ここで体験と思考の共通点について書いてみようか。
自分たちが体験と読んでいるものは下記のDになる。

@花火が炸裂し音波(振動)が生まれ伝わっていく。
A伝わるうちにそれは変形していく。
B音波が鼓膜を振動させ、その振動は耳小骨で増幅されて蝸牛に。
C蝸牛はその振動を今度は電気信号に変換、大脳皮質の聴覚野へ。
D脳はその電気信号を解析してとても高度な処理(組み立てなど)を行い「音」というものとして『認識』する。

体験そのものも組み立てられたもの、だと言えるんだ。
そもそもこの組み立てがなければいわゆる時間の流れもないからヒュ〜ドッカーンの『ヒ』もない。
つまり体験と思考には『組み立てる』という共通点がある。

そして先日に話をした推論というのもそう。
推論とは演繹と同じもので、これはなんなのかといえばトランプの七ならべのようなもの。
演繹は『言語(記号)』『公理(仮定)』『推論規則』の3つで構成されている。

・言語(記号)
トランプ。
・公理(仮定)
最初に並べられた4枚の7のカード。
・推論規則
7並べのルール。

ここでは3つも構成要素があるけれど。
自分たちの思考や認識に近い形に作られたモデルである自然演繹で一番重要なのは『推論規則』なんだ。
まず公理についてはそもそも存在しない、仮定という出発点はあるけれど生滅する。
言語については、それそのものには意味はなくそれの性質を決定するのは推論規則である、例えばトランプのジョーカーだってババ抜きと大富豪では性質が変わるよね。

なにが言いたいかと言えば推論規則にあたるものが普遍的なルールとしてこの世界に存在している可能性が高いということ。
人間だっていわゆる素粒子が組み立てられてできたものだしね。