イエスの言う奇跡って、肉体に基づく物事の知覚方法を修正することだよね。

肉体というのは分離の象徴。
この肉体の知覚に基づいた行動は、自ずとあらゆるものを相対的に見る。
そして物事を、肉体を基準にした敵や味方に区分けする。
コースでは「特別な関係」と名付ける部分。

イエスの言う奇跡とは、この肉体の知覚が引き起こす分離に自覚を持つことから始まるんじゃないかな。
分離の自覚ができれば、苦しみは肉体の知覚が原因で生じるメカニズムが理解できてくる。
そしてそのメカニズムは、心が中心。
肉体の知覚に基づいて行動するのか、それとも肉体の知覚が引き起こす分離感覚が苦しみを生じさせていることを見抜いて行動するのか、その判断をしているのは心。
我々の行動は、つまり肉体の知覚を引き起こすのは、心が肉体の知覚に同意しているから。
心が肉体の知覚への同意をやめるのが奇跡へのステップ。

心頭滅却すれば火もまた涼しというように、心がどの感覚に同意するかによって痛みや快楽が左右される。
だから、心が分離ではなく調和に基づくようになれば、肉体の分離の知覚は修正される。
そして、苦しみを引き起こすこの世の相対世界の幻想性に気づくようになる。

この気づきと、心が肉体の知覚への同意をやめる、つまり聖霊の知覚を取り入れるのが奇跡では?
聖霊とは、相対世界を卒業したがっている内なる声のような気がする。
聖霊は、神との一体境地の記憶。
その記憶が聖霊として擬人化され、神との一体という帰還を呼び掛ける。