三蔵経典の<縁起諸説・空・6処・禅定...etcなどの>教えは、
学のない到底農民・庶民には全く理解できない。
そこで、思慮ある僧侶らは、そのような民衆に対しては、
「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」などの念仏を唱えれば成仏できる、幸せになれる、
仏のご加護にあずかれる、と説いて、彼らの心の支えや拠り所としての仏を彼らの心に浸透させていき、
他方、学識ある僧侶らには三蔵経典の<縁起諸説・空・6処・禅定...etcなどの>教えを
説明し、説いていった、という説が認められている、という訳です。

題目唱えるだけで家内安全・成仏・成就ならわざわざ天竺から「三蔵経典」
などという無茶苦茶分厚い経典を求めにいく意味があったでしょうか。

日蓮は、経典を全く理解できず、農民・庶民用の「南無妙法蓮華経の念仏を唱えれば
成仏できる、幸せになれる、仏のご加護にあずかれる」こそ仏教、と本気でそう思ったのか、
嘘をついたのか、のいづれかです。