【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、 体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、 更なる成長を求めて語り合いましょう。 前スレ 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/ ※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。 日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、 諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。 そこを踏まえてご参加ください。 >>275 指導の場面の様々な言葉を、 「おしえ」として聴くか(受け止めているか)、 「(日常の)精神安定のテクニック」として聴くか(受け止めているか)、 によって、「苦」を始め様々な教義、術語の印象は違うと思うよ。 (Sn.ダニヤの章に象徴されるが如く) 一般人は「人生楽ありゃ苦あり、苦ありゃ楽あり」でいいけど、 仏道を歩むなら「一切皆(行)苦」でなきゃ駄目じゃない? ブッダもアヌルッダもあのヴァンギーサさえ、解脱自称しているのに、「解脱発表いけないことになっている」 は、「解脱者がでない教団の口実」にしか聞こえない。 >>278 ゴエンカさんが言ったらしいよ 後で勘違いだったよって訂正したらしいけど ゴエンカさんかわいい >>282 かわいい .*:.。.:*・゚(n・∀・)η゚・*:.。.:*!!☆ そういう増徴慢心で間違えて「解脱した」っていってしまったのは仏教の戒律で許されるって律蔵に書いてある。 麻原・大川のように「確信犯」で「解脱した」と言うのは破門になっておおごとになる、って書かれている。 ↓実践したことがないので、わからないけど ttps://ameblo.jp/morfo/entry-10910069844.html ゴエンカ … …この瞑想を続けるうちに 微細な感覚が波動ように高速度で生滅することを感じるようになります ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259 パオ・セヤドー … (地水火風の)微細な粒子の密集 _ _ _ … 微細な感覚って、どんな感じ? >>284 その辺の説明が胡散臭くて僕はゴエンカを見切った。 ブッダならもっとうまく語るよ、と思って。 あるいはわかった人ならもっと誰でもわかりやすい書き方できるよ、と思って。 まあブッダも微細とか粗雑なとかの表現はしてるけど、 「微細な感覚が波動のように高速度で生滅する」みたいなの「ねえよ」と思って。 ttps://ameblo.jp/morfo/entry-10910069844.html ゴエンカ … 安般念によって精神集中(サマタ・止)の訓練をします ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm パオ・セヤドー … 第一禅定 止(サマタ禅定)をもって 「どこかへ飛んでいってしまう心の働き」の世界から ↓ 『呼吸を観照する』世界へ戻す要素がある 止(サマタ禅定)の世界に戻る帰る それでも 仮設としての 縁起している 呼吸が観照されているので 止(サマタ禅定)を前提とした 観(ヴィパッサナー智慧)という感じなのかしらん? 仏典を読むと、阿含経読んでも、パーリ聖典読んでも、長部経典読んでも、 戒→ヴィッパサナー→初禅〜四禅→解脱・解脱知見しか書いてないけど、 これで解脱するのなら、もっと仏教栄えているはずなんだ。 でも戒→ヴィッパサナー→初禅〜四禅→解脱・解脱知見、ならんのよ。 戒→ヴィッパサナー→初禅→2禅→木阿弥、程度。 何故だろうね。あのブッダが嘘つくわけないし、経文も困った時のことも書いてあるし、 わからん。あきらめつつある今日このごろ。 詐欺師自称解脱者麻原にあれだけ弟子がついたのはよくわかるわ。 現にまのあたりに解脱した指導者がいないと、駄目だ。なんでかわかんないけど駄目な気がする。 とはいえ、本当の解脱者が現にこの世にいるかわからないし、いたとしても、 その真偽を確かめる目も無いし....。 世俗は捨てたし、今更戻るとこ無いし、自殺大涅槃しかおもいつかん(笑) スッタニパータ 805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ (自己の)所有しているものは常住ではないからである この世のものは 『 変滅する 』 ものである ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349 大念住経(大念処経) 地の要素・水の要素・火の要素・風の要素がある _ _ _ スッタニパータ 805と、大念処経をくっつけて 仮設としての 縁起に依存して 地水火風の微細な粒子も 『 現れ、そして滅している 』 ので それゆえに (地水火風の微細な粒子に依存している) すべて一切の諸法も 『 現れ、そして滅している 』 ↑ちっと無理があるかしらん? >自殺大涅槃しかおもいつかん 輪廻否定の場合は、どうなのか?わからないけど とりあえず 「仮設としての」という意味で 輪廻肯定の場合は 仮設としての 無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている 真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている 無明薫習に依存して 来世に戻り現れる(かもしれない)ので ということなので? とりあえず 自殺は、やめといた方がよいでしょう? カラーパが消滅してるのは分かるけど、そのカラーパの中に地水火風のエレメントを見る って言う見方が分からない。1回に4時間位瞑想やらないとダメなのか? ↓実践したことないけど、とりあえず ttps://ameblo.jp/morfo/entry-10938527137.html パオ流 四界分別観 たとえば仮に 歯 → 硬さ → 地の微細な粒子 もっと更に分解して 最小単位の微細な粒子に分解して 最終的には、手放して (最小単位の微細な粒子を) その辺りに漂わせておくようにして自然に消えていくのを見届けて 最終的には (無明している世界も手放して) その辺りに漂わせておくようにして自然に消えていくのを見届けて そして解脱智見とか? かなり詳しくやらないと無理みたいですね。カラーパが、物質を構成してるのか心を構成してるのか 良くわからないんです。目を閉じるとすごい数の粒子が点滅してるのは分かるんですけど。 "四界分別観は身体が四大に過ぎないことを知る瞑想法です"と書いてあるから物質と言うか 身体なのかな? >>292 の補足 たとえば仮に 『のちの教義を適用した趣があった』としても それでも、とりあえず 第一禅定〜第四禅定とかも実践した方がよいと思うけど… ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349 大念住経(大念処経) … (仮設としての) この身体には 髪、毛、爪、歯、皮、肉、筋、骨、髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、 脾臓、肺臓、胃、腸、胃の中の食べ物、大便、胆汁、啖、膿汁、 血、汗、脂肪、涙、血精、唾、鼻汁、関節滑液、脳漿、小便がある … (仮設としての、縁起に依存している) すべて一切の諸法にも 地の要素 、水の要素、火の要素、風の要素がある 最終的には 『微細な粒子も自性ではない』として 掴もうとしている想いも手放していく >物質と言うか身体なのかな? たとえば仮に 空無辺処 物質的存在が無い世界 一切の物質的な形を(手放し)離れ、一切の作意のない、無辺の空を観じる 識無辺処 三世(過去・現在・未来)の識が悉く、定中に現じて清浄寂静なる果報をいう 無所有処 何も存在しないと観察し達観する 非想非非想処 想でもなく・非想でもない 最終的には 非想非非想も手放し 非想非非想も越えていく やっぱり↑これも実践した方がよいかも? (『のちの教義を適用した趣があった』としても、それでも、とりあえず…) スッタニパータ 1026 無明が頭であると知れ 光り輝いている仏性からの智慧をもって 信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて 頭(無明)を裂け落とさせるものである 1119 つねによく気をつけ 自我に固執する見解を(手放し)うち破って 仮設としての 縁起に依存している 無明している すべて一切の諸法を『空性である』と観照せよ 空性である それゆえに 「我所」という想いでもない 「我」という想いでもない 「主客分別」という想いでもない 「我は想う」という想いでもない 「我は想わない」という想いでもない 中観自立派 … 誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり すなわち火の自相なのです − これに対して − 中観帰謬派 …分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに 中観自立派の言う「誰も気づいていない山火事」も いま我らによって (「自相(自性)がある」を前提として)分別されている 自相(自性)があるから 誰も気づいていない山火事が起きるのではなくて (自相(自性)ではなくて) 仮設としての 縁起に依存しているからこそ (空性であるからこそ) 誰も気づいていない山火事が現れ、そして滅していく それゆえに、中観帰謬派の場合は 世俗の次元においても、自相(自性)を否定します 上座部の場合も (縁起に依存しているので、それゆえに)我ではない >>281 だから、 精神安定剤としての日常的テクニックだけ学べればいい という人(275)にとっては、仏説の根幹なんてどうでもいいってことでしょ。 ttp://www.j-theravada.net/kogi/kogi79.html 無常 … 桜の花が散るのを見て「無常だなあ」と喜んでいながら 自分のことになった途端に「そんなはずはない」と 仮設としての 掴もうとする想いが現れる(そして滅する) ttp://www.j-theravada.net/pali/key-dukkha.html DUKKHA 苦 ドゥッカ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%8B%A6%E5%85%AB%E8%8B%A6 生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦 ttp://www.j-theravada.net/howa/howa163.html 我とは変化しない常住たる実体 ところがどっこい 仮設としての 縁起に依存している世界の中においては すべて一切の諸法も 縁起に依存して 現れ滅して変化している 無常であり それゆえに 変化しないものではない 我ではない → 無我 ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%A0%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86 すべて一切の諸法も空性なので 自性ではない・独一性でもない・独存性でもない それゆえに 本来は、すべて平等である 本来は、仏陀と一般の人々が平等である ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84 光り輝いている(仏そのもの)に (無明に依存している)煩悩とかが取り憑いている それゆえに たとえば 上座部とかの場合は 菩提分法とかをもって 「無明している世界を手放して」と導いていく 光り輝いている(仏そのもの)を知覚して 光り輝いている(仏そのもの)に住む ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm パオ・セヤドー 智慧の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます ヴィパッサナー瞑想というのは要するに過去の後悔や未来の負の妄想で悶々としているのを呼吸に意識を向けることで意識を変えて誤魔化すことです 起きている間ずっと後悔や妄想といった思考の渦に巻き込まれそうな時に呼吸に意識を向ければ誤魔化し続けることも可能でしょう しかし意識だけではなく現状を変えるために何かアクションを起こさなければ世間で生きてく上での辛さというのは結局は解消されないでしょう 呼吸に意識を向けている時に起こった思考に善悪の判断をつけないことで引っ込み思案が解消され行動でしるようになるかどうか? いくら洞察智なるものがたとえ身についてきたとしても行動力を伴わない洞察智では慰みにしかならないでしょう そんな瞑想よりは抗うつ剤飲んだ方がよほど確実に苦を滅することができる また毎日朝晩一時間ずつというのも独身でフリーターならまだしも家族持ち正社員にはハードルが高い それなら神仏に悩みを告白しその解決への努力に対しての助力を求める方が具体的だし時間もかからない ヴィパッサナー瞑想での苦滅は簡単ではないと思う 坐禅など他の瞑想でも同じだけど むしろ抗うつ剤の補助として瞑想をするほうが時間的制約もそれほどではないだろうから特に既婚者にとっては現実的 但し抗うつ剤を手に入れるために病院などに行くか代理店から購入する必要はあるがね >抗うつ剤の補助として瞑想をする ↓効果があるのか?わからないけど、とりあえず ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E4%B8%96%E7%99%82%E6%B3%95 前世療法(past life therapy) 退行催眠により患者の記憶を本人の出産以前まで 誘導(=過去生退行)し、心的外傷等を取り除く(かもしれない?) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E6%80%A7%E6%84%8F%E8%AD%98%E7%8A%B6%E6%85%8B 変性意識状態(altered state of consciousness, ASC) 宇宙との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い この体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈なもの また催眠等による、非常にリラックスした状態 肯定的な効果をもたらす(かもしれない?) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E8%A1%8C%E5%8B%95%E7%99%82%E6%B3%95 認知行動療法(Cognitive behavioral therapy:CBT) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E7%99%82%E6%B3%95 マインドフルネス認知療法(Mindfulness-based cognitive therapy:MBCT) 心に浮かぶ思考や感情に従ったり、価値判断をするのではなく ただ思考が湧いたことを(手放して)一歩離れて観察する マインドフルネスの技法を取り入れ、否定的な考え、行動を繰り返(自動操縦)さないようにする ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0 フォーカシング(焦点合わせ、Focusing) 臨床心理学者により明らかにされた、心理療法 見たところ、本の知識羅列程度で、苦の消滅に関し具体的確かな体験を持っている人は、 このスレにいない、と悟った。 これなら読書と実践で十分である。 >苦の消滅に関し具体的確かな体験を持っている人 自分(ID:JNkI1FP4)の場合は 実際に実践として 呼吸の観照もできなかったけど… たぶん日本には (大乗を含めても) 解脱を知覚して 涅槃に住んでる(有余涅槃の)人は 少ないかもしれない(或いは、いないかもしれない?) 「本格的に」ということであれば ミャンマーとか? (大乗密教になるけど)チベットとか? (ヒンドゥー系かもしれないけど)インドとか?まで逝ってみる? 現地に逝くのなら >読書 解説書とかも読んだ方がよいかも? わざわざ書き込む時点で、同じレベル・同じ貉。 >>304 つか、それ以下か。 >>304 2号という人が原始仏典に書かれた修行法の実践で生きやすくなり仕事も上手くいくようになり異性の友達も増えたというようなレスをしていたと思った >>304 >実践で十分である >>308 >原始仏典に書かれた修行法の実践で 四界分別観とか 安那般那念(アーナーパーナ・サティ)とか 色々あると思うけど どれを実践してるのかしらん? ちなみに 自分の場合は まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす 胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら 何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)をしちょります 大ラーフラ教誡経 http://neti2.blog.so-net.ne.jp/2007-04-19 ここで釈迦が息子に説いていることはおまじないの類と大して変わりはないな オカルトと言ってもよい しかしヴィパッサナーというのは実況中継している時でも後悔や妄想に襲われるのに 実況中継をやめヴィパッサナーをやめればまた生得的な気質からくる悶々とした時間を過ごすことになる これでは究極的な苦の滅にはならないのだよ 丹田呼吸とかでコルチゾールレベルを下げセロトニン神経を鍛え扁桃体の興奮を抑えるように心身を変えていく方が苦滅に繋がるし科学的なアプローチといえるのではないか >>311 のリンク先 色受想行識 地水火風空 喜 楽 滅尽 捨離 ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm 第一禅定を支える五つの要素 五禅支の 三番目ピティ −喜びの要素 四番目スカ −幸せの要素 五番目エーカガター 1つの対象に集中していて心が散漫にならない一境性 段階的に進んで 第四禅定を知覚して 第四禅定に住んで そして 第四禅定も手放して 更に次の段階へ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%B0 丹田(たんでん) …意識と呼吸を… _ _ _ 上座部由来のものでなくても? 実際にやってみて 楽になるのなら 『苦しい!』を手放しできるのなら良いんジャマイカ? ちなみに 自分(ID:YXGOZnyK)の場合は 第6のチャクラ − 眉間のところが くすぐったい・むずむずする。を実践しちょります 眉間のところが [くすぐったい・むずむずする]ときは 『苦しい!』と感じることは少ない [むずむずしない]ときは 『苦しい!』という想いが現れる場合もある 仏道への障害がある 無明に依存して 有覆無記の渇愛(タンハー)に依存して (それ自体、単独で成立している苦しみは)存在しないにも関わらず (それ自体、単独で成立している苦しみが)有ると思う虚妄の執著である 遍計所執性に依存して それゆえに >ヴィパッサナーをやめればまた生得的な気質からくる悶々とした時間を過ごす 「苦しい」という想いは たとえば 過去からの想いに依存しているので それゆえに それ自体、単独で成立しているのではない 縁起に依存している 仮の現れで『空性である』という意味でつ それゆえに 『本格的に!』ということであれば 中観帰謬派のような教学も勉強した方がよいかも? 苦しいという想いは空であり実体がないだとか 苦しいという想いは無常苦無我であるだとか 極端なのになると苦しいと想っている自分は本当はいないだとか そういう誤魔化しばかりしてるから仏教は駄目なんだ たとえば 方便を 「嘘、偽り、インチキ」と勘違いしてる人もいるけど 「嘘、偽り、インチキ」ではなくて 衆生を教え導く手段・方法 仮設としての 仮に設けた導き ちなみに上座部も ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/03/082823 上座部 パオ・セヤドー 無常・苦・無我の本質を透視しなければなりません _ _ _ 中観自立派の段階として [仮設としての]という意味で 地水火風空識の微細な粒子を観照して そして 地水火風空識の微細な粒子も手放して 無明している世界を手放して → 中観帰謬派の段階へ 涅槃へ 縁起したものを手放し離れて それこそが苦しみの終わりである 苦の本質を透視する、そのための方法として スッタニパータ 1026 無明が頭であると知れ 光り輝いている智慧をもって 信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて 頭(無明)を裂け落とさせるものである 1119 つねによく気をつけ 自我に固執する見解を手放し、うち破って 縁起に依存している 無明している、すべて一切の諸法を手放して『空性である』と観照せよ マインドフルネス 何か雑念が出てきたことに気づいても 雑念を手放して、その辺りに漂わせておくようにして (空性であるからこそ、それゆえに)自然に消えていくのを見届けます 21 わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが 激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している (無明している世界を手放しているのなら)もはや筏の必要はない 神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ >>317 空を感ずるとき、もちろん、人間も含めなければならないことに気をつけよう あなたの親も、妻子も、上司も部下も、隣人も、友人も、 そして、忘れてはいけない 憎き敵も 空である 空であるというのは、存在していない という意味だろう 人間も空である >苦しいと想っている自分はいない >そういう誤魔化しばかりしてるから仏教は駄目なんだ 中観自立派の段階として 『仮設としての』という意味で 地水火風空識の微細な粒子を観照して そして 次の段階で 中観帰謬派として 地水火風空識の微細な粒子も手放して >>318 も含めて 外界にあると認識してるものも 自分の意識も すべて一切の諸法も手放して 無明している世界を手放して 解脱を知覚して − 涅槃に住むこと ということでつね? ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m >>319 解脱するとは一切が空であると意思が停止した状態である 涅槃にいるという認識はない 一切が空であるとは、すべてを、受け入れることのできることであり 自分が存在しないというのは、抵抗が存在しないことです そこでは世界はなくなるどころが一体となって非常に新鮮で生き生きとしたものとなります まあ勝手な話 『のちの教義を適用した趣がある』かもしれないけど それでも、とりあえず 実有ではなくて 『仮設としての』という意味で、たとえば ttp://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten01.htm ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A0%82%E5%A4%A9 有想を捨てるが故に非想といい、無想を捨てるが故に非非想という 非想非非想の世界 有頂天の世界 ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6 その当時のインドの人々にとって、仏教を理解せしめるためには その当時の世間的な 一般的な『思い』を認めて、その理解のうえで その当時の人々に理解せしめる。というやり方がとられねばならなかった _ _ _ たとえば 『有頂天の世界へいきましょう』と導いて そして、更に 『有頂天の世界も超えて → 涅槃へいきましょう』と導いていく (その当時の世間的な『思い』を認めて、その理解のうえで…) タイでは日本よりも犯罪が多く発生している原因は簡単には説明できない。 日本にはない貧困から来ているという所もあるだろう。 もしくは日本人が本当に優れた民族なのかもしれない。 答えは分からない。 しかし、仏教の良い教えを強く信仰しているはずのタイの方が日本以上に犯罪が起こっている。 これは矛盾している点と言えるかもしれない。 そして、タンブンを自分のいいように解釈しているタイ人が多いのも実情だ。 人を騙してもタンブンをすればチャラになる。 悪い事をしてもタンブンをすれば水に流せる。 このように考えているタイ人も多い事は事実だ。 http://thaisbaby.com/?p=2674 これは親鸞が出た当時の念佛宗の本願ぼこりと同じだな 親鸞自身は本願ぼこりを諌めていたがタイの僧侶でもこのタンブンぼこり?を諌めたりしているのかな? 問題は本願ぼこりは主に念仏僧がしていたことだがタンブンぼこりは在家の人がしている?ので指導が行き届くかだな ってか本願ぼこりにしても親鸞の諌めも虚しく好んで悪事を働く僧侶がけっこういたんだけどね >親鸞の諌めも虚しく好んで悪事を働く僧侶がけっこういた たとえば仮に 「悪いことをしている」と知覚して、悪事をしているのなら 「来世に因縁果報が現れる」ということを理解してない 或いは 来世のことよりも 今この瞬間を 「(悪事をしてでも)楽をしよう、楽しもう」という実践をしていたのかもしれない 夢、幻のような『空性』であるのなら (悪事をしてでも) 「おもしろ、おかしく生きてやろう」という実践をしていた人もいるのかもしれない これも 仏道への障害がある (無明に依存している) 有覆無記の渇愛(タンハー)に依存して…ということかもしれない 日本には (大乗を含めても) 解脱を知覚して 涅槃に住んでる(有余涅槃の)人は 少ない(或いは、いない)と思うけど タイとかも (大乗を含めても) 解脱を知覚して 涅槃に住んでる(有余涅槃の)人は 少ない(或いは、いない)のかもしれない それゆえに その結果として 犯罪が多く発生する場合もある? とりあえず 今この現代においては タイとかよりも 日本の方が治安がよいらしい? 仮設としての 縁起している『空性』なので これから日本も治安が悪くなる場合もあるかも? ちなみに 自分(ID:Pq71YsUy)の場合は 2020年7月〜8月頃までの 日本で開催される予定のオリンピックは反対派でつ 犯罪とか 事件・事故とかの加害者(被害者)が 増加する場合があるかもしれないので… (日本以外の) どこか外国でやってくれないかしらん? 怒りを感じた時 不安を感じた時 嫌悪を感じた時 イライラを感じた時 感じたことに気づき「私は今怒っている」と客観的にしていれば怒りは消えるという しかし怒った原因が理不尽なものによるのだったらまた怒りは再発するだろう その都度「私は今怒っている」と客観視しても相手からの謝罪などがない限りまた怒りは再発するだろう 不安に至っては本人の気質の問題ではどうにもならない不安の種が現にあるならば客観視したところで 不安の種を取り除く具体的現実的解決策を見出さなければまた不安に陥るだろう それまではひたすらヴィパッサナーで現実を受け入れつつ逃避していくしかないのだろうか? テーラワーダの教えでは 『のちの教義を適用した趣がある』かもしれないけど それでも、とりあえず ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm 第四禅定 ものごとの好き嫌いを判断しない、完全な平等性の要素を見ます (強制的にということではなくて) (掴むことではなくて) 智慧をもって 自然に 好き嫌いを判断しない 平等の智慧の世界に戻る そして、この 第四禅定の世界も手放して 次の段階に進んで、そして手放して 解脱を知覚して 涅槃に住む その直前までは >>328 >それまでは 『止観をもって』ということかもしれない (戒・定・慧・解脱・解脱知見) >>330 のリンク先に 「禅宗では、ブッダの教えに手を加えすぎ」と書いてあるけど 日本の禅宗の場合は「菩提分法を省いている」 根本仏典の止観を省いて (中国経由の?)止をもって 道元 普勧坐禅儀 そもそも仏法というものは 円満にゆきわたっており (根本仏典の菩提分法の実践とかも) 修行したり、悟り証したりすることもない 物事の本然の姿は全て塵や汚れから離れたもので その身そのままでよい そして 心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて (余念を交えず、ただひたすら座禅する)只管打坐 − これに対して − ベトナム出身の ティク・ナット・ハンとかの場合は (根本仏典由来の?)マインドフルネスの実践とかも勧めている ウィキペディアに 非想非非想のウッダカ・ラーマプッタは 六師外道(かもしれない?)。と書いてあるので たとえば 好き嫌いを判断しない 平等性智の世界 第四禅定とかも (或いは、マインドフルネスとかも?) (根本仏典由来ではなくて、正確に書くと) 六師外道とかも含めて ヒンドゥーとかの由来なのかもしれない (六師外道とかも含めて)ヒンドゥーとかの由来なら 『そんな外道由来のものなど実践する気にならん』 という人もいるかもしれないけど 自分(ID:whqYXaPE)の場合は (六師外道とかも含めて?)ヒンドゥーとかも肯定派でつ >>331 >道元 普勧坐禅儀 >そもそも仏法というものは >円満にゆきわたっており >(根本仏典の菩提分法の実践とかも) >修行したり、悟り証したりすることもない >物事の本然の姿は全て塵や汚れから離れたもので >その身そのままでよい デマ乙! 坐禅の奥義書『普勧坐禅儀』を現代語訳するとこうなる http://www.zen-essay.com/entry/hukanzazengi ただ、真理を悟ることに特別な技法は存在しないと言っても、真理を見つめる自分の眼に少しでも自分本位な部分があったなら、眼に映る世界は真実の世界からかけ離れたものになってしまうだろう。 真実を悟ったとか、自分の理解はすばらしいだとか、物事の本質を摑んだとか言って、有頂天になってしまったなら、それはもはや、真実を知る道を自分でふさいでしまったに等しい。 仏法を学ぶ者は当然知っているだろうが、かのブッダは6年間の苦行の末に坐禅を行い悟りを開いた。 ブッダの心を受け継いだ達磨禅師は、9年間もの長きにわたって壁に向かってひたすら坐禅をした。 昔の偉大な方々は、これほどまでに坐禅を重要視してきた。 我々が坐禅をしなくてよい道理など、あるはずもない。 人の言葉や書物の文字から真理を摑もうというのは、所詮、観念的な理解の域を出ないものだ。 外から何かを学ぼうというのではなく、坐禅によって、真理を自己の内側に求めるのでなければ、いつまでたっても真理を知ることはできないだろう。 身と心が坐禅となりきったとき、真理はありのままに目の前にあらわれる。 この道理を知りたいと思うならば、実際に坐禅をはじめる以外に方法はない。 おれ悟ったんだけどwww、何か相談ある? あと、ブログよろしく! http://blog.livedoor.jp/kosokeme/ >>334 さとりクン >おれ悟った 悟りの世界から → 縁起している世界を観照して このリンク先のブログに書き込みしてる ということなんでつか? ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html …さらに無の世界も超えて 悟りの世界から → 縁起している 移り行く世界の様を 平等性智をもって ありのまま見つめている こんな感じでつか? >>334 さとりクン師匠へ >坐禅をはじめる以外に方法はない (インドから→中国経由の?) 日本の禅宗 1.0とかの場合は 根本仏典の菩提分法とかを省いている _ _ _ 上座部 2.0の場合は 菩提分法の実践 _ _ _ ベトナム出身のティク・ナット・ハンとかの場合は (根本仏典由来の?)マインドフルネスの実践とかも勧めている 禅僧 3.0? マインドフルネスの実践とかも勧めているので (中国経由の?) 日本の禅宗 1.0とは違うでしょ? ということでつ 3.0の立場からすると (仏の世界からの観照をもって) 真如縁起の説明を前提としてない 「上座部 2.0は説明不足である」といことで 仏性からの真如縁起 1.0をもって 上座部 2.0の菩提分法とかも実践していく それが 3.0である ということであるらしい 3.0にとっては ヒンドゥーも 上座部 2.0も 大乗の 中観自立派 2.0も 中観帰謬派 1.0も 密教 3.0も必要である ということであるらしい >>335 ではこちらで しかしながらほんの僅かでも方向性を誤れば天と地ほども悟りから隔たってしまうのであり、僅かでも分別心が生ずればたちまちに本心を失ってしまうものである。 たとえ、自らの仏法の理解を誇ったり、悟りを多く重ねたと自負し、僅かな智慧と通力をもって仏道を得た、心を明らめたといって有頂天になって騒いでみても、 それはほとんど自らの解脱の道をふさいでしまっているのに等しいのだ。 言うまでもなく、彼(か)のお釈迦様がお悟りを開かれるまで六年間端座された事蹟は誰もが知っている。 また面壁九年といわれる達磨大師の修行は今尚その名声が聞かれるのである。 昔の聖人でさえ、これほど修行をされたのに今の人が何故修行しないでよいはずがあろう。 それゆえに、書物などの言葉を研究し理解しようとするような自己の外へ向かっての行はやめるべきであり、自らの内に向かって光を当て悟りを照らし出す行をするべきである。 そのとき、身も心も自然に意識から脱落して、自らの本来の面目が現前するであろう。 そうした悟りを得ようと思うなら、さっそくそのことつまり坐禅に務めるがよい。 http://enlighten.fc2web.com/fukanzazengi.html 1.0 − 仏そのもの 2.0 − 有為法の世界 3.0 − 仏の世界から→有為法している世界を観照する という感じであるらしい 無明している世界を手放して そして、それから 仏そのものに戻る帰る そのための (余念を交えず、ただひたすら座禅する)只管打坐 1.0 ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm 五禅支の一番目 ヴィタッカ(尋)の智慧をもって どこかへ飛んでいってしまう心の世界から ↓ 呼吸の観照に戻る要素がある 呼吸の観照をもって 五禅支の一番目のヴィタッカ(尋)の世界に戻る帰る (最終的には → 仏そのものへ) 『1.0よりも、上座部 2.0の方が段階が細かく設定されている』ということ >書物などの言葉を研究し理解しようとするような自己の外へ向かっての行はやめるべきであり これで たとえば なんちゃって覚者とかの人が 『教学とかは必要がない』と勘違いしてる人がいるけど 上座部の場合は 四界分別観とか 空性の観照とかの実践をするための 四界分別観とは何か? 空性とは何か?を 教学として勉強して理解して そして、それから 止(サマタ禅定) 観(ヴィパッサナー智慧)へと進んでいく というような順番・段階があるのでつ (最終的には、すべて一切の諸法も手放していくけど…) 正しい智慧の実践をするための 教学を勉強して理解して そして、それから 戒・定・慧・解脱・解脱知見 たとえば 定とは何か? 慧とは何か? 解脱とは何か? 解脱知見とは何か? (教学を理解することなしに) 何を? どのように? 実践するのか? スッタニパータ 1026 無明が頭であると知れ 明知が 信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて… 無明とは何か? 明知とは何か? スッタニパータ 1026 無明が頭であると知れ 明知が 信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである 信仰とは何か? 念いとは何か? 精神統一とは何か? 意欲とは何か? 努力とは何か? 頭(無明)を裂け落とさせるものとは何か? 1119 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ たとえばこの場合の 世界は 有為法の世界のことだけど そうすると今度は 有為法の世界とは何か? これを理解することなしに 何を?どのように? 縁起を観照することができるのか? >四大(地水火風)が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりに過ぎないのじゃ 何のために 四界分別観を実践するのか? 仮設としての 地水火風の微細な粒子に依存して 縁起している、すべて一切の諸法も 色受想行識の仮和合も 現れている(そして滅している) 縁起している、すべて一切の諸法も 色受想行識の仮和合も 地水火風の微細な粒子に分解して 最終的には? 地水火風の微細な粒子も手放して滅していく 縁起している、すべて一切の諸法も 色受想行識の仮和合も 手放して滅していく ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html 漢訳 第一義空経 無明滅 → 行滅 → 識滅 → 「苦しい!」という想いも(手放して)滅していく ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/966 966 2018/03/12(月) ID:Lq3OS0iW 「無明がどーたら」には関心は無い 現世、生存中に「苦しみを滅ぼす」ということにしか興味が無い ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858 (仮設としての) 無明が生起するが故に、五蘊が生起する 無明に依存して「苦しい!」という想いが現れる(そして滅していく) ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6 その当時のインドの人々にとって、仏教を理解せしめるためには その当時の世間的な 一般的な『思い』を認めて、その理解のうえで その当時の人々に理解せしめる。というやり方がとられねばならなかった 「苦しい!」という想いは、無明に依存しているので 『無明している世界を手放して解脱しましょう』と導いていく ヒンドゥー(バラモン) 人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって 次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる 人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き 無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める 『無明を手放すことが → 苦を手放し滅していく』は、つながっている 346. 手放す、ことができる、と思っているバカである。 >手放す、ことができる、と思っている たとえば 想いを手放しするための 四神足の智慧 自在力(神通力)をもって 掴もうとしている想いを手放していく 最終的には? スッタニパータ 21 激流を克服して 「手放しする」という想いも手放して すでに渡りおわり、彼岸に到着している もはや筏の必要はない 神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ 仮設としての 渇愛(タンハー)は 仏道への障害がある有覆無記なので 誰もが成仏するわけではない(五性各別) (有覆無記の渇愛(タンハー)が依存している) 無明している世界を手放して 自在力(神通力) 四神足の智慧をもって 円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照する >海馬が疲れる ウィキペディア参照 心理的ストレスを受け続けると 海馬の神経細胞が破壊され、海馬が萎縮する 心的外傷後ストレス障害(PTSD)・うつ病の患者にはその萎縮が確認される =^・ ・^= にゃるほろ。ご教示ありがとうございます m(_ _)m ↓怪しいサイトかもしれないけど、とりあえず ttp://michirich.com/deep-consciousness/ 深層意識は潜在意識のさらに深い部分 深層意識は潜在意識の一部 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91#%E8%B6%85%E8%87%AA%E6%88%91 フロイトは 「自我」という概念と 「『自我』による自己愛的な満足を監視する、我々が良心と呼ぶ特別な精神的装置」 という概念との組み合わせから、この「超自我」という概念を発展させた 超自我は、イドとは反対方向に働く イドは、その場の自己満足を求める _ _ _ 仏教の場合は、我ではない・無我だけど。それでも、とりあえず たとえば 五禅支の一番目 ヴィタッカ(尋)の世界から → 呼吸を観照する 超自我の世界から → イドの世界を観照する 1960年頃後半に ヒッピー(Hippie)の影響で インドとか チベットとか 宇宙に満ちている根源の世界から ↓ 人体内に存在する根源的生命を観る というような影響を受けて 「自我」という概念と 「『自我』による自己愛的な満足を監視する、我々が良心と呼ぶ特別な精神的装置」 「超自我」 みたいな感じになったのかもしれない ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99 宗教(religion) 人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする 人間の力や自然の力を超えた − (宇宙に満ちている)超自我みたいな感じ? >>351 訂正して、お詫び申し上げます ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88 ジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856年5月6日 – 1939年9月23日) なので 『 1960年頃以降のヒッピー(Hippie)の影響で 』 というのは 間違いでつ 失礼いたしました スマソ m(_ _)m あいかわらず「おじゃる」の嫌がらせが続いているな。 教則本を読むだけでピアノが弾けるようになると思ってる。 そんなだから何を書いても文字が浮ついている。 瞑想をしろ、瞑想を。 水に飛び込まなければ泳げるようにはならんぞ。 >瞑想をしろ、瞑想を 実際に実践して、そして 『呼吸の観照ができない』ということでつ 実際に実践として 呼吸の観照ができないけど 第6のチャクラ 眉間のところが くすぐったい、むずむずする ちなみに 自分の場合は 密教も肯定派だけど、それでも ttps://kotobank.jp/word/%E6%9C%88%E8%BC%AA%E8%A6%B3-45106 月輪観(がちりんかん) 自己の心を満月輪のようであると観じる 心のなかに,あるいは面前に月輪を観想する この月輪は自己の菩提心そのものを示すもので その月輪が円明無垢で光明が全法界に満ちている と観じると自己の菩提心そのものもそのように光明無垢となる これも実際に実践として 『やらない』のではなくて 実際に実践として『観照することができない』ということでつ ↓怪しいサイトかもしれないけど、とりあえず ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html 上座部 パオ森林僧院 … アーナパーナ瞑想を行う場合は 呼吸に30分〜1時間、集中する(気づく)ことを継続します この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします 自分(ID:GTX/gpbL)の場合は (密教も) 上座部も肯定で 興味もあるので 当然、実践しているのでつ 実践している、その結果として 30分 妄想、思考が入らないように 呼吸の観照が 実際にできたのか?ということでつ ちなみに (とりあえず大乗も肯定だけど) 布施、持戒、忍辱、精進の実践はしてないでつ それゆえに『般若の智慧も慈悲もない?』ので (仏性からの真如縁起としての) 観照をすることができない(のかもしれない?) たとえば (大乗の)中観帰謬派とかの場合は 単純な(純粋な)candaチャンダ意欲・やる気も(最終的には?)手放しせよ と導くかもしれないけど 上座部の場合は 「気持ちはあるのだけれども実行に移さない場合は やる気のエネルギー(チャンダ)が足りない」 或いは 実際に実践して 30分、妄想、思考が入らないように 呼吸の観照が実際にできない というのも 純粋な canda(チャンダ)が足りないのかもしれない 智慧による、純粋な canda(チャンダ)をもって ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm どこかへ飛んでいってしまう心の働き 有為法の世界から ↓ 呼吸に戻してくる要素がある 五禅支の一番目 ヴィタッカ(尋)の世界に ← 戻る要素がある 上座部としての(仏性からの)真如縁起みたいな? >実際に実践して、そして 『呼吸の観照ができない』ということでつ 呼吸ができなければ生きていられない。 呼吸をしているなら誰でも瞑想は出来る。 ただの言い訳だ。 実践をしていないからいくら書いても実がない。 つまり君は自分のマスターベーションを人に見せたいだけだ。 そんなものを見たいものなどいないことに何故気がつかないのか。 ヨガも大乗も上座部もごっちゃにしているから、 君の頭の中はグチャグチャになっている。 そんなんで瞑想が出来るわけがない。 まずは本を読むことをやめ、頭の中をスッキリさせるんだ。 そして五戒を守ることだ。 そうすれば徐々に瞑想が出来るようになる。 聖典の言葉をたくさん覚えることと理解することは全く別だ。 聖典は一句一句をじっくり味わって身に着けるならば、霊的悟りを得るための意欲を刺激するうえに役立つが、 単なる物知りになるための研究はいくら積み重ねても、生半可な知識と偽りの満足が得られるだけで悟りを得るための役には立たない。 聖者ヨガナンダの言葉 https://mobile.twitter.com/YOGANANDA_Words/status/889834159497027584 >呼吸をしているなら誰でも瞑想は出来る も一度 ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html 30分 妄想、思考が入らないように 呼吸の観照が 実際にできるのか? _ _ _ 或いは また 道元 普勧坐禅儀 心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて 30分 妄想、思考が入らないように 余念を交えず、ただひたすら座禅する 只管打坐 実際にできるのか? _ _ _ たとえば 仮に 妄想、思考が入らないように 一秒だけ 呼吸を観照できたとしても 30分〜1時間 『気づいている』を継続し続けていることが 実際にできるのか? だからそれを修行するんだろうが。 頭ばかりが先に行きすぎるんだよ。 よく行学は車の両輪や二本の翼にたとえられるが、 行なくして学だけやっても何の意味もない。 皆、苦労しながら瞑想をやっている。 この掲示板はそういう人達が、どうしたら瞑想が進むのか そのための学を学ぼうとしている。 働きもしないで本を読んでいる奴のいうことなんか 誰が聞くのか。 皆と同じように働く(瞑想する)者のことなら耳に入るんだよ。 何の意味もないことを人に聞かせたいのは 「僕ってこんなに知ってるんだよ、ねえねえ聞いてよ」 とシッタカしたいだけだ。 それをマスターベーションだと言ってるんだ。 たとえば ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html 上座部 パオ森林僧院とかの場合は 30分〜1時間 集中する(気づく)ことを継続します この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm 第四禅定 智慧による ウペッカ(捨)の世界からの → 好き嫌いを判断しない、平等性の要素 智慧による 好き嫌いを判断しない 平等性智の世界からの → ウペッカ(捨)の世界へ 「1時間呼吸をしない」というのは 実際に「呼吸が止まっている」ということではなくて 実際には呼吸しているけど 1時間 心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて ウペッカ(捨)の世界を知覚して ウペッカ(捨)の世界に住む 30分〜1時間 第四禅定の世界に住み続けることができるのか?ということでつ >「僕ってこんなに知ってるんだよ、ねえねえ聞いてよ」とシッタカしたいだけだ 勝手にそう思っていればよいんジャマイカ? 自分(ID:ZCX5b4Y2)の場合は (大乗も含めて) 上座部特有の専門用語もまったくわからないので ここのスレで、初めて 『単純な(純粋な)candaチャンダ意欲・やる気』というのも勉強したので 自分では、初心者にも及ばない段階だと思っているけど _ _ _ >ヨガも大乗も上座部もごっちゃにしている バラモン(ヒンドゥー) 人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって 次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる 人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き 無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める 部分的には 瓶から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつす 瀉瓶のように受け継いでいる(かもしれない?)。ということでつ (輪廻否定派の場合は、どうなのか?わからないけど…) 五戒 蚊とかゴキブリとか雑草とか色々と殺生しちょりまつ 偸盗 無断でコピペしちょりまつ 邪婬 したいと思っても金もってないのでできないでつ (『邪婬するためにも金が必要』という意味でつ) 妄語 冗談の書き込みも多いので 冗談が相手に通じなかった場合は妄語しているかも? (たとえば『神通力で おじゃる〜っ!』とか) 或いは (「相手が」ではなくて)自分が勘違いしているとか?これも多いかも? 飲酒 頭も悪いけど 内臓も悪いのでアルコール類とかは飲めないでつ 知ったかで満足したい人には満足してもらえばいいんじゃないでしょうか、欲しいものを得て満足するのはとても良いことだと思う >欲しいものを得て満足するのはとても良いことだ (輪廻否定派の場合は、どうなのか?わからないけど) 無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている 真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている 無明薫習 ttp://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html 初期仏教 … 無明と渇愛が絡み合って 無始なる過去から(輪廻を繰り返して)終わりなく苦しみをつくり出しています _ _ _ 『無明には関心は無い』という人もいるかもしれないけど、それでも、とりあえず 仮設としての 縁起している 無明と渇愛(タンハー)によって (空性による地水火風空識の微細な粒子に依存しているので) 掴もうとしても 掴むことができない (求める物が得られない) 求不得苦(ぐふとくく) というような場合もあるらしい (『得られるのか?』は縁起に依存しているので…) 『正法眼蔵随聞記』第三巻 七 我れ在宋の時禅院にして古人の語録を見し時 一日示ニ云ク、我レ在宋の時、禅院にして古人ノ語録を見シ時、ある西川(四川省)の僧の道者にて有リしが、我レニ問ウテ云ク、「なにの用ぞ。」 云ク、「郷里に帰ツて人を化(教化)せん。」 僧云ク、「なにの用ぞ。」 云ク、「利生(衆生救済)のためなり。」 僧云ク、「畢竟じて何の用ぞ。」ト。 予、後にこノ理を案ずるに、語録公案等を見て、古人の行履をも知り、あるいは迷者のために説き聞かしめん、皆是レ自行化他のために無用なり。 只管打坐して大事を明ラめ、心ノ理を明ラめなば、後には一字を知ラずとも、他に開示(仏道を説き示し導くこと)せんに、用ひ尽クスベカラず。 故に彼の僧、畢竟じて何ノ用ぞとは云ひけると、是レ真実の道理なりと思ウて、そノ後語録等を見る事をとどめて、一向に打坐して大事を明ラめ得たり。 現代語訳じゃないと 意味がわからないので↓現代語訳のコピペ 道元禅師は教えて言われた 私が宋国で修行していた時の事です。古人の語録読んでいたとき、西川州から来ていた僧が私に問われた 「語録を読んで、何の役にたつのか」 「故国に帰ってから、人びとを教化するためです」 「それが何の役にたつのか」 「衆生に利益を与えられます」 「それで結局のところ、何の役にたつのか」 私は、後ほど、僧の問うたことを考えてみた 語録を読んで、衆生を教化すつのは 自分の修行のためや人びとを教化するためには、無用なことであるのがわかった むしろ、ひたすら坐禅をする事が大事なことであると気がついた そして、悟りを得たら、それでもって衆生を救うことができるのです それ故に僧は「それで結局、何の役にたつのか」と、言ったのである事がわかった その後は、語録などを読むことをやめて、専心に坐禅に励んで 一生参学の大事を明らかにすることができたのです _ _ _ とりあえず上座部の苦集滅道の場合は その当時のインドの人々に仏教を理解せしめるためには 世間的な一般的な思いを認めて、その理解のうえで仏教を その当時のインドの人々に理解せしめるというやり方がとられねばならなかった ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6 語録を読んで、衆生を教化すつのは 自分の修行のためや人びとを教化するためには、無用なことである _ _ _ 上座部の場合は 四界分別観とか 第一禅定 五禅支の一番目 ヴィタッカ(尋)とかを実践するための 最低限以上の教学を理解してから そして、それから 実践していく という順番・段階があるのでつ 人々の心の働きに合わせて導いていく 対機説法をもって 光り輝いている(「仏そのもの」の)智慧と慈悲をもって 生きとし生けるものに悟りの光が現れますように ブッダン・サラナン・ガッチャーミ 一切の如来の御足を礼拝し奉る オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 道元はすでに比叡山で教学を学んでから宋に渡ったし 帰国してまた比叡山に行けばいくらでも書物はあるしな 掴もうとしている想いを手放して コップの中を空(から)にして 実践する為の 教学を理解してから そして、それから 掴もうとしている想いを手放して コップの中を空(から)にして 四界分別観とか 第一禅定とか 実践して そして、それから 掴もうとしている想いを手放して コップの中を空(から)にして 次の段階 コップの中を空(から)にして 最終的には? スッタニパータ 21 激流を克服して 道元がいうところの 語録も すべて一切の諸法も手放して すでに渡りおわり、彼岸に到着している もはや筏の必要はない 神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 「悟り」は学習できるもの? 悟りの内容は、釈尊以前には知られていず、釈尊以後にも仏教以外には伝わらず、仏教内でも、釈尊の言葉をそのまま記録した初期経典(完全に現存するのはパーリ経典だけです)にしか説かれていません。 ですから、他のどんな宗教書を読んでも無駄ですが、初期経典を読めば、悟りとはどんなものか、知識として学ぶことはできます。 ここで、疑問が一つ湧くかもしれません。「師の指導を受けてきっちり修行しないと到達できない悟りを、ただ経典の説明だけで学べるものでしょうか?」あるいは「知識として知っただけで何か役に立つのでしょうか?」 その答えは、経典に出ています。と言っても「じゃじゃーん、これが答えで〜す」と書かれているわけではありません。 悟りの内容を、釈尊が言葉で説法した事実、それが経典として残っている事実、これがそのまま、答えです。 釈尊が、言葉を超え、本来言葉になどできない悟りの内容を、とにかく言葉にして説明されたということは、言葉の説明だけ、単なる知識としてだけでもいいから、まず学びなさい、それだけでも修行の道標になり、励みになります、という意味です。 >>373 まず君自身が悟ってからそのようなことを言いなさい >>44 私は解脱した→私(自我)が残ってるから解脱してないじゃないかw ほんとに解脱した人は我がないので自ら解脱しましたとは言わない >>375 「長老は悟っているんですか?」と訊かれたスマナサーラがそう答えていたけどな ゴータマさんは自分で自分のことをブッダとか如来とか一切智者とか言ってたんだぜ ゴータマさんには未だ我が残っていたのかねえ? >>375 解脱した者が「私」を使わないというのは、こだわりであり偏見で、 個別的自我の克服で、自己存在の否定、自己否定でないから 私という語を使ってもいいと、説かれてる箇所あるよね、どこだったかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる