【空海】弘法大師様を拝もう 同行二人【南無大師遍照金剛】
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「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」
これは御宝号(ごほうごう)といい、真言宗で唱える一番短い『お経』です。
仏さまの慈悲の光は、すべてのものに及びます。そして、すべてのものに幸せを及ぼそうという智慧(ちえ)の働きは、ダイヤモンド(金剛石)のように堅固で輝きを失いません。これが「遍照金剛」の由来です。
弘法大師さまは、師の恵果(けいか)さまから真言密教の法を受継がれたとき、この「遍照金剛」をお名前の一つとして贈られました。恵果さまはお大師さまを、たぐいまれな仏さまの申し子と見抜かれたのです。
真言宗ではこの御宝号を、どんなときでも唱えます。お寺でも仏壇の前でも、亡くなった人のためにも、幸せを願うときでも...自分がピンチに立ち至ったときはなおさらです。
そして、仏さまの誓いを永遠に続けるというお大師さまの誓いを、私たちも自分の誓いとして共に進むこと。本当の幸せは、そこに開かれます。
(壽)
http://www.musubidaishi.jp/message/2007/05/post-4.html
※前スレ
【空海】弘法大師様を拝もう【南無大師遍照金剛】
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1508983286/ 映画、空海を観に行きました!
空海様の天才性や中国から、真言密教の真髄を学ぶために唐に渡った。空海様の偉大さに感動しました!(^O^) <<28
そのカキコを見てわしも映画空海を見に行ってきたのじゃ。
眠気をこらえるのに必死だったのじゃw 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
お救いください。 >>30
やはり、空海様は天才ですよね(^-^)(笑)
空海様の偉大さが分かりましたので、今度は、高野山に行きたいと思います! >>34
高野山マスターコース
高野山駅からバスで女人堂
女人堂から遍路道を通って大門へ
大門〜壇上伽藍〜大師教会で受戒〜霊宝館(初めての方は必須)〜金剛峯寺
〜金剛三昧院〜苅萱堂〜恵光院
阿字観→食事→夜参り→温泉
翌日
護摩行→食事→10:30からの生身供を見る >>35
昨日高野山へ行ってきたぞ。
小島流バリバリ決まった笑。
持明院流は、やや決まり
常喜流も、やや決まり
寿門派は、こんなもんかなあ・・・・。 嘘も方便と申しまして
仏教では嘘の修行も大切な事とされております あと、空海様はネストリウス派の景教、いわゆるキリスト教とのつながりもありますから、とても面白いと思います(^-^)
たぶん、新約聖書を日本に持ち帰っていると思われます。
高野山に是非、行ってみたい! 今年は花まつりには桜が散り終わってそうなお寺も多く
映写機で桜を映して行う予定のところもあるようですね 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
温暖化なので花まつりも早めた方が良いのかもしれませんね 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
お救いください。 南無大師遍照金剛。
インドラの力をお借りしました。 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
お救いください。 空海は、釈迦の最高の経典である法華経を大日経より劣ると邪説を振りかざす悪僧です。
拝めば悟りどころか、地獄に堕ちます。 そうかポンコツの桃太郎、くるな笑。
真言系山伏日蓮の事実を知れ笑 ともあれ、宗教ヲタクの宗教観が完全におかしい。
仏法は能生根源の法を明かしたもので、仏が尊いのは、本来仏である自身の胸中の仏界の生命に気づかせてくれ、
それを発現する修行法を説いてくれるからである。
その修行法は末法に於いては日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」の唱題行以外にないということです。
仏法に説く功徳とは決して、大日如来や阿弥陀仏が神通力を用いて衆生に及ぼすようなものではなく。
我が胸中の仏界の生命が、色心不二、依正不二の原理で日常生活の上で幸福境涯を確立させることなのです。 仏法は三世に渡る絶対的幸福境涯を確立するのが目的です。
世俗を離れ、山林に籠って一人悟りを得るという修行法は末法には必要がないのです。
ありのままの生活の中に崩れぬ幸福境涯を勝開くための仏法なのです。
何のために人はこの世に生を受けて来たのかを改めて考え直す必要があります。
仏法では「衆生所有楽」と説きます。
すなわち人生を楽しむためです。
ところが、五濁悪世の末法に於いては苦悩ばかりで人生を楽しむ余裕などない。これが現実です。
こうした悩める凡夫の人生の根本問題である「生老病死」に明快な答えを与えたのが仏法にほかなりません。
特定の選ばれた人ではなく、一切衆生が平等に娑婆世界から遊離することなく修行できる方法を700年前日蓮大聖人が私たちのために残してくださいました。
それが「南無妙法蓮華経」のお題目と御本尊なのです。 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
お救いください。 南無大師遍照金剛
南無虚空蔵菩薩
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無虚空蔵菩薩
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無虚空蔵菩薩
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無虚空蔵菩薩
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 空海の何が偉いのかがわからん。
密教を発明したわけでもないし
お経を作ったわけでもなし、
寺を作った業績はあるが。
誰か説明して 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 >>79
世界中の神話の中にある英雄譚
主人公が未知の世界へ赴き、試練を克服して宝物を持ち帰るのを地でやってるからな。
人類的無意識で英雄認定されるんだよ。 もし空海がお経を作ったとか密教を作ったとかだったら詐欺師扱いされて終わりだよ。全てのお経、密教も全て御釈迦様が説かれたことだというのが仏教の方便だからね。
仏の教えを知られざる地へもたらす僧が仏教では一番尊いんだよ。三蔵法師もそうだろ? 空海が留学してなければ
日本の文明は200年くらい遅れて
鎌倉時代が来る前に
元寇が来てたんじゃないだろうか 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無虚空蔵菩薩
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 >>83
空海一人ごときで、そんなに時代が激変するわけないでしょ。むしろ南伝六宗を論破し、天台法華宗を宣揚した最澄の功績が大きい。 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 >>87
日本仏教が堕落したのは最澄が比丘戒を破棄して大乗戒だけを僧侶の戒律としたことに始まるからなw
家庭をもつ出家僧なんてみょうちきりんな存在が日本で大手をふって存在してる原因だから、確かに最澄の影響は甚大だ。 >>87
南都な
最澄は別に大した事績はない
中華の天台を日本に伝えただけ 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 >>91
それは違うね!出家僧の堕落は、仏教の中国伝来時にすでに始まっているよ。
いわゆる「像法時代」にだね。
本来、「一切衆生を平等に救う」仏教が、「自分だけが救われる」小乗志向に走ろうとした、仏教を本来の教えに軌道修正をしたのが、天台、伝教なんだよ。
仏滅後の正法時代前半は、釈尊の弟子によって小乗経(原始仏教)が広められるが、それにはちゃんとした理由がある。
釈尊は下根の衆生にはむやみに「法華経」を説いてはならないと戒められたからである。
最高の経典である法華経を説かれた後にもかかわらず、正法1000年は法華経は広まらず、むしろ小乗経、権大乗教が広まったのです。
ゆえに、中国伝来時に南三北七のような権実雑乱の様相となったのです。
では、なぜ釈尊は最高の経典であるにも関わらず「むやみに「法華経」を説いてはならないと戒められた」のか。それにもちゃんとした理由がある。 正法、像法、末法なんてわずかに1つのマイナー経典に出てくる定義に立脚しないと何も語れないホケ信者 今の坊主の堕落ぶりをみれば最澄がどれだけ深く日本の仏教を損なったのかわかる。日本の僧侶は海外だと僧侶と認められないからな。海外のサンガで僧侶として修業するときは比丘戒を受けないと駄目であくまで在家扱いを受けるんだよ。 ちなみに弘法大師は「顕密二戒を固く守れ」と定めている250の戒律プラス、密教の三摩耶戒な。よって妻帯してる真言坊主は裏切り者w
最澄にちんちんしてるw 現代に於いて、坊主ほど役に立たないものはない。
世俗を離れ、山林にこもって膨大な戒律を守っても悟りなど得られる筈もない。
教・機・時・国・教法流布の先後という「五鋼」を知らぬゆえに、愚かな誤りを犯すのです。
末法の戒律とは、「南無妙法蓮華経」を受持し守り広めることが、すなわち最上の戒律となるのです。
なぜかというと、「法華経」こそ能生の根源の法だからです。
仏法は「法」が根本なのです。一切の仏は「法華経」を修行して仏になったのです。
ゆえに、「法華経」を受持し保つことが一切の戒律を守ることと同じことになります。
これが、真言オタクには理解できないという訳です。
そもそも、宗教は人々の幸福のためにある。
それなのに宗教オタクは「悟り」という、いかにも人智を超えたような神秘的な言葉にまどわされ、たどり着けない愚かな道を目指すのです。
この地球には様々な問題があります。核戦争が起これば、修行どころではありません!この地球が滅亡するのです!
そんな問題を傍観、無視して、自身の悟りと幸福だけを追い求める姿は「仏法」ではありません。
自身を犠牲にしても、人々を救い、社会の平和と繁栄のために行動を起こす人が「菩薩」であり「仏」なのです。
宗教は不幸の人を救えてなんぼのものです。
自分では、何一つ苦労もしないで、世間の煩わしさから逃避し、山林に籠り瞑想し自己陶酔して、何か悟ったような気分に浸って自己満足して、なにが「仏法」ですか!
法華経は如蓮華在水(にょれんげざいすい)です。
世俗から逃避するのではなく、泥沼のような悪世へ自ら飛び込んで、生命尊厳の哲学仏法を説き、様々な困難を乗り越え不幸の人々を救っていくなかで、はじめて仏の悟りの一分を命に刻むことができるのです。。 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 知り合いの坊さんが東南アジアに旅行した時に現地の若い坊さんに比丘戒を受けてないのに何で僧を名乗ってるんですか?と真顔で質問されて返答に窮したそうだw 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 は?真言僧なら苾蒭戒(びっすかい)を受けてるだろ普通に
それなら精霊信仰に基づいていっぺん精霊になった東南アジアの比丘もどきはほんまに坊主なんか?と問いただせばいい 日本では比丘を生み出す機構・組織つまりサンガが完全に滅び潰えてしまったため、日本仏教には、仏教の正式な僧侶「比丘」が存在していません。日本の僧侶は、日本の一宗団内でのみ認定される僧侶ではあっても、仏教として認められる僧侶ではないのです。 苾蒭戒=比丘戒な
勝手に思い込みたいならそうすればいいが、普通に比丘です
真言はチベタンと同じく比丘戒の上に三昧耶戒を置き、
比丘になった上で執金剛 >>103
それでいいと思うよね。
日本の仏教が世界最高。
貧困国の仏教徒にとやかく言われる筋合いはない。 自分では、何一つ苦労もしないで、世間の煩わしさから逃避し、山林に籠り瞑想し自己陶酔して、何か悟ったような気分に浸って自己満足して、なにが「仏法」ですか!
後夜佛法僧鳥を聞く<空海>
閑林獨坐す 草堂の暁
三寶之聲は 一鳥に聞く
一鳥聲有り 人心有り
聲心雲水 倶に了了
高野山の静かな林中、暁の草堂に独り坐して無我夢想の境地に居る時、どこからともなくブッポーソーと鳴く鳥の声が聞こえる。
鳥は無心に鳴いているのであろうが、この鳴き声のうちに仏法僧の三宝を悟ったのである。
鳥の声と人の心とが、更に山中の雲と川の流れとまったく一つに融け合って、ここに仏の教えをはっきりと悟ることができた。
う〜〜ん^^
さて・・空海ちゃんはなんて答えるんだろうね・・^^ 1974年 永六輔、ラジオ生放送で「仏法僧(ブッポウソウ)の鳴き声」を聞きに山に入る
https://www.youtube.com/watch?v=OGl0J-ne3Ek
仏法僧^^
仏法僧^^ >>104
じゃあ結婚してる坊主は全員破戒僧だよね?w もし本当に比丘戒を受けてるなら結婚して家庭をもったら在家に戻らなければならないよね?
家庭を持ちながら出家を名乗るのは許されないからね。それを許可する宗門はもはや仏教ではないよね? 南無大師遍照金剛
南無虚空蔵菩薩
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 >>106
>更に山中の雲と川の流れとまったく一つに融け合って、ここに仏の教えをはっきりと悟ることができた。
完全に自己陶酔の世界だね。(笑
仏法の悟りは「行動」、人間としての「振る舞い」の中に凝縮される。
釈迦自身も、行動の人であった。その振る舞いを弟子たちに指し示すことによって、仏法の本義を教えようとしたのである。
言語道断の「不可思議の妙法」、言葉では説明できない、の究極の真理を種々の方便と現実の振る舞いの中で弟子たちに説き示したのです。
一切衆生は皆本来「仏」である。(※これを悟るを仏といい、迷うを凡夫という)
これを如実に示したのが、常不軽菩薩の振る舞いであり。
ここに人間主義、生命尊厳主義の仏法哲学の神髄があります。
ゆえに仏は常に現実の娑婆世界の中で戦います。泥沼の中で一切衆生の救済のために戦うのです。
生命尊厳を踏みにじる無明という悪との闘争をやめることはありません。
釈尊もそうでした。大勢の中で説法するというよりも、むしろ一対一の誠実の対話の中で善の連帯(仏の連帯)を増やしていったのです。
世界の平和といっても、一人と一人の誠実の対話の中にしか構築できません。
釈迦在世の時代ですら、カースト制という差別意識の強い民衆の時代に一切衆生の平等を説くのだから、釈尊を迫害する輩も当然いたのです。
それでも釈尊は対話をやめることはありませんでした。どこまでも歩き、どこまでも不幸の人を励まし、諭し、仏の教えを説きました。
日蓮大聖人は仰せです。「教主釈尊の出世の本懐は、人の振る舞いにて候いけるぞ」
また日蓮大聖人は、他者を敬う不軽菩薩の振る舞いを 「鏡に向って礼拝を成す時、浮べる影又我を礼拝するなり」 と明かされている。
本来仏である人を尊敬し励ます事は、すなわち自分を尊敬し励ます事に通じるのです。
人の悲しみに同苦し、共に悩み、励まし、共に乗り越ていく中に我が胸中の「仏界」の生命が輝き始めるのです。その繰り返しの中で生命は鍛え上げられ、仏へと昇華していくのです。
「煩悩即菩提」とはこの事をいうです。 え〜〜と^^
違うな・・と思うのは・・^^
@仏法の悟りは「行動」、人間としての「振る舞い」の中に凝縮される。
A釈迦自身も、行動の人であった。その振る舞いを弟子たちに指し示すことによって、
仏法の本義を教えようとしたのである。
Bゆえに仏は常に現実の娑婆世界の中で戦います。泥沼の中で一切衆生の救済のために戦うのです。
生命尊厳を踏みにじる無明という悪との闘争をやめることはありません。
Cそれでも釈尊は対話をやめることはありませんでした。どこまでも歩き、
どこまでも不幸の人を励まし、諭し、仏の教えを説きました。
D本来仏である人を尊敬し励ます事は、すなわち自分を尊敬し励ます事に通じるのです。
E人の悲しみに同苦し、共に悩み、励まし、共に乗り越ていく中に我が胸中の「仏界」の生命が輝き始めるのです。その繰り返しの中で生命は鍛え上げられ、仏へと昇華していくのです。
「煩悩即菩提」とはこの事をいうです。
うわっ^^
ほとんどやが^^
理由は書かないことにする^^
戯論寂滅や^^ まっ・・人それぞれ考え方が違うということで^^
どちらが正しいとかないからね^^ 「言語道断の「不可思議の妙法」、言葉では説明できない、の究極の真理を種々の方便と現実の振る舞いの中で弟子たちに説き示したのです。」
「究極の真理を」で納得したが・・・^^
その前の「言語道断の「不可思議の妙法」ってなんやねん^^
これも追加や・・・^^ ゆえに仏は常に現実の娑婆世界の中で戦います。泥沼の中で一切衆生の救済のために戦うのです。
『大智度論』巻40
復次慈悲心有三種。衆生縁法縁無縁。
( 復た次ぎに、慈悲心に三種有り、衆生縁、法縁、無縁なり。)
凡夫人衆生縁。声聞辟支仏及菩薩 初衆生縁後法縁。
(凡夫人は衆生縁なり。声聞、辟支仏、及び菩薩は、初は衆生縁、後は法縁なり。)
諸仏善修行畢竟空故名為無縁。
( 諸仏は、善く畢竟空を修行するが故に名づけて、無縁と為す。)
諸仏は、善く畢竟空を修行するが故に名づけて、無縁と為す・・か・・^^ 衆生縁の慈悲
人間関係の因縁によっておこす慈悲で、父母、妻子、親族などを縁じておこす慈悲で普通には愛といわれるものである。我・法ともに有とする執着にもとずく慈悲であるから小悲という。
法縁の慈悲
あらゆる縁によって生ずるものであるから、その関係、道理によっておこす慈悲を法縁という。我という実体はないという仏教の道理は体得しているが、一切の法は空であることを体得していないので中悲という。
無縁の慈悲
迷いの世俗を超越した仏・菩薩のみにある、縁なくしておこす絶対平等の慈悲であるから無縁という。人・法の一切法は空であると体得した智慧よりおこる慈悲であるから大悲という。
この智慧を因とする無縁の大悲が浄土の法性であり根本である。
う〜〜ん^^
すんばらしい^^ ・・・で^^
「ゆえに仏は常に現実の娑婆世界の中で戦います。泥沼の中で一切衆生の救済のために戦うのです。」
う〜〜〜ん^^
戦うのか?
自我と^^
わからん^^ どうも連投になる・・・^^
悪い癖や^^
スレ主ごめん^^ 『大智度論』龍樹著とされる。鳩摩羅什(くまらじゆう)訳。
龍樹ちゃんかもしれんか・・^^
「一切の法は空であることを体得していないので中悲という。」
「人・法の一切法は空であると体得した智慧よりおこる慈悲であるから大悲という。 」
なるほどね・・^^
龍樹ちゃんらしい^^ 涅槃とは・・・^^
簡単に言えば・・^^
すべての執着(我執も含む)がなくなった境地なんだと・・^^
まっ・・だれもその境地に達したことないのでわかんないだろうな・・^^
動画で一人だけいたな・・^^
探してみるか・・^^ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています