【空海】弘法大師様を拝もう 同行二人【南無大師遍照金剛】
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「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」
これは御宝号(ごほうごう)といい、真言宗で唱える一番短い『お経』です。
仏さまの慈悲の光は、すべてのものに及びます。そして、すべてのものに幸せを及ぼそうという智慧(ちえ)の働きは、ダイヤモンド(金剛石)のように堅固で輝きを失いません。これが「遍照金剛」の由来です。
弘法大師さまは、師の恵果(けいか)さまから真言密教の法を受継がれたとき、この「遍照金剛」をお名前の一つとして贈られました。恵果さまはお大師さまを、たぐいまれな仏さまの申し子と見抜かれたのです。
真言宗ではこの御宝号を、どんなときでも唱えます。お寺でも仏壇の前でも、亡くなった人のためにも、幸せを願うときでも...自分がピンチに立ち至ったときはなおさらです。
そして、仏さまの誓いを永遠に続けるというお大師さまの誓いを、私たちも自分の誓いとして共に進むこと。本当の幸せは、そこに開かれます。
(壽)
http://www.musubidaishi.jp/message/2007/05/post-4.html
※前スレ
【空海】弘法大師様を拝もう【南無大師遍照金剛】
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1508983286/ 変成男子」は、他の大乗仏典の中でも多く出てきます。これも、本来、大乗仏教の「空」の立場から言えば、男性・女性という違いにこだわること自体、おかしな話だし、理論上はまったく必要がない。
しかし、それが説かれた時代に、「女性がその身そのままで仏に成る」という思想には、大きな抵抗が予想されたのでしょう。
当時のインド社会は女性差別の社会ですから − 。
また仏教においても、それまでの小乗教においては、女性は強く差別されてきました。
だから、たしかに、「いったん男性に成ってから成仏する」と説いたほうが、クッションがあって、受け入れられやすかったと思います。
本来、仏教は、生きとし生けるものを、ひとつの黄金の大生命の個々の現れと観る。
それが釈尊の悟りです。それを「縁起」とも言い、「空」とも言い、「妙法」とも言うのです。
その悟りの眼から見れば、男女間の上下の差別など、ありえない。
ただ、その「法」を社会に広め、定着させていくには、どう説けば受け入れられるかを考えなければならない。
「随自意(悟りそのものを、そのまま示すこと)」の信念の上に、「隋他意(人々の機根や傾向に従って説き、次第に悟りに導くこと)」の智慧が必要な場合がある。
法華経以前の大乗仏教の「変成男子」説も、よく言えば、“女性は永遠に成仏できない”としていた小乗の思想を打ち破る革命的な教えだったとも言える。 以上 池田大作著 法華経の智慧三巻より抜粋。
「変成男子」って別に男に生まれなければ成仏できないという偏った教えではないのです。 一念三千
この一念三千の教理が完成するまでには背景がある。
天台宗の実質的な開祖は智であるが、龍樹を開祖とし、第二祖を慧文禅師、
第三祖を南岳慧思禅師とする場合もある。
そしてその第二祖といわれる慧文が竜樹の中論を読み、一心三観を会得したといわれる。
一念三千は、この一心三観がベースとなっている。
一心三観とは、凡夫・衆生の心にはつねに一瞬一瞬で変化するが、
その中に「空・仮・中」の三諦で観ずることをいう。
竜樹の中論を読み、一心三観会得した・・・^^
それで^^
南無天台大師 南無龍樹菩薩 か・・・^^
南無龍樹菩薩が中心に近いもんな^^
でも・・日蓮ちゃんは一念三千は説いてるけど・・
「空」を説かなかった^^
なんでだろう・・・^^ 法華経の「空」ね・・・^^
奥が深そうだ^^
寝る^^ 「日蓮の遺文では龍樹菩薩の大智度論や中論を引用する割に
大乗仏教の中心しそうである「空」については、
かなり偏向した批判的論述の仕方になっています。」
おなじや^^
みんなこう考えるよな^^ 創価が正しいならなぜ衆生を苦しめる消費税増税やインフレ誘導などに賛成するのだろう
低減税率などと言っても対象外にされた飲食業など最も厳しい状況なのに >>121
>衆生縁の慈悲
>
>人間関係の因縁によっておこす慈悲で、父母、妻子、親族などを縁じておこす慈悲で普通には愛といわれるものである。我・法ともに有とする執着にもとずく慈悲であるから小悲という。
>
>法縁の慈悲
>
>あらゆる縁によって生ずるものであるから、その関係、道理によっておこす慈悲を法縁という。我という実体はないという仏教の道理は体得しているが、一切の法は空であることを体得していないので中悲という。
>
>無縁の慈悲
>
>迷いの世俗を超越した仏・菩薩のみにある、縁なくしておこす絶対平等の慈悲であるから無縁という。人・法の一切法は空であると体得した智慧よりおこる慈悲であるから大悲という。
>
>この智慧を因とする無縁の大悲が浄土の法性であり根本である。
>
>う〜〜ん^^
>
>すんばらしい^^
これやな^ ^ 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 変成男子すらまともに理解できないとは。
原本を読みなさい。 162.迷信である。
法華経は、釈迦のバカ弟子が作ったバカお経である。 南無大師遍照金剛
南無虚空蔵菩薩
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 >>112
無明を悪とすると縁起が壊れるから止めた方がいいね。 >>165
確かにね。
無明=悪というわけではないよね。
無明とは「真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう」なのだから、悪行の要因とはなるけれでも、イコールという訳ではないね。
反対に仏の悟りを得られれば、一切衆生は本来皆仏と悟るのだから、悪心を起こして人々を苦しめるような愚かな行いはしないだろうね。
何が善で、何が悪なのか。わかっているようで実は皆まじめに考えている人は少ないようだ。
法華経 提婆達多品には悪人の成仏が説かれてある。
善とは何か?悪とは何か? 非常に興味深い教えが説かれてある。 法華経の一念三千は、究極の内省の哲学です。自分は特別に尊いのだ、などという傲りをだれ人にも許さない平等の哲学です。
人間尊厳の哲学です。
極善の仏にも、悪の生命が具わり、極悪の提婆にも、仏の生命が具わると見る。
その上で、「悪との戦い」を続けているか否かによって、現実は、善と悪の軌道に、遠く正反対に分かれてしまう。
そして、じつは、この一点に、提婆達多品を読むカギがある。結論を先に言えば、悪との「限りなき闘争」こそ、提婆品を貫く魂なのです。
(法華経の智慧より)
提婆品で、釈尊が成仏したのは「皆提婆達多が善知識に因るが故なり」(法華経 p424)と説かれていることです。
提婆達多がいなければ、釈尊も仏にはなれなかったと。
天台大師も『法華玄義』で「悪によって善あり、悪を離れて善なし」(巻五)、また「悪は是れ善の資(善を助けるもの)なり。
悪なければ、また善もなし」と述べています。
そこだね。善と悪とは「実体」ではない。どこまでも「関係」の概念です。
ゆえに、一人の人間がはじめから善人であるとか、悪人であるとか決めることはできない。
牧口先生は、「善人でも大善に反対すれば直ちに大悪に陥り、悪人でも大悪に反対すれば忽に大善になる」と言われていた。
また、わかりやすく例えて次のようにも言われている。
「顔回がもしも孔子に反対したとすれば、亜聖が直ちに大悪人に陥らなければならず、この孔子がもしも釈尊に反対したとすれば、直ちに極悪の果報を結ばなければなるまい」と。
遠藤: 顔回とは孔子の弟子で、亜聖、つまり孔子に次ぐ聖人と言われていました。
その顔回が孔子に背くのは、中善が大善に背き、一転して大悪になる。その孔子も極善の仏に背けば極悪になる。
なるほど、善悪は関係性ですね。 >>166
縁起を変な風に解釈してますね。
無明は事象に興味を持って無いだけですよ? 「無明」とは、端的にいえば、仏の教えに対する不信であり、もっと言えば、我胸中の仏界の生命を信じられないことなんですよ。
世の中の不幸は「不信」によるものが大きい。 ゆえに仏法は一対一の誠実の対話を重視します。
仏の教え(悟り)とは、極論していうならば、万物根源の法である「大宇宙の生命」が「我が生命」に一塵もかけず備わっているということなんです。
いわば、私たちの生命は「小宇宙」ともいえるでしょう。
(三世諸仏総勘文教相廃立)
「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」
ところが、凡夫の私たちは本来、自分自身が「仏」の当体ということをなかなか信じられない。
同じように、他者の中に尊き仏の生命が内在していることを信じられないのです。
これを悟るを「仏」といい、迷うを「凡夫」というのであり、決して九界を離れて仏が存在するわけではないのです。
仏法は生命尊厳の哲学なのです。ゆえに、この法を広めることが、他者の生命の尊厳につながり、ひいては世界の平和へつながっていくのです。
ゆえに、九界から離れたところに仏を求める「灰身滅智」などというのは、まだ低い随他意の教えといえるでしょう。
法華経に説かれる、九界の衆生の成仏は、まさに一切衆生が平等に成仏できるということを教えているのです。 南無大師遍照金剛
南無虚空蔵菩薩
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 >>171-174
お前にとっては、大師も阿弥陀も釈迦も同じか?
所詮、他力本願。
大師も蹴落とされたものよ。 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛
>>175
弥陀即大日 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 南無大師遍照金剛
南無阿弥陀佛
南無大悲恩主釈迦牟尼佛 日蓮大聖人 真言宗完全論破!(一部抜粋)
当時の弘法大師空海の立てた説では「法華経は華厳経よりおとっているのであり、まして大日経等に対してはなおされである」といい、
慈覚大師円仁・智証大師円珍・安然和尚等は「法華経の理は大日経と同じであるけれども、印と真言という事においては劣っている」といっている。
空海は大日経や菩提心論等によって十住心を立てて顕教と密教の勝劣を判じている。
その中で「第六の他縁大乗心は法相宗・第七の覚心不生心は三論宗、第八の如実一道心は三論宗、第九の極無自性心は華厳宗、第十の秘密荘厳心は真言宗であり、この立て方の順序は浅い教えから深い教えになっている。
その文証は大日経の十心品と菩提心論に出ている」と言っている。
しかし、出ているという大日経の住心品を開いて「他縁大乗」「覚心不生」「極無自性」の語を探してみると、
その名称は経文にあるけれども「他縁大乗」「覚心不生」「極無自性」の三句を法相宗・三論宗・華厳宗に配する言葉はない。
そのうえ「覚心不生」と「極無自性」との中間にあるという「如実一道」は文も義もない。
ただし、この品の初めに「何を菩提というかというと、如実に自心を知ることをいうのである」等の文がある。
この文を取り出して「覚心不生」と「極無自性」との二句の中間に置いて天台宗に当たるとし、華厳宗に劣ることを主張しているのであるが、
住心品には全く文も義もともにない。「文があって義もある」「文がなくて義がある」の二句に適っていないのであるから、信用に値しない。 菩提心論の文でも法華経と華厳経の勝劣については全く述べられていないうえ、この論が竜網菩薩の著ということについては昔からの論争のところである。
この論争が決着しない前に規範として用いることは、義を立てる法に背くのである。
そのうえ、善無畏や金剛智等が評議して大日経の疏と義釈を作り一行阿闍梨に執筆させたが、この疏と義釈の中で諸宗の勝劣を判じて「法華経と大日経とは広と略との違いである」とさだめているのである。
空海の徳が高貴であってもどうして先師の義に背いてよいであろうか、という非難がなされた。(これは安然の非難である)
これに対して、空海は門弟はあれこれと言い訳をして「守護国界主陀羅尼経、あるいは六波羅蜜経、あるいは楞伽経、あるいは金剛頂経にのべられている」などと解釈したけれども、非難の勢いを避けられなかった。
しかしながら、当時の後世の弟子等は弘法大師の高徳を恐れかしこむがゆえに無理な解釈を加えようとしているけれども、
結局、解釈のしようがなく、問答の法に背いて「伝教大師最澄は弘法大師の弟子である」とか「宗旨の優劣等については、あれこれ論議のところである」と言っている。
日蓮が考えるには次のようである。華厳宗の杜順・智儼・法蔵等は法華経の「始見今見」の文に基づいて法華経と華厳経とは等しいという義を懐いた。
その後、澄観が「始見今見」の文によって二経は等しいとする義を彼の祖師に倣って立てたうえに、一往の弁説を加えて「法華経と大日経とは等しいのであるが、
ただし、華厳経は法華経より先に説かれ、華厳経の説法の時、仏は最初に法慧や垢徳林等の大菩薩に対して出世の本懐を遂げたのである。
しかしながら、二乗や位の低く賤しい凡夫等は機根が末だ熟していなかったために華厳経を用いようとしなかった。
そのため、阿含経・方等経・般若経等によって機根を調え熟させてから、立ちかえって華厳経に帰入させたのである。
これを今見の法華経と名づけるのである。強大な敵陣を破ったときには、その残党を平らげるのは難しいことではない等というようなものである。
それゆえ、真実には華厳経が法華経よりも勝れているのである」などと言っている。 弘法は、わが国で勤操等にあってこの義を修学し、後に天台・真言を学んだけれども昔の修学に対する執着が改まらないがために、この義を懐いたのであろう。
ましてや、華厳経が法華経より勝れているという義は陳・隋代以前に南三北七の各派が皆そう考えていたし、天台大師以後もまた諸宗がこの義を立てていたのであり、
ただ弘法一人だけというのではない。
ただし、澄観が「始見今見」の文によって華厳経は法華経より勝れるというように判断した才知は、
天台智者大師が涅槃経の「是の経の世に出ずるは…法華の中の八千の声聞」等の文によって法華経と涅槃経と等しいという義を懐いただけでなく、
また勝劣の義を懐いたということから、その才知に倣ってそうした義を懐いたのであろう。澄観のこの義がもし誤った考えであるならば空海の義もまた誤った見解であるはずである。
日蓮は不審していう。何をもって、理は法華経と大日経と等しいということがいえるのか。答えていう。大日経の疏と義釈、ならびに慈覚・智証等の釈による。
尋ねていう。これらの三蔵や大師等はまた、何をもって理は等しいという義を知ったのか。答えていう。三蔵や大師等を疑うべきではない、等々。
難詰していう。この義は経文の文義を問答する法に則っていないうえ、仏法の遺言に背している。明確に経文を出すべきである。もし経文がないならば、その道理はないことになるかどうか。
答えていう。威儀形色経・瑜祇経・観智儀軌等にある。文は口頭で伝えよう。
問うていう。法華経に印と真言を略したのは、仏の説法の時からか、経典を結集した時からか、それとも訳者の時からか。
答えていう、ある人は仏の説法の時からと言い、ある人は経典を結集した時からと言い、ある人は訳者の時からと言っている。
不審していう。仏の説法のときから印と真言を略して、法華経と大日経とに理同事勝の義があったというならば、このことはどの経文にあるのか。
文証の出処を挙げられない、自分勝手ないい加減な言であるならば、これを用いるべきではない。 南無大師遍照金剛
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南無大悲恩主釈迦牟尼佛 空海や最澄は確かに素晴らしい宗教家なんだけど、
どうも雲の上の存在というか、なんか人間離れしてて親しみがわきにくい。
鎌倉仏教の祖師たちの方が、民衆に寄り添ってていいんだが、道元だけはこわいw
法然、親鸞、日蓮、一遍あたりが俺たちと一緒に泣いたり笑ったりしてくれそう。
自然と手を合わせる気持ちになれる。 >>196->>200
うまいね!言い得て妙だよ。
とくに「口うるさい公務員の道元」には笑ったw
道元はもともと御公家さんだからね。感覚が浮世離れしてるんだね。 南無大師遍照金剛
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南無大悲恩主釈迦牟尼佛 >>167
>「悪によって善あり、悪を離れて善なし」(巻五)、また「悪は是れ善の資(善を助けるもの)なり。
悪によって、善が誕生したわけではないように思います。
最初に大善光の善なる光があって、遅れてその影をつくる悪しき存在によって、悪を成している
ことであると思います。 南無大師遍照金剛
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南無大悲恩主釈迦牟尼佛 BS見ててイライラするんだけど、俺がおかしいのかな
空海の読み方って、あーそれ食うかいみたいなイントネーションの上下 下下の読みが普通?
上上 上下のQoo下位っていうイントネーションではないの? 南無大師遍照金剛
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南無大悲恩主釈迦牟尼佛 >>230
こいつは大師でも何でも関係ないということがよくわかる。
ハチャメチャ。
南無がつきゃあ、何でもいいようだ。 南無大師遍照金剛
南無虚空蔵菩薩
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南無大悲恩主釈迦牟尼佛 >>232-235
こいつは大師でも何でも関係ないということがよくわかる。
ハチャメチャ。
南無がつきゃあ、何でもいいようだ。 南無大師遍照金剛
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