思っていたよ
でも、自分のものさしで推し量った幸せや、自分に都合の良い幸せ像の押し付けになっていた
それに気付いて微妙な気持ちになった
アーナパーナ・サティからやり直すわ >>632
360度廻って同じところ
でも、それはまた違うものだと私は思います メーテルさんのまとめで知って、眼からうろこだったよ。
ペラヘラ祭は、土着宗教のサマン神と仏陀の合祀されたものだってこと!
スマが自分を仏陀その人と勘違いしてるぐらい奢っていても
「荒ぶるヤカー」スマ神と仏陀、サマン神の合祀 スマン神だと思ったら理解できた。
理性とか、自己観察とか言うからなんか変だなぁ〜変だなぁ〜と思ったよ。
土着信仰をひろめに来たんだね。
スマン神さまにお稲荷さんをお供えして、おみくじ引いてあげるね。
日本にもそういうの、もともとあるんだよ。早くいってくれればいいのに。
なんでヴィパッサナー瞑想とかしなきゃいけなかったんだ・・?! >>635
私がまとめたものじゃないですけどね
今後ともみんなで改訂してペタペタ貼っていきましょう >>637
死刑は五戒を破ることになるので良くない。
仏教国ではありえない。 苦から逃れる。
それは、現実の娑婆世界からの逃避?
苦しむ因となるものから逃れる。
瞑想して思考停止する。
釈迦仏には、悩みも苦しみもなかったのだろうか?
解脱?悟り? 成仏とはいったい何?
仏教の最終ゴールとはなんですか?
成仏したあとは、どこを目指すのですか?
この娑婆世界を離れて、仏の住む寂光浄土というものがあるのしょうか?
誰かが言っていたように、「苦を除く」という目的であれば、現代科学を駆使して物理的人体改造で事足りるのでは?
しかし、そうなってはもはや「人間」では無くなるような気がしますが如何? >>639
まずは入門書から読んで便器してください。そんな基礎からここで説明するのはスレ違い >>640
あなたに答えられる訳がない。
上から目線でものを言う慢心者は、仏法者ではない。
スルーして結構です。あなたに答えは求めていない。
ある生徒が疑問に思ったことを先生に質問した。
それに対し、先生曰く「そんなことも分からないのか!」と。
生徒は先生に「自分の知識の有る無し」を評価してもらおうと思ったのではない。 「答え」を知りたかったのです。
これは、認識と評価を混同した例である。
本当に仏法を理解している人の説明は、釈尊が「種々の因縁、種々の喩え」によって広く教えを説いたように、実にわかりやすい。
反対に理解していない人の話は、自己陶酔型の説明が多く、分かりづらい。(学校においても、一級の教師と3流の教師の違いはまさにそこにある。)
いままで、いろんな板で多くの論者のレスを見てきたが、大抵はその定義が成り立つ。
そして、一番分かっていない者ほど「そんなことも分からないのか!」という捨てセリフを言いたがるものだ。(笑 そして、もう一つ私の持論だが
仏法は実践しないと本当には分からない。
何度も例えに出すが、バットを振ったことにない人間が野球教本を何万冊読もうと、草野球のレギュラーにすらなれない。ということだ。 >>639
現実世界から逃れるというより、より明らかに現実とコミットすることだと思うよ
だいたい、我々の思考や感情は現実に基づいていないことが多い
体調が悪くて不機嫌になり、自分は不幸だなぁ、とか相手が悪いんだ、とか思うことは
現実的ではないけど、本当に思ったよりよくあること。
虫の居所が悪くて、他人を悪くとらえたり、逆にちょっと良いことがあると慢心したり
まあこれらは極端な例だけど、ちょっと観察するとこういうことは本当に、毎瞬舞瞬
自分の中で起こっている。
それらを明らかに観察すると、ちょっと距離が出来て、より現実的になる。と思う。
その究極の地点が仏教で言う解脱であり、一神教で言う神の国かもね。 たとえば・・・ケンカするときは、どうしてもそのときはケンカしなきゃいけない、
相手が悪いのは絶対。自分は言わなきゃならない。と思う。
でも、それは現実ではない。けんか腰になる必要はないし、それどころか発言せず
退出することだってできる。
けんかする必要がないのに、そのときは、他に選択肢がないと感じている。
これが仏教で言う迷いであり、苦でしょう。
卑近なところで言えば5ちゃんでの議論、拡大すれば国家間の戦争。
宗教者でさえ
本当は必要がないことなのに、おびただしい時間と労力を使って傷つけあう。
瞑想は時間の無駄という人がいるけれど、僕はそうは思わないな ブッダの教えで私たちにもたらされるものは「私」からの離脱です。
「私」からの離脱が起こった時、苦の滅が行われます。
これらを初めて体験する場合、初めて本当の意味で「私」とは何か、「苦」とは何かを知ることになるでしょう。
逆に言えば、「私」からの離脱が起きない限り、それらを知ることは出来ないということになります。
それらは、空気と同じであまりにも当たり前すぎて私たちには捉えることが出来ないのです。 「私」がいない世界を想像できますか?
悟った人は、「私」がいない世界を生きています。
「私」がいない世界を今この瞬間感じて生きているのです。
一般的に考えて、「私」がいない世界はあり得ないことはよく分かります。
そう、悟った人というのは、ごく一般の人間、ごく一般の生命では到底あり得ない、宇宙の中で極めて特異な生命であり、正に仏法の稀有さを体現している人だと言えるでしょう。 ブッダの教えの本当の価値は、悟った時に初めて分かると言えます。
一度預流果になってしまえば、必ず阿羅漢になると言われる所以はそこにあります。
「私」からの離脱は、生命の存在の根本を覆す、比類のない価値観の変容をもたらします。
その凄まじさを体験した後は、もうその瞬間以降はブッダに帰依するしかありません。
「もう、これ以上のものは宇宙に存在しない」と確信が持てるようになります。
ただ、そういった話を聞いて「私は悟ってないからブッダの教えの本当の価値は分からないんだ。」と落胆する人がいます。決して落胆しないで下さい。
私たちが取るべきなのは落胆ではなく、「私は知らない」を自覚し、驕り高ぶることなく謙虚に精進するという事なのです。 >>646
「私」からの離脱
に出発点として不必要な困難を招く誤謬があるよう私には思えます。
このスレの発言のどれがあなたですか?
つなげてみなければ分かりませんので >>649
このスレでは>>638だけです。
参考にならないと思います。
すみません。
前スレでは
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/
ID:leT8Ny+V
ID:wKv6syH8
など発言してますよ。 >>650
ありがとうございます
明日、会社でプリントアウトして考えてみます
悟らなくとも仏法は活かしてゆけるのではないかという立場です。
なので、どうしても悟らなければ仏法は意味がないという日本テーラワーダ系の論調に過敏になってしまいます。
「私」からの離脱よりも在家は洞察によって過剰な「私」への執着を落とすことの方が有効ではないかと考えています
もちろん、悟り、あるいはそれに近い方々がその風景を大いに語って頂くことはありがたいことですが
その意味もあってスマナサーラ長老の法話に納得がいかないのです >>651
>悟らなくとも仏法は活かしてゆける
仰る通りだと思います。
活かしてゆける、つまり実践の道中でも果実は得られるということですよね。
そして、「私」への執着を落としていくということは、正に日常生活で活きてくる在家にとって重要なことだと思います。 みんな、よりよい人間になるとか、人として幸福に生きるとか、此岸の話しか理解できない人が多いよな。
来世で天界に生まれ変わるとかもそう。此岸の話。
それは別に否定しないけど、彼岸に渡る話こそが仏法の真骨頂なのに。 悟りや解脱は、現実逃避じゃないと思うよ。
そもそも凡夫が考える現実とやらが主観であって、幻想なんだからね。 >>654
確かに凡夫には端的な主観しかなく幻想かもしれませんが、彼岸に渡るまでは旅じゃないですか
親切な指南書みたいなものがあった方が楽だと思うのですが >>651
>なので、どうしても悟らなければ仏法は意味がないという日本テーラワーダ系の論調に過敏になってしまいます。
日本テーラワーダというより上座部仏教圏全般じゃないですかね?
あちらは輪廻思想が強いから、ならば生まれ変わってもいつか解脱できるというのが前提で、
解脱という概念が強いんだろうけど、欧米人や我々はそうは行きませんからね
解脱できなくても今の人生でなにか善いものが生み出せるというモチベーションがないと
アメリカでマインドフルネスを広めたジャック・コーンフィールド氏は、テーラワーダのもつ
そうした二元性(悟りか否か)に疑問を持って、アメリカでインサイトメディテーションセンターを
設立したときに、極力そういう概念を排除したという(「悟らなくたっていいじゃないか」より)
僕もゴエンカさんの法話を合宿で聞いたときは、「瞑想するか不幸な人生か」みたいな考えに
囚われて非常に怖くなりました。
いまでは、瞑想はすくなくとも善いものだから善いものをうみだし、それは自分や
他者や環境にも善いだろう、と気楽に考えてます >>655
仏教徒にもいろんな層がいるので、それぞれに合った法門を選べば良いのだと思いますよ。
現世的な幸福や成功を望む人は、本人がそう望んでいる以上、他人がどうこう言っても仕方ないし。
ただ、テーラワーダの人(特に出家するような人たち)は、解脱や悟りに至る乗り物として、その伝統を
死守しているわけですよね。
伝統の方から、世間一般の風潮に歩み寄ってしまうというのは、伝統にとって死活問題だと思います。
解脱、悟りの法門が滅ぶというのが、人類にとってどれだけ巨大な損失なのか、輪廻ってあるのかな?
とか考えているような人たちは、絶対に分からんでしょう。 八正道は、出世間の道だけど、
目標を世俗の願望成就に入れ替えても、ほぼそのまま応用できると思うけどね。
どんな目標達成も、正念、正精進で前に進むし
問題解決は正見、正思惟によるし、
正語、正業、正命(要するに戒)という規律は目標達成、目的実現の土台である
ことに変わりはない。 人間関係の基礎は慈悲だし、仏法は現世で幸福に生きることや、成功にもそのまま使える。
ただし四諦、縁起(因果律)、生老病死に抗うことはできない。 問題は正定。
正定がないと、その人は人間の常識(というか思考による思慮別智)を
越えた領域を知ることができない。
できれば、人生で一度でも正定に至るレベルの座禅をやった方がいい。
究極的なところ、思考というのは、自我の中に生みだされる抽象概念で
しかないので、座禅でそこから抜け出した経験がないと、一生妄想のなか
にいたまま死んでいくことを意味する。 理性的な人々はとっても賢いのだが、
実は、とっても賢い妄想のなかにいる。
賢い妄想のなかにいるより、
妄想から抜け出す方が、ずっとずっと有意義なのだが。 やり方はお釈迦さま(仏)が全て教えて下さっている(法)。
サンガに行けば、実践して結果をだしている人もいるし、やり方も教えて貰うこともできる(僧)。
他に何が要る?
必要なものは既に全てある。 仏法僧に帰依し奉る。サードゥ、サードゥ、サードゥ。 >>642
一番わかってないのが長レス。お前が一番迷惑www
やめとけ あなたがたは既にニルヴァーナにいるのだ。
見なさい
陽炎に揺れる景色を
画家はあなただ!
要点を掴みなさい。 あなたはあなたに出会った事があるだろうか?
あなたは本当のあなたを知らない。
あなたの苦しみは真の自己からの絶え間ない
呼びかけなのだ。
忘れてしまったのかね?
本当の海の青さを
見るもの全てがあなたで輝いていたというのに
振り出しに戻りなさい。 >>644
実に解りやすいです。
>「私」からの離脱
というのは、>>654 さんの言うところの
>そもそも凡夫が考える現実とやらが主観であって、幻想なんだからね。
つまり、仏教で言うところの「唯識論」を土台とした教えなのでしょうか?
※幻想からの離脱?
>「私」からの離脱が起こった時、苦の滅が行われます。
喜怒哀楽といったものは、人間の生命状態の一部だと思います。
大乗仏教では十界論等に詳しく説明されています。
修行により「私」からの離脱により苦から離脱するのですね。
すると、喜びも含めて一切の感情から離脱することを意味するのでしょうか?
想像するに「死」と「「私」からの離脱」とはどう違うのでしょうか?
そもそも、ブッタには苦悩や苦痛はなかったのでしょうか?
喜びも悲しみも無い人間、それが仏の真のあるべき姿なのでしょうか?
質問ばかりですみません。 >>669
「死」と「私からの離脱」は同じものだ。
喜怒哀楽は起こるがそれを俯瞰して見ている者となる。
そこには平安しかない。 「死」と「私からの離脱」は同じってどういうこと?
死んだら自動的にに私から離脱できるってこと?
そもそも私から離脱ってなんだ。
釈迦族が滅亡したとき、最後に毒キノコで苦しまれたときも平安しかないって想像つかないな
仏陀は悲しくもなければ苦しくもないってこと? >>671
「私」からの離脱が起こった時、残るものは五蘊です。
感情や思考が全てなくなる機械人間になるわけではありません。
凡夫は五蘊と自我を分けて認識することが出来ないので、その辺のことを実感を伴った形で想像するのは無理だと思いますよ。 >>671
自我の死だ!
苦痛と快楽は同じものであり
ともに至福だ。 心身から離れる(心身を自分と同一視しない)ってことでしょ
生まれてから(あるいは過去生から)心身を自分だと思い込んで生きてきた思い込みの積み重ねをリセットするんよ
心身という常で無いものを自分だと言えるのかどうか >>674
その通りだ。
そして全て忘れ去られた時
なにものでもなくなると同時にあらゆるものとなる。 >>675
無にして全て 全てにして無。
おお あなたさまの悟りが見えまする
おちんちん大明神さまよ!!!!!! >「死」と「私からの離脱」は同じものだ。
すると、この世のすべての人々は容易に解脱できるということになり、
俗に言う、亡くなった人のことを「仏さん」とか呼ばれるのも、あながちウソじゃないという事になりますね。
では、苦悩に満ちた娑婆世界を生きている意味は何なんでしょうか?
仏の悟りは、そんなに簡単なものなのでしょうか?
少し違うように思えますが。
それから、人には過去世からの宿業があります。
瞑想から解脱に至るまで、人間の業はどう関係してくるのでしょうか?
仏法で言う、衆生の機根、すなわち下品、中品、上品も関係してくると思いますが。 >>677
解脱とは苦しみからの開放だ。
それは簡単な事ではない。
何故なら人は死を非常に恐れているからだ。
そして生きるためにもがき苦しむ。
だが、全てが台無しになった時
文字通り土台ごと崩れ去った時
あなたは精神的な死を迎え、身も心もボロボロとなる。
信じがたいかも知れないがそうなった時
あなたはかつてなかった程いきいきと生き始めるのだ。
あなたは身体でも感情でも心でもなかったという事を思い知らされる。
生きながらに死んだ者にとって死は祝福なのだ 死ぬ人は肉体が死ぬだけで精神的に死んでない
未練や執着、価値観や欲を残したまま死ぬ
それと精神的な私が死ぬのはまた別
肉体が死ななくても精神的な私が死(私からの離脱)ねば悟り、解脱
肉体が死のうと精神的な私が死んでなければその精神性(個我)が輪廻してしまう 生きながらにして死ぬ事の中には
生まれ、そして死んで行くという行程は当てはまらない。
生きる事と死ぬ事は等しいのだ。 因果からの形としての解脱はない。時間軸で生きている以上それはない。一切の修行は時間軸上に展開しているから。時間の上で行ったことの結果は時間の上にしか展開しない。
どんな素晴らしい瞑想でもそうです。
時空を超えているのは意識のみで「不昧因果」です。そこを修行によって異質なものに変化すると考えるのは「迷信」です。 しかし考えてみてほしい。
あなたが身体でも思考でも感情でも心でさえもない時、あなたは何だろうか?
意識、或いは気づきではないだろうか?
あなたではないものが剥がれ落ちたところでは世界もまた無いのだ。
世界が幻想ならば時空も幻想となる。
事実、今この瞬間に距離はない。
宇宙が誕生する以前から今この瞬間は、
たった今この瞬間であり、永遠に瞬間であり続けるだろう。
無論、森羅万象は諸行無常だ。
形あるものは時間の中で容赦なく変化し滅びて行く。
しかしあなたは形なきものだ。
異質なのは「時間の中にいる私」という考えであって
実際はあなたの中に時空があり世界があるのではないだろうか? >>1
宗教というのは一点の疑問にいかに答えるかで全く姿勢や教義が変わる
科学的自然説を用いるなら未来が無限というのは理解できるだろうが、過去の時間軸も無限ということになってしまう
時間軸が無限ということは、今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる
(神がいないのであれば)空間(宇宙とは別)にも(有か無かは別として)無限の過去があったと推定できるが、これも科学では説明しえない領域ではあるし
無限の過去があるなら(人類以前に)知的有機生命体ないしは機械が何らかの知的・技術的臨界点に達するための時間が無限にあったということであり、
それだけの時間があれば例えば宇宙を作ることさえも不可能ではないだろう
そう考えると自然として考えてきたものが機械的にエンジニアリングされた環境であったと考えることもできる
この疑問に対する宗教の答えを単純化すると3つに分けることができる
空間に無限の過去が無いという説においては永遠の全体を持つ神(時空間創造説)
存在と意識を小宇宙として限りなく細分化し死によって滅ばない主観と因果律(諸行無常、輪廻思想)
創造−存続−終末的破滅−創造を永遠に繰り返す(円環的時間)
始まりの存在を考えるのは科学の領域でもあるが、人類や(宗教も含む)文明の価値にも影響してくる >>137
そう?
知り合いに名声欲しさにボランティアを立ち上げ
会う人会う人に自分はいかに良い人間かを語る人がいた
憐れみよりもウンザリしたよ
だって哀れんで聞いてたら何十回も同じ話をされるんだぜ
それは自分を否定されたからウンザリするのではなく時間の無駄だからウンザリする
同じ様に悟ってない人ほど他人に言いたがるからな
憐れみはむしろ人を見下してるだけなのかもしれないしな >>678
>それは簡単な事ではない。
死が怖いのは分かるけど、必然的にいずれ皆死ぬんだから、簡単な事だと思うんだけど。
つまり、生きている時に修行する必要なんて無い事になる。
>「死」と「私からの離脱」は同じものだ。(>>670)
>>679
>肉体が死ななくても精神的な私が死(私からの離脱)ねば悟り、解脱
苦からの解放=>(私からの離脱)する事=>悟り・解脱
この考え方では、社会の中で生活する事など現実不可能ですよね。
世俗を離れ、自給自足して仙人のような生活でもしない限り、実生活の上では、仕事をして、家庭を持って、子どもを育てて.
..
そんなことが、「私から離脱した人間」に可能なのでしょうか?
悟らなければ、不幸になるのでしょうか?
ブッタは一切衆生を救済するために法を説きました。
救済は菩薩行だと思います。
苦からの解放は「(私からの離脱)」しか、他に方法は無いのでしょうか?
釈迦仏の前世による因縁を明かした「ジャータカ」に説かれる物語には釈迦の菩薩行が数多く説かれてあります。
座して瞑想というより、むしろ積極的に行動を起こして自身の命を犠牲にしてまでも人を救っていくような物語が多いです。
仏法者として姿勢の在り方を考えさせられます。
大乗仏教から学んだ私には、テーラワーダ仏教の修行の在り方が真反対に思えるし、仮に瞑想で自身の安穏を得られたとしても
、人を救うことは出来ないのではないでしょうか?
自分だけの幸福はあり得ないし、他人だけの不幸もあり得ない。自他供の幸福を祈る事こそ仏法者のあるべき姿のように思いま
す。 私(個人性)を自分と思わなければ私から離脱してるし世俗で生きようと何するのも別に可能なんじゃないの?
心身が心身のまま自然に生きて自分はそれを自分だと同一視せずただ観てるだけ
家庭を持つかもしれないし持たないかもしれないしどのように生きようと他人の人生のように生きるだけ
人を救いたければ救えばいいし救わなくてもいいし
でも人は自分自身で救われるものであって他人が救うもんじゃないよね
他人や覚者や教えは救われるきっかけにはなるけど
結局本人次第 >>686
>人を救いたければ救えばいいし救わなくてもいいし
>でも人は自分自身で救われるものであって他人が救うもんじゃないよね
なるほど。原始仏教を信奉される方々は大抵同じような事を言われます。
私はどうもその考え方には馴染みません。
仏陀もそうした考え方だったのだろうか?と疑問に思えて仕方がないのです。
釈尊の「誰人も見捨てない」という仏の慈悲の振る舞いとは、かけ離れていると思えるからです。 仏法というのは決めつけを廃して、洞察智を鍛える取説のような側面はないかな?
洞察力が働いている間は「私から離脱」しているし、他者に対する悪意の起こりようもない >>687
彼岸に渡っていない人が、他人を彼岸に導けるでしょうか。
ブッダは菩提樹下で無上正等覚に達してから他人を教え導きました。
それまではご自身の修行に専念していたのでは。 無私の奉仕は価値が分かりやすいけれども
無我の修行は世間的な尺度で価値を計れないものですから、
仏教徒でも理解できない人は多いのではないかと思います。 無私 ←世俗の価値観の尺度。方向性としては天(欲六界の上方)へ向かう。
無我 ←出世間の尺度。方向性としては彼岸へ向かう。
無私は、福徳。生天の方向。
無我は、功徳。解脱の方向。
自分が解脱したら、他人を解脱に導けるでしょう。
その方がずっと価値があると思いますけどね。 生天の教えは此岸。 次第説法の前半部。世俗の人に向けた説法。
解脱の教えは彼岸。 次第説法の後半部。悟り・解脱を志すよう促す仏道の本義。 そもそも他人を救うって他人の一体何を救うのさ
色界で何を救おうと他人の欲や我を救うだけだし、自分もまた他人を救ったという欲や我が生じてるだけでしょ
本当の救いとはその人が悟ることだけなんだし悟ってもない人が他人を悟りに導くことなんて偶然でしかできないし まず、ちゃんと瞑想してくださいとしか言いようがないのでは?あと、なるべく他人の
怒りや欲を引き起こさないようにしゃべるとか、それくらいしか自分には方法が見つからない。 悟りの智慧(瞑想による智慧)がないと、人は欲界善のことしか理解できん。 テーラワーダ仏教は魂の存在を認めていないのか
お釈迦様は認めていた気がするけど、矛盾してないかね その前に、君のその理解が正しいか検証する必要がある。 魂は巨大妄想の産物である
ttp://www.j-theravada.net/howa/howa163.html
byスマナサーラ長老 魂という言葉をどういう意味で使ってます?
輪廻の主体として、肉体とは別に存在する自我意識の塊のことを言っているのか
名色における精神現象のことを指しているのか。 仏教でも輪廻があるというから過去生未来生に相続するものがあるという意味で魂って言っちゃうんだろうね
どういう意味で魂というかというと、何が相続されるのかってことになる
例えば今生の自分の性質が相続されるとして、性質を自分だとみなしてる人からすると自分という魂が続くと見えちゃうし、
性質は無常で自分ではないと思う人からすると、輪廻するのは性質であって魂であるとか自分といえる何かはないということになる ブッダは、業報輪廻は説いたけど、魂が生まれ変わるとは言ってないでしょう。
五蘊無我だから。 >>693
慈悲の瞑想やってます?
あまり頭でっかちにならないように 【サティ】
729 :神も仏も名無しさん :2018/07/24(火) 22:17:34.86 ID:Q8eSm54r
さくらさん、これやって結果教えて!
面白いよw
自己顕示欲の強さを診断! 自分をアピールしすぎて嫌われてない? テストしてみよう
https://gakumado.mynavi.jp/gmd/diagnoses/47465
ちなみに俺の結果はこれ↓
https://gakumado.mynavi.jp/gmd/diagnoses/47465/result?total_point=0
【自己顕示欲:かなり弱い】逆に、絶対に目立ちたくないタイプ
逆に、絶対に目立ちたくないタイプ
あなたは自己顕示欲がかなり低いタイプのようです。「目立ちたい」「注目されたい」という気持ちはまったくなく、逆に「まわりに自分のことをあまり知られたくない」「放っておいてほしい」という気持ちを持っています。
そのため、本当はすごい実力を秘めているのに影に隠れてしまい、まわりから認識される機会を失っていることもありそうです。せっかくなので、得意なことだけでも自分からアピールしていくようにするようにしてみては?
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1523599761/729 大念処経を読むと、生活のすべての時、すべての局面において、
正しいことを、適切に行うように指導されていると思います。
修行者にとって、対人関係における正しい対処とは何か、また
適切な方法とはどういう在り方なのか。
実践としての仏法を、日常生活でどれだけ活かせるか、どれだけ
身についているかが表れる局面ではある。
センスが問われている。 自分のことだけ心配すればいい
そんな、無慈悲な教えが仏教だとは到底思えないのですが。
>>689
>彼岸に渡っていない人が、他人を彼岸に導けるでしょうか。
人を救うというのは、「解脱」に導くだけではありません。
歴史に名を残す偉人は、自身の生涯を、人々の救済の為に捧げました。
彼らは仏法者では無かったけれども、偉大な人間だと思います。
少なくとも、自身の幸福より、苦しむ人々の救済のために生きました。
彼らにとっては、「苦からの離脱」や自身の幸福など眼中には無かったと思います。
ただ、苦しんでいる人を何としても救いたい。彼らが幸せになっていく姿を見ることが、
自身にとっての最大の幸福であったに違いないと思うのです。
その振る舞いや姿勢は「ジャータカ」に見られるような釈尊の過去世の菩薩行(因位の修行)と完全に一致します。
たとえば、子どもを虐待し見殺しにする親が最近ではニュースで世間に物議を醸しています。
もはや畜生にも劣る極悪人です。
しかし、それを知っていて見て見ぬ振りをする人間がいたら、同じように悪人です。
「悪い事をする」事と、それを見ていながら「良い事」をしないのは、同じく悪なのです。
子どもを橋から突き落とし溺れさせる悪人、それを見ていながら、見て見ぬ振りで通り過ぎる普通の人
それが、仏教者としてのあるべき姿のでしょうか? 私が思うに、幸福は「苦しみが無い、悩みがない事ではない」と思えるのです。
むしろ「苦悩」が自身の境涯をより仏に近づけていく糧となるように思えます。
苦難を避けるのではなく仏法により乗り越える中で自身の生命が鍛え上げられるのです。
仏法ではこの事を「煩悩即菩提」と言います。
考えてみてください。
境涯が低ければ(生命力が低い)小さな悩みも、これ以上にない悩みに思えてしまいます。
逆に境涯が高まれば、それが大した悩みでもなかったかもしれません。
素人にとっては、平凡な登山でも苦痛に思えるでしょう。
熟練した登山者にとってみれば、険しき山々を悠々と、まわりの景色を楽しみながら登っていけます。
困難や苦悩を避ける生き方ではなく、むしろ五濁悪世のこの娑婆世界に自ら飛び込んで、
人々の救済のために、社会の繁栄と世界の平和の為に、この尊き仏法を教え弘めていく菩薩行こそ、
仏法者としてのあるべき姿に私は思えるのです。 智慧と慈悲は同じものなのだけど、人間の分別思考が別々のものとして認識してしまうのだと思う。
何が言いたいかというと、自利と利他は、最終的に同じことではないか、ということ。 釈尊が蓮華の花(仏法の象徴)を捻ったエピソードがありましたね。
拈華微笑。
大乗仏教を好む人は、そのパラダイムを通してみるから上座仏教が間違いに見える。
上座仏教を好む人は、そのパラダイムを通してみるから大乗仏教が間違いに見える。
ところだどちらも同じ蓮華の花なんでしょう、きっと。 ブッダは、菩薩行もしたし、禅も修した。
此岸の価値観の尺度でも価値のあること(奉仕や貢献)をしていたし、
彼岸の価値観の尺度でも価値のあること(戒律や瞑想)もしていた。
自分も含めて、どちらかだけの人は、まだ仏法の全体像を知らんの
だから、別の乗り物(大乗、上座、チベットなど)を批評するのは
慎重になった方がいいと思う。 禅僧は禅をやってる最中は、山に籠もります。
どんな名医も、名医になる前は大学の医学部に籠もります。 医学部でてない素人が、医療行為をするのは無謀です。 霊魂説は、たしか涅槃経で否定されていたように思います。
生命が三世永遠であることは、仏教の基本です。
転生するのでもなければ、生まれ変わるのでもない、そのままの自分が続くと考えて良いでしょう。
ただ、来世には自身の「業」に見合った環境と姿で生まれてきます。
1000万円借金をした人間が、一晩寝て目が覚めても、借金は変わらないのと同じです。
大宇宙そのものが、ひとつの生命体です。
この大宇宙の生命を離れて私たちの生命はないのです。
釈尊は、この大宇宙と人間及び一切の有情無情の生命を生命ならしめている「法」(能生の根源)を説いたのです。
ただ直接言葉にできないので、仏は一切衆生の説き示す為に夢中の言語を駆使して究極の「法」へと誘引し、悟らせようとしたのです。
これを「方便」と言います。
....と大乗仏教では教えています。 人として立派な行いをすることを否定するわけじゃないんですが、
悟りや解脱は、人として立派な行いの延長にあるわけじゃないですよ。
王子にとっての人として立派な生き方は、王として責務を果たすこと
でしょうが、ブッダはその道を選びませんでしたよね。
それは此岸のこと。欲界の善。人として正しい生き方です。
四諦八正道としての仏道は、彼岸への道。欲界からの離脱。人を超える道です。 瞑想してる人たちは、方便の源である智慧を、直接自分で観てるんですよ。 自分でというか、自分はその時いませんから
自分が見てるという言い方は正確ではないと思いますがね。 >医学部でてない素人が、医療行為をするのは無謀です。
仏法は「心の不思議」を説いたものです。
大切なのは「なんとかして救ってあげたい」という心が大切なのではないでしょうか?
見放したり、傍観したりするのは、やはり仏法者とはかけ離れていると思います。
キング牧師の歴史的名言。
「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める。」
「最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。」
「確かに、服従することは、安易な道である。しかし、道徳的な道ではない、臆病者の道だ。」
「圧制者の方から自由を自発的に与えられることは決してない。しいたげられている人間の方から要求しなくてはならないのだ。」
「最後には、我々は敵の言葉など思い出すことはない。思い出すのは友人の沈黙である。」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「敵を恐れるな−かれらは君を殺すのが関の山だ。
友を恐れるな−かれらは君を裏切るのが関の山だ。
無関心な人々を恐れよ。 かれらは殺しも裏切りもしない。
だが、彼らの沈黙の同意があればこそ、地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。」
(ブルーノ・ヤセンスキー「無関心な人々の共謀」/江川卓・工藤幸雄訳 日本仏教って、禅定波羅蜜を修めてるところ、まだありますかね。
わたしは見たことないです。
達磨大師だって、龍樹菩薩だって瞑想(禅)を修めてますよ。 社会問題を解決しても、生老病死は解決できません。
でも、八正道は生老病死から人を救い出せます。
八正道だけがそれをなし得ます。 社会問題は、特に政治の問題は、人の心が作り出すものです。
人間ひとりひとりの心が変われば、必然、その社会の問題も消えて行くでしょう。
人間の心が変わらないのに、その社会の一員となって同じゲームを続けていても
社会そのものを根底から変えることはあり得ないと思います。
問題の原因がそのままだからです。 他人の為と思って何かしてもその人は嫌がり苦痛かもしれない
為とか思わず普通に接してもその人にとって良い接し方でその人は喜ぶかもしれない
結局その人がこだわり(執着)をなくすことでしかその人の幸福はないでしょ
他人の幸福なんて考えなくても自分が幸福になれば自然に振る舞えて他人が心地よく過ごせる確率も増えるし
いちいち他人のこと考えてる人なんて大抵は不自然でまわりも息苦しい まあ他人のために何かしたいって人は存分にそうしたらいい
そうせずにいられないんだろうしね >桃太郎
>生命が三世永遠であることは、仏教の基本です。
それは仏教ではなくて学会の基本だろう?
>そのままの自分が続くと考えて良いでしょう。
無我はどこにいっちゃったの?
五蘊仮和合くらい学会でも教わるんじゃないの。
あなたの言っている考え方はバラモン教の梵我一如だよ。
まあ日蓮さんは密教の影響が強いからそうなるんだろうな。 生老病死から抜け出すのが仏道による本当の救いだと思うのだが、どうなんですか。
病院で病気や怪我を治してあげるとか、そういうことも尊いけれど、それはあくまで
生老病死の世界の中でのことでしょう。 まあそうだろうね
病気が治って喜んでも老いるし死ぬ
老いて死ぬことが苦なら病気が治ったことなんて一時の気休めにすぎないし、本人が生老病死が苦でなくならないと本当の救いではないだろうね 生老病死の外のことなんて
ほんとにあるのかって話でしょ
仏教信者のだれもが
結局お釈迦さんという
だれかさんの言ったことを
信じて実践してみてるだけだよね 信じて実践してる人もいるだろうけど俺は実践してみてなるほどと思えたので信じるようになってきただけだな
生老病死の苦がもちろん完全になくなったわけではないがずいぶん少なくなった 生老病死を超えなければならない。
生きながらにして死ぬ事だ。
それがニルヴァーナだ。 >>728
わかるよ。
禅僧たちは、そのために座禅やってるわけ。
戒定慧の三学のこととも言えるし、それはそのまま八正道のことと言い換えることもできる。 智慧(般若)にも大別して二通りある。
ひとつは経般若。勉強したり考えたりして分かること。
ひとつは般若。瞑想によって感得するもの。
考えたり勉強したりして分かるのは”分別智”。
座禅で分かってくるのは”無分別智”。 毎年、日本だけでも自殺者は約2万人。自殺率世界第6位
男性は女性の3倍の約15,000人。
その原因は、生老病死でいうならば、「生、病」にあたるのではなかろうか?
「生きること自体の苦しみ」。それに耐えられず、苦悩からの解放を求めて、自らの命を絶つ。
彼らにとってみれば、「死」は唯一「一切の苦から解放してくれるもの」であるから、
もはや恐怖を通り越していると言える。
問題は、死によって本当に苦から解放されるのだろうかという事だ。
もし、解放されなければ無駄死にという事になる。
そもそも、瞑想して「私からの離脱」を成功させて、
生老病死の苦から解放される人が何人いるのだろうかと疑問に思う。
「私からの離脱」出来たと思うや否や、現実は世俗の縁に触れ、すぐさま「貧瞋癡」の煩悩に苛まされるのではなかろうか。
大乗仏教では「生老病死」は避けるものではなく、むしろそれらを見おろして、悠々と乗り越える法を説いている。
植物から蟻まで一切の生命体で仏法を学び、実践できるのは「人間」だけです。
人として生まれてくること自体が過去世からの福運を証明しています。
もし、猫や牛に生まれていたならば、仏法を知ることすら出来なかったでしょう。
「生きながらにして死ぬ 」? そんな人生に何の意味があるのでしょうか?
この偉大な仏法を多くの人に伝えて、苦しみを乗り越え幸せになってもらい、この世界から悲惨の二字を無くし
平和な社会を築いていく為に生きていく方がよほど充実した人生を送れると思います。
この菩薩の生き方に「生老病死」を乗り越える重要なカギがあると大乗仏教では説いています。
>>708 >>734
大切なことにお気づきだと思います。
生老病死を乗り越えること = 「私からの離脱」です。
仏道を実践していると段々と概念を超えた部分が観えるようになります。
各所で用いる方便は違えど、各所で同じものが見て取れるようになります。
実践していくと、疑念は自ずと晴れます。
正に仏道は自分で真実を確かめられる道なんですね。 境涯(生命力)を高めるについては知識がないけど
物への執着とか欲を少なくしようとする方法をとっている人が一定数いるはずだし
見返りを求めず他人に慈しみを覚えるのは心を穏やかにしたり欲も少なくしそうだから、
在家の場合、喜捨のつもりの募金とかボランティア、他人のために動くことは
そこの上座部のやり方とはあいそうなイメージもあったんだけど。
自分を整えるの優先にしても。
肯定的じゃないんかな。 >>735
「私からの離脱」
この表現ソースは何でしょうか。
どこかの教団でこのような表現を多用しているのでしょうか。 >>737
これは単に私が表現しただけです。
無我と同義です。
無我だと、固定的なイメージを持つ方もおられる方もいらっしゃるかもしれないと思い、別の角度から感覚的に表現してみました。
返って誤解を招いてしまったかも知れません。
申し訳ありません。 >>734
テーラワーダも同じですよ。
表面的な部分が、あたかも違うかのように見えるだけだと思います。
その自殺寸前の人が、仏道に出会ったとしてみて下さい。
その人がまず自分自身を迷いから救い出すことが否定されますでしょうか。
そういう在り方も仏道のひとつの在り方ですし、しかし全てではありません。
仏道は道ですから、道を歩む過程で慈悲の道に転じることもあります。 自分自身も救うべき衆生のひとりだと思います。
他人と分ける必要があるでしょうか。 そう
なぜ自分をまず救わないのか意味がわからない
一番身近な他人なのに
自分も他人も同じように救ううなら一番身近で救いやすい自分から救うのが当然でしょう
それは自分に甘いとか自利とかいうことではない
自分の為、他人の為、全ての為にまず自分を救うのが一番の近道
自分を差し置いて他人を救おうと思うのは英雄にでもなりたいかただ傲慢なだけ
それに気づかないこと自体これまで自分をないがしろにしてきた証拠 正に「自己中心的」なのと「自分を救う」は全然違うという事ですね。
そもそも「自分を救う」には、「利己的」な側面を乗り越える必要があるわけで、「自分を救う」= 「自己中」は成り立たないと。 自分の街からみえる富士山が一番綺麗だと思うのと一緒。
自分の立ち位置から見える仏教が“正しい仏教”で、他の仏教は“正しい仏教”じゃないと思う。
これ、人間の知覚と思考の構造的に不可避なので、みんなやる。
自我の思考が捉えた仏教は、しょせん概念でしかなく、あくまで見(ditthi)だから。 三乗はいずれも方便だと思う。
本質的には仏道、涅槃への道はただひとつ。
ひとつの道における智慧の側面をみるか、慈悲の側面をみるか。
それだけの違い。 ツォンカパは、チベット仏教ゲルク派の開祖。
歴代のダライ・ラマはここに所属。
ゲルク派の僧はまず顕教を学び、それが終了した段階で意欲があり、
かつ師が認めた者だけが次の密教の研修に進めるが、それは全体の約一割だという。 大乗仏教でも、菩薩になるひともいれば、菩薩に救いを求める人もいる。 人それぞれ、仏道への関わり方や立場に違いはある。素質も違う。
涅槃への道の歩み方も、ある程度の差異はあると思う。
しかし、涅槃や勝義がいくつもあるわけではないでしょう。 >>741
へえ
じゃあ川で大勢の溺れてる人がいて
救助の綱が投げ入れられても他の人にそれを回して
溺れ死んだ実在の人物は傲慢で英雄になりたい愚か者なんだ
そんな考え方をするあんたを軽蔑するわ >>744
この人の意見が一番正しいと思う
仏教、キリスト教、哲学などどの道でもある程度の悟りへの道に通じてるが
全ては方便にしか過ぎない
地上にいる人間がありのままを理解できるはずはないのだからね
だから2500年前に説かれる教えとしては最高峰だけれども
今現在としては方便として捉えた方がいい
壮大な人類への対機説法をそれ以上発展の余地のないものとして捉えても仕方がないでしょう
次の世界宗教が立ち上がるのを待ちましょう >>748
そういう状況になったときに的確に行動できるように心を整えておくのが自分を助けるってことなんじゃないですか?
そういう状況にもなってないのに自分「より」他人をなんて考えて自分の心を整えることをしていない人を英雄願望や傲慢だと言ってるんですよ
まず自分の心を整えてないとそういう状況になってもあたふたするだけではないでしょうか
そういう状況で多くの人を助けるためにもまず自分を救ってくださいという話です 菩薩とは...「無顧の悪人もなお妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり」
仏界という最高の境涯を求めていく「求道」とともに、自らが仏道修行の途上で得た利益を、他者に対しても分かち与えていく「利他」の実践があることです。
現実の世間のなかで、人々の苦しみと悲しみに同苦し、抜苦与楽(苦を抜き、楽を与える)の実践をして、自他共の幸福を願うのが菩薩の心です。
二乗が「自分中心」の心にとらわれて低い覚りに安住していたのに対して、菩薩界は「人のため」「法のため」という使命感をもち、行動していく境涯です。
本来、仏法における「彼岸」の本義は、どこまでも「成仏の境涯」、また「成仏に到る実践」にあります。
その実践こそ「菩薩行」なのです。(不軽菩薩は過去世における釈尊の因位の修業の姿です)
そして、この菩薩行の振る舞いの中に「六波羅蜜」つまり「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」という徳性が、私たちの生命に自然のうちに光り輝いていくというのです。
フランスの文豪ロマン・ロランは叫んでいる。
「自分の魂が救われるか救われないかということにばかりこだわっていれば、救われることからかえって遠ざかる。君が君自身を救いたいなら、人間を救え!
もっと的確に言うなら、ほかの人々の中へ、君自身を忘れ去れ! そうすれば、それ以外のたいせつなことはみな君につけ加わって来るだろう」(『内面の旅路』片山敏彦訳 みすず書房)
まさしく、菩薩の精神そのものです。
そして、この生き方にこそ「生老病死」を根本的に超克する鍵があるのです。
釈尊は「妙法」という生命の根本法を説いて「生命の尊厳観」を説きます。
大まかに言えば「生命の平等性」と「生命の永遠性」です。
生命次元での「空」の観点から一切衆生を俯瞰して見れば差別など無意味であろうはずもないのです。
差別自体が人間の作り上げた都合の良い妄想なのです。実相は無分別です。 仏の教えは、一部の選ばれた人間の為にあるのではない。一切衆生を平等に誰一人見捨てる事なく救う教えです。
ゆえに、自分だけの安穏や幸福はなく、他人だけの不幸も仏法の教えにはないのです。
しかし、釈迦在世のインド社会は古代のヒンドゥー教(バラモン教)が主流であったし、厳しい差別社会でした。
一切衆生に皆平等に仏の生命が備わっている事など、だれも信じなかったでしょう。
※仏の生命にも九界を包含し、九界の生命にも皆「仏界」の生命がそなわっている。(十界互具)
※つまり、仏と九界の衆生は隔絶した存在ではなく、仏は人間以上でも以下でもない。人間そのものが本来、尊極な生命の当体であるという教え。
そこで、釈迦仏は様々な比喩や方便をもって衆生を実大乗教(正法)へと誘引します。
小乗教=>権大乗教=>実大乗教
ちなみに「嘘も方便」という言葉はありますが、仏は「不妄語戒」の人ですから、方便は「皆真実」なのです。
仏の方便にも様々ありますが、ここでは割愛させて頂きます。
私達は多くの人々の支えによって今を生きている事を知らねばなりません。
電気もガスもないジャングルの中で裸のままで、仙人のように木の実を拾って生活しなくて済んでいるのは、そのお陰なのです。
ゆえに、仏教では恩を報ずることが仏道修行に於いて極めて重要位置づけとなっています。
畜生(動物)ですら主人の恩を報ずるのに、まして人間でありながら不知恩の者となるは畜生にすら劣ると厳しく叱責されるのです。
四恩の中でも「主師親の三徳」とは
主人は従者を庇護する徳を有し、師匠は弟子を教導する徳を有し、親は子に慈愛をもって育む徳を有する。
「守り」、「導き」、「育む」
これらの恩を報じていく事は、仏法者としての基本中の基本です。
親をも救えない人間が自分を救える訳がないのです。 であるならば、自身の小さな安穏と幸福に頑なに執着する生き方ではなく。
ロマン.ロランが叫んだように「君が君自身を救いたいなら、人間を救え! もっと的確に言うなら、ほかの人々の中へ、君自身を忘れ去れ!」という菩薩の生き方こそ
仏の真実の教えではないかと思うのです。
それを成し遂げる中で、自身の生命の変革と境涯の高まりを自ら感ずることができるし、自身の小さな悩みなど吹っ飛んでしまいます。(解脱)
そして、やがて、この世を去るときが来たとき、多くの人々を救ってきたという自負が一点の曇りもなく自身の生命の充実と安らぎをもたらしてくれる事でしょう。
実大乗仏教(法華経)では、成仏とは、特定のゴールを指すのではなく、絶え間なく仏道に精進する自身の「一念」(生命流)を言うのです。
仏になったからと言って、世俗を離れた安穏な世界で呑気に傍観している仏などいないのです。
極論するならば仏とは「慈悲以外に生きるすべを知らない」完成された人格者といえるでしょう。
その慈悲の眼差しは、光となって苦悩に沈む人々の闇を照らし救っていくのです。
人間は何のためにこの世界に生まれてきたのでしょうか?
法華経には「衆生の遊楽する所」と説かれてあります。
人として生まれ「仏法」に巡りあうことは、極めて難しいのです。
その尊き生命尊厳の哲学を学びとり、その哲学をこの世の人々に教え弘めながら、時には泣いたり、笑ったり、楽しんだり、素敵な大自然の景色に感動したり、
恋をしたり、子どもの成長に目を細めながら喜んだり、ありのままの自分で自分らしく悔いない人生を謳歌することです。
他人と自分を比べる必要もない!「桜梅桃李」の人生を生き抜けば良いんです。 インド文化にバラモン教の色眼鏡があるように、
日本や中国には儒教と道教の色眼鏡があるとは思いませんか。 >差別など無意味であろうはずもないのです。
>差別など無意味で、あろうはずもないのです。
意味がぜんぜん違ってきますね。w ゴータマ仏陀が無上正等覚に達して如来となられた直後に説かれた方が四諦八正道。
一切智者の如来が一番弟子に一番に説いた教え。
これは、彼岸、解脱ということが分かる人に向けた教え。
後世になって、ほとんどの人は此岸の価値観しか分からんような状況になったので
此岸の価値観(情などの人間的な道徳、欲界における価値観の尺度)で理解できる
大乗仏教という方便が優勢になってきたのだと思う。
それは大乗仏教の上位に密教が位置付けられていることからも読み取れる。
密教では結局、四諦八正道や勝義を再び教えていませんか?
釈尊が説いた四諦八正道が理解されないので、大乗仏教の上位に位置する
高度な教え、密教として、名前とパッケージを変えて再び四諦を教えているの
ではありません? とにかく、まっすぐ悟りに向かおうと出家して禅の修行に専心する僧侶を、
小乗呼ばわりする人は、仏教を分かってないということだけははっきり言いたい。
それが小乗なら、悟りに達するまでここを動かぬと決意して座っていた仏陀を
どう説明するのかと。 解脱しない限り、みんな輪廻の海で溺れてるんだよ。
生老病死に飲み込まれ、流されない人はおらんでしょう。
本当に助けてやりたかったら、まず自分が解脱しないと助けてあげられないんですよ。 本当のところ、あなたはまだ輪廻があるのかないのか分からないと思っていませんか。
だから世俗の価値観だけが判断の尺度になるのです。
無我だ空だと言いながら、本当のところこの肉体、我が身こそが自分自身だと思っていませんか。
それは有身見でしょう。
別にそのことは責めませんよ。
禅の修行をしていない人は、仏教であってもみな有身見に捕らわれていますから。
禅定波羅蜜と言いましたね。
本当に禅定波羅蜜があったら、輪廻転生も無我も観測事実として分かることなんです。 >>760
解脱してたら新幹線の中で刃物を振り回して女性を襲う暴漢から女性をどうやって救うの? みんな、根本的に間違ってる。
「解脱」というものを、「個人の苦悩・不安の解消」と位置付けるなら、
(というか、それしかない筈なんだがw)
暴漢から人を救うのは、体術と勇気であり、宗教的要素・仏教的要素、
ましてや悟りや解脱なんて必要ない。
せっせと、身体を鍛え、技を磨くことに専念すべきだと思うが? >>762 >>759
亡くなったことは残念だなと思うよ
ただ女性がたすかったのは結果であって、その男性がたすけようとしたせいで逆に亡くなってたかもしれないし、
あるいはどうしようと全員亡くなってたかもしれないし、全員たすかってたかもしれない
あなたは結果が出たことに対して言及してるけど、元々の話は自分より他人をたすけようとするかどうかの心持ちの話でしょ
もし仮に下手にたすけようとしたせいで女性2人が死んでしまってたらあなたはなんて言うの?
それにその男性の命と女性の命とどちらが重いかあなたは言えるの?
女性が生きて男性が死ぬのと、男性が死んで女性が生きるとの、あなたの中では重みが違うの? そんなに自分より他人を救いたいならこうしてる間にも困った人を探して助けたらいいじゃない
自分の持ち物も最小限にして全部困ってる人にあげたらいいじゃない
でもたぶんそうしてないんだよね >>763
どうやって?
ってか「おそらく」などと前置きしているから分からないのだろう?
>>764(セブンか?)
まあその通りだわな >>766
君は女性を救って犠牲になった男性を冒涜してるのか?
それ以前にそのニュースについてあまり詳しくはないようだが >>768
あなたはこの事件の亡くなった男性ではないでしょう?
なぜ他人の行為で自分の考えを正当化しようとしてるのですか?
虎の威を借る狐にしか思えません
あなたが自分より他人を大切にしたいならいますぐ「あなたが」そう行動したらいいと思いますよ
できることはいっぱいあるでしょう 解脱も悟りも、人間的な道徳観の延長線上にあるわけじゃない。 人間的な道徳観を否定しているわけじゃない。
尺度が違うと言ってるだけ。
人間的な道徳観(此岸の価値観)がX軸として、
解脱悟りへの道(彼岸の価値観)がY軸だとすると、
修行者はY軸方向に進んでいるんであって、X軸を進んでいるわけじゃない。
そうかといってX軸を否定している(X軸上のマイナス方向に進む)わけじゃない。 大乗仏教だけが正しくて、禅宗や上座部を小乗仏教と蔑む人たちは
そもそもY軸、つまり彼岸とか悟りとか解脱ってものがあることを知らない。
大乗仏教の経典から学んだ、概念的な理解しか持ち合わせていない場合が
非常に非常に多い。 大乗仏教でも、他者への奉仕や貢献を通して、
私とか、私の考えとか、私のものという思いをすべて完璧に捨て去ることができれば
体験智としての無分別智を経験できるのだと思う。
それは素晴らしいと思うし、そういう素質の人は、そうすればいいと思う。
だども、四諦八正道も本質的には同じことをやってますし、というか禅の方がずっと
効率的に私から抜け出せると思います。 身体を動かしたり、他者とコミュニケーションとりながら考えを捨てるの難しいし
ぜったい自分の価値観とか入ってくるでしょ。 >>769
もちろん亡くなった男性のした行為は俺には多分出来ない行為だが、
君はこういう死を自分も救済できてないくせに他人を救おうとするからこうなると考えているのか、
それとも自分には出来ないから尊敬すると考えているのかどちらかなのかということ 解脱とは完全な離欲であって、それは欲界善をなすことではない。
そこは多くの人が勘違いしてると感じる。 >>775
その人が自他の観念なく助けてたなら素晴らしいと思いますし、
自他の観念を持って助けてたなら助けても助けなくても同じようにしか思いません
男性にしろ女性にしろ誰か亡くなったら残念だと思います 他人を救おうって思うのはある意味怖いことなんですよ
オウムだって無明に落ちている他人を自分たちなりに救おうと思ってやったせいであれだけ残酷な事件になった側面があるわけでしょう
そもそもまだ悟ってない者が何をしたらいいかなんてちゃんとはわからないはずなんですよ
自分が何をしたらいいかちゃんとわかるためにまず自分が悟らないといけない
でも他人を救おうと思ってる人は自分自身が何をしたらいいかわかる存在だと過信してる
自分は善悪もわかるしそれゆえ善を為すことができると思ってしまってる
他人も救うことができると思ってる
だからオウムみたいなことでもそれが正しいと思い込んでやってしまうわけでしょう
自分が何もわかってないと謙虚に思えるならまず自分を整えること、自分を救うことをすべきではないでしょうか
本当に他人を救える人、救う力を持ってるひとはいくらでもそうしてください、そうしたらいいと思います
ただそんな人がそんなにいるんでしょうかね 他者との関係で心掛けるべきことは四梵住(慈悲喜捨)。
社会正義のために戦うこととは、けっこう違う。
社会正義は、怒りで他者を攻撃するけど、慈悲喜捨はそういうのと違う。 それから他人より自分をと言ってるわけでもないですし、
自他なく考えたらまず身近な自分という他人から救うのが自然なんじゃないかと言ってるだけですし
誰かが困ってる場所に居合わせてそれをなんとかできるならするのはいいことだと思います
普段から自分「より」他人なんて思ってるのがどうにも不自然だというだけです 他者のお役に立ってこその仏教でござる、というのは
ある種の強迫観念じゃないか、一回よく検証してみた方がいい。
日本仏教形骸化の最大の原因は、戒律と瞑想の実践が抜け落ちて、観念的理解
よくて哲学の段階に留まっていることだと思う。 他人を救う為にも他人を救える自分に早くなろうと自己修行に向かわないのが不思議でしょうがない まあ、 てすとが良く言ってたことに尽きるわけだが・・・
>悟ってない者(→救われていない者)に、悟りへの指導・教導(当該人物を救うこと)は可能なのか?
と。
ドカベンや巨人の星、キャプテン、メジャー、あぶさん等はともかく、
書店に並ぶ入門書、或いは、経験者の指南書等等を読んだだけの、
野球を見たこともしたこともない人間が、野球の指導(細かな一々のプレーやポジション毎のポイント指摘等)ができるのか?
と。
そもそも、これから学ぼうとする者が、そういう人間を指導者として選ぶか?と。
その意味で、自未得度先度他という言葉の空虚さは留意されていい。 >>782
新幹線で襲われてる女子を救おうとして殺された人は修行などしてないと思う
彼でなくとも世のため人のためになることをしている人の大多数はそうだろう
まあ普通に働いているだけで何らかの社会貢献はしているのだが
くだらないのは社会のお荷物であるニートがこういうネット上で空虚な自説を語ること
修行して他の人を救える自分になってからを尾ひれをつけて長々と語る人
読んでるとこの人はニートだと分かるのでその言説は響いてこない
単なるニートの暇つぶしに思えてくるだけ、 >>760
法然も親鸞も溺れるという行為を共に為すことで衆生を救ってる
イエスも人間として殺されることで人を救ってる
釈尊もあえて人間として生まれ、苦悩することで人に手本となる余地を残してる
本来人間として生まれる必要もない存在が、それでは人を救えないから
あえて芝居をしてくれてるんですよ
それこそが仏の慈悲
釈尊が本来悟ってないとでも思ってるの?
本来悟ってるが苦しんだふりをしてくれてるんだよ
享楽的生活も体験し苦行も体験した上で中道に至るという計画
その生き方がそのまま教えになる
悟った人間がなんの苦労もなく教えを説いても人は受け入れないもんだよ
だからあえて同じように苦しんで見せてるの そこに救うべき誰がいるだろうか?
誰もいないし誰かいるとしたなら
それはあなた自身ではないかね?
私の世界では私しかいないがね。 >>788
少なくともあなたは何もわかってないと思いますよ
悟りを得るということは自ずと仏性が顕現するということ
仏性の属性は他者を救いたいということだから
別に強制ではなく悟れば悟るほど他者を慈しみたくなるだけ
母親が子供を慈しむのは強迫観念ではないよね
あんたの頭の方が観念的になって悟りから逃げてる
悟りを深めたら心の中には他者を救いたいという気持ちが湧き出るもんですよ
一度悟ってみたらどうですかあなたが悟れば周りの人間はほっとかないですよ
あなたに周りの人間が話を聞きたいと集まって来ない限りあなたは悟りの入り口にさえ立てていない
本物は誰も見逃さないですって そりゃ悟ったらその時点で自分はもう救ってんだから他者救おうが何しようがかまわんでしょ
悟ってもない者が自分より先に他者を救おうと思うのがおかしいだけで 二―トの言うことがダメっていうなら釈迦の言うこともダメってことだから
もう仏教の話は聞かない方がいいかもしれんね
釈迦も出家者もみなニートなんだから お釈迦さんをニートと言ってもいいけど
外歩いて食い物貰って
外に寝起きしてって
やってみた方がいいよ >>790
それは別に大乗仏教だけの特徴じゃないんだけどね。
仏教はどれも智慧と慈悲の道で、智慧と慈悲は同じことだから。 他者を「救う」ことは出来ない
それは他力宗教における神仏の領域
あるいは自力での悟りの領域
でも他者を「助ける」「布施する」「利他行をする」ことはいくらでも出来るんだからどんどんすべき
仏教でもそれは否定されんだろ
上座部でも大乗でも >>790
ほら。
だから悟った方がいいわけでしょう。
>>797
そういうことだわ。
大乗仏教そのものが問題なのではなくて、
大乗仏教に属している個々人が持つ、他部派に対する偏見と蔑視の姿勢、
自己優越感という慢心をよく自覚した方がいいと思うわ。 >>799
べつに優越感とか慢心とかじゃなくて
>悟ってもない者が自分より先に他者を救おうと思うのがおかしい
とか
>>762 に対する >>763 のような的外れな回答を見ていると
どうしても違和感があるのです。
川に溺れた子どもをみて、助けない人はいないでしょう。
子どもに対して、「助かりたきゃ、瞑想して解脱しろ!」なんて言えるわけないし。(笑
大乗仏教者でなくとも一般的にも違和感を感じるのではないでようか?
>>741
>自分を差し置いて他人を救おうと思うのは英雄にでもなりたいかただ傲慢なだけ
地震や洪水、あるいは戦禍の中の難民救済の為に自身の危険を顧みずボランティア等で救援活動をされている方々を
「英雄気取り、傲慢」となぜ言えるのか、その心が理解できません。
恐らく道行く人々に質問すれば、余程心がひねくれている人でもない限り、賞賛こそすれ、そのように彼らを見下す人間は100人に一人も居ないと信じます。
動物ですら、自分の子どもを守るために自身の命を犠牲にします。
ましてや、人間です。私たちを育てたお母さんの慈愛がなければ、今の私達はいません。呑気に仏法談義などしていられなかったでしょうし、
また仏教に導いてくれる師が居なかったら、「瞑想」なんて発想もなかったはずです。
自分を他人と見る人に「師」や「親」はどう見えいるのでしょうか?そしてその恩にどう報いていこうと思っているのでしょうか? そもそも、「悟りにより自分を救え」という事は理解できますが「他人より自分が大切」というのは、テーラワーダ仏教のどういう教えによるものなのでしょうか?
「悟ったら人を救える」といっておられますが、この「悟ったら」という意味は、「釈尊と同等の悟り=仏の境涯」を意味するのでしょうか?
もしそうなら、釈尊は過去世から、気の遠くなるような修行を重ねて成仏したと説かれています。
だとすれば、今世で、たかが数十年、瞑想したところで「悟り」など万が一にも手にすることは出来ないのではないでしょうか?
少なくとも、ここにいらっしゃる方々の誰一人も「悟り」を得られる人などいないのではないでしょうか?
結局、「悟ったら人を救える」というのは所詮、「机上の空論」のように思えます。
仮に、今世で「人を救える程の悟り」を得たとしましょう。
あなた方は、どうやって人を救っていくのですか?瞑想で平和な社会を築き上げることは可能なのでしょうか? そもそも、「自身の救い」を最優先する人間に、
命の危険を顧みず、人を助けるという行為自体がはあり得ないのでしょうけれども。
とは言え、命を危険にさらすことを奨励しているわけではないのです。
菩薩は苦しんでいる人、悲しんでいる人を、救いたい、励ましたいと、常に心のベクトルがその方向へと向けられているのです。
英雄気取りではなく、本能としての振る舞いに近いのです。
そういう方々は仏法者でなくとも身近にいらっしゃいますし、特別な事でもありません。
仏とは本来菩薩なのです。 ここでそういうこと書く暇で誰かを助けたらいいんじゃない?
あなたは誰かを助けるよりここでそういうこと書く自分の時間を大切にしてるんじゃないのかな 宗教で人を救おうというのと、災害救助活動って
同じ土俵で比較できるのかな。
宗教的な救いって、本人が望まない限り、自分の価値観を押しつけることにならない? そして、本人が望んだとして
自分が悟ってなかったら、生老病死からの救いに導けないでしょ? 仏教徒を自認する人々でも、生老病死からの解脱なんてものが、
まさか本当にあるとは思ってもいない、みたいな人がすごく多く感じる。 ニートは親に救われてるのか甘やかされてるのか考えてみよう 阿羅漢になってなくても名色分離智が起きれば生老病死からの解脱も可能だって思えるけど
名色分離智が起きるよう修行してない人間には解脱がどういうものかまるで想像もつかないんでしょう
名色分離智さえ起きれば心も体もただのつくりもので助けるとか助けないとか執着してもしょうがないものだってわかるのに
心も体もいくら助けたってすぐに別物に入れ替わってるし何十年後かには死んで認識すらできないように無くなるんだから
自分の修行をしない人は結局仏教と縁のない人 >>804
いやできるよ
釈迦にとっては教えを残すのが救い
そこまで至らないひとは教えを模範として生きながら
自分のできる最大の救いを行うと
結局同じことを魂のレベルに応じて行なっているだけ
悟りのレベルに達してない人は教えを解くことが許されてないから
イエスキリストが大工の息子だからといって大工で一流になっても仕方がないけど
普通の人が大工として立派な仕事をすることはそれ自体修行でもあり他者への奉仕でもある
なんか分けて考えてる人は考え違いしてると思うわ
ありとあらゆる日常生活の中にも奉仕はあるんだもん
それに仏教は真実の片面しかかたってないしね
もしこの世界が苦でしかないならこの世界をならしめようとしてる生命は悪なのか?
何かが全てを今この瞬間も生かそうとしてるならそれは人間知で否定できないでしょ
否定してる釈迦すら生かされてるわけだから
だからもっと大きな真理に到達するためにこの世を否定する教えを説いたが
さらに人間の認識力が高まれば残りの教えも説かれる
その前説が仏教ですよ よく見なさい。
生や死があるだろうか?
あなたは身体ではないのだ。
そしてあなたは個人ではない。
手ぶらで行きなさい。 >>812
こういったコテハンで書き込みをすること自体が自己顕示欲の塊じゃないですか
悟ってない人ほどの他人の言葉で語りがたる
虎の威を借る狐 テーラワーダはシンプルですよ。
今この瞬間に「気づき」が有るか無いかです。 心理学者(J・シーガル)は、現代はナルシシズム(自己愛)の罠に、はまってしまっていると警告しています。
自分を満足させることだけが人生の目的となり、「他の人のことを思うなどというのは今や時代遅れ」になっていると。
(小此木啓吾訳、前掲書)
自分を犠牲にして他の人に尽くすなどということは、「不健康で誤った考え」だと思われるに至っているという分析です。
問題は、その結果、より幸福な社会になったのかということです。そうではないでしょう。
人は孤独になり、励まし合うことを忘れ、生きる力を衰弱させています。
だからこそ、ますます欲望を肥大させていく。 悪循環てすね。
その悪循環の“黒い鉄鎖”を断ち切るのが「菩薩界」です。
有名な話だが、ある人が地獄に行った。すると 皆がごちそうを前に食べられないで苦しんでいる。
どうして食べられないのか。ハシが自分の手よりも長くて、口に食べものを入れられない。
今度は仏国土へ行った。そこでも皆のハシは手よりも長い。なのに皆が満足して食べていた。
どうしていたか。互いに、相手の口に入れてあげていた。
地獄と仏国土の違いは、環境の違いではなかった。住む人の「心」の違いだったということです。
豊かさの中で、なぜか苦しんでいる現代。その原因が、どこにあるかを示す話と思います。 >>466
瞑想してるとそう感じるというか、そのものになってる状態をいずれは経験することになるよ
梵天は実際に形をもって存在してるってことがわかる 助け会う事は生命の本質だ。
何故なら生命はひとつだからだ。
しかし恐れがあなたを個人にしてしまった。
恐れが
「世界の何処か片隅のちっぽけなあなた」に
仕立てあげてしまったのだよ。
そんなにあなたはちっぽけだろうか?
よく見なさい。見たもの全てがあなただ。 その存在がいるところはどんなところか、その存在がどんな心の状態なのかも経験することになります >>820
「その存在」とも言えないし「どんなところ」とも言えない。
その時、自分が何であるか言う事が出来ない。
言葉で「この様なものだ」と言う事が出来ないのだ。
そして実に心そのものが障害だったと知る。 >>815
別に否定する気はありませんよ。
むしろ積極的に肯定してます。
仏教徒のなかには、慈悲の修行(菩薩道)をたてにとって、智慧の修行(止観の
禅修行)を貶すような人がいるので、コインの表側で、同じコインの裏側を否定
するようなことをしているように見えるんです。
それだけです。 個人的に、拈華微笑のエピソードで語られているエピソードって
多分このテーマのことではないかと思っています。 こういうことやろ
https://i.imgur.com/q3hJjWD.jpg
https://i.imgur.com/FZVGEKZ.jpg
https://i.imgur.com/bkCmiCc.jpg
これは玄侑宗久さんの本からだけどプラユキさんも出家前NGOで他者の為に支援してた時はやるほど疲れて結局できなくなったが、
自分がまず修行して智慧を生じさせてからは疲れることもなく他者の為にもどんどん動けるようになったと言ってた
ウィキにも簡単にだが載ってる 「ボランティア(活動)」や「保育」「教育」「介護」等の分野で、
待遇や報酬の話が御法度な日本文化も、その辺から来てるかもな。
それはもはや、「絶対的利他(&強制的自己犠牲)」という
「凶器」「拷問手段」となる。 眼施(がんせ) 常に温かく優しい眼差しを施すこと
2. 和顔施(わがんせ) いつもニコニコ笑顔で接すること
3. 言辞施(ごんじせ) 優しく時には厳しく叱る愛情のこもった言葉
4. 身施(しんせ) 自分の身体を使い奉仕すること
5. 心施(しんせ) 心配り・気配り、思いやりの心を持ち、相手の立場になってみること
6. 床座施(しょうざせ) 座席や場所、地位を譲ること
7. 房舎施(ぼうしゃせ) 家や部屋を提供すること このスレで他人を救うことを肯定してない人だって、人に親切にされれば
気持ちが救われることは否定しないだろう
他者に施すことを主張している人だって、瞑想で執着を手放すことがその助けになることは否定しないだろう
バランスよくどっちもやればいいだけの話であって、むしろどっちも両立させるべき
特に在家はね >>825
あなたが言っているのは梵我一如ではないかね?
「ひとつ」の中に私と梵天の「ふたつ」があるだろうか?
別の言い方をすればあなたが梵天だろうか?
梵天があなただろうか?
それは言葉では描写出来ない。
私が言わんとしている事はそういう事だ。 >>829
私が言及したことは816に書いたとおり姿をともなった梵天のことで
梵我一如とかワンネスとかそういうことのことではありません 愚人(ぐにん)謂(おも)わくは利侘(りた)を先とせば自らが利 省(はぶ)かれぬべしと、
爾(しか)には非ざるなり、利行は一法なり、普(あまね)く自侘(じた)を利するなり。 >>829
私は解脱してないので梵我一如がどのようなものなのかハッキリとはわかりません
ひとつの中に全てがあるということはもうわかってますが
それ以上のことはまだ知りません 自己が他者に何かしてあげるっていう感覚の土台には、自己と他者を
分け隔てる認識のありようがある。
要するに慢。
慢は五上分結だから、阿羅漢果に達するまで残る煩悩とされる。
本当に自利利他がひとつになるのは、阿羅漢果に達して、根こそぎ
自我が抜け落ちてからのことなのではないか、というのが現段階に
おける理解。
また、奉仕や貢献の際に、やたら自分を下に下げるのも卑下慢。 ごちゃごちゃ言わずに目の前に真に困っている人や倒れている人などを見かけたら自分の出来る範囲で助けてやればいいんやで わいは、ごちゃごちゃ言わずに八正道を前に進むのがまず先。
常に目の前にいるのは、わい。 お釈迦さまが菩提樹の下に座っているあいだも、困ってる人はそこらじゅうに居たはず。
菩提樹の下で悟りを開かなければ、王様として人を助けることはできても、如来として
生死輪廻から救い出すことにはならなかったはず。 >>837-838
そういうのをごちゃごちゃ言うと言うんや
目の前で倒れてる人を見つけても知らんぷりして救急車も呼ばないでその場を立ち去るのがお前
人として最低や 知らんぷりするわけないやろ。
それは日常生活のなかでやることだから。
人の面倒を看たからと言って、自分のお勤めをしなくていい言い訳にはならんのよ。
みんなここで引っ掛かるんだよ、人間は。
良いことをしていたいの。この世で。
だからずっと輪廻してるの(だと思うよ)。 >>840
>知らんぷりするわけないやろ。
>それは日常生活のなかでやることだから。
よし、その言葉を忘れるなよ!! 今は情報が溢れてるからね
遠い国の情報まで知られるから面倒だね
自分で取捨選択しなくてはならん
自分で好きなように線引きしたらいいと思うよ そんなに他人が自分の思うようにしてくれないと気が済まないのか >>843
>>844
まじでこれ
心の底から同意
宗教は数千年の大昔から現代まで連綿と続く禁止と強要の歴史
あれをしてはいけないこれをしてはいけない
あれをしろこれをしろ
東洋も西洋も思い上がった宗教家たちは必ず戒律をつくって人に押し付けたがる
そしてそいつらは例外なく自分のことを聖者と呼ばせて高い地位へ高い地位へと登りたがる
どこの教祖もなぜ組織をつくりたがるのかというと結局集めた信者の頭をふんづけてそのてっぺんにふんぞりかえって富と名声と地位を貪ってるだけなんですね >>843
「ああするべきなのに、ああしない。だから小乗だ。」というのは違う、と言ってる。 慈悲は、人情とは違う。
無我の悟りは、無私の奉仕と必ずしもイコールではない。
此岸の福徳は、彼岸に至る功徳とは方向性が違う。
大乗仏教が上で、小乗仏教が下だとか言う人は、たいてい俗世間(此岸)の尺度で
仏教や仏道実践の価値を判断している。 >>826
別に日本だけではなくキリスト教国でも金持ちは奉仕するのが当たり前になっている
あんたって何も知らないで今まで何してたの
一生他人に施ししない言い訳を考えながら生きていけば
こじき精神も極まれりだなぁ 金持ちはより多くの税金強制的に払わなくてはならない
それは宗教が担ってきたことを社会制度として取り込んだだけだから
奉仕を強制としか受け取れない人は少なくとも宗教的には人もどき
与えられてる人が貧しい人に富の分配をするのは当たり前
より悟ってる人が他者に与えるのはそれ自体が神の本質だから
太陽は与えきりでしょ
太陽は強制で光を与えてるわけでもなんでもない
しかし器の小さな人はその器の小ささを自覚しないもんだね
世界をあるがままに見たら自分の小ささが恥ずかしくなるだろうに
悟りを求めてるのに小人になるなよ
無私で生きてる人を見て恥ずかしくならないの? >>849-850
自我を突き抜けるまで冥想実践した経験ありまするだか?
ないのであれば、まだ見えてない巨大な価値が眠ってますよ。 >>849
論点はそこじゃねーよw
介護や保育業界の待遇が低い時代が長かった(いや、今もかw)理由に、
或いは、学校の先生等も、そういう時代があったかもしれない。
聖職へと奉られるかの如き歪んだボランティア観はなかったか、という問いだよ。
「自分のことを大事にする前に他人を大事にしろという規範」の怖さも頭の隅に置いておけということ。 >>851
悟るまで他人に施しをしないという立場を取ると
ほぼ100%のひとは一生何もせずに死ぬしかない
釈迦のような元々優れた魂の持ち主なら若くして悟れるが
凡夫はどこかで見切りをつけて実践へ移行しないと何もせずに助走だけをした人生になって終わる
テキストを提示されても釈迦以降一人も釈迦の域まで悟れないんだから
諦めも肝心
あなたがいくら悟ったと言い張っても他人と関わった瞬間通用しないこともあるでしょ?
一生勝負しない格闘家も実際には山ほどいる
俺は悟るまで施しをしないと言う人は化けの皮が剥がれるのを恐れてるだけだと思う
真に知ったなら実践が伴う
身体が動かないのは悟ってないから
自我を突き抜けてそれがなんの役に立つの
悟ったと思い込んでるひとは山ほどいるが真に悟った人はまずいないでしょ?
未だに仏教の範囲から逸脱する勇気もない権威主義者の中に真の覚者はいませんよ
悟れば新しい世界宗教が生まれる
過去の再生産が悟りなわけはないよね 他人の書き込みちゃんと読まないのか知らないけど悟るまで他人に施しをしないなんて言ってる人誰もいないよね 同時に、
悟るまで、誰も「助けない」「協力しない」「手伝わない」
と言ってる人もいないけどね。 >>854
あなたは誤解している。
悟りは開かれ、万物に宿っている。
それは例えるなら隠されたことが一度もない空気の様なものだ。
そしてそれとは知らず、何も求めず、何も拒まず、慎ましやかに日々を過ごす幸せな人たちの中にも目覚めた人は数知れずいるのだ。
それらの人たちは家の柱に庭の草木にその世界中に花を咲かせているのだよ。
これ以上の救いがあるだろうか?
確かにあなたの言わんとする事は分かる。
ブッダが善を急げと言ったのも凡夫に向けてのものだ。
しかしニルヴァーナは離れた何処かの遠くではなくすぐそばにある。
だからこそブッダは説いてまわったのだ。 今対立してるのは、そうした「聖なる次元(勝義)」の極の話でなく、
日常日日の一瞬一瞬の「人助けの場面」への視線の色合い、でしょうがw >>857 >>852
思考に流されず、一点に留まる意識(気づき)がある。
その時、禅支のみがあって五蓋がない。
日常的な用語で言えば、思考はしておらず、五感の感覚もない。
(思考にも感覚にも意識を向けないから。)
妄想は思考による産物であり、
幻覚は感覚による産物であり、
夢は眠りによる産物であるから
目覚めた意識のみがある時、その意識は、
自我が生みだした妄想概念のなかにはいない。 >>854
昔は、日本仏教にも慈雲尊者のような人物はいた。
>過去の生産性
時代によって変遷していくような価値観は、普遍的な真理とは言わない。 >>859
言葉で説明できることはあくまで思考分別であるから、
この説明は無分別智の中身をなにも説明できてはいない。
これは、言語によるコミュニケーションがもつ構造的な限界によるもの。
無分別智。般若の智慧。体験智は、自分自身で感得しない限り、本当
には知ることができない。
だから、ただ黙って坐りなさいと言われる。
おれは大上段に構えて上から威圧しているわけではない。
それしか方法がないからそう言われているだけ。 その時の自分自身は、自我ではなく気づき。
その時、自分という感覚はない。 >>863
ただ座って悟れるなら達磨大師はとてつもなく悟ってるよ >>862
いや普遍的な真理とは悟りに導くものだから
時代が変われば真理のかたちも当然変わる
原始仏教は未熟な仏教という意味で
さらなる社会への適応が必要とされる
資本主義社会で原始仏教や原始キリスト教はむしろ
人を幸せにもしないし悟りへも導かない
単に執着を断てじゃダメなんですよ
キリストが語った金持ちは天国に行くのが難しい、この言葉を修正するためにのちのキリスト教は変遷した
仏教だって所詮方便ですよ
だれかが書いてるように高次の教えは絶対にあるがままに下には伝わらない
だからそれが真理であるかは証明出来ないし、理論的にも真理であるはずわない
劣化コピーを指してオリジナルだなんていう人はいないでしょ
この世界に伝えられた時点で真理になり得ないの
それが空の本質的 変わる真理のかたちって具体的にどのようなイメージなのかなあ
そもそも何をもって真理としているのかにも依るのか。 2日間の水だけの断食を終え今朝から食べ始めたけど
結局少量じゃ済まなくなりジュースやらなんやら…
食欲を制するのに失敗してしまった
また断食をやり直さないといけないな >普遍的な真理とは悟りに導くものだから
とあるので、「導くもの」のことを言っているんでしょうかね。 おれの目には地面が平らに見えるから、地動説は間違い
っていうのが人間が頭で考える仏教理解なのよね。
四諦って真理だから、自分の主観を基準に判断したら
絶対間違える。 お金への執着をなくすと金遣いが荒くなるとかのイメージがあるのかな
貯金は勧めていたし、執着を捨てた結果、その執着していた物質を
捨てたり、あると便利なものなら得ようとしなくなるわけじゃないと思うんだけど >>871
お金への執着を捨てるには浪費することではなく施すこと(布施)をせよというのが仏陀の教え 872.金への執着、か。布施、か。
それは生活の問題である。
それは宗教の問題ではない。バカには理解できない。 『ヴェーラーマ経』には
布施するより三帰依する方が功徳がある、
三帰依するより五戒守る方がもっと功徳がある
五戒守るよりも一瞬だけでも慈悲の瞑想するほうが…って書いてあるけどな 映画マトリックスで例えるのが、わりと分かりやすいかも知れない。
マトリックスの住人が、マトリックスの住人に対して、善いことをしようと努めているのか、
マトリックスの住人を、マトリックスの外側への目覚めに誘っているのか。
その違い。 ひとくちに大乗仏教といっても、
マトリックスの外側に抜け出している(般若の智慧に達している)人、つまり真の菩薩と
マトリックスの内側しか知らないでいる人、つまり菩薩の救いを待つ人とに大別できる
のではないかと思う。
マトリックスの内側しか知らない人の仏教理解は、あくまで世俗諦であって、勝義ではない。 今世で勝義に至る秘密の最高の教え=密教があるということで、密教を教えるわけだが、
その密教で教えていることって、実は原始仏教の四諦八正道なのではないかと
個人的には思っている。
(パッケージと名称を変えて同じものを提供している。) 特に禅定波羅蜜があるかないかで、ものの見方はがらりと変わってしまうので。 本当の仏教の歴史は、過去仏から劫単位で続いているものであるはずです。
ですから、たったの2500年前のゴータマ仏陀の教えを原始仏教と呼び、
未発達な原始的仏教であったと捉える、その捉え方は、あまりに人間的と言うか
輪廻のなかで生まれ変わり、死に変わりしながら衆生済度をする大乗の菩薩様
としては、あまりに近視眼的なものの見方、解釈だと思います。 それは大乗仏教に所属してはいても、まだ信者さんであって、救われる側であって
教えて貰う側の立場であって、仏教を論じたり、ましてや他宗派を批評できる段階では
全然全く決してないという自覚を持った方がいいと思います。 >>880
実際に原始仏教であり未完成だから後に
小乗から大乗への変化が行われたんだけど?
死後数百年は圧倒的に小乗が強くて大乗は下の下だった
なぜ大乗が望まれたかというと在家だと悟れないという不満、
釈迦は解脱して悟れない人間は二度と会えない不満
これら解消したのが大乗
あなたは幸福の科学の信者だろうけど
貴方よりは長いスパンで宗教を捉えてますよ >>880
釈迦入滅後500年?は釈迦の教えを守り
小乗こそ仏教として大衆を救うのを下と見下していた
自分が向上し結果として人に良き影響を与えるもので
悟ってもないのに人を救うのは馬鹿にされてたわけ
貴方はその数百年が釈迦の真意であったと言いたいわけですね
その状況が未熟で未完成だからこそ、肉体が滅んだ釈迦が
地上に使者を送り大乗仏教を発展させたんですよ
完成されて改善の余地がなければなぜ数百年も経って仏教内宗教改革が起きたと思ってるの?
つまり大乗の台頭こそが釈迦仏教は原始仏教であり未熟なまだ進化する余地のあるものであるということの証明ですよ >>883
いくら5chだからって句読点打てない長文連投とか幼稚園児かよ? >>880
あなたは悟りでもして過去仏から劫単位で続いてるものをハッキリと実感でもしたの?
だったらいいけど、そう思うってだけなら誰かの言ったことを単にあなたが信じてるってこと、単にあなたの見方ってことだよね 三昧に入ったことがない人は、自我という妄想の中から一度も一歩も出たことがないわけだから
まだ本当には仏教は分かってない。 少し冷静に考えてみて欲しいんですよ。
仏法をねじ曲げてるのはどっちなんですか。
仏説は経典に遺ってますよ。
素直に読めば、それがそのままその通りで答えなんですけどね。 日本の形骸化した仏教は、このまま本来の仏教の価値(彼岸へ導く)を
取り戻さないと、檀家離れも止まらず、時間の問題で滅びると思いますよ。 三昧に入ればいろいろわかるけど、三昧に入ったくらいでいろいろわかったと思ってしまうのもどうなのか
解脱に相当近い三昧に入れるならいいかもしれんけど >>889
原始仏教に戻したら余計に滅びると思いますよ
釈迦は身分による差別をなくした悟りの価値尺度を提示したが
逆に出家、在家という新たな差別を生み出した
形骸化してない形に戻したら極端に仏教離れを加速させますよ
実際に信者を獲得してるのは超軟弱な大乗仏教ですよ
それらが一切そっぽを向くんですからね
修行なんて言ったらまず入らない 瞑想で強烈なエクスタシーに没入できる
呼吸が自然に減少し、ときたま自然に止まる
身体の感覚がなくなり心も全く動かなくなる
しかし周囲の出来事は知覚できる
これが初歩段階で経験できるような瞑想状態だけど本当のサマディではない
ってことらしい 諸先輩方に質問したいことがあります。
@他者の幸せを祈る、強く願うことは慈悲の瞑想といえますか?
そして、それが近親者であっても、しないよりはましでしょうか
A業の浄化が、不運や困難という形をとってやってくることは仏教的にありうるでしょうか。
そして私は不運や困難に対し、どのような精神的態度をとればよいでしょうか
B悟りを開くまでには何世もかかりそうです。
しかし、仏教的な瞑想で、他者に回向をして他者が幸せになることはあるでしょうか?
ダンマがより人々の上に調和をもたらすように、瞑想も役立たせることが出来ますか?
自分ひとりも瞑想だとつまらないので、利他行になるとしたら瞑想もより身が入るのですが・・・
邪魔でしたらスルーしてください。 >>892
だから密教という形態を取るようになっていったのだろうと思っています。 >>895
直接的な答えではありませんが、法句経と慈経を読んでみるのは如何でしょうか。
もしまだ読まれたことがないのであれば特に。
仏陀から教えてもらえるのが一番でしょう。 >>892
妻帯するようになる前の大乗仏教の僧侶が、どれだけ膨大な教学と修養を
積んでいたか考えたことがありますか。
浄土宗の念仏だって、膨大な唯識教学から生まれたものだと聞いています。
どんな職業にせよ、どんな技能にせよ、プロ級の知識とスキルを身につけよう
と思ったら、数千時間、数万時間の訓練は必要でしょう。
当たり前のことです。 大乗仏教愛好家が悪いと言っているわけじゃありません。
愛好家が、素人の知見しか持ち合わせていないのに
プロを見下しているのはおかしいと言っているだけです。 >>895
先輩かは知らないけど
1 しないよりはしたほうがいいと思うけど近親者以外に対してもするのが慈悲の瞑想じゃない?
なんで慈悲の対象を近親者とかそうでないものとか分けるのかわからないですね
2 業が何なのか自分で分からないうちにそれ聞いてもしょうがないと思うけど
業とは関係なく不運や困難を自分の主観で悪いことだと判断しないでそこから何を学べるかいい面を考えてみたらいいんじゃないでしょうか
3 悟りをひらくまでどれだけかかるかなんてわからないこと気にしないで、
自分にできることするか、仏教が好きなら釈迦が何をどう言ってたのか勉強したらいいんじゃないですか?
少なくとも瞑想で自分の心が変われば現実的にその分だけ他者にも適切によく対応できると思いますよ
利他行にならないとつまらないのだとしたら自分に分かりやすい結果を求めてるんだろうからそれはいいのか何なのか心を調べたほうがいいと思うけど >>895
@なります。むしろ自分の幸せを願うことは慈悲の瞑想じゃないです。
A言葉の問題かもしれません。業が異熟を生じれば悪業は清算されます。それを浄化と呼んでもいいかもしれない。
しかし、それよりも善業を積んで過去の悪業が結果を出さないように妨害業(ウパピーラカ・カンマ)を作ることの方がハッピーだと思います。
B餓鬼道の有情には廻向することができます。だたい七世前の父母親戚で餓鬼道に落ちなかった人はいないと思うので
廻向は無駄にはなりません。仮に受け取る相手がいなくても
「功徳の廻向」(パッティダーナ)を行うこと自体が布施(厳密には施所成の福業事(プンニャ・キリヤ・ワットゥ)なのでそれ自体功徳があります。 みなさんありがとうございます
>>897
法句経は折に触れ読んでいますが心洗われるようです
慈経は初めて眼を通しました。見えるものも見えないものもというところ、硬いなにかが
融けるようです。ありがとうございます。
>>900
ありがとうございます
結果は期待せず、何かわからない自他に善いものが生まれると思って瞑想を続けます
>>901
大変励まされました
「異熟」「妨害業(ウパピーラカ・カンマ)」「功徳の廻向(パッティダーナ)」覚えておきたい言葉です
悟っていない私でも出来ることがあるのはとてもとてもうれしいことです
全ての有情が幸せでありますように
微力でも無駄じゃないと思えばうれしいです >>901
横からなんですがすごい勉強になります、ありがとうございます
瞑想はしてるんですがこういうことはどういう本で学んだらいいでしょうか、何冊かおすすめください 強い国を作るための条件をお釈迦様が語った話を日本テーラワーダ仏教協会のHPで
結構前に見たのですが、ご存じの方がいらっしゃったら内容を教えてください。
何個かの条件が上がっていました。
そのうちの一つは話し合いで和合する。もう一つは老人や女性を大切にする。
だったと思います。 >>901の
>>@なります。むしろ自分の幸せを願うことは慈悲の瞑想じゃないです。
これは明らかな間違いです。むしろ慈悲の瞑想の出発点、ステップ1が
自己の幸せを願う事で、これが十分でなければ、他者への慈悲も成り立たないと
説かれています。
アビダンマの言葉を知っているからと言って仏教に精通している訳ではありません。
こういう輩を批判してタイのブッダダーサ長老は、論蔵を蹴っ飛ばして先に経蔵を
読めと言ったのです。 五 ソーナ長老の章
一 王
このように私は聞いた。
あるとき、世尊はサーヴァッティ市外のジェータの林のアナータピンーディカ長者の園にお
られた。
さてそのとき、コーサラ国王パセーナディはマッリカー妃とともに王宮のテラスに登って
いた。コーサラ国王パセーナディはマッリカー妃に言った。
「マッリカーよ、そなたには自分より可愛いものが何か他にあるか」
「大王さま、私には自分より可愛いものは他に何もございません。それでは大王さまはいか
がでございますか』
「マッリカーよ、私にも自分より可愛いものは他に何もない」
そこでコーサラ国王パセーナディはテラスから下りて世尊のもとへ行き、世尊に敬礼して
かたわらに坐った。かたわらに坐ったコーサラ国王パセーナディは世尊に申し上げた。
「師よ、私は今マッリカー妃と王宮のテラスに登り、マッリカー妃に『マッリカーよ、そな
たには自分より可愛いものが何か他にあるか』と言いました。こう言うとマッリカー妃は、
『大王さま、私には自分より可愛いものは他に何もございません。それでは大王さまはいか
がでございますか』と私に言いました。師よ、こう言われて私はマッリカー妃に答えたので
す。『マッリカーよ、私にも自分より可愛いものは他に何もない』と」
ときに、世尊はそのことを知って、そのときこのウダーナを唱えられた。
心して至るところを遍歴したが、どこにも自分より可愛いものには出会わなかった。こ
の自分が可愛いということは他の人々にとってもそれぞれ同様である。だから、自分を
愛するものは他を傷つけてはならない、と。〔ウダーナ〕 自己愛を後にして神への愛を第一に持って来た、キリスト教国が世界に対して為した事を
見れば答えは明らかでしょう。
自己愛を先にしなければ慈悲心は成り立たないのです。
慈悲の瞑想の第1は自分の幸せを願う事からです。お間違え無く。
三連投ごめん。 そうなんだよね
自他の区別なく生きとし生けるもの全てに慈悲の念を持つのが慈悲の瞑想でその第一は慈悲を自分に対して向ける
この自分に対してというのは自他の区別をしない中でのひとつの存在(自分)
それから身内という意味では自分が好きな異性には最初はしないほうがいいとかも言われる
というのも好きな異性に対して思いを念ずると慈悲じゃなく愛欲がわいちゃうからね
でもそこらへんは全てのものに対して同じように念じられるように注意していけばまあいいかなと思うんだ
自分が慈悲を思いたい対象以外の対象(身近でないもの、自分が嫌ってしまってるもの)にも慈悲を念ずるし
自分へも他人へもその他の全てへも、全てに慈悲の念を持つのが慈悲の瞑想だよね
分別せず全てに慈悲の念を持つのが慈悲であり無分別なのに自他を分けて自分の幸せを願わないってのはおかしいよね >>906
慈悲の瞑想、慈経は、他の生命への慈愛、利他的なもので(中村元解説)。
自己愛という利己的な我執の自己になれということではないですよ。
907の引用は、他者への加害の禁止に転位させる善導の次第説法なんです。
仏教は自利だけを説いてません。
仏教は、自己愛性人格障害を生み出すものではないです。
>>909
自己こそ自分の主である、他人がどうして自分の主であろうか
(ダンマパダ160)
貴方の後世の哲学化理解だと、善法と不善法、解脱、悟りに役立つ教えと、
そうでないもの、また利益となる教えと有害となる教えを
ブッダは正邪真偽を実際に※分別していたのに、
自利と利他、道徳の説法も無分別では説けないでしょ。
無分別という精神的見解を持つ自我は、智慧なく択法覚支では説けない。
まぁ自利利他の教えなんだけど、自己を第一に渇愛で慈しみなさいなんてフレーズは
ないね。我執の克服、渇愛の克服、それが自己救済に繋がるわけで、
もちろん自己放棄、自己否定ということでもない。 >>910
誰も自己を渇愛で慈しみなさいなんて言ってないよ
自己であろうと他であろうと慈悲の瞑想において渇愛でなんて慈しまないでしょ
それから慈悲の瞑想は道徳がどうのという話じゃないと思うけど
慈悲の瞑を行ったとき一体誰が(自分の何が)一体何に対して慈悲の念を生じさせているのか考えたほうがいいと思うけどな
そもそもいまテーラワーダで行われている慈悲の瞑想は最初に自分の幸せ、自分の苦や悩みが無くなることを念じるでしょ >>911
テラワダの慈悲瞑の自分の幸せとかの部分は、原典の慈経にない後から作られた
ものです。修行メソッドですから、隨念効果もあり、それはそれでいいでしょう
けど。考えたほうがいいという観念ではなく、自発的なもので、
長部ソーナダンダ経
「智慧は道徳で清らかになる。道徳は智慧で清らかになる。 道徳から智慧が現れる。
智慧から道徳が現れる。 道徳と智慧はこの世でもっとも優れたものです。」
あれ、テラワダ教って智慧が現れるように修行しないの?
某長老さんは、智慧のある人は、慈しみがあると説いてますよね。 >>912
あなたの慈経の解釈がそういうものならあなたにとっての慈経はそれでもいいけど、
ただ慈経に自分の幸せを願うなみたいなことも書いてはないでしょ
道徳に関して道徳は無分別で説けないとあなたがいうからあなたのいう道徳が分別ある世俗的な道徳の意味だと思って言ったのです
そこで書かれているソーナダンダ経の道徳とはそういう分別あっての道徳ではなく分別をなくしていく道徳ではないですか?
智慧という言葉を使うならそれこそ無分別の立場からあらわれてくることでしょう
自分や他の様々を分別して智慧が現われますか?
慈悲の瞑想で自分の心身から苦や悩みがなくなることを思って何がわるいのかわからない
自分からも他人からも全てのものから苦がなくなればそれでいいと思いますが >>913
中部9正見経の十不善と三不善根の善法と不善法、
解脱に役立つ教えとそうでないもの、また利益となる教えと有害となる教え
正邪真偽を実際に分別(択法覚支)、分別主義とも言われてました。
>無分別の立場
貴方が、無分別という精神的見解に束縛されているので無分別を
一生懸命、正当化されるのでしょう。
そういう束縛からの解脱を説くのがブッダですよ。
原始仏典にも、無分別とは説かれてません。
ええと、修行上では無思考になることございますでしょう。
智慧の完成者が自己と他人を区別して、道徳、慈悲を実際説いております。
貴方のように無分別に束縛支配されず、思考を道具として
使えているわけです。 横から
>>914
無分別は不戯論のことだよ。
ニッパパンチャ。 >>914
慈経の全ての生きとし生けるものが幸せであるようにという生きとし生けるものに自分が含まれない意味がわからないのですが
あなたにとっては含まれないという解釈なのでしょうしそれはそれでいいです >>915
いや、私も学者先生と同じく徹底的に調べたら仏典上に無分別は説かれてなく、
修行論の説明で無分別を便宜上使っているだけなんです。 >>916
Sn.150「全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)」
Sn.149「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、
そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の
慈しみの意を起すべし。」
Sn.148「他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いを
いだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。」
すべて、〜に対して、ですよ、自己に対してとは説かれてません。
他人とも使ってますよね。 >>918
結局のところあなたは自己をあくまで瞑想する自分(主体)と捉え、私は自分の心身を他人と同じ瞑想の対象と捉えているのです
私から見れば自分は母でもあり私の心身はその私の子供であるし生きとし生けるものに当然自分が入るのです
だから慈経の解釈も変わります
あなたはそういう見方をしてないとわかりましたのでそれでいいです どちらも、相手が言ってもいない極論を相手に反論しているだけに見えて、実に滑稽。
>マッリカー夫妻への、自衛愛から他衛 >自他分別なき、大海の如き慈悲
前者は、確かに自分を優先させているけれども、
それは、他を蔑ろにして、或いは無視して、
或いは常に・必ず、自分よりも後とする・自分の利よりも下位グレードとして扱う、
ということではなくて、
他者の利益を(不害を)確かなものにし、やがてそれが、自身の最上の善なる行為となさしめるために、
気付きをうながしているだけでしょ。
決して自己中心的な思想が説かれているわけではないでしょ。
なぜ、他をがいしてはいけないのか?という理由付けとして、これほど説得力があり、
むしろ、現代社会に於いて、大層希薄となってきている
「相手の立場となること」「他者の気持ちを想うこと」そうした想像力を生じせしめるのに、
「わかりやすい」んじゃないかね・・・。
(まあ、子どもの虐待なんてのは、昔からもあったことだろうけれど、
最近のは、ほんとうに想像力の欠如に起因するんだろうな、とも思うわけで・・。
また後者は、
区別しなくていい、吟味しなくていい、無条件の平等でいい、条件・環境・状況を無視していい、
或いは、たとえ他者の不害のためであっても、まず自衛を掲げることを忌避し、嫌悪し、
更に極端に自己を犠牲にしてこそ徹底的に自己の利益を避け・寧ろ自ら不幸になることによって、慈悲の本質とする、
ということでもないでしょう?
(どっかのすれでの行き過ぎたボランティア理解と重なる話だけれど、
自分を優先して犠牲に資、不幸にしてたら、それはそれで、逆の位相で、平等無分別に外れるしw)
分別してたら、それが、扱いの相違になり、やがて単なる区別を通り越して差別と化していくから、
そうならないよう、わけ隔てない視線の投げかけが、仏法の(慈悲の)本質だということを言いたいだけでしょう。 >>919
実は貴方の言いたいことは分かりますよ。
すべては一体、全体の部分であって、部分は全体に含まれ、同質性という
=ヘーゲル哲学、梵我一如的
禅宗の悟り話的で、もう あるあるな話でしょ。
中村元の解説では、我執の克服で、こだわりがなくなり開かれた自己によって、
※他者と素通しになり、慈愛という美質が湧くものとあるけど。
まぁ自他区別ない同質性でもいいけど、ヒンドゥー的、大乗的でいいのでは。 >>904
藤本晃「仏教の正しい先祖供養 功徳はなぜ廻向できるの?」
水野弘元(監修)、戸田忠、ウ・ウエープッラ(訳注)
「アビダンマッタサンガハ―南方仏教哲学教義概説」
http://www.kotobuki-p.co.jp/nakayama/index5-2.htm#012
ですかね。前者は電子書籍しかなく、後者はアマゾンではなく出版社のHPに在庫があると思います
後者の副読本として
藤本晃「『アビダンマッタサンガハ』を読む」
をオススメします(こっちも電子書籍しかない)
あとは
バッダンタ・ニャーヌッタラ「テーラワーダ仏教が伝える慈経」
http://www.kotobuki-p.co.jp/nakayama/ryosyo_01.html#jikyou てゆうか無我が分かってないから自利だ他利だって議論になるんでしょ。
無我なら「生きとし生けるものが幸せでありますように」で何の問題も無い。
まず渇愛を無くして、無我にならないと。 >>922
おおーありがとうございます、ちょっとしらべてみますね
アビダンマ難しそうで放置してたんですがちょうどいい機会ですので勉強してみようとおもいます >>923
自利利他は、堂々と仏典上の仏陀の教えにありますけど、
無我に囚われてばかりで読んでませんでしょうか。
自己放棄でも否定でもなく、虚無化でも、極論化でもなく、
無我で実現する自己を仏典上で認めてますし。
某スマ長老は、出家者でない人に、堂々と皆と議論して下さいと
説いていますけど、さてその真意は何でしょう。
慈悲でもって根拠をもとに教え諭すのが、プロなのでしょうけどね。 >>925
自利利他と慈悲は別の話でしょう。
無我ならば、慈悲行において何の矛盾も、
問題も生じないのは確かではありませんか?
慈悲の中に自利利他を持ち込む必要は無いでしょう。
もったいぶらないで下さい。言いたいことがあるならどうぞ。
真意は何ですか? >>925
ちなみに、無我で実現する自己とは何ですか? 世間の基準と出世間の基準を、一つにまとめようとするから、おかしくなる >>ALL
世間の真理はこう、出世間の真理はこう、のダブルスタンダードでいいじゃん。
そうであることこそが、
一神教のような、ワン・スタンダードによる歪さかを回避できてる仏教らしさだと思うんだけどね・・。
マッリカーへの教えのどこがおかしいのか?
自他の分別を本当になくしてしまったら、日常のあらゆる事柄が崩壊する。
ブッダは、そのような、人々の社会の崩壊を説いたのか?違うだろ?
無分別は、あくまでも仏の視線、仏の価値観であって、
それで日常の様々な事象を処理していけると考えているとしたら、
よっぽどの世間知らずとしか言いようがない。 仏道実践は道、つまり過程なので、実践の段階によって体験内容は
違いますし、理解の仕方も違ってきます。
例えば、禅定に達していない段階での慈悲の瞑想は、どうしたって
常に自我意識があるはずです。
欲界善心ではない色界浄心の慈悲心が生じるのは、五蓋が滅して
禅定に達している時だけのはず。
自我の思考が生みだす欲界善心と、それらが一切無いところに生じる
色界善心は、まるで別物です。 仏教理解は、仏道実践者の立場によっても変わってくるはずです。
例えば、人生苦に打ちのめされた自殺寸前の奴隷と、
一国の王子に生まれついた菩薩が、同じ法門に出会っても
関わり方は全然違ってくるのではないかと思います。
出発点からすでに違うのです。 平等というのは、金太郎飴のような均一な理解ということではないはずです。 >>928
無我を悟ったからといって、自他の分別は無くなりませんよ。
無分別、つまり認識作用が止滅すれば無明が無くなるだけで、
日常生活はそのまま、業のまま、ただの人間のままですよ。 >>926
利他行の説く内容と、慈悲行の説くとこは関係している
ことが分かりますよ。学者と某長老の解説も同じです。
中部61と合わせ、利他が伴う行いを最高と推奨して説かれてます。
我有りの利己的な我執の克服の行いに繋がるからでしょう。
>>927
著名な学者や僧の専門書を読めば記述されてます。
もうあれこれ書くと、今度は貴方が抱く仏教で論戦するわけでしょ。
自分は苦悩が減少し、以前より生きやすくなれ、周りから好かれるようになり
仏教には感謝してます。どうぞ貴方も仏道で幸あれ。 >>929
禅定ではなく、智慧で自我を滅ぼした人の、
慈悲の瞑想はどうなりますか? >>933
それを言えば仏説は全て関係していますよ。
ただ、慈悲は慈悲、利他は利他で考えるべきだと思いますが。
慈悲、利他について説くあなたが、なぜ説明をしてくれないんですか。
経典、書物よりも行だと思いますがね。 仏教(上座部)も経典至上主義になりやすいからね。
初心の人は、とかく経典に文言に忠実になるし、
瞑想なり修行が進んだ人は、経典から離れて体験も交えるし、
そうした人が意見交換したって、白熱した並行線になるだけだよ。
お互いが違う所から意見を言っているんでね。 学問ばかりして、内容を理解せず、
お釈迦様に叱られた比丘がいましたよね?あれ誰でしたっけ? でもね、最初は経典に忠実に学習して
言葉とか定義とかをしっかりと勉強するのがいいね。
経典をほとんど読んでない比丘もいるしw
上座部ならパーリくらいは全部目を通して中身も憶えるくらいがいいよ。
これを土台にしながら瞑想や修行を続けて、
文言の世界とは違う実相に触れて、観念を超越して、
自我を見切って、主体の無いことを知見することだね。 >>938
でもどうでしょう。
お釈迦様は対機説法でたくさんの人に法を説きましたよね。
一個人に必要な説法は少しでいいと思うんです。
全部読んじゃうとかえって分からなくなりそうです。
比丘になるなら全部読んだ方がいいでしょうが。 >>936
オウムのように体験至上主義の罠にハマってもどうかと思うね。
三昧も実相どうの一時的なもので悦に浸っても、過ぎ去るわけで、
仏典と同化することなく、体験と同化して自我強化することなく、
手放してればいいでしょうけど。
以下、アーチャンチャー「手放す生き方−気づきの瞑想実践」より抜粋
・サマタによる心の平安は、私たちの最終目標ではない。
ブッダは、自身がサマタによる心の平安に執着しなくなるまで、
存在の真実を探求し続けた。サマタは修行の途上の一段階にすぎない。
・ブッダは、智慧を通じた解脱とサマタを通じた解脱の2つを説いた。
教えはシンプルで、ただ物事を手放すこと、物事をあるがままにしておく
ことだから、多くの努力やサマーディ(定)を必要とすることなく、
彼らはとても自然な形で手放すことの実践を始めることになる。
このシンプルな実践は、最終的に彼らを我(アッタ―)を超えた、もはや
手放すものも、つかむものもない場所へと導くことができる。
一方、サマタを通じた解脱を目指す人は、その経歴次第でより
多くのサマーディを必要とすることになる。彼らはとても厳格な方法で、
長い期間坐る瞑想をしなければならない。 >>936
だからw そう言ってるだろ。
それをわかってない二人が言い争ってるんじゃないのかい? >>941
七清浄
1. 戒清浄
2. 心清浄
3. 見清浄
4. 度疑清浄
5. 道非道智見清浄
6. 行道智見清浄
7. 智見清浄
1は戒律、2は禅定(サマタ瞑想)、3-7はヴィパッサナー瞑想と関係している。
在家でもできないことはないようだが。あくまで出家向きではあると思う。 >>942
>無分別は、あくまでも仏の視線、仏の価値観であって、
あー、禅宗のバイアスがあるんだ。
そういうものを価値観として重んじるなと仏典にあるけど。
>無分別、つまり認識作用が止滅すれば無明が無くなるだけで、
そして、お決まりのように、これ一点もってくる、毎度おなじみ
のあるあるパターン、いえ、そこだけが焦点でないでしょ。
あのー、無分別研究している学者先生がいて、
なぜ無分別の一点を重んじるのか、そのルーツが分かったんですよ。
無念無想、不思不観、無分別、不二へと陥った原因が解明された。
でもね、そこに固執している方と論争になるので、書きません。 オウムは帰依の対象が仏陀じゃないから仏教ではないので、比較対象としてどうなのかね。 >>945
学者の研究はいいですから、
無分別になってみてから言ってください。
たしかに無明が無くなります。 八正道
1. 正見
2. 正思惟
3. 正語
4. 正業
5. 正命
6. 正精進
7. 正念
8. 正定 ←サンマーサマーディ(九次第定)
サマタできる人は、出家でも何割か程度らしい。
なので、それ以外の人に向けたメソッドも開発されてきたということでしょう。
でも、仏陀が出家した高弟たちに教えた方法は経典の通り。 三学
1. 戒
2. 定 ←サマーディ
3. 慧
仏陀が教えた修行法はサマタ、ヴィパッサナー双修であって、
ヴィパッサナーオンリーのサマタ否定ではないはず。
ただ、一生掛けてもサマタが成功せずに挫折してしまうよりは、
続けられるメソッドで続けた方がいいのかもね、という理解。 修行寺の出家って、毎日朝から晩まで10時間くらい座禅ばっかりやる生活なんですよ。
それを何年もやる。
それでもサマタが成功して(禅定に入って)、禅定の定力を支えとしたヴィパッサナーを
修行していける人は、全体の3割程度らしい。 サマタ否定しようとしても、そもそも戒律がすでにサマタの始まりだと思うのよね。
個人的には。
サマタ否定の本当の意図を、その前後の文脈や背景と共によく検証してみると、事情が見えてくるんじゃなかろうか。 >>951
ん?サマタに執着するのが問題じゃないの? 色貪無色貪が無くなるのは阿羅漢になる時のはずだから、
ヴィパッサナーの修行をしている最中も、最後まで完全には
なくならないのでしょうけれども。
ただ、それをいったらサマタできない人は欲貪の段階なんです
けどもねぇ。 >>948
八正道のプロセスによって修習される四禅定は、
九次第定の中の四禅定とは異なります。
八正道の正定は、四禅定までの説明で終わっています。
七科三十七道品の中には、八解脱などの四無色定がその中に
含まれる修行は入ってません。 >>953
さぁw
オウムがどうたらこうたらって。よく分かりません。w 過去世を思い出したり、過去世の業を見て今世の生まれが
何故こうなっているのか、その理由を見たり、そういうことは
サマーディがないと思い出せない。
サマーディがあれば思い出せるので、そのレベルの観察ができ、
そのレベルの洞察が得られる。
過去世の記憶は、今世の自我の中からは、いくら頑張ったって
出てこないからね。 私は初禅ぐらいしか経験が無いのでよく分かりません。 >>951
否定でなく、貴方のように境地に執着してしまうわけです。
体験でもって自我強化してるわけで、しかも体験のその実体視で
意識誘導して、都合よく意味づけをしてしまう。
色受想行識の範疇の接触を縁としているのに。
深い禅定も作為的にもたらされたものは壊滅は避けられず、
無相定の限界を知りなさいと説かれ、
サマタを極めても解脱完成しないと説かれ仏典にありますが、
それを心解脱として、慧解脱が必須と説かれてますよね。 他宗教ならいざ知らず、サマタが最終的な到達点だと思っている仏教徒なんて、
今どきそうそう居ないと思いますけども。 >>958
仏陀が説いた八正道から正定を切り落として七正道みたいに改謬してしまう方が
ずっと問題だと思います。
これのどこが執着なのでしょうか。 私も初禅入りましたけど、まぁこんなもんかって感じでした。
別に執着はしませんでした。 こういう話が、迷信やオカルトのようなものだと感じている人が多いことは理解できます。
でも、率直にいって迷信は自我の妄想の方なんです。
心(精神現象)が、脳や身体といった物質から発生しているという現代人の信仰も、ひどい迷信です。
真相はまるで逆なんです。 >心は物質から発生している。
>精神現象は物理現象である。
↑
現代社会でもっとも普及している宗教的教義ですが
冷静に考えてみると、ひどいオカルトです。 >>965
思考、妄想は脳を使うんじゃないですか?
脳の中にあるような気がします。 >>965
オカルトじゃないだろw
単なる事実の積み重ね(五蘊の反応)であるだけで。
その先に何かあるのかどうかは、禅定をきわめてないのでわからんが。
少なくとも、965のような言い切りが仏教的でないことはわかるw >>957
「われには、われが、かつて存在したという思いもないし、
またわれには、われが未来に存在するであろうという思いもない。
潜在的形成力は消滅するであろう。
ここに何の悲しみがあるであろうか。」テーラガーター
テーラガーター
「わたしは、束縛をのがれ、煩悩のけがれのない者となった。
実に、わたしの誓願としたところのものは、
※過去世の生活を知る[通力]を得るためではなく、
すぐれた透視[力]を得るためでもなく、他人の心を読みとる[通力]をえるため
でもなく、死と生を知る[通力]を得るためでもなく、聴力を浄める[通力]を
得るためでもなかった。」 こう考えると、
片山さんは、ほんと、慎重だったんだなぁ・・・。(懐 >>968
七清浄
1. 戒清浄
2. 心清浄
3. 見清浄
4. 度疑清浄
5. 道非道智見清浄
6. 行道智見清浄
7. 智見清浄 ←それはココ
わいはもっとずっと手前。 >>966
思考を止めた(というか思考をスルーできた)ことがあるなら、
思考と、その思考を見ている意識が別なのは分かりますよね。
脳との相互依存関係で生じている現象が、精神活動の全部ではないはずです。
それは精神活動の表面というか、根っこではない。 時に自分の名前さえ忘れることがあったと言われる周利槃特
当然新たな知識を得ることはかなわず、瞑想することもせず、ただひたすらに掃除にに専心し、悟りを開く。
なかなかすごい逸話である。いろいろ示唆に富んだ内容である。
釈尊いわく
「悟りを開くということは、
なにもたくさん覚えることでは決してない。
たとえわずかなことでも、徹底して行うことが大切なのだ。
ほんの短い教えの言葉であっても、その言葉の本当の意味を理解し、
道を求めていくならば、さとることができるのです」と。 >>972
仏教が知識の詰め込みでないことは、明らかでしょう。
けど仏典を読んで気づかされたり、解脱に役立つ教えが含まれてますから、
読む自由を否定できないでしょ。
私は実践してますよ、けど教学にも救われ、助けとなり、
軽視せずよかったと実感があります。
でないと、サマディで過去世を等とか、マイ観念的仏教化していきますから。
仏典や解説を読めば、あーそういうことかとか、今に生きるってとか、
自我の構成についても分かり、何で観察瞑想するのかまで分かり、
知的準備なく、単に瞑想しろでは、健康効果で終わることもあるでしょ。
チャー師も、瞑想者の私とアイデンティティ化させるなと、
そうなると、貴方のように知識主と対峙してしまうのかもしれません。
9取(執着、対象と同化)、10有(仮構され)、11生(自我生じる)
アイデンティティを構成10有 サマーディの実体験をする人、正定の重要性を訴える人を見かけたら、
反射的に、その人は三蔵読んでないと思い込む癖はどこから来ているのか。
なんか歪んでる。
わいの本棚のほとんどは仏典と仏教関係書籍だというのに。 仏教徒が真面目に八正道を進んで行って、正定に入ったらいけないの?
過去世を思い出して縁起を観察する修行法、清浄道論になかったっけ?
ダメなの?? 本当は、心のどこかでそんなもん無いと思ってるんじゃない。
それが疑、五蓋なんだってば。 疑
戒勤取
有身見
これ全部あるでしょう。
マハシを指導しているスマナサーラ長老だって、一来果以上は
瞑想やらないとなれませんよと話している。
おそらく、修行者が本当に預流果に達したなら、それまで禅定を経て
いなくても、一来果に向かう過程で必ず禅定を経るはず。
預流果になれば五蓋が弱められるうえに、すでに疑がないので、ぶれずに
瞑想に全身全霊を傾けられるようになるからだと思う。
わたしは道果は達していないけど、道は見た気がする。 いま日本で流行ってるマハシ系の人たちの言う預流果って、
三帰依して戒律を守って瞑想しているから、来世悪趣に落ちる心配は(あんまり)なくて
ほぼ預流果と言ってもいいよね、という“ほぼ預流果”じゃないかと思ってるんだけど、
違ってたらごめんね。
だって三昧も経験してないし、それどころあるとさえ思ってない風だし、涅槃を見たわけ
でもないし、厳密にはまだ預流果じゃないはずなので、油断しない方がいいと思う。 不退転とは、「決して退かない、あきらめない、やめたりしない」
という意味で理解されていることが多いかもしれないが、多分違う。
一旦ステージが上がってしまったら、どんなに必死に戻ろうとしても、
以前の(俗なる)自分には戻りようがない、という意味なのでしょう。
だからこそ、「来て、見よ」と言われ、且つ、すべてが滅し、静まり、
再び母胎に宿ることがない(≒俗世の業を積むことがない)と言われるのでしょう。
その意味で、定を修める(極める)ことは、(どのタイミングどの段階かは別としても)
通過が必須な要素なんだろうね。 スマナサーラ長老版の慈悲の瞑想の文言の
悟りの光があらわれますように ←コレ
これは経典教学の智慧ではなく、瞑想による般若の智慧が
現れた時の表現としか思えない。
スマさんは知ってて、分かってて、黙ってる。 >>975
私は一切、正定を否定すること書いてませんよ。
純観行者がいて解脱した修行者がいたことは確かです。
私は以前の苦滅が済んで、日常実践で安楽に過ごしてます。
で、貴方の仏縁の着地点は、何でしょう。
聖者でも成りたいのですか、自己流でなく、こうなりたいと信頼できる師に
ついているのですか。
過去世を思い出す作業より、もっと合理的な悟り,解脱,涅槃に至る教えが
あること見つけられてないのですか。
九次第定にしがみついている様子だと、複数ある解脱プロセスが
整理できてなく、智慧の解脱の教えを見つけられてないのでしょうか。
相応部スシーマ経では、堂々と、解脱には、過去世どうのは、必須でないと
否定しています。それがブッダが必須と説いた、慧の解脱です。
五神通は解脱,悟りへの必須条件ではないと、明示されてます。
あと色界を超越して、寂静な無色界の解脱に身体をもって触れたか聞く、
それも否定、智慧によって解脱と。 >>980
>>981
>定を修める(極める)ことは、通過が必須な要素なんだろうね。
ところが仏典上では、極めること必須でないと説かれてます。
純観行者=乾観者
慧解脱の阿羅漢、サマタを極めることなく、観瞑想の解脱者
観瞑想でも集中が伴う初禅に入れてる
ちなみに、この実践で完全智の解脱可と説く、
中部10経、念処経、長部22経、大念処経、も目を通したのかな。
ええと、あれこれ流派の概念構想に沿って瞑想修行してても、
スマ長老が大先生と呼ぶ チャー師の教えの通り、結局、
シンプルに手放す生き方に落ち着くそうなんだけどね。
というか君らは出家した方が、修行環境整ってていいのでは? >>981
>悟りの光があらわれますように ←コレ
スマ長老は、
パーリ語で光といったら智慧という意味ですと答えてます。
>瞑想による般若の智慧が現れた時の表現としか思えない。
スマ長老の本には、
瞑想中の光は、幻覚で、智慧と関係なく誤解しないこととあり、
オウム麻原は、光を見て最終解脱したと自慢していたとあります。
ええと、貴方、都合よく意味づけして、妄想激しくないでしょうか。
そういう人が、過去世でどうのとか、正定が九次第定とかもう、
そもそも根本的なことが、、5ちゃんに来る人らしいですね。 まぁ、こういうことになるから密教化したのだろうけれども
もともとは秘密ではなかったはずのものだと思う。
秘密にしなくても、正定からの智慧(三学=戒定慧の慧)に達していれば分かることだし
達していなければ、妄想との判別がつかない。
それだけのこと。 思考の中だけでの仏教理解は、あくまで自我のなかに生みだしている概念だから
般若の智慧じゃないんだよ。
人智のなかに生みだす概念が、人智を超えることはない。
しかし般若の智慧とは、人智を超えたもの。 幻覚の光というのは、五蘊のなかに生みだした感覚のことでしょう。
五感が働いている。
夢を見ている時も、感覚がある。
禅は完全に決まると思考も感覚もない。
そこにある光は幻覚ではない。
心はもともと光だから。
(例えば、無色界の梵天には身体はない。)
梵天の話をするとオウムなら、梵天の勧請を受けた仏陀はどうなってしまうのか。 スマさんがいってる光を気にするなっていうのは、瞑想初心者がよく言う
光がみえただの、映像がみえただの、瞑想中にでてくる妄想のことでしょう。
そんなことは当たり前のことで、分かりきってるんですよ。
その辺の話をしているんじゃないんです。 スマさんが、心は光より○○倍速いとかって話してるのを聞いたことあるでしょ。 光を見るときはエゴが見てる
梵天を知るときはエゴが働かないとき(釈迦が梵天と会ったのは悟った後) >>989
ええと、貴方の一連の話から特に目新しいことはないです。
スマ長老は、仕事のある在家の現代人は時間がないから、
サマディを作らず、私が指導する簡便な止と観ヴィパッサナで
短い時間で結果が出せると本でも述べ、それを瞑想教室でも教えてます。
私も何回かスマさんの瞑想講座にも参加しました。
貴方は専念できる時間がたっぷりあるなら、貴方がしがみついた仏道を進まれ
実践してくださいな、相手より自己を観察せよでどうぞどうぞ。 >>993
光、ニミッタという幻覚を制御させて観の質を高められるとかね、
必要ないとスマさんが在家向け指導する瞑想で短時間で効果出せると
述べているけど、そこまで境地に執着する必要あるのかな。
しかも仏典上もサマタ(極め)修め必須でないと堂々と説かれていて。
サマタで無常が悟れても、智慧の開発はヴィパッサナとスマ氏説くが。
こういう体験をして何かを得ている比類なき私って、もうそれ自我構成強化。 このスレッドは1000を超えました。
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