たまーに、「あれ、解脱したかな?」くらいの境地に入ることがあるんだけど、
その時思うのは「神様お助けください」「なんみょーほーれんげーきょー成仏お願いします仏様」と、
祈り、願い、頼っている心、の状態は「苦しみの状態」「凡夫の状態」「迷いの状態」、と
それは「明らかに確信する」。
だから祈り、頼り、願う系は幸せになれない道、ということだけは分かっている。

だから苦しみの消滅にとってキリスト教の道は違う、お題目の道は違う、とそれだけは分かる。

座禅で精神が統一され、一定の境に入ると「願い」や「祈り」がものすごく下級な処に
感じる。