>>106

>更に山中の雲と川の流れとまったく一つに融け合って、ここに仏の教えをはっきりと悟ることができた。

完全に自己陶酔の世界だね。(笑


仏法の悟りは「行動」、人間としての「振る舞い」の中に凝縮される。

釈迦自身も、行動の人であった。その振る舞いを弟子たちに指し示すことによって、仏法の本義を教えようとしたのである。

言語道断の「不可思議の妙法」、言葉では説明できない、の究極の真理を種々の方便と現実の振る舞いの中で弟子たちに説き示したのです。


一切衆生は皆本来「仏」である。(※これを悟るを仏といい、迷うを凡夫という)

これを如実に示したのが、常不軽菩薩の振る舞いであり。

ここに人間主義、生命尊厳主義の仏法哲学の神髄があります。


ゆえに仏は常に現実の娑婆世界の中で戦います。泥沼の中で一切衆生の救済のために戦うのです。

生命尊厳を踏みにじる無明という悪との闘争をやめることはありません。

釈尊もそうでした。大勢の中で説法するというよりも、むしろ一対一の誠実の対話の中で善の連帯(仏の連帯)を増やしていったのです。

世界の平和といっても、一人と一人の誠実の対話の中にしか構築できません。

釈迦在世の時代ですら、カースト制という差別意識の強い民衆の時代に一切衆生の平等を説くのだから、釈尊を迫害する輩も当然いたのです。

それでも釈尊は対話をやめることはありませんでした。どこまでも歩き、どこまでも不幸の人を励まし、諭し、仏の教えを説きました。


日蓮大聖人は仰せです。「教主釈尊の出世の本懐は、人の振る舞いにて候いけるぞ」

また日蓮大聖人は、他者を敬う不軽菩薩の振る舞いを 「鏡に向って礼拝を成す時、浮べる影又我を礼拝するなり」 と明かされている。


本来仏である人を尊敬し励ます事は、すなわち自分を尊敬し励ます事に通じるのです。

人の悲しみに同苦し、共に悩み、励まし、共に乗り越ていく中に我が胸中の「仏界」の生命が輝き始めるのです。その繰り返しの中で生命は鍛え上げられ、仏へと昇華していくのです。

「煩悩即菩提」とはこの事をいうです。