そして、禅定に入っている時、欲界レベルの自我はない(一時的にせよ消えてる)ので、
日常的な意味における自我が、社会常識的な価値判断の尺度からみて気の毒な感じ
だとしても、それは脱皮した蛇の抜け殻をみて、萎びていると言っているようなもので
脱皮した蛇はもうそこにはいない。