【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 色貪、無色貪は五上分結だから、
色界・無色界の無常と無我が本当に分かるとしたら、それはもう阿羅漢か、
それに次ぐ段階に到達している、ってことなのかも知れない。
>無我であることは、なんにもないという虚無思想ではない
解脱智見
どこの?誰が?解脱を知覚して
どこの?誰が?涅槃に住むのか?
(無明に依存している)我が見るのではなくて
縁起している世界を手放し超えて
仏そのものの智慧と慈悲をもって
自在力(神通力)
四神足
観神足をもって
円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照する
(円成実性を見ずして → 依他起性を見ることはできない) >どこの?誰が?
その思考のフレームで捉えることができないってことなんでしょうね。
どこの誰が、という発想自体が、自我を起点とした発想、自我を中心とする認識だから。
そのことには、涅槃よりずっと前の段階で気付きますよ。
無我なのは分かった。
だが、自我も欲もある。
さて、どうするか。という修行のはじまりの段階で、無我ってこと自体はわかります。
その段階なりに。 しかし我々全員にとって大変心強いのは、仏陀が涅槃までの道のりを
すべて説き遺して下さっていることですね。
「色貪、無色貪は五上分結だから云々〜」などと判断できるのも、
涅槃までの地図において、自分がいまどのあたりに居るのかも、どちら
へどのように進んで行けば良いのかも、すべて仏陀からはじまる
三宝があってのこと。
我々は、すでに最高に恵まれていると思いますよ。 472.
心理ゲーム、をやっているバカである。涅槃ゲームと言う、か。 >>473
どういう理由からそう言われるのか、伝わるように解説して頂くことはできますか?
理解できるように前後の文脈や、背景事情をご説明頂けないでしょうか。
でないと、言いたいことが理解できません。 474.
坐禅、瞑想して、心理、認識の内容が、変化しただけのことである。
それを、涅槃と、命名しただけのことである。
>坐禅、瞑想して、心理、認識の内容が、変化しただけのことである
>それを、涅槃と、命名しただけのことである
それで?だから?
結局、何が言いたいのか?わからないけど?
『心の働きの変化』と『仏教(宗教)』は関係ない。とか?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E6%80%A7%E6%84%8F%E8%AD%98%E7%8A%B6%E6%85%8B
変性意識状態( altered state of consciousness, ASC)
有効な療法として、一時的にこの状態を患者に与える方法が活用されている
_ _ _
仮設としての
縁起に依存して
変性意識状態をもって
その結果として
良い場合もあるでしょ?
悪い場合もあると思うけど…
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる >>475
その当時
シッダールタは
六師外道だったかもしれない
ウッダカ・ラーマプッタ師匠から
非想非非想の実践を教わり
非想非非想の世界を知覚して
非想非非想の世界に住んで
そして
それから
非想非非想の世界を手放して
(仮設としての)縁起している世界を手放して
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し
よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである
と四念処(四念住)の修行を実践するように「自灯明法灯明」の教えを説いた
仏性からの真如縁起をもって
仮設としての
心の働きの変化が、現れ → そして滅していく。でしょ? >>475
肉体自我の内側に起こる変化は、あくまで自我のなかのこと。
人間の知覚、人間の思考の限界のなかでのこと。
わたしがいま言っている、瞑想でみる無我は、その外(そと)。 海面に浮かぶ泡沫のなかに、大海があるわけではない。
大海は泡沫の外にある。
泡沫を生みだしている土壌そのものは、泡沫のなかにはない。
泡沫が大海を含んでいるのではなくて、
大海が泡沫を生みだしている。
自我を出発点とする認識は、このように顛倒している。 478.
無我=自我である。
479.
自我=泡沫、か。
泡沫=大海、である。
あなたは、大海であり、泡沫ではない、か。 477.476.
手品師をやっている場合ではない。 マトリックスという映画がある。
マトリックスの住人は、すべてアバターなのだが、そのことを自覚している人と
そうでない人がいる。
自覚している人も、自覚していない人も、マトリックスの中ではあくまで同じ住人同士でしかない。 マトリックスの真実を自覚している人は、アバターの死を怖れたりすることはない。
マトリックスの真実を知らず、アバターが自己の本体だと信じ込んでいる人は、
アバターの死を怖れ、苦しむ。
マトリックスの中に本当の自己などないし、執着に値するなにかがあるわけでもない。
>瞑想でみる無我は、その外(そと)
これも意味がわかりにくい
『仏そのもの』でしょ?
それゆえに
上座部 2.0の説明だけではなくて
大乗1.0?3.0?としての説明が必要でしょ?ということでつ
ちなみに
仮設としての
縁起に依存している世界は
変化しているので
それゆえに
変化しないものではない
自性ではない
我ではない
そして
仏の世界は
無為法の世界なので
我である。という『想い』ではない
我ではない。という『想い』でもない 言葉で説明するより、瞑想をとおして自分で洞察した方がいい
というか、それ以外の方法で理解・納得するのは無理でしょ。
自我のなかに留まる限り、自我が生みだしたアイデアから
外に出られない。 484.
手品師の言う、ことである。賞賛される、かや。 485.
瞑想して、涅槃に行かないバカ、の真似事、をするべきか。そこが問題である。
>>482
>自覚している
解脱を知覚して
涅槃に住んで
有余涅槃から → 無余涅槃へ
− これに対して −
>自覚していない
仮設としての
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して↓そして
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
渇愛(タンハー)
無明と渇愛が絡み合って
無始なる過去から
(輪廻を繰り返して)
終わりなく苦しみをつくり出しています
それゆえに
[自覚している]と[自覚していない]は違うでしょ?
>>482
>自覚している人も、自覚していない人も
>(仮設としての、縁起している世界の)同じ住人同士
有余涅槃の如来は
肉体(色蘊)は有為法にあっても
基本的には?
無為法の世界に住んでいる
(涅槃の世界に住んでいる)
− これに対して −
解脱を知覚していない
涅槃に住んでいない
仮設としての
無明薫習に依存している場合は
ヒンドゥー(バラモン)系
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
そして、それから根本仏典 2.0へと受け継がれて?
そして、それから大乗へと…?
>>485
まさに
仮設としての
無明薫習に依存して
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として
それを自分であると考えて執着し続けているので
それゆえに
>自我のなかに留まる限り、自我が生みだしたアイデアから外に出られない
おっしゃる通り
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
上座部
30分〜1時間
この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします
↑3秒の間くらいならできる おじゃる
(一応、実践しちょりまつ…)
それと一応、念のために
勘違いしないように、上座部 2.0も肯定派で おじゃる >>485
>言葉で説明するより、瞑想をとおして自分で洞察した方がいい
>というか、それ以外の方法で理解・納得するのは無理でしょ。
以上は485の自我が生み出したアイデアでした 以前にも同じことを言ったけど、自我と自我がコミュニケーションを取るということは、
言葉を介する必要があるので、言葉が思考を介する以上、構造的に必ずこういうこと
になるんだよ。
だから禅宗では、黙って坐ることが推奨されているのだと思う。 自我と自我の関わりということになると、もうひとつやっかいな問題があって
それは業の影響を受けるということ。 493.
言葉が思考を介さない、が良い、か。
手品師がやる、ことである。
>>494
>業の影響を受ける
仮設としての
身体的な行為、言葉による行為、心の働きによる行為でしょ?
− これを対処するための −
戒・定・慧・解脱・智見
(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(智慧・慈悲))でしょ?
_ _ _
なぜ?
大乗1.0?3.0?のように
『仏そのものから見よ』というような明確な導きをしないのか?
『([仏そのもの]の)智慧と慈悲によって』
という明確な導きの方がわかりやすいでしょ?
もっとも
自分(おじゃる)の場合は
大乗1.0?3.0?の世界観をもっても
3〜7秒の間くらいしか観照できないけど… >>465
だったら最初から「>色界における梵天としての自我はあるのではないかな」
こういう中途半端なこと書かなければいい。 >>495
瞑想の種類や段階にもよるのだろうけど、
瞑想は、ある段階から先になると言葉的な思考を介さないようになってくるよ。
>>497
自我は完結したひとつのパーツではないので、
我々が考えるような欲界心の塊(五蓋)としての自我がないからといって、
色界に、色界浄心による意識の塊がないわけじゃないでしょう。
だから、別に矛盾していないと思う。 スイッチが切り替わるように、いきなり阿羅漢になるような人ばかりじゃないんだから、
自我からの解放の度合いは、グレースケールで計るように段階的に捉えることもできるはず。
というか、それが十結であったり、仏法の中でさまざまに説かれていることでしょう。 という>>499の自我が生み出したアイデアの発表ですた >>493ももちろん自我が生み出したアイデアであり
>>493が個人的に思っていること信じていることです >>498
>自我は完結したひとつのパーツではないので、
だから無我と言うのだよ。
自我というならそれは「常」になってしまう。 >>463
破戒僧スマナサーラと他を比べてる時点で狂ってる。
お前は釈尊を舐めてるな? 破戒僧 食事の布施を受けるより 熱玉飲めよ 地獄より良い(ダンマパダ)
これが釈尊の言葉だ。外道。
>>499 >段階的に捉えることもできる
だから上座部 2.0?とか 3.0?とかの場合は
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
上座部 パオ・セヤドー
([仏そのもの]の智慧と慈悲をもって)
通常、四界分別観から修行を始めなければなりません。と導いてるでしょ?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E8%B6%B3
四神足
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
→ (仮設としての)縁起している世界を観照する
なぜ?ID:uIGtrgVo師匠は
どこの?誰が?何を?見るのか?
を明確にわかりやすく導かないのか?ということでつ
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正
([仏そのもの]の智慧と慈悲をもって)
今,その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです。すなわち思いの手放しです
実際には(縁起している)何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし
([仏そのもの]の智慧と慈悲をもって)
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
>>499 ID:uIGtrgVo師匠へ
仮設としての
縁起している世界の中において
仮の現れ、そして滅として
(実際に)何ものかの思いが浮かぶ
われわれの思いは、いつも「何か」を思う
思いをもって、その「何か」をつかむ
なぜか?
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
上座部 パオ・セヤドー
有分心(生命相続流)
心の流れの相続を維持する
有分心がある為に
心の流れは断絶する事がありません
(根源的な識の流れは激流のごとく活動している。暴流の如し)
それゆえに
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
大円鏡智の世界から → 第八識を見る
平等性智の世界から → 第七識を見る
妙観察智の世界から → 第六意識を見る
と導いて、そして>>505へと繋がっていくのでつ 506.
仏そのものの、智慧と慈悲をもって、か。
仏そのものは、智慧と慈悲を持っていないからである。
なんでか。
涅槃とは、それらを捨象したものであるからである。
智慧と慈悲とは、思い、の一部である。からである。
その、思い、を手放した者、が仏、であるからである。 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99
(仏教も含めて)
宗教は
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
それゆえに
ポッタン師匠の>>507の続きとして
>思い、を手放した者、が仏、である
非想非非想も手放し超えて
(仮設としての)縁起している世界も手放し超えて
解脱を知覚して
涅槃に住んで、そして
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
さらに無の世界も超えて
移り行く世界の様を
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
ありのまま見つめている
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
生きとし生けるものに
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
悟りの光が現れますように
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 509.
仏は智慧と慈悲を持っていない。
その持っていないものを、どうやって、衆生に与える、のかや。
涅槃は、行ったきりで、帰ることはない。
証は、修業に還らない。
ポッタン師匠の>>510の続き
>涅槃は、行ったきりで、帰ることはない
それゆえに
自在力(神通力)
四神足をもって
さらに無の世界も超えて
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
(移り行く世界の様を)ありのまま見つめている
無の世界も超える
そのための
自在力(神通力)
四神足
ポッタン師匠は
(大乗も含めて)根本仏典も勉強した方が良いんジャマイカ?
ttps://www.iwanami.co.jp/book/b270312.html
31ページ参照
仏の智慧と慈悲を遵奉している
四神足の神通力を具えた
如来は
身体から光輝を放ち
地獄に落ちた衆生を救い上げ
かれらを [ さとり ] に導いていく 511.
地獄に落ちた衆生を救い上げ、か。
バカ丸出しである、。それは迷信である。
根本仏典を勉強すると、バカになれる、のか。 >>509
> 人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
ブッダは、そういう形而上学を否定した(「毒矢のたとえ」)。
> 非想非非想も手放し超えて
> (仮設としての)縁起している世界も手放し超えて
キミもいい加減、(仮設としての)御託を手放してはどうか? >>295
> 非想非非想処
> 想でもなく・非想でもない
>
> 最終的には
> 非想非非想も手放し
> 非想非非想も越えていく
>
> やっぱり↑これも実践した方がよいかも?
さっさと! >>513
そこで言う形而上学って、要するに頭で考え出した概念ってことでしょ。
名色の実相は人智を超えているが、形而上学ではないよ。
無我にしろ、無常にしろ、どれも観測できる事実だから。 頭で考えた概念は、自我の内に生みだされたものでしょう。
瞑想は、考えてないから。
思考してないところに、思考概念は生まれない。 幻覚でもないよ。
五感の感覚もないから。
五感の働きのないところに、幻覚はない。
夢でもないよ。
寝てないから。 瞑想による洞察は、体験智であるから、概念で理解することはできません。
瞑想による洞察は、洞察であって、観測による確認であるから、形而上学とやらでもありません。
ただ、プラトンが言っている形而上学の正確な意味と、あなたが言っている形而上学の意味とでは
おそらく定義がずれていると思います。 >>516-517
またそちの自我が生み出したアイデア、観念を発表しているでござるか 言葉は思考を介するが、表現されている事柄は思考ではない。
伝統的な例えでは、月と月を指す指。
たとえば天文学なら、望遠鏡で観測した天体の様子と、その様子を記述した文章。
文章は思考を介し、聞き手がアイデアとして解釈するが、天体自体は誰かが考えて
生みだされたわけではない。 天体が丸いのは、丸いというアイデアによるのではない。
(三次元空間で)観測したら丸かったから、丸いと言われる。
無我にしても同様で、思考と感覚を止めた場合に、自我だと思っていたものは消えるので、
その瞬間に思考と意識とが別物であったことがわかる。
意識に我とか彼とかの境界線はない。思考もないし、身体もないから他人との区別もない。 >>522
自我だと思っていたのが消えるのを観測するのが意識なの?
だとすれば月とかの天体は観測される方だが意識は観測する側だから一緒にはできないべ
それに個人の意識で個人の自我を観測するのだから意識に我とか彼とかの境界線はないなどと安易には言えないべ
君の「思考」は矛盾だらけだぞw
>>515
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
上座部
30分〜1時間
この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします
(智慧による?)
呼吸への観照
9秒の間くらいならできるようになった
(一応、実践しちょりまつ…)
>>522
>自我だと思っていたものは消える
ID:i4WJid3I師匠の場合
やはり
どこの?誰が?どのように?の導きが抜けている
ttps://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
マインドフルネス
何か雑念が出てきたこと
([我である]と掴もうとしている想いが現れてきたこと)に気づいても
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
移り行く世界の様を
その辺りに漂わせておくようにして
自然に消えていくのを
ありのまま見つめている
自力で往生などしようとしないで
一切の物事を阿弥陀仏にお任せして
『想い』を手放して自然に消えていく 観測する主体は何なの?っていう疑問は、頭で考えてるから出てくるのであって
考えてない時にそういう問題はないのだ。
言語による説明は思考なので、各自で(少なくとも思考から抜け出すところまで)
瞑想して確かめてもらうしかない。 思考から抜け出すことは、(欲界の)自我がから抜け出すことでもある。
仏教用語でいうと、五蓋の働きを止めた状態。
自我から抜け出すことは、地上からロケットで宇宙空間に飛び出すような
大きな力が要る。
そして、宇宙空間に地上の常識は通用しない。
それぐらい、いやもっと大きな違いかもしれない。 スマナサーラ長老は、深海魚が海面に飛び出したような、と例えていた。
宇宙に飛び出すという比喩は、チベット仏教の修行者も同じ例えを使っていた。 仏法においては、心身の働きについては、心、心所、色(チッタ、チェータシカ、
ルーパ)で説明しているので、この用語が分かる人同士であれば、この概念で
説明した方が正確であろうと思われる。 >>526
全然答えになってないだすな
少なくとも思考と意識の違いの確認とか観測に天体観測を例にとるとか的外れなことは今後はやめることだす
望遠鏡などを使った天体観測には観測する主体と対象がある
瞑想を使った思考の観測は君に言わせればそうではない
君自身この矛盾と混乱に気づいているだすか?
>>527
これも同じ
まず君自身が瞑想で確かめたことではなくチベット仏教やスマナサーラ長老の受売りしかできてないのがダメ
それでは人に瞑想で確認して確かめてもらいたいなどと言えないだすな
一緒に瞑想して確かめましょうとは言えてもね
そして「宇宙空間に人間が出る」ように「海面に深海魚が出るよう」に「思考の外に出る主体」の問題はここでも出てくるだす
これ説明できないのなら宇宙空間とか深海魚とかの喩えはやめたほうがいいだす 心理ゲームである、涅槃になれ、ゲームは面白い。
なんでか。
涅槃になると、心理がなくなるからである。
だからして、瞑想も、なくなる。
この矛盾が良い。 泡沫が大海になったとき、そこにはもはや泡沫はない。
(すでに泡沫ではない)
泡末を生み出す大海があって、
大海が泡沫を生み出す(そしてそれは滅する)が、泡沫が先にあるのではない。
自我の錯角もこれと似ている。 >>524
独学や我流ではなくて
ちゃんとしたところでやってる? >>533
>認識する働きがあるだけ。
誰が瞑想して
認識する働きがあるだけ
と認識したのだすか? 思考の外側に抜け出せば、本当の慧が分かる。
慧は人智を越えているので、人間の論理思考で捉えるのは、たぶん無理。
思考の前提に有身見があるからだと思う。
一定時間、雑念思考に流されないで居られれば、そこから抜け出せる。
抜け出すという表現自体に、何から何が抜け出すのか、主体を想定した言葉だから、正確ではない。
言語の構造自体が、自我の錯覚から発生しているせいだと思う。 生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとしいけるものの願い事が叶えられますように
生きとしいけるものにも悟りの光が現れますように >>537のレスをしているのは誰だすか?
>>537の自我がレスしているとかいったらそれは思考から抜け出してない言葉が列挙してあるだけのレスということになりますな
>>537の言い分によりますと 映画マトリックスで例えるなら、
マトリックスのなかのアバター同士が、マトリックスの外側の話をしている。
そういう状態。
>>535 >独学や我流ではなくて
ttp://www.onedhamma.com/
大乗1.0の世界観をもって
上座部 2.0を実践する
3.0のpodcast法話
15/05/24
魚川祐司氏・山下良道僧侶・藤田一照僧侶
この法話から、最新の法話も聞いちょりまつ
_ _ _
>>525 >どこの宗教宗派支持してるの?
第6のチャクラ、眉間のところが
くすぐったい、むずむずする。の実践もしてるので
六師外道系?ヒンドゥー系?チベット系?も肯定でつ
ttp://jairo.nii.ac.jp/0180/00000655
チベットに伝わる心の訓練法
…
二菩提心(勝義菩提心・世俗菩提心)
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
縁起している
[諸法は(夢・幻の如く)空性である]と観照する
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
縁起している
すべて一切の諸法を「(夢・幻の如く)空性である」と観照せよ 泡沫が大海と一体になるとき、泡沫の中からなんらかの主体が大海に飛び出すのではない。
大海と泡沫とを切り離している、(泡沫の)壁を取り除けばよいだけ。
主体はない。 泡沫が、大海から生みだされた(そして滅する)ものでありながら、
泡沫のなかに大海を見いだそうとしても、それは無理。
泡沫が大海を悟るわけでもない。
泡沫であることをやめれば、そこには初めから大海があった、と気づく。
いろいろと逆。
顛倒夢想。 >>540
誰がそう認識してるのだすか?
>>543
大海は意識で泡沫が自我だすか?
誰がそう認識したのだすか? 泡沫が大海を悟るわけでもない。
泡沫であることをやめれば、そこには初めから大海があった、と気づく。
いろいろと逆。
顛倒夢想。
という>>544の意識だがこれは無常である。
無常なるものは苦である。
すべて苦なるものは無我である。
すべて無我なるものは
『これ我がものにあらず。これ我にあらず。これわが我(アートマン)にあらず。』
と、このように正しき智慧をもって、あるがままにこれを見なければならぬ。
つまり>>544のレスは>>544自身に対しても無我である >>526は自分で瞑想して思考から抜け出してどうなるか確認しているのだね? 538.
結果論である。
その過程論、方法論が問題となる。 >>542
>[諸法は(夢・幻の如く)空性である]と観照する
それは一番陥りやすい考え方だよ。
「夢・幻の如く」なら君の腕をナイフで切ってもいいかい?
嫌だろ?
なぜ嫌なのかというと、例え仮体であっても仮体として存在するからだよ。
「夢・幻の如く」でも食わなきゃ生きてはいけない。
そのことから逃避しようとするとそういう考え方になる。
>六師外道系?ヒンドゥー系?チベット系?も肯定でつ
反する教えをどうやってミックスするんだい? >>542
> 独学や我流ではなくて
というのは、本とか理論の話ではなくて、
瞑想や座禅のこと。
ちゃんとしたところで教わったの?
>>549
>>六師外道系?ヒンドゥー系?チベット系?も肯定でつ
>反する教えをどうやってミックスするんだい?
これは
ttp://www.onedhamma.com/?p=5136
15/05/24
魚川祐司氏・山下良道僧侶・藤田一照僧侶
この法話から
最新の法話を
毎週、聴いてみないと
意味がわからないかもしてない
3.0理解するには
大乗1.0原理主義の人には無理
上座部 2.0原理主義の人にも無理かもしれない
とりあえずの共通点としては
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99
宗教(religion)
(上座部 2.0も含めて)人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
上座部 2.0の場合もとりあえず
([縁起している世界]を超えている)涅槃も(無明も)前提としている 447
来ますよ
でも、5月に入ってしまうので
もう少し時間かかりそう
夏かもね夏枯れ相場
>>551の訂正
仮設としての
縁起している世界の中の
仮の現れ(そして滅)としての
無明薫習からの依存
− これを対処するために −
苦集滅道をもって
最終的には
(縁起している世界の中からの)解脱を知覚して
(縁起している世界を手放し超えてる)涅槃に住む
と対機説法をもって導く。ということでつ
訂正して、お詫び申し上げます m(_ _)m
>>550 >本とか理論の話ではなくて
ttp://www.onedhamma.com/
2016〜2017の約1年くらいは
神奈川県鎌倉市稲村ヶ崎の
一法庵に逝ってたけど
電車代が往復で
8000円くらい掛かるので
金銭的に余裕がないので
今は逝ってないでつ
ちなみに
チベット系は
往復の電車代 +
ttp://www.tibethouse.jp/event/2018/
2018年7月7日(土)〜 7月8日(日)
リン・リンポチェ師による『心を訓練する八つの教え』と観音許可灌頂
◆ 会場:大本山 護国寺 桂昌殿
◆ 冥加料:15,000円(7月7日、7月8日あわせて)
逝きたいけど↑金銭的に余裕がないので、たぶん無理 >>553
そういう屁理屈はもういい。
瞑想や座禅やマインドフルネスを、
ちゃんとした場所で教わった経験はあるのかい? >>530
説明対象と完全一致する喩えなぞ存在する筈なかろ?w
それは既に喩えでなく、同一だよ。
「喩、譬、譬喩」が、
共通部分を抽出し、強調し、焦点を合わせ、
相違点を捨象して比較する手法であるならば、
君の指摘は野次以外の何物でもない。 >>554
それなら、もっと安いところを探したら? >>545
仏教における出世間の視座は、主語の無い文法だと思ってみ?
勿論、世間の視座は「オレが私が・・・」の一択なわけだがw >>549
意味不明。
【「仮体」たること】を「夢幻」と【表現している】【評している】のだろ?
「五蘊」(の総体)という術語を、今一度学び直した方がいいんじゃないのか?
>>555
>瞑想や座禅やマインドフルネスを、
>ちゃんとした場所で教わった経験はあるのかい?
2016〜2017の約1年くらいは
神奈川県鎌倉市稲村ヶ崎の
一法庵で 3.0として
上座部 2.0 パオ・セヤドーの実践をしました
ちなみに 3.0は、実践としては
上座部 2.0 パオ・セヤドーの実践をしてるけど
世界観としては、大乗1.0の世界観でつ
それが 3.0でつ
ttp://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-13592-1/
〈仏教3.0〉を哲学する
藤田一照 / 永井均 / 山下良道著
知らないんでつか?
3.0けっこう有名らしいでつよ? 一法庵はよかったですか?
もう行かれてないんですか?
行かなくなった理由とかあるんですか?
>>561
>一法庵はよかったですか?
(大乗1.0の世界観を受け入れて、それからなら)
100パーセント
そのまま
上座部 2.0のパオ・セヤドーの実践の方が良いかも?
>もう行かれてないんですか?
金銭的に余裕があるのなら
ゴータミー精舎(幡ケ谷テーラワーダ仏教センター)にも
チベット系にも逝ってみたいでつ
>行かなくなった理由とかあるんですか?
金銭的に余裕がないので
それと
とりあえずは
大乗 1.0の世界観は、わかった(ような気がする?)ので
100パーセント
そのまま
上座部 2.0のパオ・セヤドーの実践と
チャクラ、クンダリニー系と
チベット系も良い。と思っちょりまつ
マハーシ・サヤドー系も?
S.N.ゴエンカ系も?良いかもしれないけど… >>560
その本は読んでる。
>>554
場所はそのようなところでもいいし、
>>562
> 大乗 1.0の世界観は、わかった(ような気がする?)ので
自分でわかったような気がしているのであればそれでいいけど、
あとは、質ではないかな。
満足できるような瞑想や座禅は出来たかどうか。
キミは熱心だし、本もよく読んでいるけど、
本で得た知識と、自身の経験とが一致できていないようなところがある。
質の高い禅定を経験すると、理解も深まる。
そうすれば、今まで読んできたものも生かせるようになるだろう。 >>556
完全一致は求めてないだすが527が出した喩えには主語と述語があるだすから527の思考の方もせめて主語と述語は出すべきだす
深海魚が(主)海面に 飛び出した(述)
人間が(主)宇宙に 飛び出した(述)
◯◯が(主)自我から 抜け出した(述)
527の思考には主語がないのに527が出した喩えにはある
これでは喩えにはならんのです
喩えにしたいのならもとの思考の方にも主語がないとならんのです
天体観測も一緒だす
>>522も主語述語、主客が「天体が丸い」と「無我」では使い方が違ってるので「同様に」などとはならないのだすな >>559
>【「仮体」たること】を「夢幻」と【表現している】【評している】のだろ?
その「ゆめまぼろし」を勘違いする奴が多いから言っているんだ。
学者でもそういう使い方をする人がいるが、やめた方がいい。
それとも君が本気でそう思うのなら君の腕をナイフで切ってもいいかい?
本気で「ゆめまぼろし」だと思うならね。 >>565
主語のあるなしは、
「無我(非我)」及び「行為、事象に於ける主体の消去」
に関して。
喩え話で主語が不要だなどとは言っていない。
※尤も、【喩えたいこと】に於いて主語のあるなしが重要でないなら、(発話者の意図がどうなのかは知らんがw)
一方にあって一方に無くても問題ない。【比較したい箇所がそこでない】ならば。
譬喩表現に於いて、一番ありがちな祖語は、そのような
発話者は捨象して構わないと考える要素を、聞者が捨て置けないと考えるケース。
そう、今の貴方たちのようにw
レス番の返り方のチェックもさることながら、
まず、日本語の勉強から始めようやw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています