試練こそが実は神の恩寵だ。
ラーマクリシュナもラマナ・マハルシもヨガナンダもガンで亡くなった。
何もわかっていない人たちは、なんだ悟ったって結局ダメじゃないか、と言う。
だが本当に起きていることが何なのかということを彼ら批判者たちは全く知らない。
聖者たちは最後に自らの肉体(自我)それ自体を祝福した。
それを自我(世間)の側から見れば試練や災難としか映らないだろう。
癌で亡くなる、肉体が消滅し爪と髪の毛だけが残される、身体ごと光となって消える、
いずれも肉体(自我)から見れば恐怖そのものだろう。
しかし本当にそこで起きているのは祝祭だ。
ある瞑想指導家が亡くなる、まさにそのいまわの際に、
その瞑想指導家の全身から爆発的な歓喜のエネルギーが凄まじいまでに解き放たれる、
という経験を、看病のために付き添っていた人が後に証言している。
これは天の悟りが肉体をも包含し、ついには地の悟りが完成した瞬間だ。
我々もまたかくの如く、死を祝祭へと至る梯子となすべきである。