ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 41
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ACIM(A Course In Miracles)「奇跡のコース/奇跡講座/他」とは、
純粋に非二元論的な霊性(スピリチュアリティ)の教えのひとつで
NYのコロンビア大学医学部の助教授だったヘレン・シャックマン博士が
7年間に渡りイエス・キリストから来たとされるインスピレーションを書きとめ
編集・校正し出版された本です。(現在では25の言語で出版されています。)
ACIMはテキストとワークブック、教師用マニュアルの3つから成り、
実践を通じて真理の悟りにたどり着く事を目標としています。
JACIM
http://www.jacim.com/acim/
前スレ
ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 38
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1494430576/
ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 39
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1502976262/
ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 40
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512471805/ そもそも金魚が入院女に定着しなかったわけは、
入院女は望まれて生まれた赤ちゃんじゃなくて
被虐待児だったので、むしろ霊体状態(?)で
そこらを漂っているほうが安全だったからである。
その状態だと死人も見えるし地震予知もできるし
テレパシーもチャネリングもふつうのなので
西海岸育ちだった自分はそういうジャンルの本を読むまで
みんなはそうなっていないことに気づかなかった。
金魚は自分が金魚だと思っていたのでみんなに
入院女と呼ばれることにとても違和感があった。
金魚は金魚として生きたかったが、どうやらここは
入院女たちの世界であるらしいと30歳になってやっと気づいた。
金魚は入院女を操り人形状態で外側から使っていることが多かったのだが、
肉体の中にいないとヒーリングが進みませんよと言われたので
現在は着ぐるみ状態となり中にいる感じになっている。
入院女はどうやら金魚の自我らしいとわかったのはここ数ヶ月の話である。 >>171
まあ、
通常人間モードは入院女さんだけでなく、
多くの人にとっても難しいと思いますよ🌀 入院女は記憶喪失状態の金魚である、というのは
大発見だった。
さらに金魚は記憶喪失状態の代筆の人であるというのも。
そういう繋がりかーとわかったら、どの人が正しいというより、
段階的に記憶喪失をとっていって、
最後はみんな代筆の人になるのがよろしかろうと思われた。
金魚はだいたいサイズとしては地球を上回る程度(太陽くらい)なのだが、
代筆の人は宇宙俺の中にあるからなーと言っていたので、
別格である。
入院女は格別にちっちゃくて、ほとんどが地下に潜っているのだが
いつも地上にいるのは人間くらいの大きさだけである。
入院女たちは地下でくっついている。
ヒサンなことになっているのは入院女たちだけなので、
ある意味ほとんど何も起こっていないのだが、
入院女にとっては、そのヒサンが今はすべてである。 金魚は代筆の人と繋がったときのみ入院女を金魚化できる。
金魚化されたときのみ入院女は代筆の人の声を聞ける。
したがって金魚が代筆の人と繋がるのが大事だが、
これは努力じゃなくリラックスによって
達成できる。
なぜにというとなるのではなく戻るのだからである。
金魚が入院女を拒絶するのは代筆の人を拒絶したあとである。
なにせ入院女を金魚化できないと苦しいのでキョヒりたくなるのである。
これは他の入院女たちについても同様である。
中の金魚が眠っている入院女たちは宇宙にキョヒられた感じをもっている。
中の金魚が目を覚ましている入院女たちは
入院女特有の自我自我しい恐怖感に固まっていない。 入院女はもとが金魚なので、代筆の人の記憶をもっている。
だから金魚化して代筆の人を呼び寄せ、また思い出して
代筆の人に戻ることもできる。
入院女には希望がないみたいなのはその状態へ言っている
言葉であって、その存在へ述べている宣告ではない。
入院女は金魚化を経由して覚醒できる。
金魚にできるのはまだ金魚化したくない入院女を保護ることと、
なるべく代筆の人の近くにいるか合体して、
入院女の目の代わりをすることである。
入院女にはヒサンしか目に入らない(そういう目になっている)ので、
盲目の人と同じで盲導犬が必要なのである。
金魚に仕事があるとすればそれは盲導犬協会の運営である。 盲導犬をするときに必要な注意は、まず
入院女は金魚たちを認識しないし、代筆の人はタブーなので
入院女のわかる言語体系で
関わることだ。
それから入院女状態の金魚は、愛の記憶はもっていても
愛自体を想起することはまだできないし、したらしたで
トラウマ反応みたいのを起こすので、
そこまでは連れて行こうとしないことだ。
それから入院女にとって幻想はすべて現実なので、
こちらにとってそれが現実はすべて幻想と言われている感じがしても
入院女の認識体系に基づいて
誘導することだ。
つまりまるで一種の入院女であるかのように接することで
親近感と理解可能な感じをもたせることが
盲導犬の最初の仕事で
誘導自体はもっと水面下で代筆の人がやるということになる。 爆撃は終わりました。
たいへんしつれいしました。
ではほんやくのつづきにもどります。 部質からどうしたら意識が生まれますか❓
脳味噌は部質ですか❓ 夢を見ているのは誰なのか?
自分。
夢の中の自分が自分なのか?
夢を見ている自分が自分なのか?
ギヤハハハハハハハハ 私たちのもの以外に救うべき世界はない、
そしてキリストは私たちが【彼】を私たちの
【自己】と思い出すよう帰還を待っている。
【彼】の顔を兄弟の中に見ることが【彼】の
記憶が心に浮かび上がるための方法である。
【彼】の眼を通じ決して見つかることのない
愛を求め叫びを上げる世界を見る。しかし
ヴィジョンに導かれ、お互いを助ける、自分
自身を助けながら、愛は内側を探したときのみ
見つかると学ぶために。旅は長く難儀に見える、
なぜなら自我の恐怖と罪悪、裁きと憎悪、攻撃と
死の遠い国を通らせてゆくから。一人では
決してできない、しかしイエスーキリストの
輝ける地上での象徴ーが手をとり、彼の眼を
分かち、そして天国の歌を歌う、彼の足が
とても優しく足を導くにつれて。腕は生きとし
生けるすべてのものを抱きしめるために延ばされる、
彼らが思い出せるように、私たちとともに、
愛の上に特別性はなんの力ももたないことを。
天国の門は出迎えるために広く開かれる、
旅が終わるときに、そして一人一人が通り抜ける、
その中に子らが永久に穏やかに休むイエスの
手を握って。天国のこの側、最も甘やかな言葉が
癒された心の内に鳴り渡る、そしてイエスの
静かな声が彼方へ導くのを聞く。 だが静かであることだ【彼】は、なぜなら
今や愛があなたの内にあることを、そして
兄弟の手を握る同じ手によって、安全に
あなたの内に抱かれていることを知るから。
キリストの手は【彼】のすべての兄弟を
【彼自身】の内に抱く。【彼】は彼らの視界なき
目にヴィジョンを与え、そして天国へと歌う、彼らの
耳がもう戦いと死の音を聞かぬように。【彼】は
彼らを通して届く、【彼】の手を差し伸べる、
そうして全員が生きとし生けるものすべてを
祝福し、彼らの聖性を見るように。そして
【彼】はこの視界があなたのものであることを喜ぶ、
【彼】とともに見降ろして【彼】の歓喜を分かち合うことを。
【彼】の完全なる特別性の欠如を【彼】はあなたに捧げる、
あなたが生きとし生けるものすべてを死から救うように、
あなたの赦しがあなたの【自己】に捧げる
生命の贈り物を一人一人から受けとりながら。
キリストの視界は見るべきすべてである。
キリストの歌は聞くべきすべてである。
キリストの手はとるべきすべてである。
【彼】と歩む以外の旅路はない。 存在したことのない罪悪に満ちた世界は
その源である無へと柔らかに消え去る。
そして私たちはただあまりにもほんとうのように
見えた夢から救われる。もう一度
私たちのものになった、天国の愛の歌は、
その【声】をようやく取り戻し、そして
神の子は彼を神の子と思い出した。
以上
©FACIM /no copyright infringement intended. >>176
他の入院女たちっていうのは、文字通りのあなたの病院でのお仲間たちなのか、
それとも、人間全体を指してるのか?
わたしは、人びと全体のことを指してるのかとおもた 金とか人間関係とかこの世界のことで悩むのは自我の思うつぼ
この世界のことを気にしてるあいだは自我本体に気づくことはないから
自我本体を聖霊で赦さないと根本的に解決することは不可能 超俗的なことを言いますが、どうやって生きているんですか?
仙人みたいに生きて行き詰まらないなら悩まないですが だってこの世界のこと気にしてもきりがないでしょ
自我が次から次へとトラブル、苦痛、悩みを作り出してるんだから無限の果てしないモグラ叩きみたいなものできりがない
苦痛の発生源である自我を直接のターゲットにしないと だよなー
神との融合状態を目指すというか、それに回帰すればいいんだよ
それは、金魚の言い草ではないが、努力や頑張りというより、リラックスによって行われる なんやかんやいっても現実から逃げられないよね。
悩む・・・。 とにかく目をつぶって寝てください
現実が消えて無くなります。w 常識的な人生を歩んで、
常識的な考え方をして、
常識的なふるまい方をしている人が、
一番問題を抱えないんだろうね。
この世界では、常識=道なのかもしれないね。
非常識な人生になってしまっているのを、
いかにして常識的にしていくかに悩む。 哲学的な問答以前に、
実際問題として、いろいろある・・・。 >>199
今現在、多くの人に受け入れられている信念。 >>196
どんな風に非常識になったんだい?
まお、とりあえず まあ、とりあえず、常識を飛び超えてみようって
言いたかったんだけどねw
昔そんな歌なかったっけ じょうしき
【常識】
健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別。 「―的」
ググってみた^^ 悩みってのは全部個人にくっつくものだけど、
個人がなくなって解脱しても、
やらなきゃいけないことはやらなきゃいけないし、
いろんな問題もあるんだよね。
どうにも逃げられんなあ。 時間の唯一の目的は「時間は存在しない」とおしえること
世界や肉体が持つ唯一の目的は「世界や肉体は存在しない」ということ >>205
やらなきゃいけないことなんてない。
ただ物事は、中間世で決めたシナリオ通りに自動的に起こるべくして起こる。
自我の視点では、物事を目の前の自分が起こしているように錯覚する。
だから、自分の思い通りに物事が生じないと苦しむ。
自我の視点が消えれば、あなたはただの観賞者。
物事が映画のように自動的に流れていく。
物事の自然な流れに介入しようとする自我は本当は存在しない。
苦しみは、映画の映像と自分を同化してしまうと生じる。
映像内容を有りのまま受け入れられず、ジャッジする存在が自我。
解脱すれば、ジャッジする自我はない。
時空世界は、自我が消えれば無価値なオートマチック。
それは時空世界という夢。
夢から醒めれば、全てを包括する愛のみがある。 世界はない❗
何度言ったらわかるんだ❗❗❗
Ω\ζ°)チーン 自由意志はないのだろうか?
運命の枠のようなものが決まっていて、
その枠の中での自由意志がある、
くらいのニュアンスでいるのだが、、、。 https://youtu.be/pTvlZzmDjvI
世界もそれに応対する肉体も感情も、
神からの分離を信じる心から発生
よってすべて実在していない
神から完全に愛され赦されているという平安の
感情のみ本物😃 他人は誰も助けてくれない
他人は幻想だから
心を入れ替えて聖霊とアクセスする以外に助かる道はない ああすれば良かったこうすれば良かったなどと過去を反省してはダメだ
過去はすべて幻想で過去には何も存在していなかったのだから 幻想は自我から生まれたものだからすべて罪悪感という毒を持っている
だから幻想と接するときは必ず赦しを行わなければならない
この世界のものはすべて幻想
つまりこの世界のものと接するときは必ず赦しを行うことが必要
赦しを忘れると必ず罪悪感のダメージを受ける でも赦しって0か10だから
これは赦すがあれは赦さないでは意味が無い。 >>218
何で世界は存在していないのか
それを理解してないと本当の赦しはできない 妄想世界は現実に存在していないが
コースは物質世界までも存在しないとする
この辺がニューエイジ・サイコバブルたる所以 生駒里奈、乃木坂46卒業
報道では伝えられてないけど、
原因はアンチによる凄まじい誹謗中傷
最近では恐怖から握手会もずっと休んでいた
自分に向けられた悪意を赦すことは、
何とかなるかもしれない
けど、他人がイジメを受けて苦しんでいるのを
目の当たりにして、
反撃してこないことがわかっているから
好き放題誹謗中傷して悦に入ってたアンチたちを
どうしても赦すことができない
人の人生を一体何だと思ってるのかと >>223
おやおや、また出てきましたね(^^♪
存在とはそもそも何ですか?
物質世界が存在する、とは具体的にはどういうことですか? >>223
だよなぁ笑
うすうすみんな気づいてるけど、多少のリラクゼーション効果や一種のサイコセラピーでしかない お手軽に楽になれるとか思いたがったり
それが叶わないと批判や中傷にはしったり
そういうことしたがるのがエゴなのよ😏
そんな簡単じゃないのよ赦しって
もっと専心が必要よ😉 難しくなんかない
難しいと思うのは自分の期待した効果が現れなくて試行錯誤しているからだ 自我で人生を何とかしようとしてもできないけど、
努力は必要なのだろう・・・。 赦しは心レベルでやらないと意味がない
幻想レベルで赦しをやって幻想レベルを浄化しても
心が自我のままなら自我の罪悪感シャワーが幻想世界に降り注ぐからけっきょく幻想レベルは再び汚染される
心を自我から聖霊に入れ替えないと罪悪感の汚染は防げない おとぎ話には楽しいものも怖いものもあるが、誰もそれを真実だとは思わない。
子どもたちは信じるかもしれず、しばらくは子どもたちにとってはおとぎ話が真実だ。
だが、現実が現れればファンタジーは消える。しかし現実は消えない。
_φ(・_・ 一連の映像が音もなく降り注ぎ、何処へともなく溶け去っていく
虚ろな雪の一片ひとひら❄❄❄ えっと、自我です。
人間に自我があるわけじゃなくて
自我のデバイスの一品目が人類なので。
島島刀B・゜・∝・゜・。島島
言い草の森を泳ぐ金魚
物質のサイコバブルガムを噛み放題膨らましたい放題ぱぁん割り放題うふ吐き出したい放題 ジガイタイ(´∀`(⊃*⊂)(⊃*⊂)´ω`) https://www.facim.org/online-learning-aids/lighthouse-articles/2010/tread-lightly-on-my-dreams-treating-illusions-with-kindness.aspx
「優しく踏みしめて、私の夢を」
幻想に親切心をもって接すること
ケネス・ワープニック博士
序論:親切であること
親切心が私を親切に創造した。
私たちの関係の初期に、ヘレン・シャックマン、
奇跡講座の筆記者は、W.B.イエーツ、おそらく
アイルランド最高の詩人から引用した「優しく
踏みしめて、私の夢を。それらは夢です。でも、
私の夢なのです」(注1これらの文はヘレンによって
正確に記憶されていなかった。それらはイエーツの
「アーデ、天国の布への願い」からで、全文は以下。
「もし私に天国の刺繍がされた布があったなら、
金と銀との光に包まれた、青と霞と闇の布が
夜と光と夜の光と、私はその布たちをあなたの
足元へ広げたろう。でも私は、貧しくて
夢しかない。私はあなたの足元へ、夢を広げた。
優しく踏んで行って欲しい、私の夢を踏んで行くから」)
意味は明瞭だった、私たちの愛、平和そして痛みからの
自由を探す様々な試みは確かに特別性の幻想的な夢である、
しかしそれはそのときできるすべてである。個別の
自己を失う恐怖は救済への心正しい魅力が相殺するには
まだ強すぎる、そして自我の倒錯した狂気の中で
私たちはその痛みを神の喜びよりも選び続ける。 だから、このうまくいかない試みは裁きでなく
親切心に値する。私たちは全員コースが「恐れに
弱められた状態」とよぶものにいる、そしてフィロ
(またはプラトン、と考える学者もいる)は教えた、
「親切であれ、なぜならあなたが出会う全員が
つらい戦いを戦っているから」。この「つらい戦い」
は、究極的には、自我の神への戦争以下のものではない、
そしてそれは消滅の恐怖へと導く。これが私たちが
恐れがすべての夢の源である、個人的なものと
集合的なものと両方が、と教えられる理由である。 親切心は私たちのファウンデーションにて、ワーク
ショップ、ライトハウスの記事、そして書籍の中で
繰り返し登場する主題である。上級の神の教師の
10の特徴の一つではないものの、親切心は明らかに
分離が私たちを下へと導いた我が家への階段を上る
ことの自然な効果の一つであろう。私たちの記事はこの
欠かすことのできない主題を探究する、それは私たちを
コースの、その親切心の本質を無視した、形而上学的
文字の「法」への閉じ込めるような遵守から守ってくれる。
結局、もし私たちが心の夢見ることを選ぶ力を尊重しないなら、
私たちはそれが私たちの親切心の夢を通じて目覚める力を
否定しているのである。最終的に、「親切心が
私を親切に創造した」。 事実、イエスは奇跡講座の中で私たちに最もよい教えは
例によると言っている、そしてヘレンとのたくさんの
歳月のコミュニケーションを通して、彼はこの愛ある
原則を例証した。それは初期の数週間の筆記における
彼の彼女への声明に簡潔に要約されている「あなたが
私の意志をなすなら、私はそれを支持しよう。あなたが
そうしないなら、私はそれを修正しよう」。私たちは
下記にこのことへ戻ってこよう、しかし今はイエスの
彼の筆記者との関係が親切心の比類なきモデルである
という議論へ移ろう。 https://youtu.be/wjim1WaGDsg
コースを真摯に実践するなら、人びとに対して
真に愛情深く親切になれる
なぜなら、この世界の大抵の人が持っている下心が無くなるからw 親切心のための私たちのモデル
イエスのヘレンの自我への尊重
私はあなたを愛し名誉を与えそしてあなたの
作ったものに完璧な尊重を維持する、が
それが真実でない限り支持しない。
多くの奇跡講座の生徒が高次の買い物サービス、
ヘレンがイエスへ彼女の中毒的でなければ
慢性的な買い物行動への助けを求めたことを
呼んだもの、をよく知っている。例に事欠かない、
そのうち多くは私が個人的に証明できる、ヘレンが
熱望した洋服のアイテムを捜し求めそして「奇跡的
に」見つけ出す前に、イエスの無料サービスに
相談していたことを。私は私の『天国を離れてー
ヘレン・シャックマンと彼女の奇跡講座の筆記の
物語』(とくに17章)に説明した、いかに彼女の
体験が実際には彼女の正しい心による決断の象徴で
あり、彼女のヘレンとしての人生にイエスとの関係
として投影されていたかを。しかしながら、ヘレンの
体験はイエスその人が彼女の特定の必要性に
特別に応えてくれるというものだった。 ヘレンは誰にとっても愚か者ではなかった、そして
無論彼女の買い物の防衛的性質について知っていた、
彼女がイエスの象徴的意味についても気づいていたように。
それは私たちが一緒にいた年月において私たち双方に
とってより明らかとなった、私たちがヘレンの特別な
品物を求めて長い時間をマンハッタンの店たちを
回ったからだ、ときにイエスと、ときに彼なしで。
こうした時間の多くは私たちの奇跡講座の原稿の編集、
他のコース関係の活動、または彼女の色々な恐れ、
不安や心配に対してイエスに助けを求めることに
対する明らかな防衛か、気を散らすためのものだった。
だがしかし、ヘレンは一度としてそのためにイエスに
裁かれているとは感じなかった。むしろ、もう一度言うと、
彼女は彼がこの防衛的活動を助けてくれていると
体験していた。 高次の買い物サービスはある愛らしい春の午後に急に
終わった、私たちが医療センターを離れるときに、
ヘレンに彼女がどこへ行きたいか私が聞いたときに。
これはロード&テイラーとB.オルトマン百貨店、または
5番アヴェニューのほぼ無限の靴屋、そしてそれから
34番ストリートの5番西を意味した。私が驚いたことに、
ヘレンは「それ」(彼女のイエスの声に対する婉曲)が
彼女にはもうこの必要がないと言ったと告げた。
そしてそれがそうだった。私たちは二度と買い物に行かなかった、
必需品以外には。(注2物語の全貌を知るには読者は私の
『天国を離れて』427ページを参照されたい。) >>238
〉人間に自我があるわけじゃなくて
自我のデバイスの一品目が人類なので。
あっそうか💡 イエスのサービスを彼の「彼女への
甘やかし」と、昨今使い古された
言い回しを使うなら、見る人もいる
かもしれない、が最も指導的な教えの
例を理解するための別の道もある。
イエスがヘレンに接したやりかたは
この本質的な霊の原則を反映している、
愛は強くそして愛された者が彼女の
心の強さを否認する決断の刻印に
弱められるのを許すとき真にそれ自身である。
愛の強さ、そう奇跡講座が聖霊を呼ぶもの、は
要求も、命令も、支配しようとすることもしない。
それ本来の優しさの中で、愛はシンプルに
心へそれが持ちそれ自体でもあるキリストの
強さを思い出させる、そして神の子が誤りを
訂正し、選び直し、そして彼が天国か地獄かを
選ぶ力を持つ心であることを思い出す瞬間を
忍耐強く待つ。そうしてそれは決断する心の、
そうしたいときにはいつでも、選び直す力を
強化する、真実という成果は確実であると
知りながら。これが、神の教師たちの10の
特徴の1つでもある、忍耐の究極の意味である。 イエスが以下をヘレンと、もちろん私たち全員に
述べたのは、彼の彼女の心への尊重からである。
私はあなたを愛し、名誉を保ち、そしてあなたが
作ったものへの完全な尊重を維持する、がしかし
それが真実でない限り支持しない。
私たちはイエスのヘレンへの、そして同じように
神の子全員への愛が、強要もせず罪悪感も課さず、
しかしむしろその真実が一歩横へと譲り私たちの
幻想が保たれていくスペースをどう空けるのかを
見ることができる。私たちが私たちを自我とその
特別性から確かに解放してくれる真実を体験することを
恐れているため、私たちを自我の嘘に直面させる
ことは簡単にパニック反応を引き起こしうる、どんな
霊性のゴールでもある、神の平和を獲得するのに
まったく貢献しない。テキストのはじめに私たちは
奇跡講座の生徒たちが霊性の道の親切さを覚えて
いられるように助けるために意図されたこの一文を読む。
この親切さなしには、イエスの知的な教えは無意味となる。
イエスが私たちに魔術的な治療を「許して」いるのは
明らかである、心が癒す力への私たちの恐れを認識するから。
裁きのまったくの不在に特に気づいてほしい、おそらく
イエスのコースの最も重大な側面である、理論において
そして実践において。 あなたが肉体的な病に対して治療として受け入れる
すべての物質的手段は魔術的原則の再声明である。
だがしかし、訂正を目的としたこれらの作用物質が
邪悪であるということにはならない。ときに病気は
人を贖罪に一時的にアクセスできなくするに十分な
ほど強く心を抑えることがある。この場合には
心と肉体へ妥協されたアプローチを利用すること
(例、奇跡と魔術)が賢明かもしれない、外側からの
何かに癒しの信念が与えられる。これはなぜかと
言うと正しくない心の者、あるいは病んだ者を
最も助けないのが恐れの増大だからである。彼らは
すでに恐れに弱められた状態にいる。もし彼らが
早まって奇跡へ触れさせられたら、彼らは
パニックに突き落とされるかもしれない。 ここでのポイントは私たちの魔術による
防衛は必要だということである
恐れの暗い奥底に縮こまっていた心へ
いま一度真実の光を許すのに十分
愛への恐れが静まるまで。イエスは、
だから、私たちに力強いが優しい例を
提供してくれる、人の魔術的思考と行動に
私たちがどう関係すべきか
その人を愛し、心の選ぶ力に名誉を与え、
そしてそれが恐れに基づくときにも
決断を尊重する。魔術の前でのこの
妥協したアプローチの親切さが
私たちの次のセクションにおける主題である。 自らの赦しによって、心眼が得られるようになるということを悟りなさい。
赦す者に対して聖霊が真の視覚を与え損なうことはないと理解しなさい。
聖霊が今あなたを見捨てることはないと信じなさい。
あなたは世界を赦した。
あなたが目を凝らして待っている間も、聖霊はあなたと共にいる。
真の心眼が見ているものを聖霊があなたに見せてくれるだろう。
それは聖霊の意志であり、
あなたはその聖霊につながった。
聖霊がくるのを辛抱強く待ちなさい。
聖霊は必ずやってくる。
光は訪れている。
あなたは世界を赦したのである。
あなたが作り出した自己は神の子ではない。
だからその自己は全く存在していない。
そしてその自己が行ったり考えたりしているように見えることは全てなんの意味もない。
それは善でもなく悪でもない。
実在していないという、ただそれだけのことである。
公認版奇跡講座より抜粋
※翻訳ではなく
元々翻訳されてるやつから
今日学習していて
感動した部分を無造作に抜粋しただけのやつです(笑) >>252
『そして神の子が誤りを
訂正し、選び直し、そして彼が天国か地獄かを
選ぶ力を持つ心であることを思い出す瞬間を
忍耐強く待つ。そうしてそれは決断する心の、
そうしたいときにはいつでも、選び直す力を
強化する、真実という成果は確実であると
知りながら。』
どうやらDVDでおなじみの決断の主体のことが書かれているようだね❗w ⭐あなたがわたしのようでありたいと思うなら、
わたしはあなたを助けてあげよう。
わたしたちは同じであることを知っているから。
あなたが異なっていたいと思うなら、
あなたの気持ちが変わるまで、わたしは待っていよう。
神使(P203)より。
😊心が広い『J』さま❗❗ 巨大な施設から、どうしても脱出できない夢をみた。
人生は巨大な迷路であって、洗脳機関。
今ある問題からどうやっても抜け出せないし、
人生という迷路からどうやっても抜け出せない。
でも、味方によってはいとも簡単に抜け出せる。
迷路から抜け出せない映画をみたことがあるが、
ある意味本質をついている。
https://youtu.be/Q_ROrI3n1EY
https://youtu.be/kCHrP47DDLI 魔術の親切さ
もし私があなた自身の思考する力を
おとしめたなら私はあなたを少しも
助けないだろう。
奇跡講座においては、魔術とは
私たちが快楽を得るか苦痛を
除くために用いるなんらかの
外的なものを指す。魔術は、だから、
それなしにはもちろん私たちの肉体が
死亡してしまう
物理的生命に絶対的に必要なもの、
酸素、水、そして食べ物から、
それなしには私たちの心理的肉体が
消滅してしまう、人々、物質、そして
物理的対象との特別な関係の
追求にまで至る。このように、
魔術は私たちの肉体を体験の中で
本物にし、そしてその安全、幸福
そして苦痛と死からの自由が
私たちの唯一の関心となる。 魔術の役目についての認識は、
私たちがそれを奇跡と並べたときに
高められる。単純に言うなら、
魔術は問題を外側にあると見て
つねに外側を通じて解決しようとする。
奇跡は、それに比べて、すべての
問題を内側の決断の投影と見る
キリストのヴィジョンを反映して、
そしてだから奇跡はつねに内側の解決である
正しい心を見出そうとする。そして
それを見出そうとするので、奇跡は
必ずそれを見つけ出す。 だが、誰も魔術を実践せずに
肉体として世界に暮らせないため、
奇跡はその癒しの仕事を私たちの
物質世界への参加を認識し、そして
それから私たちを心の決断する活動
という「内側の状況」へ優しく連れて
帰ることから始める。前にこれらの
ページに私たちが観てきたように、
この奇跡の役目は夢解釈からの
フロイトの有名な声明に共通点をもつ
「夢の解釈は心の無意識の活動の
知識への王道である」。心の思考体系の
表現(または投影)なしには、私たちは
心へアクセスする道をもたない。
自我が私たちの肉体と心の間に落とした
忘却のヴェール(というよりも鉄のカーテン
に近い)は私たちが問題を解決し
私たちが自分たちをそこに見出す
個人的そして集合的な地獄から私たちを
救うことのできる宇宙で唯一の力へ
戻ることを妨げる。この力とは
心の選択する能力である。 心の選択能力、決断する能力
ハイパワーア〜ップ〜♫♪
\(^o^)/ 従って、私たちは私たちが物質性の
世界にいると体験している間は
間違いを犯さざるをえない。
そもそも、誕生を通じてここへくること
自体が間違いだったのである、
肉体に入って心から隠れることを
求めて。だがイエスまたは聖霊の
手にかかれば、これらの間違いは
私たちが真実と幻想、歓びと苦痛、
自由と投獄を区別することを学ぶための
手段となる。
そうしたことが特別性への
聖霊の親切な知覚である、
彼のあなたが作ったものの使い道、
害するのではなく癒す。 私たちの源からの分離が最初の、
そして実際には、唯一の私たちの
犯した間違いである。ほかのすべての
間違いはその最初のものに由来し、
そして自我はその起源を離れたことがない。
テキストが教えるように、
最初の間違いが犯された小さな時の一刻に、
そしてそれらのすべてがその一つの間違いの中に…
だがその一つの間違いは時間の中に埋められ
そして訂正するためには永遠に近寄れないように
見える、少なくともその形態においては。
私たちはマニュアルに読む、
時間は実に、ならば、古過ぎてすべての
記憶を超え、そして思い出す可能性をも
逃した瞬間へと遡る。しかしそれが
幾度も幾度もそして幾度も、再び
生きられているために、それは今で
あるよう見える。 私たちの間違いは私たちが現在と考える
ときに体験されるため、私たちはそれらが
起こったと私たちが信じる形態において
訂正しなければならない。だから、
私たちはこうも読む、
毎日、そして毎日の一分ずつ、
そしてそれぞれの一分が抱える
すべての瞬間において、あなたは
恐怖の時が愛の場を奪った
一瞬を再び生きているに過ぎない。 親、学校、社会から学んだことは自我の世界観だから
その世界観を逆転させていくことが赦しである 生まれてから今までずっと間違えて来たのだから、
これからは毎瞬間選択し直さないといけない 自我80%聖霊20%とか自我50%聖霊50%とかそういう中途半端なものはない
自我100%か聖霊100%、どちらかを選択するしかない >そもそも、誕生を通じてここへくること
自体が間違いだったのである
ネガテイブな観念だとは思っていたが、これ程まで・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています