「無明」とは、端的にいえば、仏の教えに対する不信であり、もっと言えば、我胸中の仏界の生命を信じられないことなんですよ。

世の中の不幸は「不信」によるものが大きい。 ゆえに仏法は一対一の誠実の対話を重視します。


仏の教え(悟り)とは、極論していうならば、万物根源の法である「大宇宙の生命」が「我が生命」に一塵もかけず備わっているということなんです。

いわば、私たちの生命は「小宇宙」ともいえるでしょう。


(三世諸仏総勘文教相廃立)

「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」


ところが、凡夫の私たちは本来、自分自身が「仏」の当体ということをなかなか信じられない。

同じように、他者の中に尊き仏の生命が内在していることを信じられないのです。

これを悟るを「仏」といい、迷うを「凡夫」というのであり、決して九界を離れて仏が存在するわけではないのです。

仏法は生命尊厳の哲学なのです。ゆえに、この法を広めることが、他者の生命の尊厳につながり、ひいては世界の平和へつながっていくのです。


ゆえに、九界から離れたところに仏を求める「灰身滅智」などというのは、まだ低い随他意の教えといえるでしょう。


法華経に説かれる、九界の衆生の成仏は、まさに一切衆生が平等に成仏できるということを教えているのです。