>>386
>素が無認識の状態に、後追いの思考によって便宜上悟りと名前を付けてるだけといえるんじゃないかな。

その辺りはそういう見方もできるだろうね。
正直な話をすると。
こちらは悟りを開くって『何かを体験する』とか『何かを思考でとらえる』とかそういうことじゃないんじゃないかと考えてるんだよね。

自らが衆生の拠り所となる光となる。
これはとても大変なことなんだ。
あらゆる苦を抱えた人たちが群がってくる。
この世界にいる限りはこの世界の法からは逃れられない、それはつまり自分の身体も影響を受けてボロボロになっていくってこと。
だから自らを常に把握し計算して修復していかないといけない。
それに悪意の石を投げられるのも日常茶飯事だろう、それらに負けて倒れるわけにはいかないんだ。
だから誰よりも賢く強くあらねばならないし、そうなろうとする。

そういうことを自らをもって成している。
そのとき自分ではない誰かがそこに開かれた悟りをみる、というような。
んでもってそちらのいう矜持はもちろん必要になる。
誰よりも傲慢で不遜でなければならないからな。
けれど傲慢で不遜ゆえに愛することができる。

なんにしても俺が鬼和尚を前から慕ってたのはそこに開かれたものを見たから。
小さな存在かもしれないけれどね、でも俺にはできないことだ。
まぁ一時期、なぜか知らんが亡者共が集る木になってしまったことがあったがな。
99%『それどうでもいいだろ』で返答してた。
リストカットがやめられません、とかそんなこと言われてもね、かっぱえびせんすらやめられない俺が何を語れというのだ。

>老化は、美少女サキュバスに生命エネルギーを吸われるからとかじゃないのか。

それはあながち間違ってない。

>ぶっちゃけ何の話でも、究極的にやろうとすると必然的に仏教的な話になってしまう気がするわ。

そう言われるとそうなのだがその辺りはバランス感覚だな。
基本的にはそれを読んでもらいたい層がいるとこに投稿するのがよいかな。
ここの人たちに読んでもらいたいならここに投稿する、みたいな。