>>481
マルクスが少年の頃、プロテスタント教会で牧師とやりとりして
なんだこりゃ、あかんわ・・・とがっかりしたというエピソードが
残っていますが、イエスでなくキリスト教ではどうにもならないと
若い感性がキャッチするのです。

そのキリスト教の窒息の方にこだわったのがニーチェでしょう。
ルサンチマンは、キリスト教による抑圧、精神奴隷状態を
なんとかしようと考えた。イエスに対してではありません。

で、ヘーゲルの弁証法の構造分析は、精神のプロセスとして解析しようと
します。
マルクスは、物質的なもの、つまりお金の動きを、構造的に分析します。
野菜さんが、分かり易く説明して下さっています。

隠居さ〜ん、アセさんが言われますように時代の制約や周辺の理解力は
当然出てくるのですが、
ニーチェもマルクスも、周りとレベルが合わなくて翻弄されていくというのは
ありますが、アホちゃいますし、隠居さんそこんとこよろしく(^_^;)
イエスも時代と周辺の理解力の制約がかかり現在に至るですしね。

で、次に脱構造というのが出てまいります。脱というのか問題意識の
拡大なのでしょうね。